海軍大将コルシンカの航海日誌

ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフについてあれこれ

ストラヴィンスキー《葬送の歌》(2)

2020年05月31日 | 関連人物
2016年12月2日、ストラヴィンスキーの《葬送の歌》が100年以上の時を経て再演されました。

20世紀を代表する大作曲家が亡き師の追悼のために書いた作品───
革命の混乱により行方知れずとなっていた幻の曲───
再演はゆかりの地ペテルブルグ。演奏は現代の楽壇を代表するゲルギエフが率いるマリインスキー劇場管弦楽団───
一つの音楽作品の演奏として、これ以上のお膳立てはそうそう考えられないでしょう。

この貴重な作品はすでに内外の演奏会でも取り上げられ、CDもリリース。楽譜も出版されました。

Stravinsky - Funeral Song (Official Score Video) (YouTube)
Boosey & Hawkes

そして多くの方がこの作品に関した記事を書かれておられるので、私の出る幕などないのですが、リムスキー=コルサコフのファンの視点から少々コメントしておきます。

再演前に私が関心を持っていたのは、ストラヴィンスキーが自伝に記した「管弦楽のあらゆる独奏楽器がそれ自身の旋律を花輪のように供えながら、次々に大家の墓前を通り過ぎるものであった」という部分。
構想としては実に見事なもので、自伝を読んだ時にはさすがと思ったものです。

管弦楽法の大家と呼ばれ、ソロ楽器の際出たせ方にも長けていたリムスキー=コルサコフ。
その弟子たるストラヴィンスキーは、師を送る想いをどう譜面にしたためたのか。
否応なく興味をそそられるのではないでしょうか。

しかしこの点については、期待していたのとは違っていました。
少なくとも「あらゆる独奏楽器が...次々に」という文面から受け取れる印象とは、少々異なっているようです。
そのような部分がないわけではありませんが、ソロ楽器の目立たせ方はあまり明瞭ではないと思いました。

これは、音色が特徴的なコールアングレのソロが少々出しゃばりすぎて他の管楽器ソロを曇らせてしまったためか。
フルートやクラリネットのオクターブで重ねた旋律が、ピアノで奏するとの指示によりあまり目立たずに沈んでしまったためか。
作曲というより、演奏や録音の問題なのかよくわからない面もあるので、とりあえず私はそんな風に感じたと書き留めておきます。

この曲には、もう一つ期待していたことがあります。
それは、「管弦楽のあらゆる独奏楽器がそれ自身の旋律を」との点について、これらのメロディーがリムスキー=コルサコフの作品から引用されているかもしれないということ。
こちらは完全にハズレでした。
さすがにストラヴィンスキーはそんな俗っぽい手法は採らなかったということですが、個人的には少々残念ではありました。

とはいえ、この作品の素晴らしさは改めて言うまでもないですね。
主題となる旋律は、曲の中で変化しながら故人を回想してこみ上げてくる懐かしさと、彼がもう居なくなってしまったという喪失感とを見事に表している。
ワーグナーや師リムスキーコルサコフの影響が濃いなどと言われますが、独創的な部分も多く、私は見紛うことなきストラヴィンスキーの作品と感じました。

***

さて、この作品、師匠が聴いたらどう評価したでしょうか。
存命中のリムスキー=コルサコフは、ストラヴィンスキーが持ってきた作品に対してこんなことを言ったそうです。
(言うまでもありませんが、《葬送の歌》ではありませんよ)

「ひどい!胸が悪くなる!こんなナンセンスな曲は、60歳になるまで書いちゃいかん。」


60歳になったら書いていいのかとツッコミを入れたくなりますが、一方で同じ日の晩、妻に向かってはこう語ったそうです。

「わしの生徒たちと来たら、まったくかすばかりだ。一人として、今朝イーゴリ(=ストラヴィンスキー)がもってきたようながらくたすら書ける者はおらん!」


「はいはい」と笑って聞いている奥さんの姿が目に浮かぶようです。 
果たして師匠は《葬送の歌》を天上で どんな思いで聴いたのでしょうね。

(上のリムスキーの言葉の出典は、リチャード・バックル著、鈴木晶訳『ディアギレフ──ロシア・バレエ団とその時代(上)』リブロポートからです。)

金須嘉之進「ペトログラード音楽院時代の憶ひ出」(その3)

