海軍大将コルシンカの航海日誌

ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフについてあれこれ

《セルヴィリア》おぼえ書き~第1幕第3場

2016年06月12日 | 《セルヴィリア》
【第3場】

――市民広場にラッパが鳴り響く。
皇帝ネロの使者である布告役人が現れて、陛下がパンアテナ祭のために剣闘試合などを開催すると市民に告げる。
市民は口々に皇帝ネロ万歳と叫ぶ。
彼らは、陛下は武芸に秀でているだけでなく、東方からもたらされた忌まわしい迷信をも断ち切ったのだと称える。



第3場は、暗い雰囲気から一転して、市民が皇帝ネロを讃える合唱主体のにぎやかな場面になります。
この場からしばらくは古代ローマの祭礼を中心に、スペクタクル的な要素の強い舞台が展開されて行きます。

まず市民広場に布告ラッパが鳴り響きます。
布告ラッパは、楽譜ではトランペットIの奏者がソロで舞台上で奏するように指定されていますが、布告ラッパのパートとは重複しないものの、本来のオーケストラのパートもこなさなくてはならないので、指定どおり舞台上で吹くなら、別にのソロの奏者を用意しなければ、Iの奏者は舞台とオーケストラピットを行ったり来たりしなければならず、結構大変そうです。

布告ラッパは3度繰り返されますが、その都度ローマ市民のモチーフが弦で応えます。
ここは、ラッパの音に市民が気付いて、ざわめきが広がっている様子を表しているように聞こえますね。

布告ラッパに続き布告役人(テノール)が、ネロ皇帝は陛下の神聖なる意志を市民に伝えるため、私を使わせたと言うと、市民は「ネロ・アウグスト陛下万歳!」と叫びます。
布告役人はさらに、陛下は女神ミネルヴァの栄光を祝う、市民と幸福を分かち合うため、パンアテナ祭の期間中は剣闘試合や見せ物を劇場で開催するようにとお命じになったと語ると、市民は再び「ネロ・アウグスト陛下万歳!」と叫びます。

その後ファンファーレが鳴り響き、先ほどの市民の皇帝を讃えるフレーズを間に挟みながら、様々な職業集団が順にネロを自らの職業における神などになぞらえて讃えていきます。
ここでは市民の合唱と職業集団の斉唱が交互にロンド形式のように進みますが、歌詞もちょっと面白いと思うのでご紹介しておきます。

まずは近衛隊(テノール斉唱)。無敵のローマ軍団の司令官たるネロを軍神にたとえて「ネロ・マルス陛下万歳!」は、わかりますが、次の剣闘士達(バス斉唱)は「陛下はライオンを素手で押さえつけた」として、「ネロ・ヘラクレス陛下万歳!」と続きます。しかしこれはさすがに言い過ぎの感がありますね。

最後の楽士達(ソプラノ斉唱)は、「陛下の天恵の声と竪琴は、いのちのないものにも生命を吹き込み、石をも喜びで震えさせたのだ。ネロ・アポロン陛下万歳!」と流れるように歌います。これもまあおべっか使いですが、史実としてのネロも劇場で詩や竪琴を披露していたそうですから、こうした称賛がひょっとしたら当時本当にされていたかもしれません。もっともネロの舞台はアポロンにはほど遠く、退屈なものだったようですけど。

もうひとつここで私が興味深く思うのは、ファンファーレは1回目は金管、2回目は木管主体で奏されていることです。
同じ旋律を別の楽器で演奏するのは、リムスキーの作品では頻繁に登場しますが、少し詳しく書くと、ファンファーレははじめトランペット2本のフォルテで奏されて、2回目はフォルテのホルン4本で補強された、オーボエとクラリネット2本ずつのフォルテシモに変換されているのです。

ここでのように、2回目を木管に置き換えてなぞろうとした場合、オーボエとクラリネットを使ってトランペットに似た音を作り出せばすむということでなく、音強上も拮抗するためには、ホルン4本の応援も必要ということを実例として示していて興味深いです。
管弦楽法においては、こうした楽器の違いによる音強の調整というのも重要なテーマであるようですね。

