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山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

「西の京」から大和郡山へ (その 3)

2014年05月27日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 薬師寺の金堂  


高田好胤管長さんらの努力で昭和51年(1976)4月に再建された金堂。二重の建物だが、「裳階(もこし)」が付いているため四重に見える。裳階の中央が一段浮き上がっているのが特徴的。東大寺金堂や平等院の鳳凰堂にも見られるという。その均整のとれた美しさは「竜宮造り」と呼ばれているそうです。

金堂内部には、中央に本尊の薬師如来座像、その右に日光菩薩像、左に月光菩薩像の薬師三尊像(白鳳時代、いずれも国宝)が祀られており、間近に見ることができます。高さ254.7cm、黒くつややかな薬師如来さんは、その両手の表情が印象的でした。どんな病気でも癒すことができるという仏さん。左手は、掌の上に薬壷を持っておられる様子。右手は、手首をかかげ、親指と人差し指で円を作り、”どんな病でもオッケーだよ!”とささやいていおられるようです。
薬師寺は、680年11月天武天皇が后・鵜野讃良皇后(うののさらら、後の持統天皇)の病気平癒を祈願するため「薬師如来」の仏さんを造り、それを安置する寺院として薬師寺の建立を発願されたことが起源とされる。その場所は飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿町)の地ですが、和銅3年(710年)の藤原京から平城京へ遷都とともに薬師寺も飛鳥から平城京の右京六条二坊(現在地)に移転された。薬師如来さんのご加護があってか、天武天皇の皇后さんは病から回復、後に持統天皇となってご活躍されることに。

 薬師寺の西塔  


薬師寺の伽藍はほとんど兵火・雷火や地震・台風等で消失、そして再建を繰り返してきた。現在、奈良時代からの建物は焼け残った東塔だけです。薬師寺の顔だったその東塔だが、平成21年(2009年)より解体修理中で、現在は覆屋に覆われており、平成31年(2018年)の春までその姿を拝むことは出来ない。
「東塔」がベールに包まれているので、対称位置に建つ西塔で想像するしかない。西塔は享禄元年(1528年)に戦災で焼失し、昭和56年(1981)に伝統様式・技法で再建されたもの。
六重の塔のように見えるが、実際は三重の塔。各階に裳階(もこし)と呼ばれる屋根が取り付けられているためです。塔のテッペンに細長い相輪(そうりん)た立つ。実はこれが卒塔婆で、その基部へ仏舎利を納めた。
”あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり”(万葉集の一節)
奈良の枕ことば「青丹良し」は、西塔の連子窓に使われている青色、扉や柱に使われている丹(に)色からきているそうです。東塔もそうか、といえば違うようだ。東塔の連子窓は、度重なる修復時に白壁に変えられてしまったという。その他、屋根の反り、基檀の高さなど東塔と異なる部分もあるようです。

 玄奘三蔵院の中央に建つ玄奘塔  


境内のの北側に、玄奘三蔵のご頂骨を真身舎利とし祀る玄奘三蔵院が平成3年(1991年)に建てられた。
玄奘三蔵とは、あの「西遊記」でお馴染みの三蔵法師。孫悟空、猪八戒などは架空の人物だが、三蔵法師さんは実在したお坊さん。何故、三蔵法師と薬師寺は関係あるんでしょう?。
以下は薬師寺公式サイトからの要約です。
玄奘三蔵は、27歳のとき国禁を犯して密出国し、草木一本もなく水もない灼熱のなか、砂嵐が吹きつけるタクラマカン砂漠を歩き、また、雪と氷にとざされた厳寒の天山山脈を越え、時に盗賊にも襲われる苛酷な道のりを天竺(インド)を目指して旅します。三年後に、ようやくインドにたどり着き、中インドのナーランダー寺院で戒賢論師に師事して唯識教学を学び、インド各地の仏跡を訪ね歩きました。17年間にわたりインドでの勉学を終え、帰国後は持ち帰られた経典の翻訳に専念、その数1335巻に及ぶという。玄奘三蔵の教えの流れを継承している宗派が法相宗です。現在、薬師寺と興福寺が法相宗の大本山で、玄奘三蔵は法相宗の始祖に当たる。

回廊に囲まれた玄奘三蔵院の中央に八角堂の塔があります。これが玄奘三蔵の舎利(分骨)と坐像を安置している「玄奘塔」です。内部には入れず、外から見て回るようになっている。
薬師寺・公式サイトに「昭和17年(1942)に南京に駐屯していた日本軍が土中から玄奘三蔵のご頂骨を発見しました。その一部が昭和19年(1944)に全日本仏教会にも分骨されましたが、戦時中でもあり、埼玉県岩槻市の慈恩寺に奉安され、その後ご頂骨を祀る石塔が建てられました。薬師寺も玄奘三蔵と深いご縁のある事から、遺徳を顕彰するため全日本仏教会より昭和56年(1981)にご分骨を拝受し、平成3年(1991)玄奘三蔵院伽藍を建立しました。」とあります。”日本軍が土中から骨を発見した”とあるが、どうして玄奘三蔵の骨を発見できたんでしょう?。これは明らかに盗掘、略奪の類ではないでしょうか。
玄奘塔は回廊で囲まれ、回廊の北側で「大唐西域壁画殿」という建物で繋がっている。このに壁画殿には、日本画家平山郁夫が30年をかけて制作したといわれる「大唐西域壁画」が描かれている。玄奘三蔵の17年間にわたる求道の旅を13枚の絵に描いたものです(私は何にも感じなかったのですが・・・)。

 休ケ岡(やすみがおか)八幡宮  


南門を出、小橋を渡り孫太郎稲荷神社の横を抜けるとすぐ休ケ岡八幡宮に出会う。薬師寺の守り神を祀るとされているから、ここも薬師寺の境内か参道になるのだろうか?。

平安時代前期の寛平年間(889~898)に薬師寺別当栄紹によって、大分県宇佐八幡神社からこの地に、薬師寺の鎮守神として三柱の神像が勧請祭祀されたのが始まりとされる。僧形八幡神像、神功皇后像、仲津姫像の三神像です。日本最古の木彫神像なので、現在は国宝として東京国立博物館に預けられているそうです。現在の社殿は慶長8年(1603)の建物で、豊臣秀頼の寄進によるもの。他に瑞垣門・楼門・中門なども有ったようだが、地震で崩壊し無くなったようです。

仏さんも神さんの守護に頼らなければならなかったのでしょうか?。
入口に掲げられた「薬師寺休丘八幡宮縁起」の末尾には、次のように記されている。
「明治以後は神仏が分離され、一寺院が神社を管理している例は少ない。将来はさらに神域を整備し、楼門などの復興を含め、本地垂迹・神仏習合の日本古来の信仰の姿にかえすよき信仰の道場として復興したいと念願している」
本末転倒されないよう。明治の初めのように、神社によって寺が管理される、あるいは寺が破壊される時代が来ないことを願います。

 撮影スポットの大池  


薬師寺で拝観料を払うとパンフレットをくれます。このパンフレットの表紙の写真は、池を前にして金堂、東西の塔が佇み、その背後に若草山が連なる。あまりにも有名な奈良の観光ショットで、よく見かけます。この撮影場所が近くにあるというので、たち寄ってみることに。

薬師寺から近鉄の踏み切りを西に渡る。住宅街の中を10分ほど、南へさらに西の丘陵へ少し登れば大きな池に出会う。これが「大池」で、万葉集では「勝間田池」と詠われている。医療センターの前あたりが絶好の撮影スポットらしく、季節や時刻によっては多くの写真マニアが集まるそうです。でも誰もいませんでした。

この場所から見る大池越しの遠景は、さすがに絵になり、奈良を代表する風景の一つとなっている。若草山の山焼きの写真の多くがこの場所から撮影されているそうです。
しかし残念なことに、現在は邪魔者が全てを台無しにしている。東大寺大仏殿の屋根、興福寺五重塔も見えません。東塔の完成する2018年の春まで待つしかないようです。

詳しくはホームページ

「西の京」から大和郡山へ(その2)

2014年05月20日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 喜光寺(きこうじ)  

菅原天満宮を南に5分ほど歩けば、車が多く騒々しい国道308号線沿いに出る。国道沿いを西に少し歩けば、喜光寺の新しい赤っぽい南大門と黒っぽい大きな屋根が見えてきます。
この本堂は養老5年(721)の創建だが、現在のものは室町時代の天文13年(1544)に再建されたもの。二階建てのように見えるが、実際は「裳腰(もこし)」付の単層の建物です。東大寺大仏殿のモデルにされたそうで、よく見れば似ているようでもあります。
本堂前には沢山の鉢が並べられている。喜光寺は「蓮のお寺」として有名で、境内には約100種、200鉢のさまざまな品種の花蓮の鉢があるそうです。極楽浄土の蓮の花の後ろに浮かび上がる本堂は、西の京の撮影スポットの一つでもあるそうだ(シーズンは人が多すぎスポットにならないとか・・・)。蓮の花は、6月下旬から8月上旬までが見頃。

 垂仁天皇陵(宝来山古墳)  



喜光寺から国道308号線と阪奈道路を渡り南へ歩いていると、満々と水をたたえた池に囲まれた森が現れる。宮内庁が垂仁天皇の「菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)」に治定している「宝来山古墳」です。田園の広がる中に、水鳥の戯れる広い周濠とその中に浮かび上がる厳かな佇まいの古墳。その姿から神仙境にある”宝来山”の名がつけられた。
第10代祟神天皇の第三子といわれる11代垂仁天皇はベールに包まれた謎の4世紀の天皇で、『日本書紀』、『古事記』に記される事績には史実性に乏しい内容が多い。年齢も140歳(『日本書紀』)、153歳(『古事記』)、139歳(『大日本史』)と記され、その実在性を疑問視されるが・・・。

御陵の東側の広い周濠の中に浮かぶ小いさな島がある。これは田道間守(多遅麻毛理)の墳墓とされている。田道間守って?、初めて聞く名前です。
日本書紀によると、垂仁天皇から「常世の国から不老不死の霊菓、非時香菓を探してくるように」の命を受け、苦難10年やっと日本に持ち帰ってきたが、天皇はすでに1年前に亡くなっていた。持ち帰った枝を天皇の御陵に捧げ、その前で悲しみのあまり泣き叫びながら死んだという。垂仁天皇は殉死を禁止したはずなのですが・・・。
非時香菓は「ときじくのかぐのこのみ」といわれ、橘(みかん)の実のこと。その葉が寒暖の別なく常に生い茂り栄えるので、古くから長寿瑞祥の樹として珍重されていた。またその果実は菓子のルーツとされ、今では田道間守は「菓祖神」として菓子業界の信仰を集めているそうです。

垂仁天皇陵(宝来山古墳)の周辺は田園が開け、散歩道「歴史の道」になっており散策に最適な場所。この時期、黄色い菜種の花が綺麗です。とおくに霞んで見えるのは若草山や春日山。夜になると東大寺二月堂の常夜灯が見えるそうです。春うらら、散歩道を気持ちよく歩いていくと唐招提寺や薬師寺さんです。

走っている近鉄電車も写真に入れようとしたが、俺の腕では難しいナァ・・・

 唐招提寺  


井上靖の小説『天平の甍』で有名な唐僧・鑑真和上によって建立された私寺。聖武天皇の招きに応じ苦難の連続の末、唐から日本にたどり着いた鑑真は、東大寺で5年を過ごした後、朝廷からここの土地(新田部親王の旧宅地)を譲り受け、戒律を学ぶ僧侶たちの修業の場としての道場を開いた。これが唐招提寺の起源です。
他の寺院の多くが火災、兵火などで焼失、そして再建などを繰り返したのに対して、この唐招提寺は若干の改修・補修はあるものの、当時のままの様子を現存さす貴重な存在となっている。その黒錆びた色は歴史の重みをしみじみと感じさせてくれます。この後訪れる薬師寺とは対照的です。

南大門を入ると、広く真っ直ぐな参道が伸び、その正面にたたずむのが国宝の金堂です。これぞ『天平の甍』!。井上靖さんも、ここで立ちすくみ作品名が浮かんだんでしょうか?

