海軍大将コルシンカの航海日誌

ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフについてあれこれ

金須嘉之進「ペトログラード音楽院時代の憶ひ出」(その3)

2019年07月13日 | 関連人物
金須嘉之進の写真を見つけました。
掲載されているブログによると、明治43年に発行された全国の音楽家の写真帖とのこと。

蔵書目録 『楽のかゞみ』 松本楽器合資会社 (1910.1)
金須(中央)は立派な口ひげを蓄えたインテリ風のイケメンです。


金須の留学先の「帝室附カペーラ声楽院」、現在の「サンクト・ ペテルブルグ国立アカデミーカペラ」の建物はこんな感じ。
建築物としても美しく、コンサートもやっているようなので、もしペテルブルクに行く機会があればぜひ訪れてみたい場所です。

Государственная академическая капелла Санкт-Петербурга(ロシア語版ウィキペディアより)

金須の下宿先は「町の真中の東宮々殿の近くのイタリヤ町やカラワン町に三四年居ました」とのことですが、ペテルブルクのどのあたりになるのかは私にはよくわからず不明。
留学先の学業がどのようなものであったかについては、実は寄稿の中でそれほど触れられているわけではなく、主には(その1)で紹介した声楽院の要人を述べたくだりの前に次のような記述があるだけです。

音楽の大講堂には玉座もあり、立派なものでした。其の附属として理論科と称せらるゝ處に三年程度、次で研究科二年もあつたが、それも一人二人くらいのもので大抵三年で終り、免状を受け、教師の資格を得る師範科の如き仕組の處に居たのですから理論及和声学、歴史、ピアノ、ヴァイオリン、ソルフェジオ、唱歌又唱歌團式や、教会歌曲の編曲等、毎日学びました。


金須によれば、日本はロシアの何県にあるのかとか、支那の属国と思われていたりと、ありがちな誤解を受けたこともあったようですが、「何処でも割合に皆日本人は好く受け入れられて居た」とあり、湖南事件(大津事件)のことも一度も聞かれなかったといいます。

他に興味を惹かれる内容としては、チャイコフスキーの葬儀に関する次の記事です。

チャイコフスキーの葬送の日も居ました。往来で見ました。盛大であつたと申すより他無之(これなし)、彼人は露国当時の国教の正教派の信仰の人ではなかつた、勿論ポーランド系のロマ教でした。


ところで、金須の寄稿が掲載されたこの「月刊楽譜」という雑誌、今でいうと「音楽現代」のようなもので、巻頭にはモノクロながらグラビアもあり、古い仮名遣いや字体、レトロなフォントなどを除けば、内容は現代の音楽雑誌の内容とそんなに変わらない感じがします。

シャリアピンの特集記事がありましたが、やはり当時の大人気歌手だった故でしょうか。あと、日本大学芸術学園音楽科の学生募集の広告に「特典…徴兵延期」などとあり、ここらへんはやはり時代を感じさせますね。


金須嘉之進「ペトログラード音楽院時代の憶ひ出」(その2)

2019年07月11日 | 関連人物
(その1)の記事で触れた青森中央学院大学研究紀要の「金須嘉之進と『帝室附カペーラ声楽院』: 東北地方におけるキリスト教受容に関連して」という論文について、どうやったら入手できるかなどと思案していたら、なんのことはない、ネットで閲覧することができました。



この手の論文を手に入れるためには、いろいろと面倒な手続きが必要と思い込んでいたので、こうも気前よくネット上で閲覧に供してもらえるのは、少々拍子抜けの感がありましたが、実にありがたいことです。

さてこの論文では、「金須の留学に関するロシア語文献資料の紹介を目的とする。最初に日本への洋楽導入とそれにおけるハリストス正教の位置付け、またハリストス正教が東北地方から受け入れられていった経緯も簡潔に述べた上で、ウエブ上に掲載された『帝室附カペーラ声楽院』のロシア語文献を抜粋・翻訳する形で紹介」し、特に「金須の留学先であるペテルブルグの『帝室附カペーラ声楽院』、現在の『サンクト・ ペテルブルグ国立アカデミーカペラ』について、金須の留学当時の様子も含めて紹介」するとしています。

