海軍大将コルシンカの航海日誌

ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフについてあれこれ

《ホメロスより》その3~未完の歌劇を想像...できず

2022年01月31日 | カンタータ

未完の歌劇《ナウシカア》

リムスキー=コルサコフの未完の歌劇《ナウシカア》は完成していたらどのような作品になっていたのでしょうか。

それを解き明かす手がかりは、ホメロスの『オデュッセイア』に記されたナウシカアのエピソードがベースになるのはもちろんですが、その他には歌劇の序曲に相当する《ホメロスより》が(結果的に)独立した作品として存在していることくらいでしょうか。

《ホメロスより》ではオデュッセウスのライトモチーフが明確に聞き取れますが、ナウシカアのモチーフも女神レウコテエの登場を描くフルートとクラリネットのソロのメロディーに続く、優しい木管と弦の旋律として登場しているのではと想像をたくましくすることもできましょう。

もしそうであれば、歌劇ではこの二人のライトモチーフが核になっていたに違いありません。

あらすじを想像する

さて原作では、オデュッセウスは漂着したスケリエ島で王女ナウシカアと出会い、王宮でアルキノオス王に故郷への帰還の約束を取り付ける。
オデュッセウスは王をはじめとする島の領主たちから宴会でもてなされ、円盤競技でひと悶着あったのちに、王のとりなしで和解の踊りが演じられる、という具合に話が進んでいくわけです。

そしてオデュッセウスの語る冒険譚。
彼の出まかせのホラ話だったとの説もあるらしいですが、一つ目巨人のキュクロプスや歌う魔女セイレンなどはロシアとは異なるおとぎ話でもありますね。
髪麗しい魔女キルケは、シェマハの女王のように妖艶に描かれたはず。
これらがリムスキー流の音楽で語られたとしたら、どんなにすばらしいことだったでしょう!
そして、何より彼が島から島へと渡る際には「海」が介在しているので、リムスキー=コルサコフ得意の海の描写を盛り込む余地もふんだんにあったわけです。

こうしてみると、まるで《サトコ》を紡彿とさせるような、いかにも「コルサコフ好み」の題材が数多くあって、これらを《セルヴィリア》のように彼が当時興味を持っていた古代音楽の要素で味付けしつつ、3幕か4幕に構成して、完成済みの序曲を頭に付ければ、立派なグランドオペラが一丁上がり!…

と思ったのですが、ふと、あれ?そういえばナウシカアはどうなったの?との疑問に行き当たりました。

ホメロスのナウシカア

改めて『オデュッセイア』を読み直してみると、ナウシカアが登場するのは、洗い場のある海岸でのオデュッセウスとの出会いのほかは、そのきっかけとなった夢の中でアテネのお告げを受ける場面、オデュッセウスを王宮のある町へと導く場面、それ以外には宴会に向かうオデュッセウスに「私を忘れないで」とごく短く別れを告げる場面に限られていました。

この別れもごく短くあっさりしたもので、「私を忘れないで」が例えばオデュッセウスが故郷に向けて島を発つ際に発せられたのであれば(多少陳腐ですが)盛り上がる場面にもなったのでしょうけど、原作ではそれよりもずっと前の段階で言葉ですので、唐突な感じが拭い去れません。

ナウシカアとオデュッセウスとの間にはもう少しやりとりがあったなどというのは、とんだ思い違いでした。二人の出会いが印象的だったので、その後も会話などが交わされたものと勝手に勘違いしていたようです。

それにしても、ナウシカアに対するこの扱いは、話の流れから彼女は用済みになったので、さっさと消し去ったような感じさえあって、ホメロスも少々酷いと思わずにはいられません(笑)。

(後で知ったのですが、バーナード・エヴスリンの書いた『ギリシア神話小事典』では、ナウシカアについて原作にはない話が掲載されているようです。これは彼の創作なのか、何か異稿にでも基づいているのか定かでないですが、宮崎駿は彼の記述したナウシカアに感銘を受けて、風の谷のヒロインを名付けたようです。)

ナウシカアは主人公になれない?

ここで、再度浮かんできた疑問。
この歌劇のタイトルはなぜ《ナウシカア》となっているのでしょう?