さて、市民らのネロ讃歌はなおも続き、布告ラッパの旋律がトランペットに続いて木管で短く奏されたのち、ホルンによるファンファーレに乗せて、全員で「われらが陛下はすべての神々よりも崇高である」などと盛大に持ち上げます。

しかし盛り上がりはスフォルツァンドにより一転。
不安を表すような上下行の音型に乗せて、市民は口々にキリスト教に対する不安を言い出します。
ここの音楽はかなり複雑で、MIDIで音符の打ち込みをしていたときも相当手こずったことが印象に残っていますが、それもやがて解消されて行き、陛下は木のように枝を広げて行くキリスト教の根を斧で断ち切ったという合唱で、第3場は締めくくられます。

モスクワ室内音楽劇場の公演では、舞台にネロの肖像が映し出され、これを市民らが讃えるという演出で、月桂樹の冠をかぶったティゲリヌスが陛下の名代として登場する形となっていました。ティゲリヌスは、前半のネロを讃える合唱では得意満面の笑みを浮かべて舞台の周囲をめぐっていましたが、キリスト教のことが市民から出てくると、戸惑った表情を浮かべ動揺している感じをさり気なくですが良く出していて感心したものでした。







《セルヴィリア》おぼえ書き~第1幕第2場

2016年06月08日 | 《セルヴィリア》
【第2場】

――人々にまぎれて、ぼろをまとった老人がやってくる。
疲れ切っている様子を見て、アフェルは彼にベンチを譲ろうとする。
アフェルは、この老人に旅の疲れを癒してあげようと、公衆浴場に連れていこうとするが断られる。
それならばと彼は財布を差し出すが、老人はお礼を言ってその手を払う。アフェルはこの老人は何者かと当惑する。



第2場もアフェルのライトモチーフで始まりますが、一転短調の響きになり、これに新たに登場する「老人」のわびしいモチーフ(レードドレレー)が続きます。
これまでのにぎやかな雰囲気は影を潜め、アフェルと老人だけにスポットライトが当てられたようなやり取りになります。
もっともこの場はアフェルがみすぼらしい老人に気遣って、一方的に親切心を起こして話しかけるだけで、老人(バス)は最後に「ありがとう。親切なお方よ」と答えるだけ。
アフェルは謎めいた様子に戸惑い、それを引きずるかのようにフルートとピチカートの半音階の上昇音で短くこの場面は終了します。

老人の正体はこの時点ではわかりませんが、のちにキリスト教徒であることを自ら明かします。
いくぶん狂信めいた面もあるこの人物、劇中では名前は与えられていませんが、いずれも60年代後半に殉教したというペテロやパウロを彷彿とさせないでもありません。

私はこの場の筋書きや音楽の雰囲気から、アフェルは善きローマ市民として本当に老人を心配していたものと思っていましたが、モスクワ室内音楽劇場の公演では、アフェルは親切そうな言葉を投げかけながら老人を馬鹿にしてからかっているという演出となっていました。
その様子を市民たちもにやにやしながら見ているといった風で、確かにこのほうが後で老人が市民から受けるひどい仕打ちをほのめかしているようで、なるほどと感じました。

《セルヴィリア》おぼえ書き~第1幕第1場

2016年06月08日 | 《セルヴィリア》
【第1場】

――ローマの市民広場。多くの人々でごった返している。ポレンタ(トウモロコシで作られたお粥)売りや花売りが市民の間を歩き回りながら商売をしている。
ローマ市民アフェルが仲間達と何やらひそひそ話をしようとしているが、人目につくというので、ソラヌス邸の戸口へ行く。
アフェルが、友人である護民官ヴァレリウスや元老院議員ソラヌスらに対する陰謀が図られており、ヒスポの奴が根も葉もない密告をしようとしているのだとみんなに伝える。
一同は憤るが、さしあたりヴァレリウスらに知らせることにして別れる。
アフェルはソラヌス邸の前のベンチに腰掛ける。
広場はますます混雑し始める。



