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酔いどれ酒場でつかまえて

2010-01-29 | 本と落語
今日も、けっこうグジャグジャと大変な一日だった。

そんなこんなでウチに帰ったのが、約午後九時。

郵便受けから取り出したA紙とY紙の夕刊を抱えて部屋にたどり着くと、フトンの上にポイと夕刊を放り投げた。

…と、1面に「ん?」という見出しが載っているのがチラと見えた。

『ライ麦畑でつかまえて』サリンジャー氏、死去…。

そのニュースは、A紙Y紙とも1面に同じようなスペースを割かれていた。

私が初めてサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んだのは大学1年のときだか

ら、今からほぼ30年前(!)である。

私は英米文学専攻の学生だったので、無論原書を読まなければならなかったのだが、

原書にはほとんど手に触れないうちに、白水社から出ていた野崎孝の訳本を買って、

一気に読みきってしまった。魂を震わすものがあった。

ところが、同級生の女の子たちが口をそろえて、

「なんて暗くてキタナイ話なの!」「ウジウジした精神病の男なんてサイテイ!」

というような評価を下していた。

だから私は、(主人公の)ホールデンは自分だ!…なんて感想はもちろん言えなかった。

それから約二十年後、四十歳になった頃、ゆえあって私はこの作品を再読した。

私は、二十歳で初めて読んだときとは、かなり違う印象を抱いた。

この長編は、全編が「1950年代のアメリカのハイティーンの男の子のひとり語り」

という構成をとっている。

だから、「50年代のアメリカ東部の若者」という風俗面と、「大人の社会に反発し、

逃避する若者」という文脈でとらえられることが多かった。

でも、21世紀になりたての頃、すでに中年になった私は、ホールデン・コールフ

ィードの「既成社会へどうしようもない違和感」や「底知れぬ孤独」は、もっとずっと

普遍的なものだ…と気づいたのだ。

それからまた10年近くたって、今日、サリンジャーの訃報を知った。

あれから『ライ麦畑でつかまえて』は、一度も読み返していなかった。

新聞記事には、「この作品は、現代人の本質的な孤独と不安に対する予見的文学」

という評が載った。

そう、今や日本中に、世界のいたるところに、ホールデン・コールフィールドが溢れている!(いや、潜んでいる…と入ったほうかもしれないが)

『ライ麦畑』の過剰なおしゃべり文体は、青春期の甘酸っぱい感傷に満ちていて、

それが世界的に共感を呼び、また、嫌う人も多かった。

でも、発表後60年間も売れ続けているというのは、やはり、人間の真理を

穿っているからだと思う。

野崎孝の翻訳も素晴らしかったしね!

邦題は原題を意訳したものだけれど、このタイトルだから日本でも圧倒的に支持

されたのだと思います。

さて、20歳のとき『ライ麦畑』で胸をときめかせた日本の青年も、今やすっかり

オジサンになりました。

精神年齢はあの頃からほとんど進歩もないけれど、何とか、社会の片隅で生きている。

全く変わったのは、毎晩、焼酎で胃を洗浄し、脳を慰めていることである。

誰か、お金持ちの篤志家が、飲み屋で交わす「ボクラの夢」を「それ、面白いねエ」

なんて声を掛けてくれないか…と、夢見ながら。

困ったもんだねエ。

お粗末様でございました。



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