2019年07月13日 | 関連人物
金須嘉之進の写真を見つけました。
掲載されているブログによると、明治43年に発行された全国の音楽家の写真帖とのこと。

蔵書目録 『楽のかゞみ』 松本楽器合資会社 (1910.1)
金須(中央)は立派な口ひげを蓄えたインテリ風のイケメンです。


金須の留学先の「帝室附カペーラ声楽院」、現在の「サンクト・ ペテルブルグ国立アカデミーカペラ」の建物はこんな感じ。
建築物としても美しく、コンサートもやっているようなので、もしペテルブルクに行く機会があればぜひ訪れてみたい場所です。

Государственная академическая капелла Санкт-Петербурга(ロシア語版ウィキペディアより)

金須の下宿先は「町の真中の東宮々殿の近くのイタリヤ町やカラワン町に三四年居ました」とのことですが、ペテルブルクのどのあたりになるのかは私にはよくわからず不明。
留学先の学業がどのようなものであったかについては、実は寄稿の中でそれほど触れられているわけではなく、主には(その1)で紹介した声楽院の要人を述べたくだりの前に次のような記述があるだけです。

音楽の大講堂には玉座もあり、立派なものでした。其の附属として理論科と称せらるゝ處に三年程度、次で研究科二年もあつたが、それも一人二人くらいのもので大抵三年で終り、免状を受け、教師の資格を得る師範科の如き仕組の處に居たのですから理論及和声学、歴史、ピアノ、ヴァイオリン、ソルフェジオ、唱歌又唱歌團式や、教会歌曲の編曲等、毎日学びました。


金須によれば、日本はロシアの何県にあるのかとか、支那の属国と思われていたりと、ありがちな誤解を受けたこともあったようですが、「何処でも割合に皆日本人は好く受け入れられて居た」とあり、湖南事件(大津事件)のことも一度も聞かれなかったといいます。

他に興味を惹かれる内容としては、チャイコフスキーの葬儀に関する次の記事です。

チャイコフスキーの葬送の日も居ました。往来で見ました。盛大であつたと申すより他無之(これなし)、彼人は露国当時の国教の正教派の信仰の人ではなかつた、勿論ポーランド系のロマ教でした。


ところで、金須の寄稿が掲載されたこの「月刊楽譜」という雑誌、今でいうと「音楽現代」のようなもので、巻頭にはモノクロながらグラビアもあり、古い仮名遣いや字体、レトロなフォントなどを除けば、内容は現代の音楽雑誌の内容とそんなに変わらない感じがします。

シャリアピンの特集記事がありましたが、やはり当時の大人気歌手だった故でしょうか。あと、日本大学芸術学園音楽科の学生募集の広告に「特典…徴兵延期」などとあり、ここらへんはやはり時代を感じさせますね。


金須嘉之進「ペトログラード音楽院時代の憶ひ出」(その2)

2019年07月11日 | 関連人物
(その1)の記事で触れた青森中央学院大学研究紀要の「金須嘉之進と『帝室附カペーラ声楽院』: 東北地方におけるキリスト教受容に関連して」という論文について、どうやったら入手できるかなどと思案していたら、なんのことはない、ネットで閲覧することができました。



この手の論文を手に入れるためには、いろいろと面倒な手続きが必要と思い込んでいたので、こうも気前よくネット上で閲覧に供してもらえるのは、少々拍子抜けの感がありましたが、実にありがたいことです。

さてこの論文では、「金須の留学に関するロシア語文献資料の紹介を目的とする。最初に日本への洋楽導入とそれにおけるハリストス正教の位置付け、またハリストス正教が東北地方から受け入れられていった経緯も簡潔に述べた上で、ウエブ上に掲載された『帝室附カペーラ声楽院』のロシア語文献を抜粋・翻訳する形で紹介」し、特に「金須の留学先であるペテルブルグの『帝室附カペーラ声楽院』、現在の『サンクト・ ペテルブルグ国立アカデミーカペラ』について、金須の留学当時の様子も含めて紹介」するとしています。

(その1)で触れた、金須の留学先は「ペテルブルク音楽院ではないのではないか」との問題はやはり本論文でも指摘されていましたが、残念ながら金須の寄稿での自己申告以外の直接的な証拠、つまり声楽院の卒業証書や名簿などの一次資料的なものから確認されたものではありませんでした。確認できればすっきりするのですが、これは後進研究にゆだねられた格好です。

