海軍大将コルシンカの航海日誌

ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフについてあれこれ

ストラヴィンスキー《葬送の歌》(1)

2016年06月25日 | 関連人物
今頃になって知ったのですが、2015年9月に「100年行方不明のストラビンスキー作品、露音楽院で発見」というニュースが話題を呼んでいたようです。

ネット上でも「ぜひ聴いてみたい」という声が多く寄せられていましたが、私もまた、この、若きストラヴィンスキーが師リムスキー=コルサコフの追悼のために作曲した作品が、演奏なり録音なりで聴けるのを心待ちにしている一人です。

ストラヴィンスキーにそのような作品があることは、下に引用する自伝に記載されていたので以前から知ってはいたのですが、これが再発見されたのは、リムスキーの愛好家にとってもビッグニュースです。

彼の死を悼んだ作品は、グラズノフやシテインベルグのものが録音にもなっていますが、肝心のストラヴィンスキーのものが行方不明のままとなっていて、もはや聴くことのできない、まさに「幻の作品」となっていたわけですからね。

さて、ストラヴィンスキー自伝でこの作品に言及した部分は以下のとおりです。
自分が持っているのは太田黒元雄訳の昭和11年初版の古いもので、仮名遣いなどは適宜直して掲載しておきます。

田舎に戻ってから、先生への霊への棒物をと思って、私は「葬式の歌」を作曲した。そしてこれはその年の秋、この大音楽家の追悼に捧げられた第一回のベリャーエフ演奏会で、フェリクス・ブリューメンフェルトの指揮の下に演奏された。不幸にしてこの作品のスコアは私が遺して来た多くのものと一緒に革命中ロシアで紛失してしまった。私はもうその曲を思い出せない。しかしその構想の根本にある考えは思い出せる。それは合唱している低音の声の震動を模したトレモロの囁きを深い背景として、管弦楽のあらゆる独奏楽器がそれ自身の旋律を花輪のように供えながら、次々に大家の墓前を通り過ぎるものであった。聴衆並びに私自身に与えたその感銘は著しいものであったけれども、それが果たしてどの程度まで哀悼の空気に起因したのか、どの程度まで作曲の優秀に起因したのか私は最早判断しかねる。

この作品の楽器編成ですが、ウィキペディアによると、《リムスキー=コルサコフの死に寄せる哀悼歌》のそれは「wind,cho」とされていますが(この記事作成時の記述)、上記の作曲者の「記憶」によると「弦」が「合唱」を模しているようにもとれます。

まあ、いずれ明らかになることでしょうけど、楽譜だけでも早く公開されないものでしょうか。
もしかしたら、この「価値ある」作品をめぐって、熾烈な争奪戦が繰り広げられているのかもしれませんね。

《セルヴィリア》おぼえ書き~第1幕第3場

2016年06月12日 | 《セルヴィリア》
【第3場】

――市民広場にラッパが鳴り響く。
皇帝ネロの使者である布告役人が現れて、陛下がパンアテナ祭のために剣闘試合などを開催すると市民に告げる。
市民は口々に皇帝ネロ万歳と叫ぶ。
彼らは、陛下は武芸に秀でているだけでなく、東方からもたらされた忌まわしい迷信をも断ち切ったのだと称える。



第3場は、暗い雰囲気から一転して、市民が皇帝ネロを讃える合唱主体のにぎやかな場面になります。
この場からしばらくは古代ローマの祭礼を中心に、スペクタクル的な要素の強い舞台が展開されて行きます。

まず市民広場に布告ラッパが鳴り響きます。
布告ラッパは、楽譜ではトランペットIの奏者がソロで舞台上で奏するように指定されていますが、布告ラッパのパートとは重複しないものの、本来のオーケストラのパートもこなさなくてはならないので、指定どおり舞台上で吹くなら、別にのソロの奏者を用意しなければ、Iの奏者は舞台とオーケストラピットを行ったり来たりしなければならず、結構大変そうです。