序奏に続き途切れなく第1幕に入ります。
第1場は、序奏で用いられたローマ市民(アフェル)の楽想が、テンポはそのままで調を変えて使われていきます。
序奏と同じく無窮動的な弦の動きと、ファゴット2本の通奏低音的な用法、ティンパニのトレモロがにぎやかなローマの市民広場の雑踏を表現しているようです。
メロディの裏で場の雰囲気を作り出す役割は、ホルンと相場が決まっているような気がしますが、ここではあえてファゴットを使用し、ホルンほどは透明感がなく、若干の濁りを含ませて市民広場の乾燥して埃っぽい空気感を出しているようでもあります。

曲は、ローマ市民であるアフェル(テノール)と仲間たちの会話が中心で進行します。
雑踏の中で、ポレンタ売りの少年(コントラルト)と花売りの少女(ソプラノ)の呼び声が聞こえてきます。
これらはこの場でその後も繰り返し登場しますが、彼らの声に乗せたピチカートの下降音とフルートを主体にした木管による短いパッセージが、曲に彩を添えていますね。
木管の音ははじめはフルート、続いてクラリネットのソロで奏でられますが、次はクラリネットがオーボエに置き換わり、さらにはフルートとオーボエ、フルートとクラリネットの混合色になっていくことにお気づきになられるでしょうか。
この木管による同じパッセージのさりげない音色の変化を楽しんでみるのも一興でしょう。

途中、アフェルが、ヴァレリウスだけでなく、ヘルヴィディウス・プリスクス、モンタヌス、パコニウス、ソラヌス、トラセアと名前を挙げて、彼らが無実の罪を着せられて告発されようとしていると仲間に語る部分があります。
ここでは付点系のパッセージとアフェルのモチーフの呼応が繰り返されますが、付点系はずっと後で登場するトラセアのライトモチーフの変形のようにも聞こえるものの、この段階では判然としません。
第2幕第2場では、エグナティウスがギスポから奪い取った告発文を読み上げる場面がありますが、後述するように、ここでは読み上げた人物のライトモチーフが入れ替わり現れるという面白い音楽になっています。
これに対して、第1幕では告発されそうだという噂だけで確証がないため、あえてあいまいな形にとどめておいたとも解釈されます。
いずれにせよ、こうした勘ぐりもしたくなるような趣向を作曲者は考えたのかもしれませんね。

ちなみに第1場の最後のほうで、一同が別れを告げる際に「Vale!」と言いますが、これはロシア語でなくラテン語。「さらば」というほどの意味らしいですが、こうしたラテン語もこの歌劇の各所にちりばめられていますので、その都度ご紹介したいと思います。

《セルヴィリア》おぼえ書き~第1幕(概説)

2016年06月07日 | 《セルヴィリア》
西暦67年、ローマ。第5代皇帝ネロの治世。

3年前にローマを焼き尽くした大火から人々の生活が立ち直りつつある中で、忌まわしい反社会的な存在だった「クリストゥス(キリスト)の信奉者」たちは、放火の罪によりネロ帝によって次々に火あぶりに処せられます。
史上悪名高いこの行為は当時のローマ市民には支持をされていましたが、一方で暴力と陰謀が支配するネロの治世に対する反乱の兆しがあちこちでささやかれていた、そんな時代です。
《セルヴィリア》では、皇帝ネロは悪として描かれているわけではなく、むしろ大衆の歓心を買い、キリスト教徒を根絶させる「善政」を敷く為政者としてとらえられています。

第1幕では、この歌劇の物語の根幹を織りなす3つのテーマが示されます。
すなわち、セルヴィリアの父である元老院議員ソラヌスの一派に陰謀が計られつつあること、娘セルヴィリアは自分の意に反して父親ほど年の離れた元老院議員トラセアと結婚させられそうになっていること、ネロの迫害にもかかわらずキリスト教徒がローマで活動を続けていること、です。
互いに関係のないように見える3つのテーマは、劇の進行に伴って絡み合っていき、歌劇の最後ではついにはセルヴィリアの死というクライマックスに至ります。