一方、私がこだわる金須からみたリムスキー=コルサコフの人物像も本論文からは得られませんでしたが、その代わりに金須が留学先の声楽院でどのような音楽教育を受けていたのかを解き明かす過程で、リムスキーが声楽院で行った改革が浮かび上がるものとなっており、こちらは大いに参考になりました。

その改革とは、端的に言うと訓練された職業音楽家による専門知識や技術の習得の徹底であり、そのためにリムスキー自身も後にリャードフやソコロフなど、いわゆるベリャーエフ・グループの作曲家として知られる仲間たちも声楽院に招聘したようです。

1883年にリムスキー=コルサコフがバラキレフに誘われる形で、声楽院で教鞭をとることになった経緯などについては、有名な彼の自伝においてやや詳しく言及されていますが、邦訳ではその部分は省略されている(種本の仏訳自体が抄訳のため)こともあってか、ここでのリムスキーの活動はあまり知られていないように思います。

リムスキー=コルサコフはペテルブルク音楽院教授としての業績があまりにも大きかったので、その陰に覆い隠されてしまっているきらいもありますが、彼は声楽院においても、カリキュラムの改革のみならず、和声学の教科書の執筆や聖歌の編曲などといった重要な成果を残しており、彼の音楽人生を考える際に決して無視できるものではありません。

更に言えば、彼と宗教(ロシア正教)の関わり、特にロシア聖歌が彼の作品に与えた影響を考える上でも、声楽院での活動は何等かの手がかりを含んでいるものと思われ、今後掘り下げてみたいテーマの一つとして調べていきたいと思います。
(作曲家と宗教性について論じられるとき、どういうわけかリムスキーはしばしば無神論者の代表として登場しますが、根拠ははっきりしないようです。)

金須嘉之進「ペトログラード音楽院時代の憶ひ出」(その1)

2019年07月07日 | 関連人物
数多いるリムスキー=コルサコフの弟子の中にあって、日本人として唯一名前が挙がるのが、金須嘉之進(きす よしのしん、1867~1951)です。
リムスキーの弟子にはロシア人だけでなく、レスピーギのような外国人も含まれていますが、その中に日本人もいたというのは驚くべきことではないでしょうか。

明治時代にはるばるペテルブルクまで渡り、音楽を学んだ日本人がいたというだけでも感慨深いものがありますが、ましてやリムスキー=コルサコフの教えを受けたというのであれば、同胞人の目からみたリムスキー像がどのようなものだったのか、大いに興味を惹かれるところです。

その金須に関しては、『ウィキペディア(Wikipedia)』に短い記事があります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/金須嘉之進

金須については以前から関心を持っていたのですが、彼の名前はネットなどで散見されるものの、まとまった情報としては見当たらず、詳しい記録は彼の出身地で、特にゆかりのある仙台の正教会にでも出向けば、ひょっとしたらあるのではないかとも考えていたのですが、さすがにそこまで探求する熱意もなく、ほったらかしのままになっていたのです。

そうした中、昭和9年刊の「月刊楽譜」という雑誌に、金須の「ペトログラード音楽院時代の憶ひ出」と題する記事か掲載されていることを知り(国会図書館にも蔵書されているようです)、さらに先日ネットで古書として売り出されていたのを知ったので、少々値段は張ったのですが思い切って購入してみました。




本が届けられてさっそくページを開いてみましたが、結論から書くと、残念ながらリムスキーの名はかろうじて一箇所出てきただけで、私の知りたかったリムスキーの人物像には全く言及されておらず、期待はずれに終わってしまいました。

ちなみに本記事(全3ページ)におけるリムスキーの登場箇所はつぎのとおりです。(かっこ内は私の追記で、旧字体は一部新字体に改めています。)

和声楽は、其の大家アレクサンドル・ニコライウィチ・ソコロフ師に附きました。其の当時カペーラの総長(は)セレメティフ伯(、)院長(は)バラキレフでしたが、重に(主に?)リームスキイコルサコフ副院長叉後にリャプノフが監督して居ました。リヤドフも居ました。[中略]当時の偉人の風貌に接しただけでそれぞれの作物を研究した訳でもなく毎日こつこつ自分の勉強を為して来た丈けです。





この書きぶりからすると、リムスキーの「弟子」とはいうものの、どちらかといえば「自分が学んだ学校にはそういう有名な先生方がいて...」という程度の印象しか伝わって来ず、ストラヴィンスキーやプロコフィエフが自伝で残したような師リムスキー=コルサコフの様子はうかがい知ることが出来ません。

