海軍大将コルシンカの航海日誌

ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフについてあれこれ

必殺技「雪娘」!?

2007年12月31日 | 与太話
ウルトラマンなら「スペシウム光線」、マジンガーZなら「光子力ビーム」。
ヒーローがくり出す必殺技にガキの頃の私は熱狂したものです。
なぜ最初からこれらの技を出さないのかは永遠の謎ですが、これだけヒーローものが氾濫してくると、技の名前を考えるのも一苦労なのでしょうね。

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人気アニメ『サクラ対戦』の中で、「スネグーラチカ」という必殺技が出てくるのだそうです(!)。

「スネグーラチカ」というのはロシア語で、日本語では「雪娘」と訳されています。
ロシアの民話に登場するキャラクターの一つで、リムスキー=コルサコフに同名のオペラがありますね。
同じ題材のチャイコフスキーの音楽も知られています。

ところで、この必殺技を名付けた方はロシア語やロシア・オペラにかなり詳しい方であると推察されます。
「スネグーラチカ」とちゃんとアクセントのある部分を間違えずにのばしていますし(×スネグローチカ)、アクセントのない「o」(オー)の発音は「a」とするなど、こだわりも相当なものです。
また、「ピーカヴァヤ・ダーマ」という技もあるようで、これはチャイコフスキーの有名なオペラ《スペードの女王》のことですね。

これを応用すると他にもいろいろな技が作れそうです。


マイスカヤ・ノーチ!」(=五月の夜)

これなんて必殺技らしく、語感も爽やかで上等です。

 
ザラトイ・ペトュショーク!」(=金鶏)

このように叫べば、得体の知れない殺人光線を発射するときなどに最適です。


しかし何といってもとどめを刺すならば、

スカースカ・オ・ツァーレ・サルターネ・イ・スィネ・イエヴォ・スラヴノム・イ・マグーチェム・ボガティレ・グヴィドーネ・サルタノヴィーチェ・イ・オ・プレクラスナイ・ツァーレヴネ・レーベジ!!!」(=皇帝サルタンとその息子の栄えあるたくましい勇者グヴィドン・サルタノヴィチ王子と美しい白鳥の王女の物語)

 
途中で言い間違える可能性が濃厚であるという欠点はあるものの、その圧倒的なヴォリューム感はかの「魁!!男塾」や「ドラゴンボール」に登場する変態技に匹敵する究極奥義といってもいいでしょう。

いずれもリムスキー=コルサコフのオペラの題名ですが、ご検討していただければと思います(アクセントが違うとか細かいことは気にしないでください汗)。



[この記事は「リムスキーダイスキー」に掲載していたものに加筆修正して再掲しました]

ある日のリムスキー教授

2007年12月31日 | 与太話
かつてセガが販売したドリームキャストという家庭ゲーム機のCMで、自社製品を自虐的に取り扱ったことで話題となりましたが、それに登場していたのが湯川専務なる実在のキャラ。
「セガなんてだっせ~よな」「プレステのほうが面白いよな」という街の子供たちの声を聞いたのが、湯川専務でなくリムスキー=コルサコフ教授だったら...と考えたのが、このパロディです。

***

【ナレーション】
その日、ペテルブルク音楽院教授ニコライ・リムスキー=コルサコフは、驚くべき街の声を耳にした。

(子供二人が話している)
「国民楽派なんてダッセぇよなあ」
「スクリャービンの方が面白いよなあ」

(音楽院の一室)
「そうなのか!?」

(目をそらしたまま黙り込んでいるグラズノフとリャードフ)
「なんてこった...」

(辻馬車の中)
「止めてくれ...一人になりたいんだ...」

(千鳥足で帰途につくリムスキー教授)
「う~い...」

(昼間の光景が思い出される)
....国民楽派なんてダッセぇよなあ...
「ちくしょう!」

(すれ違い様にチンピラ風の男とぶつかる)
「痛いな、オッチャン!」[特別出演:アントン・ルビンシュテイン]
「うるさい!」
「ごめんなさいやろぉ!」

(ボコボコにされる老教授)

(ザゴロドヌイ通りのアパート。妻ナデジュダが笑顔で出迎える)
「お帰りなさ...!どうなさったの!?」
「あたたた....」

(玄関に倒れ込む)

【ナレーション】
立つんだ!教授!頑張れ!国民楽派!