二人のやりとりを中心にするならば「オデュッセウスとナウシカア」でも良さそうですが、タイトルから考えるにあくまで主人公はナウシカアのつもりだったようです。もっとも未完の歌劇ですから、最終的に変更されることもあり得たのでしょうけど、ヤストレプツェフ(リムスキー=コルサコフの伝記作家)の記録にも歌劇のタイトルとして「ナウシカア」と記されていることからも、当時このタイトルで構想が練られていたことは間違いないでしょう。

さてこの歌劇がナウシカア個人の物語であるとして、あまりにも尻切れトンボな結末をどうするつもりだつたのでしょうか。
《モーツァルトとサリエリ》や《貴族夫人ヴェラ・シェロガ》のように、ナウシカアのモノローグを主体にした短い作品になった可能性も考えられます。
その場合、「序曲」で登場する3人の女性ソリストと女声合唱を、歌劇でのアテネの声や下女たちに充てれば実用的ともいえますね。

しかし、この構想では前述のようなコルサコフ好みの題材が余計なものになってしまいます。
かといってグランドオペラ風の大作にすると、ナウシカアの物語は埋没してしまいますね….。


放棄された歌劇

未完の歌劇をそれなりに蓋然性があるように《ナウシカア》のあらすじを想像してみたものの、結局のところ決め手にも欠けて、あえなく沈となってしまいました。

リムスキー=コルサコフはナウシカアについて「この主題でホメロスからあまり逸れずに歌劇を書くのは無理」と放棄した理由をヤストレプツェフに語っていたそうですが、台本担当のベルスキー共々、案外前述したようなことを思ってあきらめた可能性も考えられなくもないように思われます。

残念ですが、ないものねだりしても仕方ないですね。
とはいえ、ナウシカアが時代も場所も越えて、宮崎駿のあの素晴らしい物語の主人公として甦ったと考えれば、満たされない心を補って余りあるものではないでしょうかね。


《神の人アレクセイの詩》その4~『カラマーゾフの兄弟』と「自伝」

2022年01月29日 | カンタータ
<アリョーシャと「神の人アレクセイ」>

その2でご紹介した江川卓『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』によると、ドストエフスキーはこの小説の執筆にあたり、巡礼歌の「神の人アレクセイ」や「ラザロの歌」を重要なモチーフとして用いている、との説があるとのことです。これはドストエフスキー研究の第一人者といわれるヴェトロフスカヤの唱えたものだそうで、亀山郁夫『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』(光文社新書)にも同様の言及がありました。

私にこの説の正否はよくわかりませんが、興味深いのは《40のロシア民謡集》には「神の人アレクセイ」「ラザロの歌」の両者とも収録されていることです。
この民謡集が出版されたのは1880年、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の雑誌連載が始まったのが1879年ですから、ドストエフスキーが出版楽譜をきっかけにして小説の構想を練ったということはありません。

しかし、リムスキー=コルサコフがこの民謡集のためにピアノ伴奏を付けたのが1875年ということですから、そのときにはフィリポフにより採取された民謡がある程度の形でまとめられていたと思われ、ということは、何らかの伝手でドストエフスキーがテキストを入手していた可能性もなくはないですね。

リムスキー=コルサコフとドストエフスキーが面会したという記録は特になく、二人に直接的な接点はなかったようですが、「神の人アレクセイ」を通じて両者につながりがあったとすれば興味深いことです。

<「神の人アレクセイ」のテキスト>

ところで、《40のロシア民謡集》にはアレクセイの生涯が実に3ページ分のテキストとして収録されていますが(長い!)、リムスキー=コルサコフのカンタータではアレクセイの物語の冒頭部分を採用したようです。

巡礼歌のアレクセイのテキストについては、ご多分に洩れず多くの異稿が存在するようですが、ネットなどに掲載されているものを見る限り、大きくは「私はローマの都で生まれ…」で始まる「独白系」と、「栄光の都ローマ、栄えある皇帝ホノリウスが統べる….」で始まる「叙述系」の二つがあるようです。

《40のロシア民謡集》やカンタータでは、後者の「叙述系」を採用していますが、両者には分量以外にも、比較可能な冒頭部分でも多少の差異があります。

<リムスキー=コルサコフの自伝でも意識?>

そういえば、リムスキー=コルサコフの自伝『わが音楽生活の年代記』の書き出しは、「私はチフヴィンの町で生まれ….」となっており、これは「神の人アレクセイ」の「独白系」の出だしと同じです。