ついでながら、金須の経歴として「リムスキー=コルサコフが教授を務めるペテルブルク音楽院に留学、リムスキー=コルサコフに師事」(ウィキペディア※)などと書かれますが、本記事には「私の通学していた帝室附カペーラ声楽院」とはっきり書かれており、彼はペテルブルク(ペトログラード)音楽院で学んでいたわけではないと思われます。

※ 現在は「リムスキー=コルサコフが副院長を務めるサンクトペテルブルクの帝室附カペーラ声楽院(Императорская Придворная певческая капелла)に留学」と書き改められていました(2021.3.24)。

この「帝室附カペーラ声楽院」ですが、金須の時代は「Императорская придворная певческая капелла」と称されていたようで、金須の記した「帝室附カペーラ声楽院」がその訳として適切であるように思われます。
しかし、現代の日本語文献では「宮廷合唱団」「宗務局(宮廷礼拝堂)」「帝室礼拝堂」などと様々で、定訳が無く混乱してしまいます。

どうやら「капелла」の英訳が「Chapel」とされていることから、この施設も「礼拝堂」などと訳されてしまったようなのですが、建物を見る限り(礼拝堂のような機能が一部にあったにせよ)全体が宗教的施設というものでもないので、少なくとも「礼拝堂」だけを訳を当てはめてしまうのはふさわしくないように思います。
ただ「капелла」という言葉は、ロシア語では「礼拝堂」のほか「合唱隊」「音楽隊」とかなり多様な意味を持つようで、訳し方に困ってしまうのも事実。
このペテルブルクの施設については、合唱隊や音楽隊を擁し、合唱を中心としつつも音楽理論から器楽演奏までを習得させ、専門の音楽家を養成するための総合的な音楽学校という意味合いで「капелла」と呼称されていたようで、現在でもこの施設の裏手の出入り口には「капелла」とだけ記された縦看板が設置されています。

ところでこの声楽院、日本ではなじみがありませんが、1479年に創立起源をもつ由緒あるもの。1862年創設のペテルブルク音楽院よりもずっと古い歴史を有しています。
もともとは皇帝一族の礼拝時の合唱隊を養成するための機関だったようですが、次第に活動の幅を広げ、やがて合唱にとどまらずオーケストラなども擁するようになったようです。

ГОСУДАРСТВЕННАЯ АКАДЕМИЧЕСКАЯ КАПЕЛЛА

金須がペテルブルクに留学したのはロシア正教会の伝手だったことを考えると、正教つながりで「帝室附カペーラ声楽院」に留学したというのがごく自然のことと思われます。
もしこれが正しいとすると、「ペテルブルク音楽院で学んだ」との誤った情報が流布されてしまっていることになりますが、(今でもそうですが)「ペテルブルク音楽院」と「帝室附カペーラ声楽院」の区別がはっきりとつかず、両者が同じものか、一方が他方の付属学校程度に誤解されてしまっているのかもしれませんね。

そもそも今回ご紹介した金須の寄稿した記事自体に「ペトログラード音楽院時代の憶ひ出」などと間違ったタイトルがつけられていて、これが誤解に一役買っている可能性がありますが、これは金須ではなく雑誌編集者のミスでしょう。後で訂正記事でも出されたかも。

(青森中央学院大学研究紀要に「金須嘉之進と『帝室附カペーラ声楽院』: 東北地方におけるキリスト教受容に関連して」という論文があり、同様の指摘がされていました。その内容は(その2)にて)

なお、リムスキー=コルサコフはペテルブルク音楽院の教授を務める一方で、帝室附カペーラ声楽院でもバラキレフの助手として教鞭をとっていたことがあり(1883~1894)、金須が声楽院でリムスキーに師事したこと自体には矛盾がありません。


以上は断片情報を素にした私の推測ですので、間違っている可能性もありますが、何よりも金須とリムスキー=コルサコフの関係は少しでも知りたいと思っており、引き続きテーマとして持っておこうと思います。

ストラヴィンスキー《葬送の歌》(1)

2016年06月25日 | 関連人物
今頃になって知ったのですが、2015年9月に「100年行方不明のストラビンスキー作品、露音楽院で発見」というニュースが話題を呼んでいたようです。

