昨夜帰京。今週は疲れた。夜は1時ころ寝たが、今朝起きたら10時。土曜はいつも疲れが出るが、今週はちょっと寝すぎた。どうも調子が出ず。11時から『談志陳平の言いたい放題』を見る。なんとなくテレビを見ていたら瀬戸内寂聴のことをやっていて、彼女の半生を扱ったドラマが宮沢りえ主演で来週放映されると言う宣伝だった。
瀬戸内だけでなく、翌日には越路吹雪を天海祐希が、杉村春子を米倉涼子が演じて3夜連続の放映になるのだそうだ。私が見ていたのはその紹介番組だったようだが、結構詳しく紹介されていてもう十分見た気分になった。演技としては、宮沢りえの体当たりぶりがやはり印象に残ったが、私も演劇をやっていたせいもあり、杉村春子のドラマの紹介がなんだか一番心に残った。
杉村春子と言えば、私のように80年代初頭に芝居をやっていたものにとっては演劇界のアンシャンレジームの象徴のようなもので、「演劇をやるやつはアカだ」と思われていた時代からの大御所である。アングラや小劇場はどちらかと言うと新左翼系と親和性が高かったが、新左翼は新右翼ともあんがい親和性が高いので、私の関わっていたところもいろいろとバラエティに富んでいた。しかし今となっては『流れ去るものはみな懐かしき』という感じである。『思えば遠くへ来たもんだ』という感じでもある。
やはり瀬戸内のように作家→宗教者、越路のような歌手と言うのは今ひとつその世界がわからないせいもあり、あまり踏み込んだ印象は持てないのだが、少しでも関わったことのある演劇の世界だと身につまされるさまざまなことが出て来て、米倉涼子の演技に涙腺が反応してしまう部分があった。杉村春子も死んで8年。生きているときは巨大な壁であっても壁として屹立する巨大な存在がなくなった平成の御世に、むしろ懐かしさががらんとした巨大な空間に乾いた鈴の音のように響いている。
3時過ぎに出かけ、神保町で本を物色。古書店で別冊歴史読本の『西郷隆盛の生涯』(新人物往来社、1989)を購入。大河ドラマで『翔ぶが如く』が放映されたことに関連しての出版だったようだ。このときはまだ司馬遼太郎が生きていたのだ。晩秋の日没は早く、5時前なのにもう夕闇が迫っている。『フォーサイト』で北沢書店が1階を閉めた話を読んで見に行くと、1階は小学館が入って割りといかした児童書とバーゲンブックの店になっていた。しかしあまり採算は取れそうにない。
フォーサイトの記事によると洋書と言えば北沢書店、で会ったこの店は従業員を全て解雇して家族経営に戻り、2階で洋書の古書のみを扱っているのだと言う。アマゾンに直撃されたと言う話もあったが、ここにテナントとして入るのに名乗り出た中にはブックオフがあり、それを避けるために小学館が入ったと言う話も書いてあった。まあ経済の破壊力と言うのが文化と言うものに向けられると本当に脆いものだと思う。文化の維持発展にその力を用いる経済人がもっと出てきてくれるとよいのだが。
靖国通りから見る靖国神社の大鳥居はもう夕暮れの残光の中に暗く沈んでいた。私は夕方にあの鳥居を見るたびに「西方浄土」という言葉を思い出す。神道で祭られている多くの英霊たちは、国に帰れば南無阿弥陀仏と唱えられるお墓に眠っているのだろう。南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経も全て呑み込んで、太陽は大鳥居の向こうに沈んでいく。
半蔵門線で永田町に出、南北線に乗り換えて六本木一丁目の泉ガーデンの1階の『書原』に久しぶりに行ってみた。しかしあれだな、数ヶ月いっていない気がするが、品揃えがあまり変わっていない印象がある。ちょっとがっかりしたが、なんとなく町にいる人たちが活気があって、ちょっとそのあたりで私も刺激された感じがした。時代の波に乗って先へ先へと進もうとする人たちが、このあたりにはいる。そのエネルギーが、やはり今の日本には必要なのだと思う。