内部には入れないが、外から覗いて拝観するようになっている。堂内中央に本尊・廬舎那仏坐像が、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の三体が安置されている(いずれも国宝)。やや薄暗い中で、3メートルを超える仏さんに見下ろされると威圧感を感じる。しかしその眼差しをしみじみ見ていると、何か安らぎを受けるのです。どのお寺でもそうだが、写真を撮れないのが残念です。写真集やネットの写真を見れば済む話ですが、どの角度で、どの部分に感銘するのかは個人々によって違います。フラッシュ禁止で撮らせて欲しい!、仏さまのお慈悲で、「どうぞ、お写真を!」とはならないものでしょうか。

大屋根の左右には鴟尾(しび)が飾られている。奈良時代のものは沓(くつ)の形に似ていることから「沓形(くつがた)」とも呼ばれる。その後鴟尾は、建物を火災から守るためとして魚形に変化し鯱になっていく。戦国時代に鯱はとくに城郭建築に使われるようになり、名古屋城の金の鯱は特に有名。

御影堂の前を右手に進んで行くと、樹木に囲まれやや薄暗くなった小道の脇に、古びた今にも崩れそうな土塀が続く。さっきまでの境内の雰囲気とちゃっと違った空気が漂う。「鑑真和上御廟」と書かれた、瓦屋根の古びた小さな門をくぐると、さらに雰囲気が一変する。直立する杉木立としっとりと艶やかな青苔の広がる静寂な世界。否が応でも気が引き締まります。
青苔の敷き詰められた中の小道を直進すると、そこが鑑真和上の墓所です。小高くなった墳丘の上に塔が建てられている。周りを一周でき、墳丘の斜面にもみずみずしい青苔が覆っている。この下に鑑真さんは眠られているんでしょうか?。

「西の京」から大和郡山へ (その1)

2014年05月10日 | 寺院・旧跡を訪ねて

四月に入り桜の季節。近鉄奈良線・西大寺駅から出発し、いわゆる「西ノ京」を巡り、「桜百選」にも入っている郡山城のある大和郡山市までを歩くことに。

 西大寺  



「西ノ京」とは、平城京を朱雀大路で東西に分けられた西の部分を指します。駅を出てすぐのところに駅名にもなっている「西大寺」さんがあります。

平城宮の東には聖武天皇が建立した東大寺がある。それに対して、聖武の娘・孝謙上皇が天平宝字8年(764年)に平城宮の西に建立したのが西大寺です。創建当初は、百十数宇の堂舎が甍を並べた広大・壮麗な官寺だったようです。しかし父娘による東西の大寺建立は国家財政を逼迫させ、平城京の幕引きの原因のひとつとなったといわれる。
南門をくぐると、正面に本堂が構え、その前に高さ1m位の基壇が残され、立ち入り禁止になっている。奈良時代に高さ十五丈(約46メートル)の五重塔が東西に建立されたが、その後兵火により全て焼失、この基壇跡は東塔の跡です。
西大寺は平安時代に入って衰退し、絢爛を極めた伽藍も再三の落雷、火災などで多くの堂塔が失われた。そうした西大寺を再興したのが鎌倉時代の名僧・叡尊(1201~1290)。
叡尊は醍醐寺、高野山などで修行し、文暦2年(1235年)35歳の時に初めて西大寺に入り、その後90歳で没するまで50年以上、荒廃していた西大寺の復興に尽くした。諸堂の再建に力を尽くし、西大寺を真言律の根本道場として生まれ変わらせ、「西大寺中興の祖」と称えられている。現在の伽藍配置は叡尊によってその元が作られたという。しかしその後も兵火などで焼失し、現在の建物はすべて江戸時代に再建されたものです。

西大寺の北門から西北へ10分位歩いた所に、叡尊が眠る墓があります。「奥の院」と称されるが、正式な名称は「西大寺法界体性院」。
叡尊は正安3年(1290)、西大寺西室の自坊で90年の生涯を閉じた。あらかじめ定めてあった西大寺北西のこの場所で荼毘(だび)にふされ葬られた。そして弟子たちによって五輪塔が建てられた。高さは約3.7メートルの巨大な塔で、五輪塔としては日本一大きいとか。


 菅原天満宮  


西大寺を出て、南へ20分ほど歩くと菅原天満宮です。鳥居と表門をくぐって中に入ると、小さな境内ですが正面に拝殿がひかえ、周りには臥牛が寝そべったり沢山の梅樹が植えられている。菅原道真公ゆかりの地という雰囲気に満ち々ている。平成114年(2002年)、それまでの菅原神社から菅原天満宮に改称された。

この神社には三つの神さんが祀られている。天照大神の第二御子「天穂日命(あめのほひのみこと)」、「相撲の祖」といわれる出雲出身の腕力者「野見宿禰命(のみのすくねのみこと)」。野見宿禰は第11代垂仁天皇に抱えられ、ここ菅原の地を与えられ土師器や埴輪造りに従事し、菅原氏の祖とされる。三つ目の祭神は、野見宿禰から数えて第十七世の子孫にあたる菅原道真。菅原道真は神さんになったのです。
伝承によれば、「道真公の母が菅原氏の本拠のこの地に戻って生んだ」と伝えられ、神社の東100mほどの住宅街の真ん中に「産湯に使った」という小さな「天神堀」という池まで残っている。ただし正確な生誕地は不明のようです。

当時の菅原家は、曽祖父の代から文筆をもって朝廷に仕え、祖父、父ともに学者の最高位である文章博士(もんじょうはかせ)に任命されていた学者一族だった。その影響か、道真も5歳で和歌を詠み、10歳過ぎで漢詩を創作したという。23歳で文章得業生、33歳の若さで式部少輔、文章博士となり、学者としては最高の栄進を続けた。醍醐天皇の昌泰2年(899年)には右大臣にまで登りつめる(55歳)。
ところが二年後の延喜元年(901) 正月25日、突如として右大臣の地位を解任され、九州の太宰府へ左遷される。時の醍醐天皇、藤原時平によって追放されたのです。 道真は太宰府で半ば軟禁状態のまま失意の日々を送り、延喜3年(903)2月25日に非業の死を遂げた(59歳)。

道真の死後、京の都では疫病がはやり、醍醐天皇の皇子が相次いで病死、道真追放を画策したとされる藤原時平以下の関係者が次々変死し、時平の縁者も若死にするという変事が続く。世間では、道真の祟りであるという噂が広がっていく。祟りを恐れた朝廷は、延長元年(923)左遷証書を焼却し道真を右大臣に戻したり、正二位を追贈したりするが怪異は収まらない。
延長8年(930)の6月26日、清涼殿に落雷があり多くの官人が雷に撃たれて死亡した。そこで朝廷は道真の祟りを鎮めるため、京都に北野天満宮を建立し、道真を雷神(天神)としてて祀るようになった。それ以後、道真は天満大自在天神(天神様)として神格化され、全国各地に道真を祀る神社が建立されていく。
菅原天満宮は有名な梅の名所でもある。また境内のあちらこちらに牛が寝そべっている。菅原道真と梅や牛とはどういう関連があるんだろう?。

太宰府天満宮の公式ページには、次のように書かれている。
「無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました。延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟しびょうが創建され、延喜19年(919)には勅命により立派なご社殿が建立されました」と太宰府天満宮の由来が記されている。また、道真が牛に乗って大宰府に流されたという故事もあるようで、こうしたことから菅原道真と牛は縁があるようです。
梅はどうか?。「飛び梅」伝承があるようです。大宰府で道真は都を懐かしみ「東風ふかば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠った。すると道真が愛した都の梅が、彼を慕って飛んでいった、というものです。聖徳太子の愛馬は、空を飛び富士山まで登ったという。神様になるといろいろなことがあるようです・・・。俺は「北風ふかば 幸をおこせよ 札の束 主なしとて 俺な忘れそ」と詠ったってみたい・・・・
狭い境内には、「島原古梅」、「しだれ菅香梅」、「常な里梅(じょうなりうめ)」、「梅花薫萬春」、「菅原八宝梅」など珍しい梅を含め、約100本の白梅・紅梅・枝垂れ梅が入り乱れて植えられておるそうです。

 菅原はにわ窯跡公園・・・菅原東遺跡・埴輪窯跡群(はにわようせき)  


菅原天満宮より東へ400メートルほど進むと近鉄・橿原線に突き当たる。その手前から平成2年(1990年)の発掘調査で、埴輪を焼いた窯跡が発見された。平成12年3月奈良市指定文化財「菅原はにわ窯跡公園」として整備・保存されている。小さな公園ですが、数箇所に窯跡が残され、円筒や馬の埴輪のレプリカが配置され、遺跡らしい雰囲気をだしている。

菅原家の先祖は「土師氏」と称し、この地域で埴輪造りに励んだという伝承が残っている。この埴輪窯跡はそれを裏付ける遺跡のようです。

「王陵の谷」 河内飛鳥を往く (その5)

2014年05月05日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 竹内街道 (たけのうちかいどう)  


磯長谷(太子町)の古跡を一通り巡ったので帰ることに。竹内街道へ回り、そこを歩いて近鉄・上ノ太子駅へ出ることにしました。
竹内街道は、『日本書紀』の推古天皇21年(613年)11月の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記され、我が国最古の官道とされる。その一部がここ太子町内を通り、街道沿いに「王陵の谷」と呼ばれる古跡を残している。「竹内街道」という呼称は明治以降のもので、それまでは「丹比道(たじひみち)」と呼ばれていたようです。