ネット上でも「ぜひ聴いてみたい」という声が多く寄せられていましたが、私もまた、この、若きストラヴィンスキーが師リムスキー=コルサコフの追悼のために作曲した作品が、演奏なり録音なりで聴けるのを心待ちにしている一人です。

ストラヴィンスキーにそのような作品があることは、下に引用する自伝に記載されていたので以前から知ってはいたのですが、これが再発見されたのは、リムスキーの愛好家にとってもビッグニュースです。

彼の死を悼んだ作品は、グラズノフやシテインベルグのものが録音にもなっていますが、肝心のストラヴィンスキーのものが行方不明のままとなっていて、もはや聴くことのできない、まさに「幻の作品」となっていたわけですからね。

さて、ストラヴィンスキー自伝でこの作品に言及した部分は以下のとおりです。
自分が持っているのは太田黒元雄訳の昭和11年初版の古いもので、仮名遣いなどは適宜直して掲載しておきます。

田舎に戻ってから、先生への霊への棒物をと思って、私は「葬式の歌」を作曲した。そしてこれはその年の秋、この大音楽家の追悼に捧げられた第一回のベリャーエフ演奏会で、フェリクス・ブリューメンフェルトの指揮の下に演奏された。不幸にしてこの作品のスコアは私が遺して来た多くのものと一緒に革命中ロシアで紛失してしまった。私はもうその曲を思い出せない。しかしその構想の根本にある考えは思い出せる。それは合唱している低音の声の震動を模したトレモロの囁きを深い背景として、管弦楽のあらゆる独奏楽器がそれ自身の旋律を花輪のように供えながら、次々に大家の墓前を通り過ぎるものであった。聴衆並びに私自身に与えたその感銘は著しいものであったけれども、それが果たしてどの程度まで哀悼の空気に起因したのか、どの程度まで作曲の優秀に起因したのか私は最早判断しかねる。

この作品の楽器編成ですが、ウィキペディアによると、《リムスキー=コルサコフの死に寄せる哀悼歌》のそれは「wind,cho」とされていますが(この記事作成時の記述)、上記の作曲者の「記憶」によると「弦」が「合唱」を模しているようにもとれます。

まあ、いずれ明らかになることでしょうけど、楽譜だけでも早く公開されないものでしょうか。
もしかしたら、この「価値ある」作品をめぐって、熾烈な争奪戦が繰り広げられているのかもしれませんね。

キュイの歌劇(その3)~《ペスト流行期の酒宴》

2004年09月29日 | 関連人物
キュイの歌劇で唯一全曲盤がリリースされている《ペスト流行期の酒宴》は、ロシアの大詩人プーシキンの生誕100周年を記念して作曲されたものです。

「ペスト流行期の酒宴」とは歌劇らしからぬ奇妙なタイトルですが、原作となったプーシキンの小悲劇の題名をそのまま使っているものです(英訳の'A Feast in Time of Plague'のPlagueは、プラハPragueではありません。念のため)。

プーシキンの創作の中で「悲劇」に分類される作品は、未完も含めると7作ありますが、もっともよく知られているのが『ボリス・ゴドゥノフ』でしょう。
言うまでもなくムソルグスキーの同名の歌劇の元となった作品です。
以下「小悲劇」として、『ペスト流行期の酒宴』のほかに『吝嗇の騎士』『モーツァルトとサリエリ』『石の客』、未完のものとして『ルサルカ』『騎士時代からの場面』があります。

もうお気づきでしょうが、最後の作品を除けばこれらは全てロシアの作曲家たちによってオペラ化されています(ダルゴムィジスキーの歌劇《ルサルカ》は、未完の部分を自ら補って台本として使用)。
これまでただ一つ『ペスト流行期の酒宴』のみが録音の機会に恵まれなかったのですが、今回シャンドスからリリースされたことによって、目出度くプーシキンの悲劇を原作として作曲された歌劇は、全て聴くことが可能になったわけです。

マイナーな歌劇を楽しもうとするときにネックになるのが、その話の内容です。
筋書きに関係なく、オペラを純粋な音楽として聴くことも一つの方法でしょうけど、私は舞台の時代背景などにも詮索してみたいクチで、あらすじ位は押さえておかないと話になりません。
外国語に堪能であれば、CDに付いているブックレットの英語の解説やテキストなどを頼りに理解していくことはできるのでしょうけど、私のような数行読んだだけで頭痛がする人間は、やはり日本語でラクに済ませたいところです。