(その1)で触れた、金須の留学先は「ペテルブルク音楽院ではないのではないか」との問題はやはり本論文でも指摘されていましたが、残念ながら金須の寄稿での自己申告以外の直接的な証拠、つまり声楽院の卒業証書や名簿などの一次資料的なものから確認されたものではありませんでした。確認できればすっきりするのですが、これは後進研究にゆだねられた格好です。

一方、私がこだわる金須からみたリムスキー=コルサコフの人物像も本論文からは得られませんでしたが、その代わりに金須が留学先の声楽院でどのような音楽教育を受けていたのかを解き明かす過程で、リムスキーが声楽院で行った改革が浮かび上がるものとなっており、こちらは大いに参考になりました。

その改革とは、端的に言うと訓練された職業音楽家による専門知識や技術の習得の徹底であり、そのためにリムスキー自身も後にリャードフやソコロフなど、いわゆるベリャーエフ・グループの作曲家として知られる仲間たちも声楽院に招聘したようです。

1883年にリムスキー=コルサコフがバラキレフに誘われる形で、声楽院で教鞭をとることになった経緯などについては、有名な彼の自伝においてやや詳しく言及されていますが、邦訳ではその部分は省略されている(種本の仏訳自体が抄訳のため)こともあってか、ここでのリムスキーの活動はあまり知られていないように思います。

リムスキー=コルサコフはペテルブルク音楽院教授としての業績があまりにも大きかったので、その陰に覆い隠されてしまっているきらいもありますが、彼は声楽院においても、カリキュラムの改革のみならず、和声学の教科書の執筆や聖歌の編曲などといった重要な成果を残しており、彼の音楽人生を考える際に決して無視できるものではありません。

更に言えば、彼と宗教(ロシア正教)の関わり、特にロシア聖歌が彼の作品に与えた影響を考える上でも、声楽院での活動は何等かの手がかりを含んでいるものと思われ、今後掘り下げてみたいテーマの一つとして調べていきたいと思います。
(作曲家と宗教性について論じられるとき、どういうわけかリムスキーはしばしば無神論者の代表として登場しますが、根拠ははっきりしないようです。)

金須嘉之進「ペトログラード音楽院時代の憶ひ出」(その1)

2019年07月07日 | 関連人物
数多いるリムスキー=コルサコフの弟子の中にあって、日本人として唯一名前が挙がるのが、金須嘉之進(きす よしのしん、1867~1951)です。
リムスキーの弟子にはロシア人だけでなく、レスピーギのような外国人も含まれていますが、その中に日本人もいたというのは驚くべきことではないでしょうか。

明治時代にはるばるペテルブルクまで渡り、音楽を学んだ日本人がいたというだけでも感慨深いものがありますが、ましてやリムスキー=コルサコフの教えを受けたというのであれば、同胞人の目からみたリムスキー像がどのようなものだったのか、大いに興味を惹かれるところです。

その金須に関しては、『ウィキペディア(Wikipedia)』に短い記事があります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/金須嘉之進

金須については以前から関心を持っていたのですが、彼の名前はネットなどで散見されるものの、まとまった情報としては見当たらず、詳しい記録は彼の出身地で、特にゆかりのある仙台の正教会にでも出向けば、ひょっとしたらあるのではないかとも考えていたのですが、さすがにそこまで探求する熱意もなく、ほったらかしのままになっていたのです。

そうした中、昭和9年刊の「月刊楽譜」という雑誌に、金須の「ペトログラード音楽院時代の憶ひ出」と題する記事か掲載されていることを知り(国会図書館にも蔵書されているようです)、さらに先日ネットで古書として売り出されていたのを知ったので、少々値段は張ったのですが思い切って購入してみました。




本が届けられてさっそくページを開いてみましたが、結論から書くと、残念ながらリムスキーの名はかろうじて一箇所出てきただけで、私の知りたかったリムスキーの人物像には全く言及されておらず、期待はずれに終わってしまいました。

ちなみに本記事(全3ページ)におけるリムスキーの登場箇所はつぎのとおりです。(かっこ内は私の追記で、旧字体は一部新字体に改めています。)

和声楽は、其の大家アレクサンドル・ニコライウィチ・ソコロフ師に附きました。其の当時カペーラの総長(は)セレメティフ伯(、)院長(は)バラキレフでしたが、重に(主に?)リームスキイコルサコフ副院長叉後にリャプノフが監督して居ました。リヤドフも居ました。[中略]当時の偉人の風貌に接しただけでそれぞれの作物を研究した訳でもなく毎日こつこつ自分の勉強を為して来た丈けです。





