昨日。昼前から松本に仕事に出かけ、帰ってきて仕事の後処理、また別の仕事。体調があまりよくなかったのだが仕事は忙しかった。かえって夕食、入浴、就寝。ストーブの前につい横になってうとうとしてしまい、ちゃんと布団に入るのが遅れた。疲れているときはそのようになりがち。体力的にハードだった。
電車の中ではベリンスキー「ロシア文学評論集」を読む。ドストエフスキーを評するのにプーシキンやゴーゴリの評についてさまざまに述べていて当時のロシア文学の事情がわかって面白いという面もある。彼らロシア文学の新しい潮流がロシアで評価されるようになったのは、フランス語に訳されてフランスで評価を受けるようになったことが大きいということのようだ。典型的な後進国の近代化の過程がそこに現れている。翻って日本文学のことを考えると、そういう世界性のようなものが長い間あまり生まれなかったのだなと思う。三島由紀夫ら一部の作家が評価されたということはあろうが、そこからなかなか世界性を持った、という方向にはまだあまり行き得ていないのではないかという気がする。大江健三郎がノーベル賞を取ったり、村上春樹がロシアで売れたり、谷川俊太郎が中国で読まれたりはしてきているようだが、全体的なものとしてはいかなるものなのか、やはりまだその当たりのところは門外漢にはよくわからない。
朝FMを聞いていたら、音楽評論家の人が出ていて、最近はあるミュージシャンについての評論を書いても「事実をありのままに書け。おまえの感想など聞きたくない」といった反応が返ってくる、という話をしていた。評論というものを読むことは、もちろんどういう音楽を聴くガイドとして役に立つという面もあるが、その音楽について語り合う、意見をぶつけ合うという楽しさもあると思うのだが、最近は人の意見など聞きたくない、自分が聴きたいものを聴けばいいんだ、という人が増えているのだという。そこには評論のようなものを読む力自体が落ちている人が多いという面もあるが、評論の側でも「うざい」評論が今まで多すぎたのではないか、という反省も述べていた。だから、これからは音楽評論もこんなふうに音楽を聴いたらいいのではないか、という「提案」のような形になっていくべきなのではないか、というようなことを言っていた。
この話は評論というものをめぐって、かなり本質的な問題が含まれているように思う。文芸評論にしても、まず小説など評価すべき作品ありきでそれについて述べる、つまり作品がないと評論自体が成り立たない、というタイプと、評論のみを読んでもそれが文学として成立している、というものとがあり、後者を確立したのは小林秀雄だ、という話を読んだことがあるが、音楽評論だとそれがそれだけで文学として成立するのはなかなか大変だろうと思う。小林秀雄の「モオツァルト」や吉田秀和のさまざまな評論は読んでいて確かにそれだけで面白いし、またそれに触発されて音楽を聞くということもあるので文学としての要素と作品紹介としての要素が両立しているといえると思う。ただそれはクラシックのようなかなり精神性の高いものであるからと言う点もあろうし、この評論家のように50年代のアメリカ音楽が対象であると確かに「理屈を言うな、そのミュージシャンについての情報があればいいんだ」、というある種のオタク的なファンの勢力が相当強くなっていて、それについて論じようなどという勢力は駆逐される運命にある、ということは思わないでもない。
自分がなぜ評論を読むかというと、やはり自分の知らない作家や作品についての情報を得て、面白いものがあったら読んでみたい、という動機が強いだろうとは思う。また、知っている作品、読んだことのある作品については、その評論家がどのようにその作品を評価しているのか、ということは興味があるし、その評価の仕方によってその評論家と自分の感じ方との距離を測っていく、ということもある。そして自分のセンスに近い評論家を探し出してまたその紹介する作品について読む、というのが主な評論の読み方だろう。小林などの場合は読んでもとり宣長や源氏物語に付いて触発はされるのだが、いざそちらの方を読もうとするとなかなか根気が要って読み通せない。その結果、小林の宣長観、源氏観が自分の中にきちんと批判されないまま残るということになる。いつかは読みたい、という感覚は残るのだが。そういう意味では否応なく、読まれなくなった古典の少しはこなれた形でのサマリーの紹介者、ということになってしまっている面もあるかもしれない。それで宣長や源氏を読んだ気になってしまうのは危険だが、それでも全然知らないよりは多少ましだということはいえないこともないだろう。
また、昔ならその評論家の見方に従って読者の間にグループが形成される、ということもあったように思う。特にマルクス主義的な評論活動が盛んだった時代は、評論家が思想的なリーダーというのような形になっていたように思う。そういう意味では思想は衰退しているなと思うし、よく考えなければならないさまざまな評論を読み込むことによってある評論家を支持し、シンパになるというような精神活動は、今の思想界・論壇・その読者たちというものがあまり広がりをもてないでいるだろうし、あっても不勉強なネット市民派・ネット右翼といったある種のオタクの進化形(退化形?)のような人が増えているというのが残念ながら現状だろう。
いずれにしても、文学においては評論、あるいは批評というジャンルが確立しているわけだし、そこで何が出来るかは考えたほうがいい。文学や社会の方向性を導く、といった壮大な目論見が成立し得るのか、人より一歩早く新作品を読んでそれを紹介するという時間差の利ざやを稼ぐ存在になるのか、読書スタイルにおいてこういう読み方はどうかということを提案する企画屋になるのか、まあもちろんどれかひとつということに限らないしまだ他にも方向性はあるだろうが、ちょっと考えてみたいと思う。