Я родился в граде Риме,....(巡礼歌「神の人アレクセイ」)
Я родился в городе Тихвине....(リムスキー=コルサコフ『わが音楽人生の年代記』)

単なる偶然の可能性ももちろん高いですが、ひょっとしたら彼もこの有名な巡礼歌の出だしを意識したのかもしれませんね。
リムスキー=コルサコフの有名な自伝は、感情的な要素を排して淡々と事実を書き留めたもの、との印象がありましたが、巡礼歌をなぞって記したものだと思うと、素朴ながらも彩りに満ち溢れた、生き生きとした物語になってくるような気がしてきます。

彼の自伝の評価は従来「その人自身は平静な立場にありながら、周囲にうづまく起伏曲折を客観的に記録」(訳者服部龍太郎の序)と考えられてきましたが(私もそう思っていました)、最近はこれに異を唱える意見もあって、名チェリスト、ロストロポーヴィチによれば、

これは驚くべき稀有な本である。本のタイトルを見ると、過去についての冷静で客観的な語りであるかのように思われる。しかし実際には、リムスキー=コルサコフの『年代記』は出来事の冷静沈着な記録ではまったくない。これはロシア文学の伝統、トルストイやドストエフスキーの伝統に則った精神的自己認識の試みなのである。

とのことです。(高橋健一郎「リムスキー=コルサコフ『我が音楽生活の年代記』~翻訳の試み(1)~」)

この記述を初めて読んだ時にはとても驚いたものですが、リムスキー=コルサコフの自伝の邦訳(2種類あり)は、フランス語の抄訳から翻訳したものなので、残念ながら全文を日本語で読むことはできません。
上で引用させていただいた「翻訳の試み」も(3)までで止まっているようなので、是非とも続きをお願いしたいものです。

《神の人アレクセイの詩》その3~民謡集に採録された巡礼歌

2022年01月24日 | カンタータ

<40のロシア民謡集>

リムスキー=コルサコフの《神の人アレクセイの詩》(カンタータ)の元ネタ探しですが、これはあっさり判明しました。
というのは、彼が《プスコフの娘》第2稿で挿入したこの巡礼歌を「フィリポフの民謡集から採った」と自伝で書き記しているからです。

テルチー・イヴァノヴィチ・フィリポフ(1826-1899)は帝政ロシアの政治家で、リムスキー=コルサコフと交流のあった人物。ついでに書くと死んだムソルグスキーの遺言執行者でもありました。
フィリポフはアマチュア歌手としても知られる一方で、地方の民謡の収集にも熱心に取り組み、彼が採取したメロディにリムスキー=コルサコフがピアノ伴奏を付けて出版されたのが《40のロシア民謡集》(1880年出版)です。

この民謡集はリムスキー=コルサコフの作品リストにも登場するもので、早速調べてみると、案の定「神の人アレクセイ」は「巡礼歌」のカテゴリーに収録されていました。その譜面・テキスト(歌詞)はこちらで確認できます(1番目に収録)。

40 Russian Folksongs (Filippov, Terty) (IMSLP)
https://imslp.org/wiki/40_Russian_Folksongs_(Filippov%2C_Terty)

この民謡集に寄せたフィリポフの序文が次のサイトに掲載されていました。その一節、「民衆の歌は永遠に去り、何世紀にもわたってその霊感を得た歌の無限の循環を生み出した、民衆の崇高で厳格な芸術的気分を復活させる力は自然界にはありません。」は、民謡が失われてしまうかもしれないという当時の危機感をよく表しています。

Т.И. Филиппов Предисловие собирателя песен
http://dugward.ru/library/filippov/filippov_predislovie_sobiratela.html

 

<巡礼歌の再現>

さて民謡集の「神の人アレクセイ」の楽譜は1ページに収まるものでしたので、これをMIDlデータとして入力して再現してみました。

Song of Alexey, the Man of God (from "40 Russian Folksongs")
「神の人アレクセイ」(《40のロシア民謡集》より)MP3ファイル


調性は異なるものの、聞いてみるとまさにカンタータと同じ旋律。
声部は一応2部となっていますが、導入部がソロとなっている他はほとんどがユニゾンで、低部が所々で数音3度とか5度下になるといった素朴な感じです。
これは作曲された音楽作品とは明らかに異質のもので、巡礼歌として歌われていた原型をとどめているようですね。