この幕は、リムスキー好みの「異教への憧憬」が古代ローマでの祭礼として挿入され、ローマの市民広場(フォノ・ロマーノ)を舞台に合唱やバレエによってにぎやかに繰り広げられます。
その点、この幕は大勢の登場人物や、大がかりな舞台装置によるスペクタクルとしての効果が期待できるでしょう。

かたやキリスト教徒である「老人」に対しては、市民から罵声や嘲笑が浴びせかけられ、容赦のない暴力も振るわれます。
キリスト教黎明期における、現代とは異なる価値観に基づく人々の行動が舞台上で繰り広げられるため、観ているほうはかなり面喰うことになるのではないでしょうか。

この幕では、物語はソリストと民衆が交互に語っていくという手法によって進行していきます。
「暴力と神聖」「嘲笑と崇拝」といった民衆の感情の振れ幅の大きさに翻弄されつつも、提示された3つのテーマがどのような結末を迎えるのか、否応なく期待が高まることになり、劇の導入としては成功しているのではないかと思います。




《セルヴィリア》モスクワ公演観劇記

2016年05月09日 | 《セルヴィリア》
モスクワに行ってきました。



ご存じポクロフスキー聖堂(ワシリー寺院)

目的はもちろん《セルヴィリア》の観劇。
それだけ果たせれば自分としては満足だったのですが、ちょうどゴールデン・ウィーク中でもあり、せっかくなので、4泊ほどして市内を徒歩であちこちぶらぶらしてきました。
昼間は博物館や美術館、そしてそこら中にある教会を見て回り、夜は劇場でオペラを観るといった、なんとも贅沢な自由行動。

モスクワに来て「トレチャコフ美術館」を外すことはできませんが、以前から行きたいと思っていた「グリンカ中央音楽博物館」(ただしここは楽器専門の展示になってしまっていてがっかり...)や「モスクワ・レーリッヒ記念館」、それに「チャイコフスキーとモスクワ博物館」(ここは比較的最近オープンしたと思われますが、展示物はかなり充実。クリンまで出向かなくて良くなりそう)などを巡りました。

劇場は、オペレッタ劇場《こうもり》、ヘリコンオペラ《3つのオレンジへの恋》、そして本命モスクワ室内音楽劇場の《セルヴィリア》。
これらの訪問記についてはまた後日。



「チャイコフスキーとモスクワ博物館」内部。オサレな雰囲気でした。


さて《セルヴィリア》ですが、思うところが山ほどあって、頭の整理もできていないのでぼちぼち書いていきたいと思います。
これまで、《セルヴィリア》については、要点を述べるなら

1)上演にも録音にも恵まれなかった不遇の作品。15作あるリムスキー=コルサコフのオペラの中で(今のところ)唯一全曲録音がない。
2)古代ローマを舞台とした作品で、あまり「国民性」にとらわれることなく自由に作曲された音楽。舞踊曲などはビザンチン色や東洋色で味付け。
3)セルヴィリアのアリア「花たちよ」は作曲者が一番出来がいいとみなしていた佳品。このアリアのみ単独でよく歌われる。

といったものでしたが、今回のモスクワ室内音楽劇場の公演を観て、

4)劇として非常に面白い!

を新たに加えたいと思います。

ロシア歌劇に限らず、有名なオペラでも途中で「かったるい」と思うことはままありますが、《セルヴィリア》に関してはドラマとしても非常に面白く(もちろん優れた演出に依るところも大)、2回の休憩をはさんで3時間以上かかりましたが、まったく退屈せずに楽しむことが出来ました。
具体的な内容はちびちび書きてまいりますが、今日は備忘録的に今回公演の楽譜との違い(もちろんわかる範囲ですが)を中心にメモを記しておきます。