***

今読み返してみると馬鹿丸出しですが、プロコフィエフのような悪童を生徒に持ったリムスキー=コルサコフの晩年の境地は、本当にこうだったかもしれないなと思えるところが、実は気に入っていたりします。


[この記事は「リムスキーダイスキー」に掲載していたものに加筆修正して再掲しました]

ムソルグスキーさん死去 42歳

2007年12月31日 | 与太話
ムソルグスキーのニセ訃報記事。
横山やすしの死去(1996年)を報じた新聞記事をパクったのものですが、横山やすしと西川きよしの関係は実にムソルグスキーとリムスキー=コルサコフの関係を彷彿とさせるものがあります。

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■ムソリムコンビ、波乱の音楽人生

ペテルブルクの楽壇にムソリム時代を築いた作曲家でピアニストのムソルグスキー(本名モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキー)さんが28日、陸軍病院で死去した。42歳だった。プスコフ県出身。告別式の日取りなどは未定。

1839年3月28日、プスコフ県カレヴォ村生まれ。近衛士官学校時代作曲した「騎士のポルカ」で才能を認められ、ブレオブラジェンスキー近衛連隊に入隊してからは陸軍軍医だったボロディンさんと知己となり、ダルゴムイシスキーのサロンに出入りするなど音楽活動を深めていった。独特の音楽表現で当時から天才作曲家と、その将来を嘱望された。

その後、バラキレフさん(前無料音楽学校校長)のグループに入り、71年には現ペテルブルク音楽院教授のリムスキー=コルサコフさんと共同生活を送るに至った。きまじめで誠実な芸風のリムスキー=コルサコフさんと、無鉄砲でやんちゃなムソルグスキーさんは絶妙のコンビぶりで、国民楽派の看板として舞台やサロンで華やかに活躍、ペテルブルクの楽壇にムソリム時代を築いた。代表作に「展覧会の絵」「ボリス・ゴドゥノフ」など。

新たなる岸辺への発言や強烈な個性は、作曲家としてだけではなく、各地の演奏会でのピアノ伴奏者としても重宝された。

私生活は破滅型で、大好きだった酒の上でのトラブルも多く、75年頃からは仲間のグループからも離れていき、酒浸りの生活を送るようになったといわれている。また74年には「ボリス」が帝室マリインスキー劇場にかけられたが、その後取り組んだ「ホヴァンシチナ」などの多くの作品は完成することなく残されることとなった。

【民衆描写の天才... 】

リムスキー=コルサコフさんの話 「つい先日病院を見舞ったときは、酒をやめて、リハビリをして一日も早く社会復帰ができるようにと話したばかり。それだけに残念で...。長い間、一緒に仕事をさせていただきましたが、最初の民衆描写の作曲家。歌劇に関しては天才でした」

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実際の新聞記事の固有名詞などを取り替えるだけで、ムソルグスキーとリムスキーの関係がそのまま表されているのには、偶然かもしれませんが少々びっくりしてしまいました。

それにしても彼らの関係はやすきよに本当によく似ています。
仲が良かった2人が性格(芸術性?)の違いから疎遠になっていった点。

片や典型的な天才破滅型人生で、飲酒が原因となって仲間と乖離していき、そして死んだ点。
片や生き残った方も、社会的ステイタスを築きながらも「生きているときになぜ助けなかった」と批判されている点...。

「やすきよ」リバイバルみたいな番組を見ながら思いました。


[この記事は「リムスキーダイスキー」に掲載していたものに加筆修正して再掲しました]

巴里の吉牛のリムスキー

2007年12月31日 | 与太話
今更ですが、2000年代はじめに「2ちゃんねる」で流行った吉牛ネタ。「吉野家コピペ」というらしいですね。
私も便乗して老リムスキー=コルサコフのぼやき、という設定で考えてみたものです。
あ、別にチャイコフスキーやスクリャービンをけなすつもりは毛頭ございませんからね。あくまでネタです。念のため。

