山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

高取城址・壷坂寺へ 1

2022年03月23日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年12月2日(木曜日)
紅葉シーズンの終わりごろ、奈良盆地南方に位置する高取城址と壷坂寺を訪ねることにした。壷坂寺は、以前文楽でお里・沢市で知られる「壺坂観音霊験記」を観劇し印象に残っていたので、一度訪れてみたいとかねがね思っていた。近くには、紅葉の美しい高取城址があり、地元は「日本一の山城」と謳っている。
高取城址・壷坂寺へは二つの道があります。一つは、土佐街道と呼ばれる町並みを通り高取山へ登り、山頂にある高取城址から壷坂寺へ下るコース。高倉山は標高580mほどだといえ、かなり距離があり山登りに違いない。もう一つの方法は、近鉄吉野線の壺阪山駅から定期バスを使い壷坂寺へ行く。そこから少し登って高取城址へ。あとは山を下るだけ。後者の方が体力的に楽で、時間も節約できます。しかし乗り物を使うのは本意でないし、せっかく高取城址へ行くのならその登城道を歩いてみたいという思いから、前者の山登りをすることに決めました。

 高取町土佐街道  



桜の名所・吉野山へ至る近鉄吉野線の壺阪山駅に8時前に到着、この駅が高取城址・壷坂寺、そしてキトラ古墳への起点となる。この駅から壺阪寺へは、本数は少ないが定期バスが往復しています。しかしバスを使わず、歩いて高取城址へ登り、そこから壷坂寺へまわります。
駅前に高取町観光協会(0744-52-1150)による観光案内図が設置されている。夢創館:0.8km、壺阪寺:3.9km、高取城跡:5.1kmとあります。

駅前から真っすぐ50mほど進むと石畳の美しい土佐街道に出る。高取城跡へは右に折れるのだが、左の道に入り、子嶋寺(こじまでら)へ寄ってみます。この寺の創建は奈良時代の752年で、壺阪寺に次ぐ古刹。室町時代に衰退したが、江戸時代に入り高取藩主の庇護を受け今日に至る。子嶋曼荼羅で有名な「紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図」2幅があり、日本三大曼荼羅の一つ。平安初期のもので国宝に指定されています。堂内にはレプリカが置かれ、要予約で見ることができるという。実物は奈良国立博物館に展示されている。頑丈そうな山門は高取城の旧二の門を移設したもので、現存する数少ない高取城の遺構建造物のひとつです。

石畳の道が、南の高取山の方向へ向かって約2キロ近く一直線にのびている。両側には古い町家が並び、江戸時代の雰囲気を残しています。
江戸初期の寛永17年(1640)、徳川家譜代の家臣であった植村家政が高取藩藩主として高取城に入った。しかし高低差四百m以上もある山上の高取城で生活するのは不便なので、江戸時代後半には藩主をはじめ家臣達は平時には麓に屋敷を構え住んだ。油屋、鋳物屋、呉服屋などの商家もでき、次第に城下町が形成されていったのです。
この石畳の通りは「土佐街道」と呼ばれている。なぜ”土佐”なのでしょうか?。飛鳥時代に都造営のために動員された土佐(現在の高知県)の人々が、そのままこの地に住み着いたことからきているようです。現在も「上土佐」「下土佐」の地名が残っている(高取町観光案内所「夢創舘」の住所は「高取町上土佐20-2」)。なおこの石畳は、阪神大震災の復旧工事で出てきた阪神国道の路面電車の石畳を利用したものだそうです。

古い町家には連子格子(出格子)や二階部分の虫籠窓(むしこまど)が見られる。江戸時代の民家は二階部分に住むことを禁じられていたので、二階のようにに見えるが、「つし2階」と呼ばれた屋根裏程度の低い造りになっており物置などに使われていた。虫籠窓は採光と風通しのためのものです。
町家と町家の間の隙間には間者等が潜めないよう板張りがみられ、「駒止め」と呼ばれる金具も残っており、城下町の様子が見られます。



かっての高取城藩主下屋敷の表門を移築したもの。「石川醫院」の表札がかかり、現在も医院の入口として使われています。

右手に紅色に塗られた町家が見えてくる。これが大正時代の呉服屋であった旧山崎家を改修した高取町観光案内所「夢創舘」です。高取町の特産品の展示販売をしており、高取城址郭図やパンフ、ハイキングマップなども手に入る。

開館時間:9:30-16:30、tel:<0744-52-1150>、毎週月曜は休館
早朝だったのでまだ開いておらず、中には入れませんでした。

夢創館から少し進むと四つ辻となる。石柱には「「右つぼさか・・・」と書かれているという(判読できないが・・・)。土佐街道から壺阪道への分岐点で、右へ進むと壺阪寺へ通じている。江戸時代には高札が建てられ道行く人々に「お触書」等を掲示した所であったので「札之辻」と呼ばれています。