有名な文学作品が原作であれば、その邦訳を探すのが一番手っ取り早いです。
ありがたいことに『ペスト流行期の酒宴』はプーシキン全集の中にちゃんと収録されていて(河出書房新社刊「プーシキン全集」第3巻)、しかもキュイはこの作品のオペラ化に際して原作にほとんど手を入れずにそのままテキストとして使用したそうですから、図書館に行く労さえ厭わなければ、簡単に「歌詞カード」や「解説」を手に入れることができるわけです。
最初に聴いたときにはわからなかった、途中に挟まれる重苦しい音楽は、ペストで死んだ人々を乗せた荷車が傍らを通り過ぎる時のものであるということも、日本語を読みながらだとすぐにわかるのですから、ラクチンですね。

《ペスト流行期の酒宴》は30分ほどの短い歌劇です。
ペストの流行する17世紀のロンドン。
日は我が身かと絶望しつつも、路傍で酒盛りをして気を紛らわす数人の男女たちの様子を描いた作品ですが、「狂乱の酒宴」というよりは、死を面前にして淡々と酒を酌み交わすといった表現のがふさわしい情景です。

この歌劇の中核をなすのは2つの歌───「メリーの歌」と「ワルシンガムのペスト賛歌」です。
キュイはこの2つの歌をちゃっかり自分の過去の歌曲から転用していますが、悪くはありません。
途中、周囲の者たちがワルシンガムを称えて囃し立てる箇所だけは、ロシアの歴史オペラにおける民衆の合唱ばりに盛り上がってしまい、ついニヤリとしてしまいますが、全体に手の込んだ、熟達した筆による佳品であるように思います。

この歌劇(小悲劇)の主題は、プーシキン全集の解説によれば、プーシキンの他の悲劇と同じく、「極限状況における人間の心理を描き出す」ことにあるとされています。
ペストによる死を面前にした人間の振るまいは、この劇の中では「忘却」「宗教」「運命愛」としてそれぞれの人物に投影されているというのです。
特に、「宗教」と「運命愛」については、この話のオチに相当する部分───妻を亡くして気の狂ってしまった司祭と宴会を取り仕切るワルシンガムが実は親子とわかる───によって、より先鋭に対比されているようでもあります。

二人が「親子」ということについては、解説には触れられておらず、私も今ひとつ確証がもてません。
しかし、司祭がワルシンガムの亡母のことを持ち出して彼に改悛を迫る場面で、ある女に「埋葬された奥様のことをうわごとのように言っている」とつぶやかせ、この二人の関係はあるいは───とうかがわせておき、最後に「さらばじゃ、我が子よ」と司祭がワルシンガムに言って別れるのは、単に宗教的な指導者と信徒という関係から「子」と呼んでいるだけではなく、実は本当の親子ではないか───ということを、依然謎をはらみつつもほのめかしているように私には思えます。

《ペスト流行期の酒宴》の結末の何とも言いようのない後味の悪さ───《モーツァルトとサリエリ》もそうでしたが、1回かそこら聴いただけではわからない 「何か」───日常の生活ではあまり感じない漠然とした不安感──に引き込まれて、何度も聴くうちにだんだんと深みにはまっていってしまう、そんな危険な香りのするオペラであるといえるでしょうか。

***

そして2020年の今。
新型コロナで世界中がひっくり返っています。
歴史上の出来事でしか知らなかった世界が、今まさにわれわれに降りかかってきていますね。


[この記事は「コルシンカの雑記帳」に掲載していたものに加筆修正して再掲しました]

キュイの歌劇(その2)~実はオペラの大作曲家?

2004年09月25日 | 関連人物
キュイの作曲家としての知られざる面として取り上げたい「オペラ大作曲家」の顔。
ただし、そうだったかもしれない、という注釈付きでトーンダウンしてしまうのは、何しろ、作品の数はともかく、その質───肝心の内容がどのようなものなのか、ほとんど全く知る手がかりがないからです。

私の知る限り、キュイの歌劇の全曲盤の録音は今回の《ペスト流行時の酒宴》が初めてで、他はあったとしても断片的なものにとどまっているようです。【注】
旧メロディアなら全曲盤が出ていた可能性もありますが、残念ながら私は知りません。

