海軍大将コルシンカの航海日誌

ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフについてあれこれ

《ホメロスより》その3~未完の歌劇を想像...できず

2022年01月31日 | カンタータ

未完の歌劇《ナウシカア》

リムスキー=コルサコフの未完の歌劇《ナウシカア》は完成していたらどのような作品になっていたのでしょうか。

それを解き明かす手がかりは、ホメロスの『オデュッセイア』に記されたナウシカアのエピソードがベースになるのはもちろんですが、その他には歌劇の序曲に相当する《ホメロスより》が(結果的に)独立した作品として存在していることくらいでしょうか。

《ホメロスより》ではオデュッセウスのライトモチーフが明確に聞き取れますが、ナウシカアのモチーフも女神レウコテエの登場を描くフルートとクラリネットのソロのメロディーに続く、優しい木管と弦の旋律として登場しているのではと想像をたくましくすることもできましょう。

もしそうであれば、歌劇ではこの二人のライトモチーフが核になっていたに違いありません。

あらすじを想像する

さて原作では、オデュッセウスは漂着したスケリエ島で王女ナウシカアと出会い、王宮でアルキノオス王に故郷への帰還の約束を取り付ける。
オデュッセウスは王をはじめとする島の領主たちから宴会でもてなされ、円盤競技でひと悶着あったのちに、王のとりなしで和解の踊りが演じられる、という具合に話が進んでいくわけです。

そしてオデュッセウスの語る冒険譚。
彼の出まかせのホラ話だったとの説もあるらしいですが、一つ目巨人のキュクロプスや歌う魔女セイレンなどはロシアとは異なるおとぎ話でもありますね。
髪麗しい魔女キルケは、シェマハの女王のように妖艶に描かれたはず。
これらがリムスキー流の音楽で語られたとしたら、どんなにすばらしいことだったでしょう!
そして、何より彼が島から島へと渡る際には「海」が介在しているので、リムスキー=コルサコフ得意の海の描写を盛り込む余地もふんだんにあったわけです。

こうしてみると、まるで《サトコ》を紡彿とさせるような、いかにも「コルサコフ好み」の題材が数多くあって、これらを《セルヴィリア》のように彼が当時興味を持っていた古代音楽の要素で味付けしつつ、3幕か4幕に構成して、完成済みの序曲を頭に付ければ、立派なグランドオペラが一丁上がり!…

と思ったのですが、ふと、あれ?そういえばナウシカアはどうなったの?との疑問に行き当たりました。

ホメロスのナウシカア

改めて『オデュッセイア』を読み直してみると、ナウシカアが登場するのは、洗い場のある海岸でのオデュッセウスとの出会いのほかは、そのきっかけとなった夢の中でアテネのお告げを受ける場面、オデュッセウスを王宮のある町へと導く場面、それ以外には宴会に向かうオデュッセウスに「私を忘れないで」とごく短く別れを告げる場面に限られていました。

この別れもごく短くあっさりしたもので、「私を忘れないで」が例えばオデュッセウスが故郷に向けて島を発つ際に発せられたのであれば(多少陳腐ですが)盛り上がる場面にもなったのでしょうけど、原作ではそれよりもずっと前の段階で言葉ですので、唐突な感じが拭い去れません。

ナウシカアとオデュッセウスとの間にはもう少しやりとりがあったなどというのは、とんだ思い違いでした。二人の出会いが印象的だったので、その後も会話などが交わされたものと勝手に勘違いしていたようです。

それにしても、ナウシカアに対するこの扱いは、話の流れから彼女は用済みになったので、さっさと消し去ったような感じさえあって、ホメロスも少々酷いと思わずにはいられません(笑)。

(後で知ったのですが、バーナード・エヴスリンの書いた『ギリシア神話小事典』では、ナウシカアについて原作にはない話が掲載されているようです。これは彼の創作なのか、何か異稿にでも基づいているのか定かでないですが、宮崎駿は彼の記述したナウシカアに感銘を受けて、風の谷のヒロインを名付けたようです。)

ナウシカアは主人公になれない?

ここで、再度浮かんできた疑問。
この歌劇のタイトルはなぜ《ナウシカア》となっているのでしょう?

二人のやりとりを中心にするならば「オデュッセウスとナウシカア」でも良さそうですが、タイトルから考えるにあくまで主人公はナウシカアのつもりだったようです。もっとも未完の歌劇ですから、最終的に変更されることもあり得たのでしょうけど、ヤストレプツェフ(リムスキー=コルサコフの伝記作家)の記録にも歌劇のタイトルとして「ナウシカア」と記されていることからも、当時このタイトルで構想が練られていたことは間違いないでしょう。

さてこの歌劇がナウシカア個人の物語であるとして、あまりにも尻切れトンボな結末をどうするつもりだつたのでしょうか。
《モーツァルトとサリエリ》や《貴族夫人ヴェラ・シェロガ》のように、ナウシカアのモノローグを主体にした短い作品になった可能性も考えられます。
その場合、「序曲」で登場する3人の女性ソリストと女声合唱を、歌劇でのアテネの声や下女たちに充てれば実用的ともいえますね。

しかし、この構想では前述のようなコルサコフ好みの題材が余計なものになってしまいます。
かといってグランドオペラ風の大作にすると、ナウシカアの物語は埋没してしまいますね….。


放棄された歌劇

未完の歌劇をそれなりに蓋然性があるように《ナウシカア》のあらすじを想像してみたものの、結局のところ決め手にも欠けて、あえなく沈となってしまいました。

リムスキー=コルサコフはナウシカアについて「この主題でホメロスからあまり逸れずに歌劇を書くのは無理」と放棄した理由をヤストレプツェフに語っていたそうですが、台本担当のベルスキー共々、案外前述したようなことを思ってあきらめた可能性も考えられなくもないように思われます。

残念ですが、ないものねだりしても仕方ないですね。
とはいえ、ナウシカアが時代も場所も越えて、宮崎駿のあの素晴らしい物語の主人公として甦ったと考えれば、満たされない心を補って余りあるものではないでしょうかね。


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