左角は児童公園で、その入り口の黒ずんだ門は、高取城の「松の門」の遺構です。屋根は無く、桁と柱だけが据えられている。明治4年の廃藩置県で高取城は廃城となり取り壊された。明治25年(1892)、松の門は土佐小学校の校門として移築されたが、昭和19年(1944)の学校火災で一部損傷し保存されていた。それを平成16年(2004)に街並み環境整備事業の一環で児童公園の表門として復原したものです。

札之辻を右に折れ、200mほど行くと「信楽寺」という小さなお寺があります。人形浄瑠璃文楽、歌舞伎や講談、浪曲でよく知られた「壺坂観音霊験記」。その主人公のお里・沢市の墓がここ信楽寺にあるという。「壺坂観音霊験記」は明治時代初期に創作された演目とされるが、墓があるということはモデルとなった人物が実在していたということでしょうね。
お墓の傍に建つ説明版には「「日本感霊録」に9世紀初めの弘仁年中、盲目の沙弥が壺阪観音の信仰で開眼治癒したという話があり(『壺坂寺古老伝』に記されている。)すでにこの頃から本尊の十一面千手観音は民間の信仰を集めていたことがわかる。これは後世のいわゆる盲人開眼『壺坂霊験記』の原形になったものである。 この『お里沢市』の物語は今より300年以上も昔(寛文年間)壷阪寺のふもと、大和国高取郷土佐町に住む沢市という盲人と妻里の夫婦愛をテーマにした『観音霊場記』に二世豊沢団平と妻の千賀女が加筆したものであり、浄瑠璃・歌舞伎に浪曲にとこの夫婦愛物語は日本国中さらに海外にまで知れ渡っている。」と書かれている。

札之辻に戻り南に行くと左手に武家屋敷「田塩家長屋門」が見えます。格子が横向きの「与力窓」を2つ付けた「長屋門」がそのまま残されている。
現在も住居として使われているそうです。

田塩家長屋門から少し登れば、石垣と白壁になまこ壁が印象的な武家屋敷風の建物がある。これは当時の筆頭家老の屋敷だったが、現在では旧藩主だった植村家が実際にお住まいになられており、「植村家長屋門」(県重要文化財指定)と呼ばれています。文政9年(1826)建立で、門の東西には各四室の部屋があり、藩に仕える中間たちが住んでいた。


植村家長屋門を過ぎたあたりから家屋も減り、山へ入っていく雰囲気になる。散策マップには、この辺りから高取城址まで歩いて約1時間30分となっています。

道を進むと左下に「砂防公園」が見えてくる。高取山へのハイキングコースの休憩所。四季折々の草花を楽しめ、トイレもあります。「八幡口」とは高取城内の一角。

砂防公園から30分ほど登ると、車の通れる舗装路は右に曲がり宗泉寺で終わる。高取城址まで約1.6kmとあり、正面の細い山道へ入ってゆく。ここからが本格的な山登りとなるようだ。
車道を右に曲がって100mほど行くと宗泉寺がある。高取藩主・植村家の菩提寺で、植村家政の邸宅跡に元禄11年(1698)に創建された天台宗延暦寺の末寺。寺の入り口には「宗泉寺」の石柱と並んで「植村家」の石柱が建っている。ここまでの車道は、この寺のために造られたようなもの。さすが14代にわたり高取藩主を務めた家柄だけあります。

 高取城址 1(七曲り~国見櫓)  



宗泉寺からは車道ではなく、普通の山道となる。ここからが高取城への登城道で、古くは「大手道」と呼ばれていた。緩やかな坂道が続き、現在では高取山へのハイキングコースとなっている。

やがて少し勾配が強まり、石ころが散らかる荒れた道になってくる。歩きやすいように階段状に丸太が設けられています。左右に何度も曲がりくねって登って行くので、この辺りは「七曲り」と呼ばれている。往時は今より道幅は広く、馬や籠が行き交っていたそうです。

次に「一升坂」と呼ばれる急坂となる。築城の時に、資材を運びあげる人夫に米一升を割り増ししたという坂です。城まで800mとある。
お殿様もここを登ったのだ。といっても平時は山裾の下屋敷に住み、緊急時や正月などの行事があるときだけ山上の城まで登った。もちろん籠に乗って。籠担ぎ人には五升・・・。

一升坂を越えると、左道への分岐点に「猿石」(高取町指定文化財)が置かれている。明日香村でよく見かける謎の石造物の一種だ。傍の説明版には「飛鳥の猿石と同様に現在の明日香村平田から掘り出され高取城築城の際に石垣材として運ぶ途中にこの場所に置かれたようである。飛鳥時代の製作と考えられている。猿石がのせられている台石は古墳の石材の可能性がある」と書かれている。石垣に利用しようと運びあげたが、あまりに可愛くしのびないのでこの分かれ道に目印?護り地蔵?として置かれたのでしょう。
「←明日香村栢森2.0km」の標識が建ち、栢森(かやのもり)を経て石舞台古墳近辺へ出れるようです。