キュイの歌劇の作品目録を一応記しておくと、次のようになります。

 《中国役人の息子》 全1幕
 《コーカサスの捕虜》 全3幕(プーシキンの長編詩)
 《ウィリアム・ラトクリフ》 全3幕(ハイネの戯曲)
 《ムラダ》 (ボロディンらとの合作)第1幕のみ
 《アンジェロ》 全4幕(ユーゴーの戯曲)
 《海賊》 全3幕(ルシュパンの戯曲)
 《サラセン人》 全4幕(デュマの戯曲)
 《ペスト流行時の酒宴》 全1幕(プーシキンの小悲劇)
 《マドモアゼル・フィフィ》 全1幕(モーパッサンの戯曲)
 《マテオ・ファルコーネ》 全1幕(メリメの戯曲)
 《雪の勇士》 全1幕※
 《大尉の娘》 全4幕(プーシキンの小説)
 《赤ずきん》(ペローの童話)※
 《イヴァンのばか》 全3場※
 《長靴をはいた猫》 全3幕(ペローの童話)※

他に未完の作品もあるようですが、上記で全15作。
数だけなら「ロシア最大のオペラ作曲家」であるリムスキー=コルサコフと並びます。
キュイの15作品のうち、子供向けの児童歌劇4作(※印)と、ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、ミンクスとの合作予定で未完に終わった《ムラダ》とを除いた、「一般的な」歌劇としての作品数ならば10になります。

さて、今回リリースされた《ペスト流行時の酒宴》以外のキュイのオペラは聴いたことがありませんから、「どれが最高傑作か」などという話は私には出来ませんが、彼の小伝などで比較的目にするのは《ウィリアム・ラトクリフ》でしょうか。
スターソフもこの歌劇を褒め讃えていたようです。
音楽的な内容についてはもうこれ以上先に進めませんが、ただ、上記の作品目録を眺めているだけでもいろいろと興味が引かれるところがいくつかあります。

まず、「ロシア国民楽派」のキュイは、歌劇の目録を見ても、ロシアの土着的な匂いは希薄であること。
プーシキンの原作も3作ありますが、そのうち《ペスト流行時の酒宴》はイギリスが舞台。
プーシキン以外はフランス系のものが多く、この点は、ボロディンやムソルグスキー、リムスキー=コルサコフとは明らかに異なっています。
これはやはり父親から受け継いだ「血」なのでしょう。

2つ目は「児童歌劇」が4作もあること。
「児童歌劇」なるものがどのようなものか、私は全く知らないのですが、辛辣な批評で名を轟かせたキュイが子供向けの歌劇を書いているなどと聞くと、まるでブラックジョークです。
このジャンルの創作が晩年に集中しているのも何か理由のあることかもしれません。

3つ目は《ムラダ》。
未完となったこの合作による歌劇を後にリムスキー=コルサコフが単独で完成させたことは比較的知られていますが、元の方の《ムラダ》もキュイに割り当てられた第1幕は彼がすでに完成させていたのです。
ということは、《ムラダ》の第1幕に関しては、キュイのものとリムスキー=コルサコフのものとがあるということで、その両者の比較をしてみるのは面白そうです(可能ならば、ですが)。

他には《大尉の娘》。
これは小説(岩波文庫にあり)が面白かったので、音楽作品としてもぜひ聴いてみたいという個人的な期待感からです。
もちろん、他の作品も機会があればぜひ聴いてみたいと思っています。
繊細でエレガントな彼の作風が音楽劇となるとどのように感じるか───物足らないと思うかもしれませんが、他のメンバーのようなアクの強くない音楽も悪くないのではないでしょうか。

***

【注】今回(2020年5月)、改めてキュイの歌劇の録音を調べてみたら、旧ソ連時代(1949年)の録音で《イヴァンのばか》がCD化されていることを知りました!
入手できるかな?


[この記事は「コルシンカの雑記帳」に掲載していたものに加筆修正して再掲しました]

キュイの歌劇(その1)~人物像

2004年09月23日 | 関連人物
ロシアの作曲家ツェーザリ・キュイの歌劇《ペスト流行期の酒宴》のCDが発売されました。

A Feast in Time of Plague (amazon.co.jp)
Andrei Baturkin (baritone)
Alexei Martinov (tenor)
Dmitri Stepanovich (bass)
Ludmila Kuznetsova (mezzo-soprano)
Tatian Sharova (soprano)
Russian State Symphony Orchestra
Valeri Polyansky (conductor)

これはロシア歌劇の愛好者にとっては特筆すべき記念的な出来事なのです。
というのは、キュイの歌劇が完全な形でリリースされたのは、レコード時代も含めておそらく初めてのことだったからです。