《神の人アレクセイの詩》その2~歌になった聖人伝説

2022年01月19日 | カンタータ
神の人アレクセイ(アレクシス)とは、4世紀頃にローマで生まれたとされるキリスト教の聖人です。
私は今まで知りませんでしたが、「神の人アレクセイ」の話は仏文学史上わりと有名なものらしく、学術的な研究対象にもなっているようです。
以下にご紹介する書籍では、その伝説の成立過程にも踏み込んで解き明かしています。

「東方の苦行僧、聖アレクシスの変貌」~松原秀一著『異教としてのキリスト教』(平凡社ライブラリー・2001年)


同様の内容はこちらにも掲載されていました。

聖アレクシウスの妻(松原秀一・1967年)慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA)

残念ながらリムスキー=コルサコフの音楽作品としての《神の人アレクセイの詩》に関する日本語文献は見たことがありませんが、聖アレクセイに関してはいろいろなところで言及されているようです。

そのひとつ、江川卓著「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」(新潮選書・1991年)では、「Ⅳ 巡礼歌の旋律」としてまるまる一章を、小説と「神の人アレクセイ」(と「ラザロの歌」)という巡礼歌との関連の考察に充てており、ロシアにおける巡礼や巡礼歌を知るうえで大変参考になります。

それによると、ロシアの貧しい巡礼たちは生活の糧を得るために日本で言う「門付け」のようなことをしていたとのこと。
ロシアで人気のある「神の人アレクセイ」のエピソードを、巡礼たちが屋敷や市場で哀愁を帯びた節回しで語ったのは、聞き手に受け入れやすい(つまり施しを得られやすい)という「実用的な面」もあったのでしょうが、それ以上に彼らは自らをアレクセイになぞらえたいという気持ちも強かったからなのではないでしょうか。

つまり、自分が貧困にあえいでいたり、生まれつきの不具であったとしても、それは「たまたま」であり、むしろ神の試練であって、不幸を嘆くのではなく、すべてを捨てて神に人生をささげた聖アレクセイと同じく信仰の道を歩むべきだという思いです。
彼らは巡礼歌として神の人アレクセイの生涯を歌いながら、そうした思いをかみしめていたとしても不思議ではありませんね。

Русский паломник XIX века(19世紀のロシアの巡礼)
http://palomnic.org/journal/37/istoria/1/
(ロシア語サイトですが写真多数あり)


さて「神の人アレクセイ」の歌の内容ですが、例によって多種多様であって、これも民俗学的な研究対象になるようなもののようですが、ここではリムスキー=コルサコフの作品で用いられている歌詞を訳しておきましょう。
(セゾン・リュスのCDのブックレットの英訳からです)

リムスキー=コルサコフ《神の人アレクセイの詩》作品20

栄えある皇帝ホノリウスの統べる栄光の都ローマに
子のいない貴族ユーフェミアヌスが住んでいた
そして栄えある貴族ユーフェミアヌスは神の教会に入り
涙と公明正大な献身をもって神に祈りをささげた
「主よ、天の王よ、私に子供を、一人の子をお授けください!」
貴族の祈りを神は聞き入れた
そして妻は息子を産んだ、息子を産んだのだ
おさなごは聖なる名前アレクシスで洗礼を受けた
アレクシスが成年になると、親は彼に結婚するよう求めた
親はアレクシスのために若い姫を選び、そして両者を神の教会へと導いた
親が神の教会を立ち去ると、アレクシスは石造りの宮殿に戻った
泣きながら彼は神に祈った「神よ!私に罪をおきせにならないでください」
夜の2時、アレクシスはベッドから起き上がった
「姫よ、私と一緒に起きて、神に祈りましょう」
姫は返事をしなかった、彼の言葉に返事をしなかった
アレクシスは、トルコの土地に向けて、エフレムの街に向けて旅立った
彼はエフレムの街で苦難の道を歩み、主に祈りをささげた


このブックレットの注釈にもありますが、この歌詞はアレクセイが俗世間を捨てて異国で祈りの生活を始めるまでの部分です。
巡礼歌では、この後も延々と話が続いていくのですが、さすがに全部を作品としてまとめるわけにもいかないので、切りのいいところまでとしたのでしょう。

リムスキー=コルサコフの作品とはメロディーも歌詞も違いますが、古儀式派の(?)「神の人アレクセイ」がありましたので、リンクを貼っておきます。これはこれで素朴な感じでいいですね。