***

昨日、巴里の劇場行ったんです。劇場。
そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで座れないんです。
で、よく見たらなんか垂れ幕下がってて、<ディアギレフ特別興行>、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、ディアギレフの公演如きで普段来てない劇場に来てんじゃねーよ、ボケが。
客寄せ興行だよ、客寄せ。
なんか親子連れとかもいるし。一家4人で劇場か。おめでてーな。
よーしパパ、カルサーヴィナのおみ足見ちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、150フランやるからその席空けろと。
劇場ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
Uの字型ホールに座った奴といつ喧嘩が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。
で、やっと座れたかと思ったら、隣の奴が、チャイコフスキーはないのか、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、チャイコフスキーなんて巴里では流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、チャイコフスキー、だ。
お前は本当にチャイコフスキーを聴きたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、チャイコフスキーって言いたいだけちゃうんかと。
ロシア音楽の大御所の俺から言わせてもらえば今、ロシア音楽通の間での最新流行はやっぱり、
スクリャービン、これだね。
オール・スクリャービン・プログラム。これが通の聴き方。
スクリャービンってのは光が多めに入ってる。そん代わり音が少なめ。これ。
で、それに退廃的な官能性。これ最強。
しかしこれを聴くと次から「好きになってしまうかもしれない」という危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らド素人は、漏れの《サトコ》でも聴いてなさいってこった

***

「漏れ」なんて言い方に時代を感じます。今なら「ワイ」ですかね。
馬鹿さ加減では「ある日のリムスキー教授」といい勝負ですが、こちらの吉牛も「さもありなん」という点が好きだったりします。


[この記事は「リムスキーダイスキー」に掲載していたものに加筆修正して再掲しました]

俳句に登場したリムスキー=コルサコフ

2007年12月31日 | R=コルサコフ
俳句と音楽...?の関係って何でしょう。
和歌を歌詞にした歌曲はショスタコーヴィチやストラヴィンスキー、イッポリトフ=イワノフなどが作曲しているようですが、俳句を題材にした作品もあるのでしょうかね。
ところで、リムスキー=コルサコフが俳句に登場しているとのことで、ちょっと調べてみました。

***

まずは件の句をご紹介しましょう。

リムスキー・コルサコフ青林檎雨弾き   加藤楸邨

私は俳句には全く疎いのですが、このあまり関連のないと思われる分野にリムスキー=コルサコフの名前が登場しているのは、意外であると同時に一ファンとしてうれしくもありますね。
私が俳諧に疎いとはいってもこの句が五・七・五調ではないことくらいは分かりますが、さて、この俳句の意味するところや、どのような評価がなされているのかについては全くお手上げです。

ということで、この句を「味わう」というレベルには全然ありませんが、判明しているところだけを簡単に記しておきます。

・句集『起伏』より。昭和24年7月刊。この時期楸邨は病を患い療養中であったという。
・季語は「青林檎」で、季節は夏。
・戦後間もないこの時期は、リムスキー=コルサコフの自伝や教科書が現在とは違って市中によく出回っていたようである。当時日本で作曲を志していた人は、たいてい彼の教科書にお世話になっているはず。

今わかっているのはこの程度の事柄です。さて、句中の「リムスキー・コルサコフ」とは自伝などからうかがえる彼の生き様のことなのか、彼の曲を指しているのか。曲とすれば、どの曲なのか。なぜ「青林檎」なのか、なぜ「雨弾き」なのか....。

山里での療養。梅雨空。薄暗い部屋。
開け放した縁側の戸の向こうだけが明るく、雨に打たれる林檎の木が見える。
まだ青い実が雨を弾いている。
何もかも暗く重い中でこの青い果実だけが生命力がみなぎっている。
雨音に混じって聞こえてくるのはリムスキー=コルサコフの曲。
幾多の困難を不屈の精神力で乗り切った人物。彼の作品もまた永遠の生命を持つ。
かたや私は───
私の作品は───
....

私の勝手な解釈を書きました(こんなに暗いものではないかも)。

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このページをご覧になられた方から「短歌にも出てますよ」と教えていただきました。
ここでお礼を申し上げるとともに、みなさんにご紹介します。

牛舎のスピーカーよりリムスキー・コルサコフきかすよき乳垂れと
小池光歌集『草の庭』(砂子屋書房)

よいお乳を出してもらうために、牛にリムスキー=コルサコフを聞かせるというのです。
実際にそういうことしていた牛舎があったのでしょうかね。
もしそうならば何を聞かせていたのか非常に気になるところ。
なんとなく歌劇《サトコ》の「インド人の歌」かなあ、などと思うのですがどうでしょうか。



[この記事は「リムスキーダイスキー」に掲載していたものに加筆修正して再掲しました]