地球の裏からまじめな話~頑張れ日本

地球の裏から日本頑張れ!の応援BLOGです。
証券関係の話題について、証券マンとしての意見を述べていきます

議論しましょう

2006-02-20 07:06:48 | マスコミ、企業
先日の「J-COM、その後」の拙記事にて、日経の太田氏のコラムを引用させて頂き、私はそれを誉めたのであるが、それに対して反論をコメント欄に頂いた。
私はそういうコメントを非常に頼もしいと思い、敢えてここに引用させて頂いて、それに対する私の意見を述べさせていただこうと思う。

『失礼ですが私には正直引用元の方の記事のどこが素晴らしいのかさっぱり分かりません。
この方の言ってることは要するに、「法律で決められた範囲なら何をやってもいい」ということですよね。
法律・ルールと云うのは、まず現実社会に守るべき倫理や規範、達成すべき目的があり、それに沿うように制定する「手段」です。
だがこの方は「法律で規定したことが万能であり、優先する」という、本質を履き違えた誤った認識を持っているように思えます。
また『ライバル会社の利益で』とありますが、これも摩り替えですね。
みずほと東証の不手際が無ければ元々発生しなかった利益です。
正しくは『ライバル会社(=みずほ一社)の損害で』でしょう。
私には、日経の浅さをまた感じさせられるコラムです。
そうそう蛇足ですが念のため。
法律なんて一部の人間が自分に都合のいいように恣意的に作ることも出来るものです。
普段一般マスコミのことは散々疑っておられながら、法律と日経は疑われないとは何とも不思議です。』

このコメントはじぇい様から頂いた。
確かに氏のおっしゃることは最もである。
しかしながら私の言いたいのは、そうはおっしゃっても、現実世界は法律で動いている、と言う事です。
もちろん社会一般においては、例えば法を犯しても、情状酌量の余地があるケースもあります。
しかしながら、(一部の特殊な事例を除いて)市場のルールと言うのは法が絶対の世界なのです。どんなにそれに情状酌量の余地があっても、法を犯していれば必ずと言っていいほどそれに基づいて罰せられると考えるのが市場参加者です。
結局私はそこに『人命』が関わってこないからかなぁ、と思っています。
上で括弧書きで、一部を除いて、と申し上げた意味は昨今の状況をお考えになればお分かりになるかと思います。

今回のこのJ-COMの問題は損失額がとてつもなく大きかったために、世の中を騒がせましたが、証券会社にはこのミニチュア版の誤発注と言うのは本当に日常茶飯事で起きて居ます。売り買いチョンボ、株数間違え、指値であるはずを成り行きで発注しちゃった、その他諸々です。
この問題は、言ってみれば規模が大きかっただけに過ぎず、という事は我々の眼からすれば、それじゃあ規模が大きけりゃみんな救済してくれるのですか?と言うことになってしまいかねないのですね。
おっしゃる通り法律ってのは絶対では無いと私も思います。しかしながらこの一瞬を争う市場においては法律と言うルールが無ければ成り立たない部分があると思っております。
自分が死ぬか相手が死ぬか、と言う選択を常に迫られているのが、市場だと私は考えます。従って、これも言い方は悪いですが、間違える方が悪いのですね。
そういう大前提に立っていることは、恐らく市場参加者全てが承知しているはずです。
仮に個人のネット投資家の方が売り買いを間違えたら誰かが救済してくれるでしょうか?
私は、この件で本当に許せないと思うのはやはりどこぞの大臣の「美しくない」発言なんです。確かに美しくないと思います。人のミスに付け込んで徹底的に利益を上げた訳ですから。しかしながらそれに対して誰が何かを言えるのでしょうか?
かつて書いたかも知れませんが、サッカーの試合やら野球の試合ってのは、相手のミスに付け込んだチャンスってのがいくらもあると思うのです。あれはミスだったのだからそれに付け込んで点を得るのは美しくない、なんて誰が言えるのでしょうか。スキー競技でライバルが転倒するミスのために自分が賞を取ることかいけないことなのでしょうか。