夜はゴーゴリ「ヴィイ」を読了。落ちは落ちでなかなか面白い。ロシアの土俗性的な幻想性というのは面白いものだなと思う。
電車の中ではベリンスキー「ロシア文学評論集」を読む。ドストエフスキーを評するのにプーシキンやゴーゴリの評についてさまざまに述べていて当時のロシア文学の事情がわかって面白いという面もある。彼らロシア文学の新しい潮流がロシアで評価されるようになったのは、フランス語に訳されてフランスで評価を受けるようになったことが大きいということのようだ。典型的な後進国の近代化の過程がそこに現れている。翻って日本文学のことを考えると、そういう世界性のようなものが長い間あまり生まれなかったのだなと思う。三島由紀夫ら一部の作家が評価されたということはあろうが、そこからなかなか世界性を持った、という方向にはまだあまり行き得ていないのではないかという気がする。大江健三郎がノーベル賞を取ったり、村上春樹がロシアで売れたり、谷川俊太郎が中国で読まれたりはしてきているようだが、全体的なものとしてはいかなるものなのか、やはりまだその当たりのところは門外漢にはよくわからない。
朝FMを聞いていたら、音楽評論家の人が出ていて、最近はあるミュージシャンについての評論を書いても「事実をありのままに書け。おまえの感想など聞きたくない」といった反応が返ってくる、という話をしていた。評論というものを読むことは、もちろんどういう音楽を聴くガイドとして役に立つという面もあるが、その音楽について語り合う、意見をぶつけ合うという楽しさもあると思うのだが、最近は人の意見など聞きたくない、自分が聴きたいものを聴けばいいんだ、という人が増えているのだという。そこには評論のようなものを読む力自体が落ちている人が多いという面もあるが、評論の側でも「うざい」評論が今まで多すぎたのではないか、という反省も述べていた。だから、これからは音楽評論もこんなふうに音楽を聴いたらいいのではないか、という「提案」のような形になっていくべきなのではないか、というようなことを言っていた。
この話は評論というものをめぐって、かなり本質的な問題が含まれているように思う。文芸評論にしても、まず小説など評価すべき作品ありきでそれについて述べる、つまり作品がないと評論自体が成り立たない、というタイプと、評論のみを読んでもそれが文学として成立している、というものとがあり、後者を確立したのは小林秀雄だ、という話を読んだことがあるが、音楽評論だとそれがそれだけで文学として成立するのはなかなか大変だろうと思う。小林秀雄の「モオツァルト」や吉田秀和のさまざまな評論は読んでいて確かにそれだけで面白いし、またそれに触発されて音楽を聞くということもあるので文学としての要素と作品紹介としての要素が両立しているといえると思う。ただそれはクラシックのようなかなり精神性の高いものであるからと言う点もあろうし、この評論家のように50年代のアメリカ音楽が対象であると確かに「理屈を言うな、そのミュージシャンについての情報があればいいんだ」、というある種のオタク的なファンの勢力が相当強くなっていて、それについて論じようなどという勢力は駆逐される運命にある、ということは思わないでもない。
自分がなぜ評論を読むかというと、やはり自分の知らない作家や作品についての情報を得て、面白いものがあったら読んでみたい、という動機が強いだろうとは思う。また、知っている作品、読んだことのある作品については、その評論家がどのようにその作品を評価しているのか、ということは興味があるし、その評価の仕方によってその評論家と自分の感じ方との距離を測っていく、ということもある。そして自分のセンスに近い評論家を探し出してまたその紹介する作品について読む、というのが主な評論の読み方だろう。小林などの場合は読んでもとり宣長や源氏物語に付いて触発はされるのだが、いざそちらの方を読もうとするとなかなか根気が要って読み通せない。その結果、小林の宣長観、源氏観が自分の中にきちんと批判されないまま残るということになる。いつかは読みたい、という感覚は残るのだが。そういう意味では否応なく、読まれなくなった古典の少しはこなれた形でのサマリーの紹介者、ということになってしまっている面もあるかもしれない。それで宣長や源氏を読んだ気になってしまうのは危険だが、それでも全然知らないよりは多少ましだということはいえないこともないだろう。
また、昔ならその評論家の見方に従って読者の間にグループが形成される、ということもあったように思う。特にマルクス主義的な評論活動が盛んだった時代は、評論家が思想的なリーダーというのような形になっていたように思う。そういう意味では思想は衰退しているなと思うし、よく考えなければならないさまざまな評論を読み込むことによってある評論家を支持し、シンパになるというような精神活動は、今の思想界・論壇・その読者たちというものがあまり広がりをもてないでいるだろうし、あっても不勉強なネット市民派・ネット右翼といったある種のオタクの進化形(退化形?)のような人が増えているというのが残念ながら現状だろう。
いずれにしても、文学においては評論、あるいは批評というジャンルが確立しているわけだし、そこで何が出来るかは考えたほうがいい。文学や社会の方向性を導く、といった壮大な目論見が成立し得るのか、人より一歩早く新作品を読んでそれを紹介するという時間差の利ざやを稼ぐ存在になるのか、読書スタイルにおいてこういう読み方はどうかということを提案する企画屋になるのか、まあもちろんどれかひとつということに限らないしまだ他にも方向性はあるだろうが、ちょっと考えてみたいと思う。
夜はゴーゴリ「ヴィイ」を読了。落ちは落ちでなかなか面白い。ロシアの土俗性的な幻想性というのは面白いものだなと思う。