今日も、けっこうグジャグジャと大変な一日だった。
そんなこんなでウチに帰ったのが、約午後九時。
郵便受けから取り出したA紙とY紙の夕刊を抱えて部屋にたどり着くと、フトンの上にポイと夕刊を放り投げた。
…と、1面に「ん?」という見出しが載っているのがチラと見えた。
『ライ麦畑でつかまえて』サリンジャー氏、死去…。
そのニュースは、A紙Y紙とも1面に同じようなスペースを割かれていた。
私が初めてサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んだのは大学1年のときだか
ら、今からほぼ30年前(!)である。
私は英米文学専攻の学生だったので、無論原書を読まなければならなかったのだが、
原書にはほとんど手に触れないうちに、白水社から出ていた野崎孝の訳本を買って、
一気に読みきってしまった。魂を震わすものがあった。
ところが、同級生の女の子たちが口をそろえて、
「なんて暗くてキタナイ話なの!」「ウジウジした精神病の男なんてサイテイ!」
というような評価を下していた。
だから私は、(主人公の)ホールデンは自分だ!…なんて感想はもちろん言えなかった。
それから約二十年後、四十歳になった頃、ゆえあって私はこの作品を再読した。
私は、二十歳で初めて読んだときとは、かなり違う印象を抱いた。
この長編は、全編が「1950年代のアメリカのハイティーンの男の子のひとり語り」
という構成をとっている。
だから、「50年代のアメリカ東部の若者」という風俗面と、「大人の社会に反発し、
逃避する若者」という文脈でとらえられることが多かった。
でも、21世紀になりたての頃、すでに中年になった私は、ホールデン・コールフ
ィードの「既成社会へどうしようもない違和感」や「底知れぬ孤独」は、もっとずっと
普遍的なものだ…と気づいたのだ。
それからまた10年近くたって、今日、サリンジャーの訃報を知った。
あれから『ライ麦畑でつかまえて』は、一度も読み返していなかった。
新聞記事には、「この作品は、現代人の本質的な孤独と不安に対する予見的文学」
という評が載った。
そう、今や日本中に、世界のいたるところに、ホールデン・コールフィールドが溢れている!(いや、潜んでいる…と入ったほうかもしれないが)
『ライ麦畑』の過剰なおしゃべり文体は、青春期の甘酸っぱい感傷に満ちていて、
それが世界的に共感を呼び、また、嫌う人も多かった。
でも、発表後60年間も売れ続けているというのは、やはり、人間の真理を
穿っているからだと思う。
野崎孝の翻訳も素晴らしかったしね!
邦題は原題を意訳したものだけれど、このタイトルだから日本でも圧倒的に支持
されたのだと思います。
さて、20歳のとき『ライ麦畑』で胸をときめかせた日本の青年も、今やすっかり
オジサンになりました。
精神年齢はあの頃からほとんど進歩もないけれど、何とか、社会の片隅で生きている。
全く変わったのは、毎晩、焼酎で胃を洗浄し、脳を慰めていることである。
誰か、お金持ちの篤志家が、飲み屋で交わす「ボクラの夢」を「それ、面白いねエ」
なんて声を掛けてくれないか…と、夢見ながら。
困ったもんだねエ。
お粗末様でございました。
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そんなこんなでウチに帰ったのが、約午後九時。
郵便受けから取り出したA紙とY紙の夕刊を抱えて部屋にたどり着くと、フトンの上にポイと夕刊を放り投げた。
…と、1面に「ん?」という見出しが載っているのがチラと見えた。
『ライ麦畑でつかまえて』サリンジャー氏、死去…。
そのニュースは、A紙Y紙とも1面に同じようなスペースを割かれていた。
私が初めてサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んだのは大学1年のときだか
ら、今からほぼ30年前(!)である。
私は英米文学専攻の学生だったので、無論原書を読まなければならなかったのだが、
原書にはほとんど手に触れないうちに、白水社から出ていた野崎孝の訳本を買って、
一気に読みきってしまった。魂を震わすものがあった。
ところが、同級生の女の子たちが口をそろえて、
「なんて暗くてキタナイ話なの!」「ウジウジした精神病の男なんてサイテイ!」
というような評価を下していた。
だから私は、(主人公の)ホールデンは自分だ!…なんて感想はもちろん言えなかった。
それから約二十年後、四十歳になった頃、ゆえあって私はこの作品を再読した。
私は、二十歳で初めて読んだときとは、かなり違う印象を抱いた。
この長編は、全編が「1950年代のアメリカのハイティーンの男の子のひとり語り」
という構成をとっている。
だから、「50年代のアメリカ東部の若者」という風俗面と、「大人の社会に反発し、
逃避する若者」という文脈でとらえられることが多かった。
でも、21世紀になりたての頃、すでに中年になった私は、ホールデン・コールフ
ィードの「既成社会へどうしようもない違和感」や「底知れぬ孤独」は、もっとずっと
普遍的なものだ…と気づいたのだ。
それからまた10年近くたって、今日、サリンジャーの訃報を知った。
あれから『ライ麦畑でつかまえて』は、一度も読み返していなかった。
新聞記事には、「この作品は、現代人の本質的な孤独と不安に対する予見的文学」
という評が載った。
そう、今や日本中に、世界のいたるところに、ホールデン・コールフィールドが溢れている!(いや、潜んでいる…と入ったほうかもしれないが)
『ライ麦畑』の過剰なおしゃべり文体は、青春期の甘酸っぱい感傷に満ちていて、
それが世界的に共感を呼び、また、嫌う人も多かった。
でも、発表後60年間も売れ続けているというのは、やはり、人間の真理を
穿っているからだと思う。
野崎孝の翻訳も素晴らしかったしね!
邦題は原題を意訳したものだけれど、このタイトルだから日本でも圧倒的に支持
されたのだと思います。
さて、20歳のとき『ライ麦畑』で胸をときめかせた日本の青年も、今やすっかり
オジサンになりました。
精神年齢はあの頃からほとんど進歩もないけれど、何とか、社会の片隅で生きている。
全く変わったのは、毎晩、焼酎で胃を洗浄し、脳を慰めていることである。
誰か、お金持ちの篤志家が、飲み屋で交わす「ボクラの夢」を「それ、面白いねエ」
なんて声を掛けてくれないか…と、夢見ながら。
困ったもんだねエ。
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