一般社会には確かに法を守れば何をやってもいいのか?と言う議論が私も存在してしかるべきだと思います。
しかしながら市場はそれで規定しないと結局何も出来なくなってしまい、結果としてそんな市場に信頼を置く人間が居なくなってしまうのではないかと思います。

おっしゃる通り、法ってのは自分のやりたいように恣意的に作ることも可能でしょう。それは私も分かっております。が、現在自分が恣意的に作る立場に居ないのですね。そうしたら例えそれが恣意的に作られたものだとしても、我々が選んだ立法府の人間達が作ったものであれば、それは間接的に自分達にその責任の一端があると思います。
ドラゴン桜じゃありませんが、それだったら自分が法を作る立場にならなければ、それを表立って堂々と言ってみたところで誰がその意見に見向くのでしょうか?

私がずっとライブドアなりをそれなりに擁護してきたのは、彼らは少なくともフジテレビとのいきさつにおいては、法を守っていたからです。今回それは違法であったということになればそれはやはり糾弾されるべきでしょうね。
しかしながら「法の盲点を付いた」とか何とかいう議論こそ私には非常に「美しくない」と映ります。

学校の廊下は走るな!と言うルールに対して、では早歩きは良いのか?と言うのと同じで、私は早歩きが禁止されていないならばそれはルール違反では無いと思います。もしも本当に早歩きが何か弊害を生むのであれば、廊下にスピードカメラを設置して、時速何キロ以上は取り締まる、的なことをやらないと駄目でしょう。
また反対に、公園の芝生は立ち入り禁止、そしてその中に野球のボールが入ってしまえばそれは永遠に取れないことになります。しかしながらみんなボールを取るために中に入るでしょうね。でもそれは立派なルール違反です。

市場のルールってのはこの両者に似ていて、早歩きが禁止されていなければ早歩きをする奴が居るし、反対に立ち入り禁止内にボールが入っちゃったら誰も取りません、諦めます。
市場ってのはルールで厳格に縛らないと結局どこからも信頼されないんです。
そういう観点でもう一度是非太田氏のコラムをお読み頂ければと思いますが・・・




3 コメント

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議論の前に (daizou)
2006-02-20 13:33:54
小鬼様



毎回貴重なお話を拝読させていただいております。

ところで、話の腰を折るようで恐縮なのですが、今回の話については、議論の前に、論点整理が必要ではないでしょうか?



まず、小鬼さん(日経太田氏)がおっしゃっているのは、証券市場という狭い範囲での法令順守という話であり、それに対して、じぇいさんが、日本における法制度という非常に広い概念で反論されており、論点が違うのではないかという気がします。



小鬼さんがおっしゃるとおり、証券市場については、日本人だけではなく世界各国の方が参加するため、厳格な法令とその順守が求められるというのは正しいでしょうし、また、じぇいさんがおっしゃるとおり、日本の法制度上、法律だけが全てではないというのもまた正しいことだと思います。これに対して証券市場の話を一般化して再反論しても議論とはならない気がします。



つまり、どちらも正しい(と思っていること、私もどちらも正しいと思いますが)ことを述べているのであり、このまま議論を始めても水掛け論となってしまうような気がするのですが。



私も法律については門外漢なので詳しいことはよくわからないのですが、桐蔭横浜大学コンプライアンス研究センターのHPに「司法と違法行為の実態に関する日米の違い」として日米の司法制度の違いについて書かれてあり、これを読むと今回のライブドアの件についての日本と諸外国の反応の違いもなんとなくわかる気がするのですが。



以上ご参考までに。



蔭横浜大学コンプライアンス研究センターの当該記事のアドレス:

http://www.cc.toin.ac.jp/crc/news/20051014_questionnaire_3.html

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先を越されてた (小株主)
2006-02-20 21:05:35
やあ、長文書いてたら、daizouさんに先を越されていましたね。