竹内街道は、奈良県葛城市當麻町の長尾神社から出発し二上山の南にある竹内峠を越えて、大阪府の太子町・羽曳野市・松原市を経て、堺市の大小路(おおしょうじ)に至る約26kmの街道です。
古来、大和盆地には「横大路」と呼ばれる官道が東西に走っていた。大和盆地の西側には生駒山、二上山、葛城山の山々が連なり、西方への出口を塞ぐ。横大路からさらに西の河内、難波(大阪)へ出るには場所が限られていた。一つは二上山の北側の穴虫(あなむし)峠を越えて行く長尾街道(古名で「大津道(おおつみち)」)で、もう一つが二上山の南側の竹内峠を越えてでる竹内街道。
峠を越えて、中国や朝鮮半島のすぐれた大陸文化が大和へもたらされ、また渡来人をはじめ、遣隋使や遣唐使たちも行き来した。そして聖徳太子、推古天皇を始めとする王族達の葬列が竹内街道を通って磯長谷に入ってゆく様子が想像される。
近世になると、聖徳太子ゆかりの地への「太子信仰の道」として、伊勢、長谷参詣のためのの道として、さらに商人の町・堺と大和を結ぶ経済の道として利用された。街道沿いには茶屋や旅籠が軒を連ね賑わったという。
写真は、竹内街道沿いの「大道旧山本家住宅(国登録有形文化財)」。江戸末期の数少ない「かやぶきの古民家」という歴史的景観を残すものとして太子町によって保存・公開されている。
現在の太子町の竹内街道には、古風な家並みや白壁の塀など、所々に懐かしさを感じさせてくれるものも見られるが、”最古の官道”とまではいかなくても古の街道といったイメージを沸き立たせてくれるようなものは全く見られない。よく整備・改修され、道幅も広く舗装され、明るく・清く・美しい街道として生まれ変わっている。
間隔をおいて立てられた”竹内街道”と書かれた真新しい幟、家々の道脇に置かれた美しい花壇、官(町)民あげての”町おこし”の気概がひしひしと伝わってきます。歩いても歩いても、ゴミ一つ落っこちていない、感動!、or 異常さを・・・
案内板があり「平成二十五年(2013年)は、竹内街道が施設されて1400年にあたります。これを契機に、街道沿線自治体で取組む「竹内街道・横大路(大道)1400年活性化プロジェクト」の一環として太子町春日に「緑の一里塚」を整備しました」とあります。太子町の竹内街道を歩いていると、街道沿線自治体と住民の方々の”街おこし”へかける気概が痛いほど伝わってきます。古道にしては”美し”すぎるような気がしますが・・・。
竹内街道が国道166号線と合流する「春日西」交差点。竹内街道はさらに西に伸び堺まで続いている。しかし歴史街道として整備された竹内街道は「春日西」交差点で終わっている。平成7年(1995)、ここ「春日西」から葛城市當麻町の長尾神社までの約7.4kmの区間が、国によって歴史国道に選定された。そういうう意味では,ここ「春日西」交差点が竹内街道の出発地点といえる。案内板が建てられ「竹内街道」と書いた石柱が立っています。

 飛鳥戸神社(あすかべ)と観音塚古墳  


近鉄・上ノ太子駅裏に飛鳥戸神社と観音塚古墳があるという。少し時間があったので寄ってみることに。駅裏を5分ほど丘陵側に登っていくと,民家の並ぶ住宅路に、飛鳥戸神社の扁額を掲げた石の鳥居が建っている。さらに200mほど登っていくと飛鳥戸神社だ。民家とブドウ畑の広がる段丘状の台地なかに、ポッコリとした森が見えるのですぐ分かる。
小さな神社で狭い境内だが、覆っている大きな樹木などの雰囲気は何か伝承のありそうな臭いを漂わせる。

この付近は五世紀末雄略天皇の時代、昆支王(こんきおう)という百済の王族が渡来し、大和朝廷からは後に「飛鳥戸郡」と呼ばれるようになる土地を与えられ土着した。その子孫が飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)であり、昆伎王を一族の祭神として祭祀していた。現在は、素盞嗚命(すさのおのみこと)が祭神となっている。
神社入口の石垣は、ぶどう畑の開発のため取り壊された周辺の古墳の石を利用したものという。
飛鳥戸神社からさらに背後の山側に上って行く。この丘陵周辺は見渡す限りブドウ畑一色。しかし千五百年ほど前は墓場だったのです。この丘陵地帯には、古墳時代の後期に小型の円墳が群集して築かれ、その数が多いことから「飛鳥千塚」と呼ばれた。しかし戦後のブドウ畑の開発に伴い、その大半は破壊されてしまったという。観音塚古墳は飛鳥千塚の中の、残された代表的な古墳のひとつです。
丘陵を上っていくと飛鳥新池という大きなため池に突き当たる。左上方を見上げると丸い小高い丘があり、上のほうに水色のフェンスが設けられている。そのフェンスの中に観音塚古墳があります。かなり急勾配で狭い階段を登りきると、案内板とポッカリ口を開けた石室が見え、中に入ることもできます。

古墳時代終末期、7世紀中ごろの貴重な円墳、「横口式石槨(よこぐちしきせっかく)」の代表的なもので国指定史跡となっている。この周辺に渡来し定着した飛鳥戸造一族の墓だと思われます。

詳しくはホームページ

「王陵の谷」 河内飛鳥を往く (その4)

2014年04月29日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 小野妹子の墓  


太子町の南東のはずれにこんもりとした森がある。近づくと森の裾に科長神社への入口が見えます。ここから坂道を登ると、科長神社の石鳥居と右手の小高い丘に登る長い階段が見え、この上に小野妹子の墓と伝えられる塚がある。数えながら登ると121段ありました。上は広場になっており、中央に柵で囲われ、地元の人々が「いもこさん」と呼んでいる墓塚がある。

小野妹子(女性ではありません)は、琵琶湖西畔の近江国志賀郡小野村(現在の志賀町小野付近、湖西線和邇駅近く)で生まれ育つ。推古天皇15年(607)、大礼(だいらい)という冠位に抜擢され、遣隋使節の大使に任命される。聖徳太子から預かった隋の皇帝・煬帝(ようだい)に宛てた国書をもって難波津から船出。二年後の推古天皇17年(609)9月、妹子は裴世清 (はいせいせい)の一行十二人を連れて隋より帰朝。こうして隋との国交を開くことができ、その功績によって大徳冠に昇った。しかし、その後の消息について、史書は何も語らない。

この小野妹子墓は、京都の生け花家元・池の坊家が管理している。聖徳太子の守り本尊である如意輪観音の守護を、太子から託された妹子は坊を建て朝夕に仏前に花を供えたのが池坊流の起源だ、としているからです。そして池の坊家は、大正の初めにこの丘を整備して石段をつけ墳墓の修復をした。
池の坊家の努力により有名になり、観光スポットになったが、これが本当に小野妹子の墓かどうか疑問があるそうです。小野妹子の出身地とされる滋賀県志賀町にある「唐臼山古墳」が小野妹子の墓として有力視されている。
推古天皇、聖徳太子により見出され、遣隋使としての大役を果たした妹子は、推古天皇や聖徳太子の墓があるこの磯長谷に眠るのが相応しいのかもしれない。

 二子塚(ふたごづか)古墳  


科長神社・小野妹子墓のある丘を降り、田畑の広がる中を歩いていると前方の平地にポッコリ飛び出た二子塚古墳と推古天皇陵(山田高塚古墳)が現れる。

二子塚古墳は、方墳を二つつなぎ合わせた双方墳という珍しい形式の古墳。「ふたご」の名のとおり、それぞれにほぼ同じ形、同じ大きさの横穴式石室と家形石棺が残されている。手前の墳丘では、上部に上がるとむき出しになった生々しい石室を見ることができます。築造時期は7世紀後半。
昭和31年(1956)所有者が、個人では古墳の保存には限界があると、「古墳売ります」という新聞広告をだして話題になった。文化庁と太子町とがお金を出し合って購入し、現在は町が所有・管理している。国の史跡に指定されている。

 推古天皇陵(山田高塚古墳)  


宮内庁は推古天皇の「磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)」に治定し管理している。「山田高塚古墳」と呼ばれ、東西に長い三段築成の長方墳で、内部には二基の横穴式石室をもつ合葬墓であると考えられています。

推古天皇は554年、第29代欽明天皇と堅塩媛(きたしひめ、蘇我稲目の娘)との次女として生まれ、名を「額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)」といった。576年23歳の時、異母兄にあたる第30代敏達天皇の皇后となり、二男五女をもうける。
585年、夫・敏達天皇が当時大流行した天然痘で逝去すると、皇位継承で意見が対立。額田部皇女は、まだ若年だった我が子の竹田皇子を将来皇位に就けるべく蘇我馬子と組み、実兄である橘豊日(たちばなのとよひ)皇子の天皇擁立を計る。それが第31代・用明天皇(聖徳太子の父)です。だが、病弱だった用明天皇が2年後の4月には病死すると再び皇位継承問題が再燃した。十代半ばの竹田皇子はまだ早い。そこで額田部皇女と馬子は、凡庸な人だったといわれる泊瀬部皇子を中継ぎの天皇として利用し、587年8月第32代崇峻(すしゅん)天皇として即位さす。ところが次の天皇にと思っていた最愛の息子・竹田皇子が早死してしまう。さらに592年11月崇峻天皇が暗殺されるという前代未聞の不祥事が起こった。民衆の間に動揺が広がる。そうした中、額田部皇女は再三辞退したにもかかわらず、群臣に乞われて593年第33代推古天皇として豊浦宮で即位することになる。日本で最初の女帝で、39歳のときだ。聖徳太子の叔母さんにあたり、太子を摂政として、蘇我馬子と共に政治を行った。大陸の隋との交渉によって先進的な政治制度や文化、芸術などを積極的に吸収し、仏教文化を中心とした飛鳥文化を開花さす。

『日本書紀』によれば、西暦628年3月7日75歳、在位36年間で崩御したとある。「豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)天皇」と諡(おくりな)される。
推古天皇は生前「ここ数年、五穀が実らず、百姓らは大変飢えている。自分のために陵を造って厚く葬ることはしないように。竹田皇子の陵に葬ってくれればそれでよい」という遺言を残していた。そこで遺言どおり遺骸は、早生した長子・竹田皇子が眠る墳墓に一緒に葬られたという。その場所は奈良県明日香村の植山古墳とされている。その後、母子の遺骸は竹内峠を越え、「大和の飛鳥」から「河内の飛鳥」と呼ばれ「磯長谷」に移され改葬された。蘇我氏の懐で安らかに眠っているようです。改葬の時期ははっきりしていない。

 大阪府立近つ飛鳥博物館と梅林  


推古天皇陵から南の丘陵を目指して2キロほどの車道を歩く。出会うのは数人のハイカーだけ、マイカーは一台も見かけない。ようやく「近つ飛鳥風土記の丘」丘陵の入口に建つ大阪府立「近つ飛鳥博物館」に到着。広い駐車場には一台の車も止まっていない。そうか今日は月曜日で、休館日でした。マイカーを見かけなかったのも当然です。
この博物館は、広大な「近つ飛鳥風土記の丘」公園の中核的文化施設として、1994年に開館。建築家・安藤忠雄による設計で、「現代の古墳」をイメージした建物だそうです。外観を眺めただけですが、私にとっては異様な建物に見えます。斜面全体に設けられた階段、その上部に飛び出た巨大な白い箱。何を意味しているのでしょう?。古墳というよりは、”現代の墓場”のイメージがします。こんな墓場には入りたくない。安藤はこの建物を自身の代表作として挙げ、また第26回日本芸術大賞他を受賞している。呆れるネ!。(最近、大阪府(市)と安藤忠雄は癒着してるんじゃないのか・・・?)館内の展示物はほとんどがレプリカだそうです。

博物館が「風土記の丘」の入口になっている。閉館しているので丘へはどこから入ったらよいのだろうか?。標識も見当たらない。”現代の墓場”の脇をすり抜けるように侵入する。大阪府下でも著名な梅園は、博物館の両側に広がっている。その数は140本。ちょうど今が見頃のようです。美しい梅林と異様な”現代の墓場”。まるでお墓への献花のようです。

 一須賀古墳群(いちすかこふんぐん)  