南北線、銀座線、東西線と乗り継いで地元の西友で夕食の買い物をして帰宅。
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瀬戸内だけでなく、翌日には越路吹雪を天海祐希が、杉村春子を米倉涼子が演じて3夜連続の放映になるのだそうだ。私が見ていたのはその紹介番組だったようだが、結構詳しく紹介されていてもう十分見た気分になった。演技としては、宮沢りえの体当たりぶりがやはり印象に残ったが、私も演劇をやっていたせいもあり、杉村春子のドラマの紹介がなんだか一番心に残った。
杉村春子と言えば、私のように80年代初頭に芝居をやっていたものにとっては演劇界のアンシャンレジームの象徴のようなもので、「演劇をやるやつはアカだ」と思われていた時代からの大御所である。アングラや小劇場はどちらかと言うと新左翼系と親和性が高かったが、新左翼は新右翼ともあんがい親和性が高いので、私の関わっていたところもいろいろとバラエティに富んでいた。しかし今となっては『流れ去るものはみな懐かしき』という感じである。『思えば遠くへ来たもんだ』という感じでもある。
やはり瀬戸内のように作家→宗教者、越路のような歌手と言うのは今ひとつその世界がわからないせいもあり、あまり踏み込んだ印象は持てないのだが、少しでも関わったことのある演劇の世界だと身につまされるさまざまなことが出て来て、米倉涼子の演技に涙腺が反応してしまう部分があった。杉村春子も死んで8年。生きているときは巨大な壁であっても壁として屹立する巨大な存在がなくなった平成の御世に、むしろ懐かしさががらんとした巨大な空間に乾いた鈴の音のように響いている。
3時過ぎに出かけ、神保町で本を物色。古書店で別冊歴史読本の『西郷隆盛の生涯』(新人物往来社、1989)を購入。大河ドラマで『翔ぶが如く』が放映されたことに関連しての出版だったようだ。このときはまだ司馬遼太郎が生きていたのだ。晩秋の日没は早く、5時前なのにもう夕闇が迫っている。『フォーサイト』で北沢書店が1階を閉めた話を読んで見に行くと、1階は小学館が入って割りといかした児童書とバーゲンブックの店になっていた。しかしあまり採算は取れそうにない。
フォーサイトの記事によると洋書と言えば北沢書店、で会ったこの店は従業員を全て解雇して家族経営に戻り、2階で洋書の古書のみを扱っているのだと言う。アマゾンに直撃されたと言う話もあったが、ここにテナントとして入るのに名乗り出た中にはブックオフがあり、それを避けるために小学館が入ったと言う話も書いてあった。まあ経済の破壊力と言うのが文化と言うものに向けられると本当に脆いものだと思う。文化の維持発展にその力を用いる経済人がもっと出てきてくれるとよいのだが。
靖国通りから見る靖国神社の大鳥居はもう夕暮れの残光の中に暗く沈んでいた。私は夕方にあの鳥居を見るたびに「西方浄土」という言葉を思い出す。神道で祭られている多くの英霊たちは、国に帰れば南無阿弥陀仏と唱えられるお墓に眠っているのだろう。南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経も全て呑み込んで、太陽は大鳥居の向こうに沈んでいく。
半蔵門線で永田町に出、南北線に乗り換えて六本木一丁目の泉ガーデンの1階の『書原』に久しぶりに行ってみた。しかしあれだな、数ヶ月いっていない気がするが、品揃えがあまり変わっていない印象がある。ちょっとがっかりしたが、なんとなく町にいる人たちが活気があって、ちょっとそのあたりで私も刺激された感じがした。時代の波に乗って先へ先へと進もうとする人たちが、このあたりにはいる。そのエネルギーが、やはり今の日本には必要なのだと思う。
南北線、銀座線、東西線と乗り継いで地元の西友で夕食の買い物をして帰宅。
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