Стих об Алексее Человеке Божием "Я родился в граде Риме"
- староверы Орегона

https://www.youtube.com/watch?v=_PDaNxHJfZo

《神の人アレクセイの詩》その1~歌劇からのスピンオフ作品

2022年01月17日 | カンタータ
リムスキー=コルサコフの管弦楽伴奏の合唱曲(カンタータ)《神の人アレクセイの詩》作品20は、長らく「文献上のみ登場」する作品だったのですが、セゾン・リュスというレーベルから彼の「世俗カンタータ集」がCDでリリースされた折に、《ホメロスより》《賢者オレーグ公》《スヴィテジャンカ》とともに収録され、ようやく日の目を見ることとなったものです。

リムスキー=コルサコフ:カンタータ集(モスクワ・アカデミー・オブ・コラール・アート)
https://ml.naxos.jp/album/BC94495
(現在は「ブリリアント・クラッシク」から発売)


《神の人アレクセイの詩》は、もともとは出版されずじまいになった歌劇《プスコフの娘》の第2稿に含まれていたものです。
リムスキー=コルサコフは、《アンタール》などの初期の作品と同様に、自身の処女作となる歌劇も未熟だと考えて改訂を思い立ち、初稿では省略した、ヒロインのオリガの出生の秘密を明かす一節をプロローグとして付け加えるなどの手を施したりしましたが、《神の人アレクセイの詩》もまた、この改訂時に巡礼者の合唱として追加されたものです。

この《プスコフの娘》の改訂に関する一連の経緯については、リムスキー=コルサコフは自伝で詳しく記述しています(1875年ー1876年の章)。
その自伝によれば、巡礼の合唱を付け加える考えはバラキレフによるものだったとのこと。
バラキレフは言い出したら聞かない「困ったちゃん」だったようで、リムスキー=コルサコフは素直にそれに従ったようですが、バラキレフが巡礼の合唱の追加を主張したのは、その場面が修道院の付近での出来事との設定だったこと以外に理由らしい理由もなく、単に彼が宗教的なものを好んだからだろうと冷静に振り返っています。

結局、第2稿となる《プスコフの娘》にも満足しなかったリムスキー=コルサコフは、最終版となった第3稿への改訂の際に付け加えたプロローグも巡礼者の合唱の場面も削除してしまったのですが、巡礼の合唱は《神の人アレクセイの詩》として、母体からスピンオフした作品として生き残ることとなったのです(ちなみにプロローグは歌劇《貴族夫人ヴェラ・シェロガ》となりました)。

歌劇の第2稿からのスピンオフということでは、劇付随音楽としての《プスコフの娘》(序曲と間奏曲)があり、《神の人アレクセイの詩》の旋律は第5曲目の「第4幕への前奏曲」に使用されています。
ついでにですが、歌劇《セルヴィリア》の最後の感動的な合唱曲(クレド)もまた第2稿から採られたものです。
人々がヒロインの死を弔うという点で《プスコフの娘》と共通する要素になっていますね。




モスクワ訪問記──2016年春(目次)

2022年01月10日 | モスクワ巡り
2016年春、モスクワ。
この地での初演から実に100年以上の時を経て上演された、リムスキー=コルサコフの「幻の歌劇」《セルヴィリア》。
リムスキー愛好家を自認する私はなんとしてもこの作品を観たくて、ゴールデンウィークを利用してモスクワヘ4泊の旅行をしました。

主目的はもちろんモスクワ室内音楽劇場での《セルヴィリア》観劇だったのですが、滞在中モスクワをあちこち歩いてみると、案外ぶらぶらするのが楽しい街なんだなということに気付かされました。
2016年はちょうど復活大祭(5月1日)後の光明週間と重なり、長い冬を終えて春を迎えた喜びが街中に満ちあふれているような感じだったのです。



場所にもよるのでしょうけど、大都会でありながら田舎の雰囲気も併せ持つ、ちょっと不思議な感じもあって、これはモスクワの「広い空」がどことなくのんびりした気分に一役買っているのかもしれませんね。