ツェザーリ・アントノヴィチ・キュイ(1835-1918)というと、どのような人物像が浮かぶのでしょうか。
一般的にはおおよそ次のようなところでしょう。

 1 ロシア五人組のメンバーの一人
 2 歌曲やピアノ作品などの小品で(多少)知られている
 3 毒舌の批評家

私は4番目として「実は大オペラ作曲家(らしい)」を加えたいのですが、それはさておき、これらの一つひとつを、彼の生い立ちや社会的地位を交えながら検証していくと、彼がいかに複雑で矛盾に満ちた人物であるかということが見えてきます。
その考察は別の機会にするとして、ここでは3つ目の「毒舌の批評家」という点に少々触れておきます。

「もし地獄に音楽院があり、...」と、ラフマニノフの交響曲第1番の初演に対してキュイが寄せた有名な批評があります。
若きラフマニノフをノイローゼに追い込んだ遠因の一つとも言われる曰く付きのものですが、もちろんこれだけではなく、彼が書いた辛辣な、時として仲間からも悪意に満ちているとすら受け取られた批評のおかげで、彼は多くの「敵」を作ってしまったようです。
それが伺える当時のカリカチュア(風刺画)があります。
これがなかなか味わい深い(?)ものなので、ご紹介しておきましょう。

古代ローマの円形闘技場。
皇帝の観覧席に座っているのがキュイその人です。
キュイの名前のフランス語読みセザールCesarは、いうまでもなくカエサルCaesarに語源を持つものであり、音楽論壇におけるこの「独裁者」を古代ローマ皇帝になぞらえているわけです。
そして、試合場からその皇帝キュイに向かって剣を高々と上げて拝謁する4人の剣闘士たち。
古代ローマにおいては、戦いの前に皇帝の面前でこうするのが習わしだったそうですが、よく見るとこの剣闘士たちの出立ちはどこかおかしくて、色々な国の民族衣裳のようなのです(この点に注目)。
さらに剣闘士たちが剣とは反対の手に持っている楯には何やら文字が刻まれています。
実は、これらはそれぞれキュイが作曲した4つのオペラのタイトルとなっているのです。

このカリカチュアは二重の意味でキュイを皮肉っています。
すなわち、この4つのオペラの中で、生き残っていくのは果たしてどれか、時代の試練に耐え後世に伝えられていくほどの「力」のある作品はどれか、という問いかけに加え、さらにあなたのアイデンティティは一体どこの国のものなのか───という、キュイの出自にも関わる、ある意味差別的で陰湿な「仕返し」をもしているわけです。

2番目の意味については少し補足が必要です。
キュイのオペラの作品リストを見ると、ロシア以外の作品を原作としているものが数多くあります。
今回発売された《ペスト流行期の酒宴》も、ロシアの大詩人プーシキンの原作ではありますが、舞台はロシアではありません。
オペラ以外でも、どちらかと言うと上流社会向きのサロン風音楽が多いとされており、「ロシア五人組」「国民楽派」の一人であっても、キュイに限っては他のメンバーほどのロシアの土着性は感じられず、明らかに彼らの中では浮き上がった存在です(その彼が「五人組」の急先鋒として論陣を張るという何たる矛盾!)。
よく指摘されるように父がフランス人、母がリトアニア人であるという複雑な彼の「出自」が、音楽作品にも反映されているということなのでしょう。

話をオペラに戻すと、彼の作品の舞台はロシアだったり、イギリスだったり、フランスだったり、中国だったりと多様なのですが、先ほどの剣闘士たちも実は楯に刻んだオペラの舞台となった国の衣裳を身につけていたわけです。
彼らの中で生き残るのは、どの「国」なのか、すなわち、カリカチュアには帝政ロシアの老臣たるキュイは、何人として振る舞うべきなのかを問いただすという強烈な当てこすりをも織り込んでいるのです。

実はこのカリカチュアには、もう一人の人物が試合の進行を司る役人として剣闘士たちの横に描かれているのですが、残念ながらこの人物が誰なのか私には分かりませんでした。
この人物とキュイだけが、リアルスティックな似顔絵で描き込まれているのです。彼が誰なのか身元が割れれば、さらにこのカリカチュアを面白く見ることが出来るかもしれませんね。



[この記事は「コルシンカの雑記帳」に掲載していたものに加筆修正して再掲しました]