梅林を鑑賞しながら登っていくと、所々剥き出しになった古墳の石室を見ることができる。この広い「近つ飛鳥風土記の丘」全体が墓場なのです。墓場といっても、博物館のような”現代の墓場”でなく、遠く千五百年も離れた”古の墓場”です。
「一須賀古墳群」と呼ばれ、わが国を代表する群集墳。この1.5km四方の丘陵地帯に、見つかっているだけでも200余基の古墳が存在するそうです。6世紀中頃から7世紀前半にかけてお墓で、横穴式石室を盛り土しただけの円墳で、直径10m、高さ数mほどの小規模のものがほとんど。この石室内に2~3個の遺体が埋葬されていたようです。規模からして地方豪族のもののようで、血縁、地縁によって結ばれた一族のものが数代にわたって埋葬されていったと思われる。この丘はそうした氏族たちの埋葬場所だったのです。

多くの古墳のうち40基ほどは整備され、実際に中に入ったりして見学でき、丘全体が実物の遺跡(お墓)博物館のようになっている。昼間といえ、誰もいない”墓場”を徘徊するのは気持ちよいものではありません。

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「王陵の谷」 河内飛鳥を往く (その 3)

2014年04月24日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 聖徳太子御廟(聖徳太子の墓、聖徳太子磯長廟)   


叡福寺の境内を真っ直ぐ進み、二天門をくぐると聖徳太子御廟(聖徳太子の墓) です。鬱蒼と茂る森をバックに三層の屋根が縦に並ぶ。陵墓でこんなの初めて見る。屋根の下には、阿弥陀三尊のご来迎を表した木彫りが掲げられている。聖徳太子が母や妻とともに葬られている「三骨一廟」を意味しているという。周囲は柵で囲まれ、正面の黒い門扉には菊の紋が燦然と光っている。宮内庁により天皇家の陵墓「聖徳太子磯長稜」に指定され管理されている。ということは叡福寺の境内ではない(?)。

聖徳太子は、父・用明天皇と母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)の間に生まれた(574年)。太子の両親は、ともに欽明天皇を父とする異母兄弟で、その母親同士は父、母を同じくする姉妹である。ややこしい近親結婚で複雑な家系図となるが、当時では普通なのでしょうか。それとも天皇家特有のこと?。日本史において聖徳太子ほど賛美され崇拝された人物はいない。推古天皇の摂政として、十七条憲法や冠位十二階を制定、遣隋使の派遣など進んだ政治制度や文化を取り入れ、歴史上の重要な改革を行ったとされる。しかし資格がありながらついに天皇となる事はなく、推古30年(622)に49歳才で皇太子のまま世を去った。ある面では”謎の人物”でもあります。三ヶ月ほどの間に母、皇太子、妻と相次いで亡くなっている。こうした謎の残る経緯から、毒殺説、伝染病死亡説、自殺説などの憶説が広まることに。

御廟は叡福寺の背後にある磯長山の丘陵を利用し造営され、径50メートル、高さ10メートルほどの円墳で「叡福寺北古墳」と考古学では呼ばれている。江戸時代までは誰でも石室内へ入ることができたようで、内部の様子が記録されている。内部は精巧な切石を用いた横穴式石室があり、3基の棺が安置されていたという。中央奥の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、手前左に膳部大郎女、右に太子と推定される棺だとされた。中世の人々はこの三棺合葬の形を阿弥陀三尊に結びつけ,とくに「三骨一廟」と呼び信仰の対象にした。誰でも中に入れたことから、太子信仰の高まりから後世に母と后の棺を追加し、無理やり「三骨一廟」としてのだ、という見解もあるが・・・。
明治12年(1889年)宮内庁の修復調査が実施された際に、横穴入口をコンクリートで埋めてしまった。それ以後、内部を見ることができない。見られてはマズイいのか、とも勘ぐりたくもなる。

資料の少ない古い時代のことなので、いろいろな説が展開される。最初は聖徳太子の棺一つだった、さらには聖徳太子の墓ではない、など唱えられる。極めつけは「聖徳太子は存在しなかった」という説(真説、偽説、戯説、珍説?)まであるが・・・、真相は?

聖徳太子御廟の円墳左側に、背後の山へ登る階段が見える。この上にまだ何かあるんだろうか?、それとも展望台が、と息せきながら200mほどの登り道を上がると、広場になっっており中央に奇妙な塔が建っている。これは何だ?、と周辺を見渡すが、標識も説明もない。あの聖徳太子がお眠りになっているお墓の背後というのに。雑木林に囲まれ展望もなし、木立の間からチラッと見えるのは隣の霊園の墓場ばかり。息せき登ってきたのを悔いました。

 用明天皇陵(春日向山古墳)  


叡福寺を出て、太子町の中心地を東へ10分ほど歩けば用明天皇陵(春日向山古墳)がある。宮内庁治定の「用明天皇・河内磯長原陵(かうちのしながのはらのみささぎ)」です。

第31代用明天皇は、欽明天皇の第4皇子。母は蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)で、蘇我氏の血を引いた最初の天皇といえる。聖徳太子の父でもある。短命のため業績は無いが、歴代天皇の中で初めて仏教への帰依を表明されたことで知られている。その意思は推古天皇、聖徳太子などの蘇我系に引き継がれ、排仏派の物部氏との争いに発展していく。

 孝徳天皇陵(山田上ノ山古墳)  


竹内街道を東へ進んでいくと、左側に石標と階段が見える。孝徳天皇陵への入口です。小高い丘の上が「王陵の谷」最後の王墓で、宮内庁が孝徳天皇「大阪磯長陵」に治定し管理ている。別名「うぐいすの陵」と呼ぶとか。考古学的には「山田上ノ山古墳」という径32mの円墳です。

この孝徳天皇には「悲憤のうちに薨去」「哀れな末路」「失意の内に病死」の見出しが付けられる。
第35代・皇極天皇の代、飛鳥板蓋宮で起きた「乙巳(いっし)の変」(645年6月)と呼ばれるクーデターで蘇我本宗家は滅ぶ。女帝の皇極天皇は退位し、有力者に皇位を譲ろうとしたが、激動の時期誰も引き受けようとしない。結局は皇極帝の実弟であった軽皇子が周囲から天皇位に押し上げら第36代孝徳天皇として即位することになる(在位645 - 654)。足が不自由で、しかも気が弱く凡庸な性格であることを自覚していた皇子は、天皇の器ではないと幾度も固辞したが押し切られた。クーデターの翌々日のことで、軽皇子はすでに50歳の老人であった。
大化改新で人心を一新するため難波長柄豊碕宮に遷都し住む。自ら望んで皇位に就いたわけではない。実権はクーデターの首謀者・中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足が握り、クーデター後の「大化改新」と呼ばれる改新政治では蚊帳の外におかれた。ところが8年後の白雉4年(653)、反対する天皇を難波に置き去りにし、夫人の間人(はしひと)皇后、皇極上皇、中大兄皇子らは公卿大夫・百官らを引き連れ、ようやく造営が終わったばかりの難波の宮を捨て、さっさと飛鳥の河辺行宮に戻ってしまう。難波に置き去りにされ、悲痛のあまり病に倒れた孝徳帝は翌年59歳で薨去した。
蘇我氏滅亡後なのに、飛鳥と離れた蘇我系の王墓の谷に埋葬された。そういう意味でも悲運の天皇といえる。憤死説や毒殺説までも・・・。

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「王陵の谷」河内飛鳥を往く(その2)

2014年04月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

大和の史跡巡りを始めてから、石に出会うとパタッと立ち止まるようになった。今まで何も気に留めなかったのに、最近石を注視する変な(?)クセが。
道端の石材店の置き場に居並ぶ石像、燈籠などをしげしげと眺めます。オヤッ、「寝そべり地蔵さん」が・・・




 西方院(さいほういん)   


太井川沿いに太子町の中心へ進み小高い丘に登ると広々とした墓地が広がり、その向こうに叡福寺の塔や聖徳太子の眠る森が見えます。この墓地を管理するのが西方院。伝承によれば、推古天皇30年(622年)聖徳太子が死去した後に、三人の侍女(乳母)、月益姫(蘇我馬子の娘)・日益姫(小野妹子の娘)・玉照姫(物部守屋の娘)は剃髪して仏門に入り、その名も善信・禅蔵・恵善と改め、聖徳太子廟がある叡福寺の門前にお堂を建立して太子の冥福を祈ったのが西方院の始まりと伝えられる。そして太子の遺髪を納め、太子自作の阿弥陀如来尊像を本尊として祀ったという。日本最古の尼寺とされています。
寺の南側の墓地内には、この三尼公(善信尼、禅蔵尼、恵善尼) の墓と伝えられる三基の石塔が覆屋に囲まれて残されている。


西方院入口の右横に下りの階段があり、その先には聖徳太子の眠る森をバックに叡福寺の門が望まれる。
聖徳太子に仕えた侍女たちは、ここから向かいの太子御廟を礼拝し、太子を懐かしんだことと思われます。

 叡福寺(えいふくじ)  

西方院からの階段を降り道路を横切ると、広い駐車場があり「聖徳皇太子磯長御廟」という大きな石碑が立っている。正面には叡福寺への入口となる階段と南大門がひかえています。
叡福寺の始まりは寺伝によれば、太子の没後、伯母にあたる推古天皇が方六町の土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたこととされている。そして奈良時代の神亀元年(724年)に、聖徳太子の追福のために聖武天皇の勅願によって大規模な伽藍が造営された、とされる。だが、この聖武天皇創建説には異論が多く、実際には太子信仰の高まりと共に平安後期に創建されたと考えられている。
いずれにしても、叡福寺は境内にある聖徳太子御廟を守る寺であり、奈良の法隆寺や大阪の四天王寺と並んで太子信仰の中心をなす寺です。

石段の上には、左右に金剛力士像が睨みをきかす南大門が建つ。現在の門は昭和33年に再建されたもの。門の額縁にはB級戦犯とおぼしき不埒の総理大臣名が・・・。額縁の真下を避け門をくぐると、叡福寺の境内です。通常、お寺は正面に本堂・金堂などが建つが、ここ叡福寺の真正面に対するのは聖徳太子墓になっている御廟です。寺の中心線は、あくまでも聖徳太子御廟で、その左右に伽藍が配置されている。


南大門をくぐった左側、境内の西側に、手前から多宝塔【国指定文化財】、金堂【府指定文化財】が並ぶ。
承応元年(1652)に再建された多宝塔には、東面に本尊として釈迦・文殊・普賢の三尊像が、西面に金剛界の大日如来を安置し、4本の柱には四天王の像が描かれている。昭和52年国の重要文化財に指定さる。

享保17年(1732)に再建された金堂は、止利仏師作の如意輪観音を本尊としています。高さ90cmの如意輪観音の坐像で、聖徳太子の本地が観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に基づいているという。

「王陵の谷」河内飛鳥を往く   (その1)

2014年04月14日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 「磯長谷(しながだに)」  


”山ごもれる”大和の国は、生駒山・二上山・葛城山によって大阪(難波、河内)と隔てられている。西国(吉備、北九州など)、さらには大陸の中国、朝鮮との交流にはこれらの山を越えなければならない。そのため山間の数少ない切れ目を利用し行き来していた。それが大和川の水運であり、日本最古の官道と云われる竹内街道(たけのうちかいどう)です。竹内街道が、二上山と葛城山とに挟まれた竹内峠を越えて河内に出た辺り、二上山山麓の西斜面の谷あいを「磯長谷(しながだに)」と呼んでいる。石川の支流の飛鳥川が流れる谷で、現在では大販府南河内郡太子町に属する。
この谷間は「王陵の谷」とも呼ばれ、蘇我氏と縁の深い用明天皇、推古天皇や聖徳太子などの王族が眠っている場所でもあります。今回はこの谷間の古跡を巡りながら、「近つ飛鳥風土記の丘」の梅林を見に行くのが目的です。