この書きぶりからすると、リムスキーの「弟子」とはいうものの、どちらかといえば「自分が学んだ学校にはそういう有名な先生方がいて...」という程度の印象しか伝わって来ず、ストラヴィンスキーやプロコフィエフが自伝で残したような師リムスキー=コルサコフの様子はうかがい知ることが出来ません。

ついでながら、金須の経歴として「リムスキー=コルサコフが教授を務めるペテルブルク音楽院に留学、リムスキー=コルサコフに師事」(ウィキペディア※)などと書かれますが、本記事には「私の通学していた帝室附カペーラ声楽院」とはっきり書かれており、彼はペテルブルク(ペトログラード)音楽院で学んでいたわけではないと思われます。

※ 現在は「リムスキー=コルサコフが副院長を務めるサンクトペテルブルクの帝室附カペーラ声楽院(Императорская Придворная певческая капелла)に留学」と書き改められていました(2021.3.24)。

この「帝室附カペーラ声楽院」ですが、金須の時代は「Императорская придворная певческая капелла」と称されていたようで、金須の記した「帝室附カペーラ声楽院」がその訳として適切であるように思われます。
しかし、現代の日本語文献では「宮廷合唱団」「宗務局(宮廷礼拝堂)」「帝室礼拝堂」などと様々で、定訳が無く混乱してしまいます。

どうやら「капелла」の英訳が「Chapel」とされていることから、この施設も「礼拝堂」などと訳されてしまったようなのですが、建物を見る限り(礼拝堂のような機能が一部にあったにせよ)全体が宗教的施設というものでもないので、少なくとも「礼拝堂」だけを訳を当てはめてしまうのはふさわしくないように思います。
ただ「капелла」という言葉は、ロシア語では「礼拝堂」のほか「合唱隊」「音楽隊」とかなり多様な意味を持つようで、訳し方に困ってしまうのも事実。
このペテルブルクの施設については、合唱隊や音楽隊を擁し、合唱を中心としつつも音楽理論から器楽演奏までを習得させ、専門の音楽家を養成するための総合的な音楽学校という意味合いで「капелла」と呼称されていたようで、現在でもこの施設の裏手の出入り口には「капелла」とだけ記された縦看板が設置されています。

ところでこの声楽院、日本ではなじみがありませんが、1479年に創立起源をもつ由緒あるもの。1862年創設のペテルブルク音楽院よりもずっと古い歴史を有しています。
もともとは皇帝一族の礼拝時の合唱隊を養成するための機関だったようですが、次第に活動の幅を広げ、やがて合唱にとどまらずオーケストラなども擁するようになったようです。

ГОСУДАРСТВЕННАЯ АКАДЕМИЧЕСКАЯ КАПЕЛЛА

金須がペテルブルクに留学したのはロシア正教会の伝手だったことを考えると、正教つながりで「帝室附カペーラ声楽院」に留学したというのがごく自然のことと思われます。
もしこれが正しいとすると、「ペテルブルク音楽院で学んだ」との誤った情報が流布されてしまっていることになりますが、(今でもそうですが)「ペテルブルク音楽院」と「帝室附カペーラ声楽院」の区別がはっきりとつかず、両者が同じものか、一方が他方の付属学校程度に誤解されてしまっているのかもしれませんね。

そもそも今回ご紹介した金須の寄稿した記事自体に「ペトログラード音楽院時代の憶ひ出」などと間違ったタイトルがつけられていて、これが誤解に一役買っている可能性がありますが、これは金須ではなく雑誌編集者のミスでしょう。後で訂正記事でも出されたかも。

(青森中央学院大学研究紀要に「金須嘉之進と『帝室附カペーラ声楽院』: 東北地方におけるキリスト教受容に関連して」という論文があり、同様の指摘がされていました。その内容は(その2)にて)

なお、リムスキー=コルサコフはペテルブルク音楽院の教授を務める一方で、帝室附カペーラ声楽院でもバラキレフの助手として教鞭をとっていたことがあり(1883~1894)、金須が声楽院でリムスキーに師事したこと自体には矛盾がありません。


以上は断片情報を素にした私の推測ですので、間違っている可能性もありますが、何よりも金須とリムスキー=コルサコフの関係は少しでも知りたいと思っており、引き続きテーマとして持っておこうと思います。