最近は「気ウツがち」です。
主な理由は、仕事かな。どんどん「しちメンドクサク」なってる…。
というわけで、日曜の休みでミサに与れるし、朝から晴れているにも関わらず、どうも、体が動きませんでした。
ミサ、さぼっちゃおうかな…。
そんな気に傾きながら新聞をめくってたら、書評欄に、五木寛之の『親鸞』が載っていました。
このごろ、気になってた本でした。
新聞の書評には気取ったのも多いけど、この評は「文句なく面白いし、格差社会・八方塞りの時代の気分に苦しんでる人にはピッタリ!」とか、ベタに誉めていました。
よし、ミサに与ってから、成城学園前駅の三省堂で買おう!と、思いました。
教会に行ってみると、今日の司式は、小柄な東南アジア系の神父さんでした。
あとで調べたら、インドネシアの方と分りましたが…。
これが、良かったんですよ!
いえ、成城教会の主任神父さんも良いんですよ。サッパリして、男らしい感じで、ね。
でも、聖書って「翻訳もの」ですからね。
二千年前のイスラエル地方のたとえ話の集積って緬がある。
そこから「教え」を抽出するとなると、日本人の神父さんだと、逆に「明確に言いづらい」ところがあるんですよ。
キリスト教である以上、仏教の法話のようにはいきませんからねエ。
その点、外国人の神父さんは有利です。
今日は、有名な『放蕩息子のたとえ』が読まれました。
これは、ある金持ちに二人の息子がいて、次男が父親に「自分の財産を下さい」と言って放蕩の限りを尽くし、無一文になって帰ってくる…というお話です。
父親は、次男を抱きしめ、最高の歓待をする。何の心配もいらない…と。
すると長男が「私はずっと真面目に働いていたのに、そんな扱いをされたことはありません」と、ムカツク。
すると父親は長男に「お前のあの弟は死んだのに生き返った。祝い喜ぶのは当り前ではないか」と、諭すのです。
私は、この説話が今いちピンときませんでした。
だいいち、「金持ちの次男で放蕩の限りを尽くした男」というのに、感情移入できない。
長男のムカツキはもっともだ…と、思っていたのです。
でも、今日の神父さんは、
「今日の話で大切なのは、二人のムスコの違いではありません。悔い改めたなら、どんなツミを犯したものもユルす…というお父さんの姿こそ、タイセツなのでーす!」
と、身振り混じりで言ってくれたのです。
そもそも宗教的高揚とは「気分が盛り上がること」で、理屈に感心することではありません。
声色や身振り、佇まいなどもとても重要なポイントです。
でも、日本人の神父さんだと、どこか「照れ」が入ってしまうのですね。
聞いてる側も、あまり情熱的に語られても引いてしまう。
その点、外国人の司祭のほうが有利な場合があるのです。
核心を力強く、端的に、繰り返し語っても、スッっと入ってくる。
今日のミサは、私のくすみ勝ちな心に、光をさしてくれました。
それから三省堂に寄り、『親鸞』上下巻を買って帰りました。
久しぶりに大きな本屋に行きましたが、やはり良いですね。
歩いても歩いても新刊本が積まれてあるのは、とてもゼイタクな感じがします。
ここの書店はアチコチに著者直筆のカードが立てられているのですが、それがまたミーハー気分を満足させてくれます。
なにか、ちょいと学生気分に浸りました。
さて、今日はまだ上巻しか読んでないけれど、これが、面白い。
活劇場面も多く、山田風太郎か?と思わせるような伝奇小説の要素も強いのですが、さすがは大家、グイグイ引き込まれる。
中年に優しい大きな文字もウレシイし、地を這うように生きざるを得ない庶民大衆への魂の応援歌になっている。
インテリさんは軽んじるかも知れないけど、そんなの、どうでもいいんだ。
というわけで、ミサと小説で、今日は疲れた心への木洩れ陽の一日になったのでした。
どうも、お粗末さまでした。
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主な理由は、仕事かな。どんどん「しちメンドクサク」なってる…。
というわけで、日曜の休みでミサに与れるし、朝から晴れているにも関わらず、どうも、体が動きませんでした。
ミサ、さぼっちゃおうかな…。
そんな気に傾きながら新聞をめくってたら、書評欄に、五木寛之の『親鸞』が載っていました。
このごろ、気になってた本でした。
新聞の書評には気取ったのも多いけど、この評は「文句なく面白いし、格差社会・八方塞りの時代の気分に苦しんでる人にはピッタリ!」とか、ベタに誉めていました。
よし、ミサに与ってから、成城学園前駅の三省堂で買おう!と、思いました。
教会に行ってみると、今日の司式は、小柄な東南アジア系の神父さんでした。
あとで調べたら、インドネシアの方と分りましたが…。
これが、良かったんですよ!