では「大いなる田舎」モスクワのぶらぶら歩きの様子をご紹介していきましょう。




<モスクワ街角点描>
偉人の館
生き残った構成主義建築
犬も歩けば劇場の街
中世をしのばせる教会
グム百貨店
壁面アート
大祖国戦争戦勝記念

<宿泊ほか>
ブダペスト・ホテル(宿泊)
モスクワ巡り摂食事情



<オペラ観劇>
モスクワ・オペレッタ劇場~喜歌劇《こうもり》
ヘリコン・オペラ~歌劇《三つのオレンジへの恋》
モスクワ室内音楽劇場~歌劇《セルヴィリア》

<ミュージアム>
グリンカ中央音楽博物館
チャイコフスキーとモスクワ博物館(3部)
モスクワ・レーリッヒ博物館(2部)


モスクワ街角点描~偉人の館

2022年01月10日 | モスクワ巡り
歴史的に著名な人物の過ごした家を博物館や資料館として整備して公開する例は、ロシアでも数多くあります。

リムスキー=コルサコフで言えば、生活の拠点だったペテルブルクのアパートメント、生まれ故郷チフヴィンにある幼少期を過ごした生家、晩年に購入したリュベンスク・ベチャシャの夏の別荘(ダーチャ)の3箇所が彼の記念博物館として公開されています。
(誰もホメてくれませんが、この“三大聖地”を制覇したのが私のささやかな自慢です)

さて、ここモスクワと言えばチャイコフスキーですね。



チャイコフスキーの博物館としては、彼が晩年に過ごしたモスクワ郊外のクリンの屋敷がよく知られていますが、モスクワにも、その名も「チャイコフスキーとモスクワ博物館」が2007年に開館しました。



当ブログで詳しい訪問記を掲載していますので、ご興味があればご覧ください。


ここからは「外から眺めただけ」になります。
リムスキー=コルサコフと関係のあった人物の博物館に絞って見ていきましょう。

まずはシャリャーピン博物館。



この建物は大通りを挟んで「チャイコフスキーとモスクワ博物館」の対面に所在しています。
シャリャーピンその人については改めて説明するまでもないでしょう。不世出の大オペラ歌手ですね。



リムスキー=コルサコフとも交流があり、彼のオペラでも重要な役を担いましたが、最も有名なのは《プスコフの娘》でのイヴァン雷帝役になりましょうか。
あまり知られていませんがシャリャーピンの自伝には、リムスキー=コルサコフに言及した箇所がいくつかあり、同時代人の証言としても貴重です。
しかも、彼が書いたリムスキー=コルサコフの音楽の素晴らしさについては、これ以上のものはないだろうと思えるほど私は感銘を受けたものでした。ここで少しだけご紹介しておきましょう。

リムスキー=コルサコフの作品にも悲しみはある。しかし奇妙なことには喜びの感情を呼び起こすのである。諸君は彼の悲しみには全然個人的なものがないことに気づかれるであろう。───それは暗い翼をもって地上はるかに飛んでいる。

『キーテジの町』を聞いた人は誰でも、彼の音楽の清澄さ、抒情的迫力に驚かされるにちがいない。私はこのオペラをはじめて聞いたとき、精神的幻影を見て喜びに身震いした。‥‥‥神秘なこの遊星の上で人間が生き、そして死んでゆく。騎士、勇士、国王、皇帝、高僧、無数の人間が住むこの遊星は、しだいに暗黒に蔽われてゆく。やがて暗黒の中ですべての顔は地平線に向かう。彼らは清らかに、信仰に輝く暁の明星を待ち望んでいる。生きる者も死せる者も、名もなき霊感にあふれた祈祷者を誉め讃えて唱和する‥‥‥。
この祈りこそリムスキー=コルサコフの魂の中に住まうものであった。

『シャリアピン自伝~蚤の歌』内山敏・久保和彦訳、共同通信社 FM選書28



続いてはスクリャービン博物館。
観光地としても有名なアルバート通りのすぐ近くにあります。



私は彼の作品をほとんど知らないのですが、全く共通項が無いと思われるスクリャービンとリムスキー=コルサコフには、意外にも接点があったりするのです。
リムスキー=コルサコフを中心とした音楽サークルの作曲家たちの合作による作品がいくつかありますが、弦楽四重奏による《ロシアの主題による変奏曲》にはなんとスクリャービンも名を連ねています。
また二人は「色聴」の持ち主であったことも共通していますね。