内容としては多少違うものの、議論がかみ合わないのではと言うことでは同じ意見です。



さて、最近自分のブログは他人へのいちゃもんが続いたので、トリノ五輪の記事でも書いてみます。

小鬼さんはお忙しいでしょうが、トリノ観戦とか行かないのですか?
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これは議論になりますか (びろん)
2006-02-21 00:31:10
議論の適用範囲の違いで論点が異なっているという点はそうだと思います。

ただ、じぇいさんの論調は証券市場という狭い範囲に対してもそうだという前提で述べられていると思います、

これは日本の一般の人の見方としてある程度のパーセンテージがあるのではないでしょうか。



私も法律は素人ですが、じぇいさんのいう『法律・ルールと云うのは、まず現実社会に守るべき倫理や規範、

達成すべき目的があり、それに沿うように制定する「手段」です。』という点がすごく気になりました。



家の前の公道をおばあさんがそうじしている光景はすごく日本的だといわれたことがあります。

法に準じていえば公道は公共の所有物であり、役所なりがきれいにして管理すべきものです。

しかし日本人的にみれば、とりたててボランティア精神にあふれた光景にもみえませんし、

きれい好きなおばあさんだなという程度です。こういうところが、すごく日本的に見えるようです。



つまり、「通りをきれいに」という目的があらかじめ共有されているがために、

「それは役所の仕事」というルールの前に倫理や規範があるように、すんなり受け止められてしまうのです。



経済面で日本はコンセンサスを重視するといわれるのも、こうした点があるのではないでしょうか。

みずほ誤発注の件に対する「美しくない」発言や、最終的な処理のされ方をみても、

市場という「通り」をコンセンサスによってきれいに保とうとしているように思われます。



私はじぇいさんのコメントをこのように感じました。私は、こうした価値観は日本では今後長い時間をかけて

廃れていくのではないかと思います。



スポーツに例えるのは適切ではないかもしれませんが、サッカーは「ルールなき紳士のゲーム」といわれます。

主審はあまりにもゲームを妨害する行為を「非紳士的行為」としてペナルティを与えることができます。

明文化されてないにも関わらず、選手はみなそれに従います。なぜでしょうか?

スポーツマンシップにのっとって優劣を決し勝敗の結果を受け入れるという目的があらかじめ共有されている

からにほかなりません。主審が見ていなくても手を使う選手がいたら、相手はプレーを止めて訴えるでしょう。

勝敗を受け入れられなくなるほどのゲームを妨害する行為だからです。一方、ボールがタッチラインを割っても

ドリブルを続けようとするのは日常茶飯事で、相手もプレーを止めてまでは訴えません。審判によっては、

過剰なアピールという非紳士的行為に受け止められかねないからです。だから旗で主審に知らせる線審がいます。



これは、目的を共有するという点では同じでも、コンセンサスとは違います。

関係者の利害を長老がならして手打ちにするわけでもなければ、きれいな通りを共有しているわけでもありません。

倫理や規範ではなく、あくまでレフリーによる紳士的かどうかの審判によって、対決者同士が受け入れるのです。

(紳士というのも、貴族でない新参の経済成金の行動原理に対してイギリスで名づけられた呼称といわれています。)



「芝生に入るな」というルールがそこにあるのは、みんなが芝生に入りたいと思うからです。

寝転がったり、走り回ったりしたらいかにも気持ちよさそうです。

1度や2度なら芝生はなんでもないでしょう。そんなルールを文化的に共有していない人なら、誰だって悪気もなく

芝生に入り、気持ちよくなるのが普通です。それで芝生が荒れたからルールができ、一般化して文化の一つに

なっていくわけですが、ではどこからがモラル、倫理や規範となり、どこまではそうでない段階なのでしょうか?

それはあくまで、文化によって異なるでしょう。森を切り開けば一面に芝が自生するような北欧ではルールにも

ならない話です。日本人が水をタダのように使うのも、水が貴重な共有資源の文化の人が人からみれば、モラルに

反する行為にみえるかもしれません。



つまり、紳士というのは、経済規模が拡大して文化の異なる同士でフェアプレーを行うための精神性だったのだと思います。



市場というグラウンドで真剣勝負を行っている人たちも同じような感じではないのではないでしょうか?
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