・公演は、第1幕(続けて)第2幕~休憩~第3幕~第4幕(続けて)第5幕という構成。19:00に開演し、終了が22:10頃。
・カットは私が気づいた範囲では、第1幕の「戦いの踊り」(とそれにつながる合唱)のみ。ここは前後にアテナを称えるほぼ同じ内容の合唱に挟まれているので、省略されても不自然さがなく、自分も少したってから気が付いたほど。
・第1幕の「ポレンタ売りの少年」(コントラルト役)は本当に少年が演じていた。ただし声の線が細いので、その後の男声合唱との差が大きすぎてややバランスが悪い。
・第3幕の冒頭の合唱のアントニア(セルヴィリアの乳母役。メゾ)のパートは合唱隊の一人が歌っていた(ので、アントニア役は歌手でないのかと思いきや、その後のパートはしっかり歌っていた)。
・「花たちよ」の最後のところ、「スカジー」でなく「スカザーチ」と楽譜どおり歌っていた(細かっ!)

本日の最後は証拠写真(笑)



当日販売されていた《セルヴィリア》のプログラム(100ルーブル)。詳細な解説が記されていると思われますが、残念ながらすべてロシア語でした。





《セルヴィリア》の上演

2016年03月29日 | 《セルヴィリア》
先日、ネット徘徊をしていたら、《セルヴィリア》のリハーサル風景に出くわしました。
https://www.youtube.com/watch?v=Ck6AhYUHoKA

《セルヴィリア》は、15作あるリムスキー=コルサコフのオペラの中で唯一全曲録音がなく(ハイライト盤はあり)、舞台での上演も、ペテルブルクでの初演(1902年、マリインスキー劇場)と、その後のモスクワでの公演(1904年、ソロドフニコフ劇場)と、いずれも作曲者の存命中にされた以外は、その後一度も行われることのなかった(と最近まで思っていましたが)、幻の作品です。
そんな《セルヴィリア》の舞台情景が観れるなどとは、それこそ私が生きているうちに一度あるかないか、というくらいの思いだったのですが、なんとなんと、この4月と5月(2016年)に、モスクワで上演されるとのことで、ネットにアップされているのは、どうやらそれに向けた稽古の様子だったということを知りました。

実は、《セルヴィリア》は比較的最近、ロシアのサマーラという都市の歌劇場で上演されたことがあるらしく、同劇場のホームページにその旨が掲載されているのですが、残念ながら写真などは掲載されておらず、どのような舞台だったのかは全く不明です。
http://eng.opera-samara.net/History_of_the_Theatre/
(このページの上のほうの劇場の写真の右あたりに記載あり)

《セルヴィリア》の舞台写真は、初演時のものが1枚だけリムスキー=コルサコフの写真入りの伝記本に掲載されており、それは第1幕のフォロ・ロマーノの様子です。護民官ヴァレリウスが市民の熱狂的な歓迎のもと登場する場面と思われ、トーガを短めのスカート風にアレンジしたような女性のいでたちに若干違和感を覚えますが、まあ、古代ローマの様子を忠実に再現した舞台です。
それ以外にこのオペラの世界を示すような舞台写真はありませんので、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスや、ローレンス・アルマ=タデマ、ジャン=レオン・ジェロームといった画家たちの、古代ローマを題材にした作品から想像するしかありませんでした。

今回、モスクワで上演する劇場は、日本では「モスクワ・シアター・オペラ」として知られているモスクワ室内音楽劇場。かのボリス・ポクロフスキーの名を冠しております。
この劇場は、前述のリハーサル風景でも見て取れますが、かなり小さな、ほとんど地下の倉庫かというくらいの広さで、オケピットはなく、狭い舞台の奥に指揮者を左に置いて、楽団員は横向きに演奏するというようなスタイルのようです。
日本では考えられないような配置ですが、逆に演出で魅せようとしている歌劇場ですから、どのような舞台になるのかはお楽しみです。
特に《セルヴィリア》は登場人物も多いですから、棒立ちではなく、生き生きとした演技をソリストたちにも期待したいところです。