陽も出てきて汗ばむ陽気になったのでクワスで一服。アルバート通りの近くのスーパーで買いました。




こちらの木造住宅はオストロフスキー博物館です。
アレクサンドル・オストロフスキーという名前にはあまりなじみが無いかもしれませんが、ロシアではよく知られた劇作家です。
近代演劇の推進者としても知られ、ボリショイ劇場の隣にある演劇専門のマールイ劇場の正面には、彼の功績を記念して石像が置かれています。

チャイコフスキーやリムスキー=コルサコフによって音楽化された『雪娘』の原作は彼の書いた戯曲です、と言えば「ああ、そうなのか」と思われる方もいらっしゃるでしょう。
リムスキー=コルサコフは《雪娘》に大変感銘を受けて(ただし初めは全く理解できなかったそうです)、この作品をオペラ化する際、原作者に許可を得るべくモスクワを訪れ、彼から非常に丁寧な応対を受けたエピソードを自伝に書き記しています。


こちらはレフ・トルストイ博物館。
たまたま通りかかっただけでヘボい写真しか撮りませんでした。



トルストイと言えば故郷ヤースナヤ・ポリャーナが有名ですが、モスクワにも彼の博物館がいくつかあるようです。
これはその一つですが、こことは別のハモブニキという場所にある博物館の方がよく知られているようです。

ハモブニキのトルストイ邸には、リムスキー=コルサコフが夫人とスターソフと一緒に訪れたことがあります。
リムスキー=コルサコフとトルストイは芸術を巡って議論を戦わせましたが、どうやらあまり話が噛み合わず、世紀の対談(?)はお互いにあまりいい印象を持たずに終わったようです。

リムスキー=コルサコフはトルストイの芸術観に不審を抱いたらしく(彼の発言にいろいろと矛盾点を見出したようです)、彼との面会後はトルストイが芸術について述べた本は二度と読みはしないと言ったとか。
対するトルストイはトルストイで、日記に「昨日。スターソフとリムスキー=コルサコフ。コーヒー。芸術について下らない話」と記したそうです。

対談そのものは長時間にわたり、トルストイは帰ろうとしたリムスキー=コルサコフをわざわざ「差しで話がしたい」と引き留めて、結局彼らが辞去できたのは深夜零時半になってから。
帰る際に夫人のナデジュダがすっかり遅くなってしまったことを詫びると、トルストイは「お構いなく。今日は直接<闇>に対面できてうれしかったよ」と謎めいた返答をしたのです。
スターソフはこの発言にぎくりとして、リムスキー=コルサコフのコートを間違えて取って、逃げるように帰ったのだとか。

トルストイの言う<闇>(英訳で「darkness」)が、リムスキー=コルサコフ(の芸術観)の文字どおりの「暗い面」のことを言っているのか、無知蒙昧だと非難しているのかは不明ですが、リムスキー=コルサコフは後日、トルストイのこうした独特の言葉を「金色の板に刻み、さらなる啓蒙のために机の上に置きたい」と皮肉を込めて語ったそうですよ。




最後はプーシキン博物館。
ギリシャ古典建築の意匠を取り入れた立派な建物です。
前述のトルストイ博物館の近くにあります。

ロシアの詩聖とも呼ばれるプーシキンの作品は多くの作曲家によって音楽化されていますが、リムスキー=コルサコフもまた《モーツァルトとサリエリ》《サルタン皇帝の物語》《金鶏》をオペラ化したほか、ロマンスも多く作曲しています。


長々と書いてきましたが、今思い返すと、ちょっとの時間でも中に入って見ておけば...と少々後悔。
まあ、これは次回モスクワ訪問をした時の楽しみに取っておきましょう。

モスクワ街角点描~生き残った構成主義建築

2022年01月04日 | モスクワ巡り

「ロシア構成主義」という言葉をご存じでしょうか?
西洋美術史ではあまり触れられることがない、ロシア革命後のごく短い期間に燃えさかったアヴァンギャルドな芸術運動のことです。

「構成主義」とは、非常に大胆かつ雑に言えば、大衆の身近にある鉄やガラス、木材など、あるいは丸とか三角とか四角といった単純な図形を「構成」することによって、それまでのチャラチャラしたブルジョワ芸術とは一線を画した、民衆革命にふさわしい(と彼らは考えた)芸術手法が発端となっています。
革命によって、それまでの貴族のためのものであった芸術を大衆に取り戻すという思想が根底にあった、と言われれば「なるほど」と思いますね。