2014/3/3(月)8時半、出発地点の近鉄南大阪線・上ノ太子駅に着き、まず”源氏のふるさと”を目指して歩き始める。駅から飛鳥川を渡り、なだらかな丘陵地帯を登っていく。近くも、遠くも、この地域はブドウの産地。見渡す限りブドウ畑が広がり、山の斜面にブドウ畑の白いシートが陽光を反射しひときわ目立つ。まるで雪景色のようです。右上にかすんで見えるのが、二上山の雄岳(左)と雌岳。

 壷井八幡宮(つぼいはちまんぐう)  


なだらかな丘陵を超えると、住宅街の中に楠の木の巨木が茂る森が目に入る。これが壺井八幡宮です。八幡神として誉田別尊(応神天皇)・仲哀天皇・神功皇后を主祭神として祀る河内源氏の氏神です。
誰一人訪れる人のいない寂しい神社。かっての源氏はどうなってしまったのでしょう?。そもそも「源氏って何?」

天皇は多くの后を囲い、やたら子供を生みたもう。天皇家といっても懐事情から、生みたもう子供らの全ての面倒を見切れない。そこで何人かの子には、皇室と祖(源流)を同じくするという名誉の意味をこめた”源”姓を与え、地方に土地を与え「その地で、自分の力で生きていけ!」と追い出す。これを歴史用語で「臣籍降下(しんせきこうか)」と呼ぶそうです。そしてその地に土着化して武士団となるものが多かった。56代清和天皇を祖とする源氏を「清和源氏」と呼びます。他に、嵯峨源氏、文徳源氏、宇多源氏など二十一流あるといわれる。「平氏」も似たようなもの。桓武天皇が孫を臣籍降下し、平安京にちなんだ”平”の姓を与えたもの(桓武平氏)。
「清和源氏」の流れをくむ源満仲の三男・頼信(968-1048)が河内守に任官し、「香炉峯(こうろほう)」といわれていたこの辺りに私邸を営む(寛仁4年(1020))。これが「河内源氏」の始まり。そして頼信の子・源頼義(988-1075)が私邸の東側に社殿を造営し、源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請し河内源氏の氏神としたのが「壺井八幡宮」です。
そして頼義の子・源義家(1039-1106、八幡太郎義家)の代に最盛期を迎える。源義家の死後,河内源氏は衰退し,ついには平清盛に滅亡寸前まで追い詰められる。しかし義家の4代の孫である源頼朝と弟・義経の活躍で起死回生し,ついには鎌倉幕府を開き日本の支配権をも朝廷から奪いました。この時、河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鎌倉の鶴岡八幡宮に移ってしまいます。脚光を浴びていく鶴岡八幡宮、忘れられていく壺井八幡宮・・・。鎌倉の鶴岡八幡宮に比べ、現在の壺井八幡宮の静けさ・寂しさはどうしたものでしょう?。

平忠常の乱(1028)での頼義の活躍を目にした相模守・平直方は、相模国鎌倉を持参金として自分の娘を頼義に嫁がせた。これが河内源氏と鎌倉との繋がりの始まりです。そして頼義が東国進出の際、壺井八幡宮を鎌倉に分社し鶴岡若宮を造った。源頼朝が幕府を開く際、鶴岡若宮を現在地に移し、改めて石清水八幡宮を勧請したのが鎌倉の鶴岡八幡宮の創始とされる。そうした意味で、壺井八幡宮は「元鶴岡八幡宮」なのです。もう少し脚光を浴びてもよさそうですが。

 通法寺跡と源頼義の墓  


壷井八幡宮から10分ほど歩いた所に通法寺跡がある。源頼義が源氏の菩提寺として居館の隣に小堂を建てたことから始まる。やがて源氏の隆盛と共に河内源氏の氏寺として栄えた。
しかし徳川幕府が崩壊し明治維新となると、廃仏毀釈によって廃寺とされ全てが破壊され消滅しました。現在、通法寺は門が唯一残っているだけ。この門とて戦後復元されたもの。

門を入ってすぐ左側の境内に、源頼義(988-1075)の墓が見えます。境内は頼義の墓以外何も無く、広々とした空き地になっており、廃仏毀釈の凄まじさ痛感させられます。通法寺の境内だったと思われる空き地の突き当たりに、河内源氏の居館があったようですが、現在はブドウ畑になっていて痕跡さえない。


 丘の上の頼信、義家の墓  



通法寺跡右側の竹薮の茂る小高い丘の上の頼信、義家の墓があります。
頼信、頼義の墓に比べこの義家の墓が最も大きく立派です。「八幡太郎義家」として活躍し一番有名になったためでしょうか。







最後に河内源氏の祖・頼信の墓。

この周辺には、壺井八幡宮・通法寺跡・河内源氏三代の墓など源氏ゆかりの史跡が残り、「源氏の里」と呼ばれている。
そしてこの河内源氏の系統からは、源頼朝・足利尊氏・新田義貞・木曾義仲・武田信玄・今川義元・明智光秀・徳川家康など名だたる名将が輩出しているのです。


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三輪山と「山の辺の道」(その4)

2014年03月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 大和神社(おおやまとじんじゃ)  

JR長柄駅近くに大和神社(おおやまとじんじゃ)がある。「山の辺の道」からはかなり離れるが、これも由緒ある神社なので訪れてみた。大和の地主神・倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を主神として祀り、伊勢神宮と並ぶ最古の神社である、とされる。
「檜原神社」とところで書いたように、崇神天皇の代に、天照大神は豊鍬入姫命によって笠縫邑で祭祀させ、一方倭大国魂神は市磯邑に遷し皇女・渟名城入姫(ぬなきのいりひめのみこと)を斎主として祀らせることになり、神地を穴師邑にさだめた。ところが淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。そこで大倭直の祖、市磯長尾市(いちしながおち)を祭主として神地が定められ鎮座するようになたのが大和神社だそうです。
社殿手前に、日本海軍が世界最強を誇った戦艦大和の石碑が建てられている。ここが名付けに由来するからでしょう。

 内山永久寺跡  


「山の辺の道」をさらに北上すると、石上神宮の手前に「内山永久寺跡」という案内板が建っている。この周辺には内山永久寺というかなり大きなお寺があったそうです。
平安時代末の永久年間(1113~7)年、鳥羽上皇の勅願により創建された寺で、境内は五町四方の広大な地域を占め、坊舎五十、堂宇二十余りを数えた巨大寺院だったようです。石上神宮の神宮寺でもあり、寺領と多くの寺坊を有し、かって「西の日光」とさえ称賛されたほどだったようです。
しかし明治の廃仏毀釈で廃寺となり、伽藍はことごとく破壊・消滅され、現在では寺の敷地の大半は農地となり本堂池だけが残るのみになっている。寺名の由来は「 永久年間に造立された」からだそうですが、明治の廃仏毀釈で潰され”永久”寺とはならなかった。神様、ムゴい!
池の傍らに芭蕉句碑「うち山や とざましらずの 花ざかり」が、悲しそうに建てられている。

 石上神宮(いそのかみじんぐう)  


石上神宮は、古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓の鬱蒼とした常緑樹に囲まれた高台に位置する。神社でなく「神宮」と呼ばれ、最高の格式をもつ。古来、神宮と呼ばれるのは石上神宮と伊勢神宮の二つだけ。
主祭神は「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ) 」で、「布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊」だそうです。それでは「布都御魂剣」とはどんな剣だろうか。
社伝によれば、布都御魂剣は神代の時代に武甕雷神(たけみかずちのかみ)が葦原中国平定の際に使った神剣(平国之剣、ひらくにゆきけん)で、初代神武天皇の東征時に天皇を助けた剣だとされる。
この神剣を、第10代崇神天皇の勅命により物部連の祖・伊香色男命(いかがしこおのみこと)が、現在の地である「石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)」に「石上大神(いそのかみのおおかみ)」として祀ったのが石上神宮の創建だとされる。
物部氏は神剣を預かり祭祀する任務を与えられる同時に、朝廷の多くの武器を管理する任務をも得る。
物部氏の氏神だった石上神宮は神剣を祭祀する神社であるとともに、刀剣などの武器が納められ、膨大な武器を保管する朝廷の武器庫の役割も果たすようになった。そして物部氏は大和朝廷内で武門の棟梁となり、強力な軍事氏族として重きをなしていく。
写真は国宝の拝殿です。石上神宮にはもともと本殿は無く、霊剣が埋められているという禁足地と、その傍らに建てられた「神庫(ほくら)」と呼ばれる武器庫があるだけだった。現在の拝殿の奥にあたる。この瑞垣に囲まれた禁足地は「石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)」「御本地(ごほんち)」などと称され、祭祀の対象とされてきた。ちょうど、大神神社が三輪山を祭祀の対象としたように。
明治7年(1874)、当時大宮司だった管政友(かんまさとも)がこの禁足地を発掘してみると、地表から1尺余り下に瓦が敷き詰められており、さらに1尺下には一間四方に礫が敷かれその下から伝承どおり神剣、武具や玉類などが沢山見つかった、という。拝殿奥の禁足地は今もなお、「布留社」と刻まれた剣先状の石瑞垣で囲まれて、最も神聖な霊域として非公開・立入り禁止となっている。

また石上神宮には、祭神ではないが貴重な剣が見つかっている。国宝「七支刀(しちしとう・ななつさやのたち)」です。明治7年(1874)の禁足地発掘時に、菅政友は宝物の確認/点検のために禁足地の南西の隅に建っていた神庫に足を踏み入れ、厳重に封印された木箱を開き、そこに刀身から両側3箇所で鹿の角状に枝分かれした珍しい形をした剣を見つけた。そして黒く錆びた刀身に金色に見えるものがあるのに気づき、小刀の先で錆びを静かに落としたところ、文字があるのを発見したという。もともと学者でもあった菅政友は興味を覚えると,刀身に施された金色の文字を確認してみた。

全長74.8cm、刀身の左右に3つづつの枝が互い違いに出ている異様な形をしており、「六叉の鉾(ろくさのほこ)」と呼ばれて神庫の中に大切に伝えられてきた鉄剣。真ん中の1本とあわせて「七支刀」と呼ばれる。
形からして実用的な武器としてではなく祭祀的な象徴として用いられたと考えられている。

日本の古代史において、3世紀の邪馬台国の時期から5世紀の倭の五王の時代までの間は客観的史料が無く、”謎の4世紀”と呼ばれている。そんな中にあって七支刀に刻まれている銘文は、”謎の4世紀”の解明に貴重な資料として注目されている。
刀身の表面に34文字、裏面に27文字、合計61文字の金象嵌(きんぞうがん)の銘文が施されていた。銘文には、泰和4年(当時百済が朝貢していた東晋の年号であり、西暦369年にあたる)に、百済王が倭王・旨に贈った(献上か下賜か論争あり)、とある。この倭王・旨が誰であるか?。その銘文の解釈・判読が明治以降続けられている。この銘文の読み方について歴史家たちはさまざまな説を立ててきたが、現在まで定説とされるようなものはないようです。
七支刀は御神体と同様のものとして奉斎されているが、神体そのものではない。昭和28年(1953)に国宝の指定を受け、現在は他の神宝とともに、昭和55年(1980)に完成した宝物収蔵庫に奉安されている。非公開で、その姿を実際に見ることはできない。

