海軍大将コルシンカの航海日誌

ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフについてあれこれ

《神の人アレクセイの詩》その4~『カラマーゾフの兄弟』と「自伝」

2022年01月29日 | カンタータ
<アリョーシャと「神の人アレクセイ」>

その2でご紹介した江川卓『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』によると、ドストエフスキーはこの小説の執筆にあたり、巡礼歌の「神の人アレクセイ」や「ラザロの歌」を重要なモチーフとして用いている、との説があるとのことです。これはドストエフスキー研究の第一人者といわれるヴェトロフスカヤの唱えたものだそうで、亀山郁夫『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』(光文社新書)にも同様の言及がありました。

私にこの説の正否はよくわかりませんが、興味深いのは《40のロシア民謡集》には「神の人アレクセイ」「ラザロの歌」の両者とも収録されていることです。
この民謡集が出版されたのは1880年、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の雑誌連載が始まったのが1879年ですから、ドストエフスキーが出版楽譜をきっかけにして小説の構想を練ったということはありません。

しかし、リムスキー=コルサコフがこの民謡集のためにピアノ伴奏を付けたのが1875年ということですから、そのときにはフィリポフにより採取された民謡がある程度の形でまとめられていたと思われ、ということは、何らかの伝手でドストエフスキーがテキストを入手していた可能性もなくはないですね。

リムスキー=コルサコフとドストエフスキーが面会したという記録は特になく、二人に直接的な接点はなかったようですが、「神の人アレクセイ」を通じて両者につながりがあったとすれば興味深いことです。

<「神の人アレクセイ」のテキスト>

ところで、《40のロシア民謡集》にはアレクセイの生涯が実に3ページ分のテキストとして収録されていますが(長い!)、リムスキー=コルサコフのカンタータではアレクセイの物語の冒頭部分を採用したようです。

巡礼歌のアレクセイのテキストについては、ご多分に洩れず多くの異稿が存在するようですが、ネットなどに掲載されているものを見る限り、大きくは「私はローマの都で生まれ…」で始まる「独白系」と、「栄光の都ローマ、栄えある皇帝ホノリウスが統べる….」で始まる「叙述系」の二つがあるようです。

《40のロシア民謡集》やカンタータでは、後者の「叙述系」を採用していますが、両者には分量以外にも、比較可能な冒頭部分でも多少の差異があります。

<リムスキー=コルサコフの自伝でも意識?>

そういえば、リムスキー=コルサコフの自伝『わが音楽生活の年代記』の書き出しは、「私はチフヴィンの町で生まれ….」となっており、これは「神の人アレクセイ」の「独白系」の出だしと同じです。

Я родился в граде Риме,....(巡礼歌「神の人アレクセイ」)
Я родился в городе Тихвине....(リムスキー=コルサコフ『わが音楽人生の年代記』)

単なる偶然の可能性ももちろん高いですが、ひょっとしたら彼もこの有名な巡礼歌の出だしを意識したのかもしれませんね。
リムスキー=コルサコフの有名な自伝は、感情的な要素を排して淡々と事実を書き留めたもの、との印象がありましたが、巡礼歌をなぞって記したものだと思うと、素朴ながらも彩りに満ち溢れた、生き生きとした物語になってくるような気がしてきます。

彼の自伝の評価は従来「その人自身は平静な立場にありながら、周囲にうづまく起伏曲折を客観的に記録」(訳者服部龍太郎の序)と考えられてきましたが(私もそう思っていました)、最近はこれに異を唱える意見もあって、名チェリスト、ロストロポーヴィチによれば、

これは驚くべき稀有な本である。本のタイトルを見ると、過去についての冷静で客観的な語りであるかのように思われる。しかし実際には、リムスキー=コルサコフの『年代記』は出来事の冷静沈着な記録ではまったくない。これはロシア文学の伝統、トルストイやドストエフスキーの伝統に則った精神的自己認識の試みなのである。

とのことです。(高橋健一郎「リムスキー=コルサコフ『我が音楽生活の年代記』~翻訳の試み(1)~」)

この記述を初めて読んだ時にはとても驚いたものですが、リムスキー=コルサコフの自伝の邦訳(2種類あり)は、フランス語の抄訳から翻訳したものなので、残念ながら全文を日本語で読むことはできません。
上で引用させていただいた「翻訳の試み」も(3)までで止まっているようなので、是非とも続きをお願いしたいものです。

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