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快傑、赤めだか

2010-03-31 | 本と落語
今日の東京は、昨日に比べて、晴れ間も出て暖かい…というのが、天気予報でした。





でも実際は、晴れたのは朝方だけで、昨日までよりは確かに暖かったけれど、端的に言って、コートとマフラーが離せない陽気でした。

それでも私は、教会の友人と花見に行きました。

さすがにニホンの桜は律儀ですね。

こんな肌寒さの中、キチンと咲き、なおかつ散ってもくれていました。





友人との待ち時間の間、私は本屋に寄りました。

そこで、立川談春の『赤めだか』を見つけて、最初の七、八行を読んで、「こいつはホンモノだ!」と確信し、買ってしまいました。





落語好きの人には、立川談春についての説明は不要でしょう。

立川談志の弟子で、今や、次代の東京落語を背負って立つ中堅中の中堅です。

花緑、喬太郎、たい平、昇太…などなど、現在、四十代から五十代の初めでイキの良い若手は、たくさんいます。

彼らは押しなべて文章も書いています。

でも、その中で談春の文体は、プロの物書きに対抗し、凌駕し得る、ほとんど唯一のものだと思うのです。





どんなに喋り上手だって、書き言葉にすると「素人なみ」ということはしばしばあることです。

というより、「話し言葉の一流プロ」が同時に「書き言葉の一流プロ」であったことは、私の知る限り一人もいませんでした。

立川談春の『赤めだか』を読むと、談春は、話し言葉・書き言葉のどちらに行ってもトップを狙える才能の持ち主なんだ…と、痛感します。





でも、いまや立川談春は、「自分ひとりの体ではない」といえるほど、東京落語の明日を背負う役割を担っています。

ですから、今後は当分落語の精進に邁進せざるを得ないでしょう。

そうなれば、青春期のみずみずしさに溢れた『赤めだか』のような文章は、時間的にも立場的にも、書けなくなると思います。


それは、大変残念なことです。

でも、落語に専念した立川談春が、この先、談志、志ん朝、小三治のいなくなった東京落語を埋めてくれるのであれば、それほどありがたいことはありません。

私たちは「書き手」の談春は、『赤めだか』を堪能することで、しばらくあきらめようじゃありませんか。




そして、『赤めだか』は、落語への関心あるなしに関わらず、一定の感性を持った庶民なら、「ああ、これは私だ」と思えるくらいの、普遍的な魅力に溢れた文藝作品です。


まちがい、なし!








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