 天理教  


石上神宮から左進しJR天理駅へ向かう。進むに従い、異様な(?)風景が広がってくる。幹線道路の真上に、温泉地の巨大な旅館のような建物が道を覆う。その下をくぐると、幅50mもあろうかと思われるような広い道が真っ直ぐ伸びている。両側には花壇が並び、路上にはゴミ一つ落ちていない。そして人影が全く無い。何か気持ち悪く、不思議な世界に入り込んだ感がします。ここは公道?、私道?。「ちょっと、そこのあなた!」と、どこからか声を掛けられないかと不安になってきた。急ぎ足で進み、鳥居風の黒い大門の下をくぐると、大広場が待っている。おお!、ここは天安門広場か!、と思いたくなるような天理教本部(本殿)前でした。まだ夕方5時過ぎなのに人影がなく静かな天理教施設周辺でした。
天理教は、天保9(1838)年に教祖・中山みきが神の啓示によってこの地で始めた宗教で、信徒は世界各国に300万人を数えるという。天理市に天理教が創られたのではない。昭和29(1954)年に周辺6町村の合併時に、天理教の発祥の地なので「天理市」と命名された宗教都市なのです。
こうした天理教の圧倒するような施設を見ていると、今まで見てきた古墳や神社などがかすんでしまう。宗教には、目に見える形で巨大なもの、圧倒するもの、威厳があるもの、神秘性があるもの、そうしたシンボルが必要なようです。そうした具象性が人々の心を揺さぶるのでしょうか?。だから巨大な建造物を造りたがるのだろうか。信仰なんて心の中だけでよいはずなのに・・・。

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三輪山と「山の辺の道」(その3)

2014年03月14日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 磯城珠城宮跡・纒向日代宮跡  



JR桜井線の踏み切りを渡り、山裾の「山の辺の道」を目指して東へ進む。広々とした田園地帯の中、道端に「垂仁天皇纒向磯城珠城宮(すいにんてんのう・まきむくのしきたまきのみや、玉垣宮)跡」の石柱と案内板だけが置かれている。それ以外に宮殿跡と思われる痕跡は何もありません。第十一代垂仁天皇は、第十代崇神天皇の第3皇子にあたり、ヤマトタケルの祖父でもある。さらに東へ行くと、これも石柱と案内板だけですが「景行天皇纒向日代(まきむくひしろ)宮跡」があります。

神話・伝承の多い天皇の中、第十代崇神天皇を大和朝廷を開いた初代天皇だ、という考え方が現在では有力です。崇神~垂仁~景行と三代続く天皇が、この周辺に宮殿を設け、また葬られている。やはり「山の辺の道」のここ纒向を中心とした一帯こそ大和朝廷、即ち日本の国の始まりの地と言っていいかもしれない。

 相撲発祥の地とされる「相撲神社」  


宮殿跡からさらに山裾に入っていくと、穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうず)の手前に相撲発祥の地とされる「相撲神社」があります。神社といっても石の鳥居と土俵らしきものがあるだけです。
相撲発祥の由来伝承は・・・
「日本書紀・垂仁紀」に、垂仁天皇は纒向に本拠をおく倭氏の祖先になる長尾市(ながおいち)に命じ、出雲国の勇士・野見宿禰(のみのすくね)を呼んで来させ、当時大和に豪腕として名を轟かせ葛城の地に住んでいた当麻蹴速(たいまのけはや)と力競べをさせた。天皇の前で相撲を取る天覧相撲の最初です。力でねじ伏せた野見宿禰に、天皇は褒美として当麻蹴速が持っていた大和国当麻の地を与えた。その後、野見宿禰は朝廷に末永く仕えたそうです。

 渋谷向山古墳(景行天皇陵)と行燈山古墳(崇神天皇陵)  


「山の辺の道」を北上していくと幾つか大きな前方後円墳に出会う。これらは地名から「柳本古墳群(やなぎもとこふんぐん)」と呼ばれ、三世紀末から四世紀の古墳時代前期の古墳です。まず最初に出会うのが「渋谷向山古墳(しぶたにむかいやま、景行天皇陵)」(写真上)。全長300m、周濠が1キロの巨大古墳で、大和地方では見瀬丸山古墳に次いで二番目、全国でも七番目の大きさです。周囲は池や鉄柵で囲われ、宮内庁管理の立ち入り禁止地。この古墳は、古事記に「御陵は山邊の道上にあり」という記述があり、第十二代景行天皇の陵墓「山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)」と比定されている。

ミカン畑やイチゴ園、柿畑の間をさらに北へ行くと、「行燈山古墳(あんどんやま、崇神天皇陵)」が佇む(写真下)。全長242mの墳丘と周濠からなる三世紀後半から四世紀初頭の、典型的な初期巨大前方後円墳。
現在この古墳も宮内庁によって、第十代崇神天皇の墓「山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)」とされている。大和朝廷の実質的な創始者とも言われる天皇さんの墓所だけあり、これまで見てきた中で一番金かけ整備されている。正面階段を登ると、玉砂利が敷き詰められた前庭があり、その正面で厳めしい構えの扉が睨みつけている。近寄りがたし!、恐る恐る近寄ってみると、扉の向こうは綺麗な水をたたえた広いお堀(周濠)になっていて、なお近寄りがたし。はるか遠くから遥拝するようになっている。

かっては、ここ行燈山古墳が第十二代景行天皇の陵で、渋谷向山古墳が第十代崇神天皇陵とされていた。ところが江戸時代末に「文久の修陵」と呼ばれる大規模な天皇陵の修復が行われた(1861-1866年)。その際に二つの陵墓比定の取り替えが行われ、現在のように行燈山古墳を崇神陵、渋谷向山古墳を景行陵と変更されたようです。変更の理由は明らかにされていない。しかし現在、考古学的には築造時期が渋谷向山古墳のほうが少し古いとされている。天皇の年代と古墳の築造時期が逆で合わないのです。その上、渋谷向山古墳と比較して、行燈山古墳のほうが一回り小さい。だから比定変更以前のほうが正しかった可能性が強い。宮内庁による天皇陵指定のいい加減さの好例です。

宮内庁「天皇陵」公式ページは陵墓名と所在地を記すのみで、どうして陵墓と比定したのか、一言も触れていない。なんとそっけないページだことか、ボロが出るのを恐れられているのでしょう。これ以上の内容を公表したら「天皇家の静安と尊厳」を損なうことになるんでしょうネ。


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三輪山と「山の辺の道」(その2)

2014年03月10日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 箸墓古墳(はしはかこふん)  

纒向遺跡に向かう途中。大池をバックに箸墓古墳(はしはかこふん)と三輪山が美しい。箸墓古墳に葬られた姫の元に毎夜通った男は、あの三輪山の神の化身だった。はるかいにしえの、「国のまほろば」を感じさせてくれる風景です。この一帯は初期大和王朝の発祥の地である。この周辺に邪馬台国はあったんだろうか?

墳長約280m、後円部径約160m、高さ約30m。全国で11番目に大きい前方後円墳。正面に回ると、宮内庁管轄の陵墓でおなじみの逢拝所らしき小さな鳥居(?)がある。守衛所らしき建物があり、明かりがともっている。絶えず監視してるんだろうか?。ものものしい注意書きもみられる。あまり長居するところではないようです。

正式の陵墓名は「倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)大市墓(おおいちのはか)」。飛鳥・奈良時代に入るとこの纒向地域に市が発達し、大市と呼ばれた。そこから「大市墓」と名付けられた。一般的には「箸墓古墳」という名称の方が有名です。現在陵墓参考地として宮内庁が厳重に管理し立ち入りを認めていない。学術目的の発掘調査ができないため、被葬者の納められた石室の構造などは、厚いベールに包まれたまま。
「日本書紀」にその被葬者名と構築の状況が記載された唯一の墓です。崇神天皇のオバ(第七代考霊天皇の皇女)に当たる「倭迹迹日百襲媛命」が被葬される経緯の説話が書かれている。崇神天皇十年の条に、概要「倭迹迹日百襲姫命が死んだので大市に葬り、この墓を箸墓 (はしのみはか)とよんだ。この墓は、昼は人間が築き、夜は神が造った。しかもこの墓を築造するのに多くの人が 大坂山(二上山)から箸墓まで相並んで手送り式にして石を運んだ」と記されている。
「倭迹迹日百襲媛命」を卑弥呼とする説など話題が多い。卑弥呼の死は248年ごろとされるため、箸墓古墳の築造時期こそがカギを握る。しかし、築造年代の根拠となる土器をめぐっては、研究者によって240~280年と数十年の開きがあり、論争の決着には至っていない。内部に入れないので、周辺の濠や壕から採掘した土器や堆積物などから築造年代を割り出そうと努力されている。その結果250年前後の築造とされるが、内部の調査でないので確実なことはいえない。被葬者は、卑弥呼説、台代説、男王説などにぎにぎしく、古代への想像力を膨らませ歴史への興味を沸き立たせてくれる。

2013/2/20日の新聞に「卑弥呼の墓? 箸墓古墳、20日に立ち入り調査」の見出しが躍った。ついに科学のメスが入るか!、と期待したのだが、よく読んでみるとがっかり。
日本歴史・考古学学会が2005年から要望書を提出していたのに対して、宮内庁が初めて許可した立ち入り調査の内容は、研究者ら数人の代表による目視のみによる観察だけ。地面を掘ったり、落ちている遺物を拾ったりすることは認められず、埋葬施設がある墳丘上部も最下段から見上げて観察するだけのようです。日本の先生方は宮内庁にナメられているんじゃないの!
宮内庁は「陵墓は尊崇の対象であり、静安と尊厳が何より優先される」とし、今回も制限を緩めない方針だとか。そもそも陵墓かどうか疑問視されているんだヨ、それを解明するのが先じゃないの(怒り!!)。その新聞には「箸墓古墳は「邪馬台国論争」にかかわる古墳として一般の関心も高く、陵墓の公開をめぐる議論が活発化しそうだ」と結んでいる。その後一年経つが、どうなったのか音沙汰無し。活発な議論も聞かれない。アア嘆かわしヤ!!。
 纒向遺跡(まきむくいせき)  

箸墓古墳から300mほど北に進むとJR巻向駅があり、その周辺一帯が現在注目されている「纒向遺跡(まきむくいせき)」の場所です。現在無人駅となっている巻向駅のホームに立つと周辺が全て見渡せる。ホーム東側は住宅街になってしまっているが、西側は広々とした空き地のまま。ところどころ住宅が点在するが、これ以上の開発はストップされている様子だ。遺跡範囲はここJR巻向駅を中心に東西約2キロメートル・南北約1.5キロメートルの広範囲に及び、あの箸墓古墳も含まれる。
三世紀初めから中頃のものとみられる、国内最大規模の大型建物跡が発見された。ちょうど卑弥呼の時代に重なり、大型建物は「卑弥呼の居館」ではないかと俄然注目を集める。まだ発掘調査は10%にも及んでおらず、今後何が飛び出してくるのか、大いに期待される遺跡です。2013年6月21日ここ纒向遺跡は国の史跡に指定されました。古墳とは?、邪馬台国か?、ヤマト政権発祥即ち日本のクニの始まりは?、大王(天皇)の始まりは?、など多くの鍵を握っている遺跡と思われます。