布告ラッパは3度繰り返されますが、その都度ローマ市民のモチーフが弦で応えます。
ここは、ラッパの音に市民が気付いて、ざわめきが広がっている様子を表しているように聞こえますね。

布告ラッパに続き布告役人(テノール)が、ネロ皇帝は陛下の神聖なる意志を市民に伝えるため、私を使わせたと言うと、市民は「ネロ・アウグスト陛下万歳!」と叫びます。
布告役人はさらに、陛下は女神ミネルヴァの栄光を祝う、市民と幸福を分かち合うため、パンアテナ祭の期間中は剣闘試合や見せ物を劇場で開催するようにとお命じになったと語ると、市民は再び「ネロ・アウグスト陛下万歳!」と叫びます。

その後ファンファーレが鳴り響き、先ほどの市民の皇帝を讃えるフレーズを間に挟みながら、様々な職業集団が順にネロを自らの職業における神などになぞらえて讃えていきます。
ここでは市民の合唱と職業集団の斉唱が交互にロンド形式のように進みますが、歌詞もちょっと面白いと思うのでご紹介しておきます。

まずは近衛隊(テノール斉唱)。無敵のローマ軍団の司令官たるネロを軍神にたとえて「ネロ・マルス陛下万歳!」は、わかりますが、次の剣闘士達(バス斉唱)は「陛下はライオンを素手で押さえつけた」として、「ネロ・ヘラクレス陛下万歳!」と続きます。しかしこれはさすがに言い過ぎの感がありますね。

最後の楽士達(ソプラノ斉唱)は、「陛下の天恵の声と竪琴は、いのちのないものにも生命を吹き込み、石をも喜びで震えさせたのだ。ネロ・アポロン陛下万歳!」と流れるように歌います。これもまあおべっか使いですが、史実としてのネロも劇場で詩や竪琴を披露していたそうですから、こうした称賛がひょっとしたら当時本当にされていたかもしれません。もっともネロの舞台はアポロンにはほど遠く、退屈なものだったようですけど。

もうひとつここで私が興味深く思うのは、ファンファーレは1回目は金管、2回目は木管主体で奏されていることです。
同じ旋律を別の楽器で演奏するのは、リムスキーの作品では頻繁に登場しますが、少し詳しく書くと、ファンファーレははじめトランペット2本のフォルテで奏されて、2回目はフォルテのホルン4本で補強された、オーボエとクラリネット2本ずつのフォルテシモに変換されているのです。

ここでのように、2回目を木管に置き換えてなぞろうとした場合、オーボエとクラリネットを使ってトランペットに似た音を作り出せばすむということでなく、音強上も拮抗するためには、ホルン4本の応援も必要ということを実例として示していて興味深いです。
管弦楽法においては、こうした楽器の違いによる音強の調整というのも重要なテーマであるようですね。

さて、市民らのネロ讃歌はなおも続き、布告ラッパの旋律がトランペットに続いて木管で短く奏されたのち、ホルンによるファンファーレに乗せて、全員で「われらが陛下はすべての神々よりも崇高である」などと盛大に持ち上げます。

しかし盛り上がりはスフォルツァンドにより一転。
不安を表すような上下行の音型に乗せて、市民は口々にキリスト教に対する不安を言い出します。
ここの音楽はかなり複雑で、MIDIで音符の打ち込みをしていたときも相当手こずったことが印象に残っていますが、それもやがて解消されて行き、陛下は木のように枝を広げて行くキリスト教の根を斧で断ち切ったという合唱で、第3場は締めくくられます。

モスクワ室内音楽劇場の公演では、舞台にネロの肖像が映し出され、これを市民らが讃えるという演出で、月桂樹の冠をかぶったティゲリヌスが陛下の名代として登場する形となっていました。ティゲリヌスは、前半のネロを讃える合唱では得意満面の笑みを浮かべて舞台の周囲をめぐっていましたが、キリスト教のことが市民から出てくると、戸惑った表情を浮かべ動揺している感じをさり気なくですが良く出していて感心したものでした。