さて、この「ロシア構成主義」には絵画、彫刻(らしきもの?)をはじめとして様々な分野またがっていますが、建築の分野でも他には見られない非常にユニークな作品が登場しました。
私の勝手な分類ですが、この建築分野における構成主義には大きく二つの潮流がありました。

一つは「妄想系」。
革命による民衆の熱気をありありと感じさせ、未来社会への希望に満ちあふれているものですが、発想がユニークすぎて現在の眼から見てもぶっ飛んだデザインが特徴です。
ウラジーミル・タトリンによる「第三インターナショナル記念塔」がその代表格で、エル・リシツキーの「雲のあぶみ」やイワン・レオニードフの高層建築物などが知られています。

これらはもちろん実現することなく、スケッチや模型、せいぜいが仮設的な建築にとどまっており、ゆえに「妄想系」となるわけです。

これに対するのは「実在系」。
「妄想系」に対比して、文字どおり実際に建築されたものを指します。

実在する以上は機能的にも常識の範囲になっており、奇抜さや余計な装飾を排したシンプルなデザインです。
直方体やシリンダーなどのシンプルな立体要素を「構成」するデザイン手法という点では「構成主義」たる思想の名残が感じられるものの、今となっては見た日には多少レトロ感のあるモダニズム建築といった風で、インパクトは妄想系には遠く及びません(しかし、現在私たちが街中で見かける見慣れた建築デザイン手法でもあるがゆえに、後世の建築デザインに地味に影響を残したともいえましょうか)。

さて、前置きが長くなりましたが、モスクワの街巡りに戻りましょう。
若い時にかじった構成主義建築のことなど、この時はすっかり忘れていたのですが、街巡り初日に出くわしたのがこれ。



んん―?どこかで見たことがある建物...
視覚情報は結構記憶に残るとみえて、ほどなくロシア構成主義建築の一つ「イズベスチヤ本社」だったことを思い出しました。

実際に建築された実在系構成主義建築も、建築年代が古いので、私はモスクワ・オペレッタ劇場と同じくとうの昔に取り壊されているものと思い込んでいたのですが、今こうやって目の前に「実在」していることにびっくり。

私は写真の右半分の建物部分を年代感あふれる自黒のパースでしか見たことがありませんでしたが、今でも建設当時の姿をとどめています。構成主義建築の傑作ともいわれ、「実在系」では代表選手といってもよいのではないでしょうか。

さらに大通りを歩いて行くと、なにやら建物のてっぺんにオブジェが。



「ややややややや」と椎名誠風に目をこらしてみると、これはあの「第三インターナショナル記念塔」ではないですか!
もちろん、これは本物ではなく、何かオマージュ的なものとして、ビルの頂上に置かれたものでしょう。
よお―く見てみると、この記念塔の特徴でもあるらせん部分が階段になっていて、物見塔のようになっていますね。



本物(?)の大きな模型は、トレチャヨフ美術館の新館で展示されていましたが、写真は撮り損ねました。

ロシア構成主義は皮肉なことに革命後の体制側には受け入れられず、やがては「社会主義リアリズム」が主流になると、構成主義は建築以外の芸術分野でもあだ花のごとく歴史の狭間の中に埋もれていってしまいました。
建築分野では「スターリン様式」なるものに取って替えられ、構成主義建築が表舞台に立ったのは1920年頃からせいぜい20年間のことです。

ちなみに構成主義からスターリン様式への過渡期に登場したのが、「国立レーニン図書館(現ロシア国立図書館)」。



列柱が立ち並び、ファサード上部にギリシャの神殿のごとく彫刻が設置されて、古典的な表現手法への回帰が見て取れて興味深いものがあります。

今回は建築目的の旅行ではなかったので、ぶらぶら歩きの最中にたまたま見つけたものしかご紹介できませんが、教会建築なども含め、モスクワには面白い建築物が多くあります。
モスクワの建築巡りをしようとする際におすすめしたいのがこの本。



シア建築案内 単行本 – 2002/11/1
リシャット ムラギルディン (著), Rishat Mullagildin (原著)



モスクワのみならず、ペテルブルクやその他の主要都市に存する建築物をこれでもかと紹介してくれる本です。
正直、どのような需要層に応えようとしたのか謎ですが、建築好きであればこの本を手にロシアの街歩きをしても楽しめるのではないかと思います。