なお「纒向」の名前は、日本書紀に垂仁天皇の「纒向珠城(まきむくたまき)宮」、景行天皇の「纒向日代(まきむくひしろ)宮」とみえる。そこから明治38年の町村合併時に「巻向村」とされ、遺跡や古墳の名称は昔の漢字をそのまま使っているそうです。

IR巻向駅を西方に300mほど行くと纒向小学校があります。この小学校を取り囲むように幾つかの小さな古墳が点在する。石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳で、纒向古墳群と呼ばれている。これらは三世紀前半の築造とされ、箸墓古墳より古い。「弥生時代の墳丘墓」だという意見もあるが、前方部に不完全だが短いホタテ貝のような形をした墳丘部をもつのが特徴。そこから「ホタテ貝型前方後円墳」または「纒向型前方後円墳」と呼ばれている。箸墓古墳のような定型化した前方後円墳が造られる前の段階の墳丘形式と考えられる。それらの「纒向型前方後円墳」が築造された三世紀前半から中頃の時期は、ちょうど卑弥呼が活躍した時期と一致する。そして卑弥呼の死(248年)と、本格的な大型前方後円墳の始まりである箸墓古墳築造の時期が符合する。こうした点から否が応でも、纒向遺跡・古墳と邪馬台国・卑弥呼とを結び付けたくなる。しかし現状はまだ推測の段階に過ぎない。箸墓古墳に考古学的なメスを入れる必要性を痛感します。そのためには宮内庁解体の必要性も・・・。

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三輪山と「山の辺の道」(その1)

2014年03月07日 | 寺院・旧跡を訪ねて
昨年(2013年)五月、二日間に渡って歩いた古道「山の辺の道」(奈良県)の写真が未整理になっていたにで、この度1年ぶりにまとめホームページにアップしました。その一部を紹介します。
大和盆地の東山麓沿い、三輪山の山裾を南北に通ずる「山の辺の道」周辺は、古代ヤマト政権の源流の地でもあり、また卑弥呼の邪馬台国との関連も指摘されている地域です。それを示す数々の遺跡・古墳が残っています。箸墓古墳を始めとする巨大な前方後円墳、大神神社や石上神宮などの古社が「山の辺の道」に沿うように散在している。現在は「山の辺の道」として整備された歴史散策道に、さらに「東海自然歩道」という政府認定ハイキングコースの一部になっています。JR桜井駅から出発し北上し、天理市までの記録です。

JR桜井駅から街中を北東へ20分位歩くと、目の前が開け大和川(初瀬川)と三輪山が現われる。「三輪王朝」とも呼ばれる古代ヤマト政権を象徴する神の坐します三輪山、その山裾のこの一帯は、古代「海柘榴市(つばいち)」と呼ばれ、交易の中心地として市が栄えた。それはここが古代において交通の要衝だったからです。
北へは「山の辺の道」で奈良・京を経て北陸・日本海へ。東へは初瀬(はつせ)街道が通り伊勢を経て東国へ。南へは磐余(いわれ)の道・山田道から飛鳥を通じて紀伊の熊野へ。さらに横大路から竹之内街道を通って河内・難波へも通じている。特に重要なのが大和川の水運で、物資を運ぶのには舟便が一番よかった。大和川は難波・大阪湾から瀬戸内を経て大陸へ繋がっている。そこからシルクロードの終点とも云われる。こうした街道、川筋の交わる場所として市や宿場が栄え賑わった。
推古16年(608)、遣隋使として中国・隋へ派遣された小野妹子が帰国した時も、難波津から大和川の舟運を利用し海柘榴市へ上陸する。日本書紀に「唐ノ客ヲ海柘榴市ノ衡(こう)ニ迎エ」とある。そのとき来日した隋使裴世清(はいせいせい)は海柘榴市から陸路(上ツ道)、飾り馬75頭を仕立てて推古天皇が待つ小墾田宮へ入る、と日本書紀に書かれている。聖徳太子が飾り馬を仕立て大パレードで歓待したものと想像される。またここは「仏教伝来(538年)の地」ともされています。

橋を渡り山裾に入っていくと、第十代崇神天皇の磯城端離宮跡(しきのみずがきのみや)に出会う。初代神武天皇から九代までは作り話(神話)とされているので、実質、崇神天皇が初めての天皇と考えてよい。ということは、この地が日本初の天皇の住居(皇居)となる。これ以後、天皇ごとに大和、難波、近江などへ転々と移り、平城京・平安京へと歴史を刻んでいく。ここがその出発点です。ぜひ立ち寄ってみたいポイントです。
この地域の鎮守「志貴御県坐神社(しきのみあがたにます)」という神社の境内で、正面に見える社のすぐ裏に、柵で囲まれた宮跡が残されている。志貴は「磯城」でもある。>

さらに三輪山の裾まで入ると森に囲まれた大神神社(おおみわじんじゃ)が鎮座する。”神”とかいて”みわ(三輪)”と読む。本殿はなく拝殿のみ。御神体が三輪山だからで、その三輪山には大物主の命が坐しておられる。そのため本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居をとおして大物主の命の宿る神体山・三輪山を信仰する。 しかし残念ながら「三つ鳥居」は外からは見る事が出来ません。神様はどこまでも神秘なのです。現在の拝殿は寛文四年(1664年)四代将軍家綱が再建したもの。

傍に大神神社の摂社「狭井(さい)神社」があります。「さい」とはヤマユリことで古代にはこの地にユリがたくさん咲いていたようです。
古くから「三諸(みもろ)の神奈備(かんなび)」と称され、神の宿る神体山として崇められてきた三輪山に入山参拝(登山ではありませんゾ!)するには、この神社で受付をしなければならない。

狭井神社の境内に入山受付所がある。そこで簡単な作法の説明があり、入山者カードに氏名、住所、電話番号を書き、三百円支払う。そして「三輪山参拝証書」と書かれた白いタスクをもらいます。このタスキが登拝証になり、入山中は首に掛けていなければならない。山中では、飲食、喫煙、写真撮影が禁止され、下山してからも山中での見聞・出来事を他人に話してはいけない。どこまでも神秘で厳粛な山です。これ以上書けないナ!・・・・。でもチョットだけ書けば、高さ467mなので初心者用の山になる。しかし見くびってはいけない。距離は短いが、かなり急勾配の箇所もあり、年配者には辛いかもしれないが、そこは信仰心で・・・。途中、一箇所だけ簡易トイレ付き休憩所があります。ただし見晴らしは全くきかない。物見遊山するところではなく、信仰で登る山なんです。首に掛けたタスキには鈴が付いていてチリンチリンと音が鳴る。なにかお遍路さんのような気分に。
頂上は「奥津磐座(おくついわくら)」といわれ、巨石が沢山転がっている。巨石は御幣付きの注連縄で囲まれ、みなさん順番に並んで手を合わせて帰っていかれる。「磐座」とは神様が鎮座される岩のことです。(こんなことも書いてはいけなかったのかナ・・・)
タスキをかけない人、写真を撮る人、誰一人見かけなかった。一人ぐらいは掟破りが・・・、と思ったのですが。そうさせない雰囲気がこの山にはある。頂上の注意書きの最後に「大神さまはいつも御覧になっておられます・・・」と書かれていた。監視カメラは設置されていないだろうけど、霊なる御眼で監視されているのかも。サァ、早く下山しョ。下山したら、案内所で下山報告をし、タスキを返却する。

三輪山内では全く展望がきかなかったが、狭井神社を西方向に下って行くと「大美和の杜(おおみわのもり)」展望台があります。周辺の雰囲気に似つかわしくない「恋人の聖地」などという名前が付けられている。
三輪山を含め「山の辺の道」で見晴らしの良い場所はほとんど無く、唯一こだけが大和平野の眺望を楽しめます。はるか彼方にかすかに見える山並みは、右端から二上山、その左方向に葛城・金剛の山々が続く。その手前にポッコリ飛び出た小山が、右から耳成山・畝傍山・香具山の大和三山。大神神社の大鳥居も見えます。恋人がいなくても十分堪能できますゾ。

「山の辺の道」は「東海自然歩道」に組み込まれており、東京都八王子市の「明治の森高尾国定公園」から大阪府箕面市の「明治の森箕面国定公園」までの11都府県約90市町村にまたがる長さ 1697kmの長距離自然歩道(ハイキングコース)の一部になっている。
さすが日本を代表する古道だけあって道標や案内図は各所に設置されている。しかし山中の一本道とは違い、住宅街や田畑、雑木林の中を脇道に入ったり、裏道にまわったりして進んでいく。結構入り組み分岐が多く、広い道、狭い道、砂利道、土の道、舗装道と変化に富んでいる。時々、この道でいいんだろうか?と不安になることが度々あった。ハイキング姿の人とすれ違うと「間違ってなかった!」とホッとする。要所に設けられている案内標識を見落とさないように歩こう。
桜井から天理に通ずる「山の辺の道」沿いには、ほんとに多くの果樹園が見られる。ミカン、柿、桃、イチゴ・・・。遺跡地域特有の法的な縛りでもあるんだろうか?。

鬱蒼とした森の中に檜原神社(ひばらじんじゃ)が現れる。特殊な形態の神社で、拝殿も本殿もない。正面に鎮座するのは「三ツ鳥居」と呼ばれる鳥居だけ。中央の鳥居の両側に少し低い小さな鳥居が連なり、三つの鳥居が一組になった独特な姿をしている。この「三ツ鳥居」は大神神社と同じ形で、三輪山を御神体としていた。しかし現在は 山中の磐座(いわくら)が御神体だそうです。

傍の案内板に神社の詳しい由緒が書かれている。
「日本書紀(崇神紀)」によると。天照大神と倭大国魂(やまとのおおくにたま)が宮中に「同床共殿」で祀られていた。ところが神様同士の仲が悪い。やむをえず第十代崇神天皇の六年に、倭大国魂は娘の淳名城入姫(ぬなきのいりびめ)に預け、天照大神は倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)に「磯城神籬(しきひもろぎ)」を建て皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託した。その倭笠縫邑がここ檜原の地であるといわれる。

その後豊鍬入姫命は、天照大御神の祀り場所を求め各地を巡幸され、最後に第11代垂仁天皇の時、伊勢の五十鈴川の上流に定められた。これが伊勢神宮(内宮)の創祀と云われる。こうしたことからこの檜原神社は「元伊勢」と呼ばれるそうです。また倭大国魂神は、変遷を経て現在、大和神社に祀られている。
神社横には「豊鍬入姫宮」が建てられている。伊勢神宮の初代の斎王になられた崇神天皇の皇女豊鍬入姫命を祀っている。斎王とは天皇に代わって天照大神にお仕えする役目で、皇室関係の方のご奉仕で現代まで続いているそうです。