《セルヴィリア》おぼえ書き~第1幕第2場

2016年06月08日 | 《セルヴィリア》
【第2場】

――人々にまぎれて、ぼろをまとった老人がやってくる。
疲れ切っている様子を見て、アフェルは彼にベンチを譲ろうとする。
アフェルは、この老人に旅の疲れを癒してあげようと、公衆浴場に連れていこうとするが断られる。
それならばと彼は財布を差し出すが、老人はお礼を言ってその手を払う。アフェルはこの老人は何者かと当惑する。



第2場もアフェルのライトモチーフで始まりますが、一転短調の響きになり、これに新たに登場する「老人」のわびしいモチーフ(レードドレレー)が続きます。
これまでのにぎやかな雰囲気は影を潜め、アフェルと老人だけにスポットライトが当てられたようなやり取りになります。
もっともこの場はアフェルがみすぼらしい老人に気遣って、一方的に親切心を起こして話しかけるだけで、老人(バス)は最後に「ありがとう。親切なお方よ」と答えるだけ。
アフェルは謎めいた様子に戸惑い、それを引きずるかのようにフルートとピチカートの半音階の上昇音で短くこの場面は終了します。

老人の正体はこの時点ではわかりませんが、のちにキリスト教徒であることを自ら明かします。
いくぶん狂信めいた面もあるこの人物、劇中では名前は与えられていませんが、いずれも60年代後半に殉教したというペテロやパウロを彷彿とさせないでもありません。

私はこの場の筋書きや音楽の雰囲気から、アフェルは善きローマ市民として本当に老人を心配していたものと思っていましたが、モスクワ室内音楽劇場の公演では、アフェルは親切そうな言葉を投げかけながら老人を馬鹿にしてからかっているという演出となっていました。
その様子を市民たちもにやにやしながら見ているといった風で、確かにこのほうが後で老人が市民から受けるひどい仕打ちをほのめかしているようで、なるほどと感じました。

《セルヴィリア》おぼえ書き~第1幕第1場

2016年06月08日 | 《セルヴィリア》
【第1場】

――ローマの市民広場。多くの人々でごった返している。ポレンタ(トウモロコシで作られたお粥)売りや花売りが市民の間を歩き回りながら商売をしている。
ローマ市民アフェルが仲間達と何やらひそひそ話をしようとしているが、人目につくというので、ソラヌス邸の戸口へ行く。
アフェルが、友人である護民官ヴァレリウスや元老院議員ソラヌスらに対する陰謀が図られており、ヒスポの奴が根も葉もない密告をしようとしているのだとみんなに伝える。
一同は憤るが、さしあたりヴァレリウスらに知らせることにして別れる。
アフェルはソラヌス邸の前のベンチに腰掛ける。
広場はますます混雑し始める。



序奏に続き途切れなく第1幕に入ります。
第1場は、序奏で用いられたローマ市民(アフェル)の楽想が、テンポはそのままで調を変えて使われていきます。
序奏と同じく無窮動的な弦の動きと、ファゴット2本の通奏低音的な用法、ティンパニのトレモロがにぎやかなローマの市民広場の雑踏を表現しているようです。
メロディの裏で場の雰囲気を作り出す役割は、ホルンと相場が決まっているような気がしますが、ここではあえてファゴットを使用し、ホルンほどは透明感がなく、若干の濁りを含ませて市民広場の乾燥して埃っぽい空気感を出しているようでもあります。

曲は、ローマ市民であるアフェル(テノール)と仲間たちの会話が中心で進行します。
雑踏の中で、ポレンタ売りの少年(コントラルト)と花売りの少女(ソプラノ)の呼び声が聞こえてきます。
これらはこの場でその後も繰り返し登場しますが、彼らの声に乗せたピチカートの下降音とフルートを主体にした木管による短いパッセージが、曲に彩を添えていますね。
木管の音ははじめはフルート、続いてクラリネットのソロで奏でられますが、次はクラリネットがオーボエに置き換わり、さらにはフルートとオーボエ、フルートとクラリネットの混合色になっていくことにお気づきになられるでしょうか。
この木管による同じパッセージのさりげない音色の変化を楽しんでみるのも一興でしょう。