いえ、成城教会の主任神父さんも良いんですよ。サッパリして、男らしい感じで、ね。
でも、聖書って「翻訳もの」ですからね。
二千年前のイスラエル地方のたとえ話の集積って緬がある。
そこから「教え」を抽出するとなると、日本人の神父さんだと、逆に「明確に言いづらい」ところがあるんですよ。
キリスト教である以上、仏教の法話のようにはいきませんからねエ。
その点、外国人の神父さんは有利です。
今日は、有名な『放蕩息子のたとえ』が読まれました。
これは、ある金持ちに二人の息子がいて、次男が父親に「自分の財産を下さい」と言って放蕩の限りを尽くし、無一文になって帰ってくる…というお話です。
父親は、次男を抱きしめ、最高の歓待をする。何の心配もいらない…と。
すると長男が「私はずっと真面目に働いていたのに、そんな扱いをされたことはありません」と、ムカツク。
すると父親は長男に「お前のあの弟は死んだのに生き返った。祝い喜ぶのは当り前ではないか」と、諭すのです。
私は、この説話が今いちピンときませんでした。
だいいち、「金持ちの次男で放蕩の限りを尽くした男」というのに、感情移入できない。
長男のムカツキはもっともだ…と、思っていたのです。
でも、今日の神父さんは、
「今日の話で大切なのは、二人のムスコの違いではありません。悔い改めたなら、どんなツミを犯したものもユルす…というお父さんの姿こそ、タイセツなのでーす!」
と、身振り混じりで言ってくれたのです。
そもそも宗教的高揚とは「気分が盛り上がること」で、理屈に感心することではありません。
声色や身振り、佇まいなどもとても重要なポイントです。
でも、日本人の神父さんだと、どこか「照れ」が入ってしまうのですね。
聞いてる側も、あまり情熱的に語られても引いてしまう。
その点、外国人の司祭のほうが有利な場合があるのです。
核心を力強く、端的に、繰り返し語っても、スッっと入ってくる。
今日のミサは、私のくすみ勝ちな心に、光をさしてくれました。
それから三省堂に寄り、『親鸞』上下巻を買って帰りました。
久しぶりに大きな本屋に行きましたが、やはり良いですね。
歩いても歩いても新刊本が積まれてあるのは、とてもゼイタクな感じがします。
ここの書店はアチコチに著者直筆のカードが立てられているのですが、それがまたミーハー気分を満足させてくれます。
なにか、ちょいと学生気分に浸りました。
さて、今日はまだ上巻しか読んでないけれど、これが、面白い。
活劇場面も多く、山田風太郎か?と思わせるような伝奇小説の要素も強いのですが、さすがは大家、グイグイ引き込まれる。
中年に優しい大きな文字もウレシイし、地を這うように生きざるを得ない庶民大衆への魂の応援歌になっている。
インテリさんは軽んじるかも知れないけど、そんなの、どうでもいいんだ。
というわけで、ミサと小説で、今日は疲れた心への木洩れ陽の一日になったのでした。
どうも、お粗末さまでした。
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