法隆寺を訪ねて

2014年01月21日 | 寺院・旧跡を訪ねて


正月二日,初詣を兼ねて法隆寺を訪ねました。詳しくはホームページで。

まず南大門から入ります。国宝・南大門は,奈良の東大寺南大門,日光の東照宮陽明門・日暮門とともに日本三大門のうちの1つ。ただし奈良の東大寺のような圧倒する威圧感はありません。創建時のものは1435年に焼失し、永享10年(1438)に当時の西大門を移築し建立したのが現在の門のようです。そのせいか東大門に似ている。
南大門右側の土塀裏に若草伽藍跡がある。ここを発掘調査した結果,塔と金堂の基壇跡が見つかった。聖徳太子が607年に創建した法隆寺は,この位置だったのです。670年に火災で喪失し,その後順次,焼け跡にではなく北西約150m離れた現在地に再建されていった。これによって戦前の「法隆寺の再建,非再建論争」に決着がついたようです。発掘された基壇跡は,現在のように塔、金堂が東西に並ぶのではなく,南北に1直線に並ぶ「四天王寺式伽藍」だった。しかも伽藍の軸が正南を指ささず,その角度が斑鳩と飛鳥を結ぶ太子道と同じでした。飛鳥を向いて一直線に建てられていたようです。

正月なので込み入っているのかと思っていたが,それほどでもありませんでした。皆さん初詣には神社へお出かけなのでしょうか?。


南大門をくぐり直進すると国宝・中門に出る。門とあるからくぐれるのかと思ったら,真ん中に柱があり,閉ざされ通れない。この中門と廻廊に囲まれている領域が,法隆寺のシンボル,五重塔と金堂のある西院伽藍。入り口は左方にあり,拝観料千円払って中へ入る。千円って高いんジャン,と思われるが,大宝蔵院と夢殿への拝観料も含まれているので決して高くはない。チケットはポイしないように。




世界最古の木造建築といわれる五重塔と金堂。六重の塔のように見えるが,初重にのみ板葺の裳階(もこし)が付けられているという。裳階って何?。調べると,「軒下壁面に造られる庇(ひさし)の一種,機能的には建物の高さを高くせず内部空間を広げるため」だそうです。よく見ると金堂も同じです。三層建てではありません。五重塔と金堂とも,中へ入って一周し,貴重な国宝のお像を拝見することができる。


西院伽藍を出ると鏡池があり,その池縁に正岡子規の句碑が建てられている。

「法隆寺の茶店に憩ひて
  柿くへば 
    鐘が鳴るなり
       法隆寺 」

子規は本当にここで鐘の音を聴いたのか疑問視する人もいるが,それより柿はどうしたんでしょう?。茶店に売っていたんでしょうか。それとも,子規は大の柿好きだったそうなので,柿を絶えず持ち歩いていたんでしょうか。この秋は,柿を持参し,この池の傍で12時か2時又は4時に食べてみたい(この時間には時報の鐘が鳴ります)。


法隆寺の東の端一帯は「東院伽藍」と呼ばれ,その中心には国宝・夢殿がある。
ここには聖徳太子が住居として建てた斑鳩宮があったが,太子没後の643(皇極2)年,蘇我入鹿の軍勢により焼き討ちされ,聖徳太子一族も滅亡する。そうした怨念のこもった地に,739(天平11)年行信僧都らによって,聖徳太子の遺徳を偲んで夢殿を中心とする現在の東院伽藍が建造された。「夢殿」の名は,太子が瞑想し夢を見るための室があったことからきているとか。


夢殿の裏に廻ると,聖徳太子が母の穴穂部間人皇后のために建立したと伝えられ中宮寺がある。赤い実をつけた「もちの木(くろがねもち)」の横を通り進むと,池の中に浮かぶように建てられているお堂が目に入る。これは国宝・弥勒菩薩(正式には「如意輪観世音菩薩」)が安置されている本堂で,耐震性を考慮し鉄筋コンクリート造りで昭和43年5月に完成したもの。履物を脱ぎ階段を上がると十畳位の間があり,正面に右手の指先を軽く右頬にふれ半跏思惟のお姿をされた弥勒菩薩様がお迎えしてくれる。釈迦の瞑想の姿を模したものだそうです。こちらも座り,慣れぬ正座思惟してみる。何故こんなに黒いんだろう,としか浮かばなかった。お寺のパンフレットには,スフィンクス,モナリザと並んで世界「三大微笑像」となっている。スフィンクスって微笑んでいたっけ?。通行人に謎かけをし,解けないと殺してしまうというのに。

聖徳太子の里・斑鳩散策(その2)

2014年01月15日 | 寺院・旧跡を訪ねて


藤ノ木古墳を後にし、法隆寺を過ぎ北に向かう。矢田丘陵の裾野に沿って上って行くと車道に出ます。「松尾山詣での道」と標され、傍に丁標石「十八石」が建てられている。この道は、矢田丘陵上にある松尾寺への表参道なのです。丁標石はその道しるべで、ここが出発点になっている。横の堤は「天満池」で、この周辺には灌漑用のため池が沢山造られている。この天満池と車道を挟んだ横が天満山で、その麓に地域の守り神「斑鳩神社」が鎮座している。車道脇にすぐ石の鳥居、石階段があり近い。境内は狭く小さな神社だが、正月用に飾られ、格式ありそうな落ち着いた風格が漂う。この神社の祭神は菅原道真公だが、ここの境内には総社明神、五所明神(法隆寺東院の総鎮守)、白山権現も祀られている。もともと法隆寺境内に有ったのだが、神仏分離により明治2年(1869)ここに遷祀されたものだそうです。あの法隆寺といえども明治の廃仏毀釈の嵐は避けられなかったようです。

天満池を後にし、法輪寺を目指す。墓地あり、池あり、サイクリングロードあり、そして田畑が広がる中をのんびり20分ほど歩く。車道だが、車の往来は少なく歩きやすい。前方に三重塔が見えてきました。
法輪寺前を左に曲がり細道を進めば、民家の込み入った一角に国史跡「三井(みい)の井戸」跡がある。聖徳太子は我が子の産湯を使うのに三つの井戸(御井、赤染井、前戴井)を掘ったと伝えられ、その古井戸の1つで、「赤染(あかぞめ)の井」とも呼ばれた。聖徳太子と関係がある国史跡だけに,野ざらしの井戸とはわけが違い、瓦葺屋根に覆われ,柵で囲われている。法輪寺の別名である「三井寺」「御井寺」もこの井戸からきているようです。
聖徳太子の長子・山背大兄王が太子の病気平癒を願って建立したとされる法輪寺です。法隆寺の五重塔、法起寺の三重塔とともに斑鳩三塔と呼ばれる国宝の三重塔が有名でした。ところが1944年(昭和19年)7月21日、落雷により焼失してしまったのです。大東亜戦争の金属供出のため避雷針が撤去されていたのです。戦後、作家幸田文さんらの尽力で再建されましたが、国宝指定は解除されてしまいました。ここにも皇軍の犠牲者(寺)がおられるようです。ところで伊勢神宮の避雷針も撤収されたのでしょうか・・・?

法輪寺から東に歩き、瓦塚池傍の「瓦塚古墳群と三井瓦窯跡(みいがようせき)」を訪ね、そこから法起寺(ほうきじ)へ向かいました。ここの三重塔は、幸いなことに創建当時(八世紀初頭)の姿を残し、国宝にもさらには世界文化遺産にも登録されている。法隆寺など通常は塔が左なのですが、ここの塔は右側に配置された伽藍配置をとっているのが独特。奥の収蔵庫には国指定重要文化財の「木造十一面観音菩薩像」が安置されている。杉材の一木彫で像高350cm。外から金網越しに眺めることができるようになっている。3mを超える仏さまが,金網の向こうの狭い空間に立たされ収容されているお姿は、何か寂しく悲しくも異様です。**所に面会に来たような気分で、解き放ってあげたい気になります。

法起寺から南に下がり、国道25号沿いに出ると、二つの小さな古墳があります。写真では、奥が「駒塚古墳(こまづか)」、手前が「調子丸古墳(ちょうしまる)」です。駒塚古墳は、聖徳太子の愛馬「黒駒」を葬った墓とされる。太子はこの馬に乗り飛鳥の宮殿まで通勤(宮?)されたそうです。そして黒駒の手綱をとり、太子にお供したのが舎人の調子丸。どちらの古墳も、柵で囲われたり、道が無かったりで近寄ることはできない。そして丸く小さくなっているが、開発で周辺が削り取られているようです。どちらの古墳も聖徳太子に関係付けられているが、築造が古墳時代前期後半(4世紀後半)と推定されているため,時代が合いません。あまり細かく詮索しないで、斑鳩は全て太子の里として散策するのが分かりやすく楽しい。

古墳からさらに3~400m南へ下がり富雄川沿いに出ると、上宮遺跡と成福寺跡がある。この周辺は、聖徳太子が最愛の妃・膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)と共に晩年を過ごした「飽波葦垣宮(あくなみあしがきのみや)」の伝承地。太子もこの宮で亡くなったと伝えられている。
平成3年の発掘調査で、大型の掘立柱建物群や軒瓦などが見つかっている。上宮遺跡は公園として整備され、子供達の遊び場に。成福寺のほうは、廃寺となり跡地だけが周囲を金網フェンスで囲まれ残されている。「危険ですので境内への立ち入りをご遠慮ください」の注意書きがある。何が危険なのだろう?。
近年、聖徳太子像が揺らいでいます。私も「歴史の真実を知りたい」という気持ちと、太子のイメージ(多分創作された・・・)を壊したくないという気持ちで揺らいでいます。

詳しくはホームページで。

聖徳太子の里・斑鳩散策(その1)

2014年01月13日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2014/1/2(木)初詣に法隆寺を訪ねたついでに斑鳩を散策することに。
斑鳩小学校の側を通りました。校門と校舎塀が瓦葺き屋根つき,そして土塀風になっている。さすが寺院町の校舎だけあると感心した。塀だけ見ているとお寺と錯覚してしまう。



「ぽっくり往生の寺」「ぽっくり寺」とも呼ばれる吉田寺(きちでんじ)。ご本尊の前で祈祷を受けると、「ぽっくり」と安楽往生できるそうです。嬉しいような悲しいようなお寺さん。また「腰巻祈祷の寺」とも呼ばれるようだが,その由来は不明。





聖徳太子が法隆寺建設の場所を探していると,白髪の爺さんが現れ,この斑鳩の地を示されたという。この爺さん,実は竜田明神さんでこの龍田神社(たつたじんじゃ)に祭られている。
境内には,県指定の天然記念物になっている蘇鉄の巨樹がある。それよりも、広くもない境内に覆い被さっている一本の楠の木の大きさに圧倒されました。

龍田神社を北に丘陵沿いに上っていくと、10分位で藤ノ木古墳のある広場が広がる。その中央に真ん丸い古墳がお皿をひっくり返したように横たわっている。あたかもここに人工的に造られたかのように、矢田丘陵とのバランスも良い。ここも高松塚古墳と同じくらい有名な古墳なので、周辺は整備され解説板やベンチが設置されるなど公園風になっている。


法隆寺が陵山(ミササキ山)としてこの古墳を守ってきたので、盗掘を受けず副葬品がそのままの状態で出土している。また、合葬された二体の人物の人骨が埋葬当時の状態のまま見つかる。金銅製の冠や靴などを身に付けたこの二人は誰なんでしょうか?。人骨の調査では、北側の人物は17~25歳の男性、南側には20~40歳の男性の可能性が高いそうですが、今だ誰なのか確定されていない。場所からして、聖徳太子と関係深い人物であることは間違いないと思われます。
丸い円墳の南側に、中を覗けるガラス窓をもった扉があります。扉は開かないが、人が近づくとセンサーが働き内部の明かりが点く。中を覗くと奥に赤色の石棺が見えます。

詳しくはホームページで。