途中、アフェルが、ヴァレリウスだけでなく、ヘルヴィディウス・プリスクス、モンタヌス、パコニウス、ソラヌス、トラセアと名前を挙げて、彼らが無実の罪を着せられて告発されようとしていると仲間に語る部分があります。
ここでは付点系のパッセージとアフェルのモチーフの呼応が繰り返されますが、付点系はずっと後で登場するトラセアのライトモチーフの変形のようにも聞こえるものの、この段階では判然としません。
第2幕第2場では、エグナティウスがギスポから奪い取った告発文を読み上げる場面がありますが、後述するように、ここでは読み上げた人物のライトモチーフが入れ替わり現れるという面白い音楽になっています。
これに対して、第1幕では告発されそうだという噂だけで確証がないため、あえてあいまいな形にとどめておいたとも解釈されます。
いずれにせよ、こうした勘ぐりもしたくなるような趣向を作曲者は考えたのかもしれませんね。

ちなみに第1場の最後のほうで、一同が別れを告げる際に「Vale!」と言いますが、これはロシア語でなくラテン語。「さらば」というほどの意味らしいですが、こうしたラテン語もこの歌劇の各所にちりばめられていますので、その都度ご紹介したいと思います。

《セルヴィリア》おぼえ書き~第1幕(概説)

2016年06月07日 | 《セルヴィリア》
西暦67年、ローマ。第5代皇帝ネロの治世。

3年前にローマを焼き尽くした大火から人々の生活が立ち直りつつある中で、忌まわしい反社会的な存在だった「クリストゥス(キリスト)の信奉者」たちは、放火の罪によりネロ帝によって次々に火あぶりに処せられます。
史上悪名高いこの行為は当時のローマ市民には支持をされていましたが、一方で暴力と陰謀が支配するネロの治世に対する反乱の兆しがあちこちでささやかれていた、そんな時代です。
《セルヴィリア》では、皇帝ネロは悪として描かれているわけではなく、むしろ大衆の歓心を買い、キリスト教徒を根絶させる「善政」を敷く為政者としてとらえられています。

第1幕では、この歌劇の物語の根幹を織りなす3つのテーマが示されます。
すなわち、セルヴィリアの父である元老院議員ソラヌスの一派に陰謀が計られつつあること、娘セルヴィリアは自分の意に反して父親ほど年の離れた元老院議員トラセアと結婚させられそうになっていること、ネロの迫害にもかかわらずキリスト教徒がローマで活動を続けていること、です。
互いに関係のないように見える3つのテーマは、劇の進行に伴って絡み合っていき、歌劇の最後ではついにはセルヴィリアの死というクライマックスに至ります。

この幕は、リムスキー好みの「異教への憧憬」が古代ローマでの祭礼として挿入され、ローマの市民広場(フォノ・ロマーノ)を舞台に合唱やバレエによってにぎやかに繰り広げられます。
その点、この幕は大勢の登場人物や、大がかりな舞台装置によるスペクタクルとしての効果が期待できるでしょう。

かたやキリスト教徒である「老人」に対しては、市民から罵声や嘲笑が浴びせかけられ、容赦のない暴力も振るわれます。
キリスト教黎明期における、現代とは異なる価値観に基づく人々の行動が舞台上で繰り広げられるため、観ているほうはかなり面喰うことになるのではないでしょうか。

この幕では、物語はソリストと民衆が交互に語っていくという手法によって進行していきます。
「暴力と神聖」「嘲笑と崇拝」といった民衆の感情の振れ幅の大きさに翻弄されつつも、提示された3つのテーマがどのような結末を迎えるのか、否応なく期待が高まることになり、劇の導入としては成功しているのではないかと思います。