猿石辺りから崩れかけそうな石垣の一部が散見され、お城の雰囲気が感じられるようになってきた。この石垣は「二の門跡」とあり、三つある城内への入口の一つ。二の門から内が「城内」となり、三の丸、二の丸、本丸へとつづく。ここから本丸まで872m、高低差110m。
左脇には山城では珍しい石垣造りの水堀が、今でも水を湛えて現存している。山上だけに飲料水の確保は重要で、雨水を貯えたもの。この水堀は大阪湾に注ぐ大和川の支流・高取川の源流だそうです。現在10時過ぎ、壺阪山駅から2時間かかったことになる。



やがて右へ入る道が見え、「国見櫓→」の標識が立つ。120mほど入ると展望台があるようです。





細道を進むと杉林の奥から明かりがさし、前方が開けてきた。今は展望台となっているが、かっては城郭の一つ国見櫓が建っていた。ハイカーが数人いるようです。


まさに大和の国が一望に「国見」できる場所です。大和三山、金剛山・葛城山・二上山はもちろん気象条件が良ければ大阪市内、六甲山、比叡山まで望むことができるという。高取城址で一番の絶景スポットです。

 高取城址 2(矢場門跡~大手門)  



高取城の城郭図。高取山(標高583.6m)の山上に築かれた山城。麓の城下町(土佐街道の札の辻)からの比高は446mあり、近世城郭では日本一の高低差を誇る。城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及び、日本国内では最大規模の山城。山上の城内には、三層の天守、小天守が建ち、27の櫓(内、多門櫓5)、33の門、土塀2,900m、石垣3,600m、橋梁9、堀切5ヶ所が存在していた。別称:「芙蓉城」
敵にとっては攻めるのに非常に厳しい城で、高取城は戦いで一度も敗れたことがなく、まさに「難攻不落」の山城でした。

奈良産業大学(現奈良学園大学)によるありし日の高取城を再現したCG。標高が高い場所に築城されているわりには、天守、櫓、門など、平山城と同じような構えをもっている。白漆喰塗りの建物が建ち並び、城下町より望む姿は「巽高取雪かと見れば、雪でござらぬ土佐の城」と詠れたという。
現在は写真に見られるような建造物は一つも残っていないが、巨大な石垣や石塁が残っており、感動を与えてくれます。

高取城は日本三大山城の一つ。他の一つは「美濃岩村城」。岐阜県恵那市岩村町にあり、標高721mの最も高い所に建つ山城です。もう一つは「備中松山城」。岡山県高梁市内山下にあり、別名は「高梁城」。臥牛山(標高478m)上に天守、二重櫓、土塀の一部が現存しており、現存する城の中では最も高い所に城郭が残る山城です。

ここは矢場門跡。

■~高取城の歴史(1):築城(越智氏の時代)~■
南北朝時代、高取の地は京や大和から吉野へ通じる交通の要衝として重要な位置にあった。元弘2年(1332)、南朝方に属した地元の豪族、越智邦澄が高取山に城を築いた。本拠地は貝吹山城だったので詰の城(支城)として築城したのです。城というより、砦といったほうが相応しい。「当時の構造は、高石垣や天守はなく、山の地形をならして曲輪(城内の一区画)を築き、それを幾段にも連ねて逆茂木や、にわか造りの板塀で防御する、いわゆるカキアゲ城(堀を掘った土で土塁を固めた城)でした」(観光パンフより)
越智氏の支配が長く続き、自然的要害の条件を備えているところから16世紀前半頃には城としての整備が少しづつ行われていった。天文元年(1532)には一向一揆勢(証如軍)に包囲され激戦となったが撃退している。

天正8年(1580)織田信長は、大和国内には郡山城だけ残し他の城は全て破却するよう命じ、高取城は一旦は廃城となった。
天正11年(1583)、筒井順慶の配下となっていた越智頼秀が殺害され越智氏は滅ぶ。郡山城を本拠とする筒井順慶は、万が一の場合に籠城する詰の城として高取城の復興に着手するが、天正13年(1585)伊賀国上野に転封になってしまう。

松の門跡。土佐街道の児童公園入口に、屋根の無い状態で移されています。

■~高取城の歴史(2):本多氏の時代~■
天正13年(1585)、大和・和泉・紀伊3ヶ国の太守となった豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が筒井氏に代わって大和郡山城に入城した。秀長は郡山城とともに山城の高取城を重視し、家臣の本多利久に命じ大規模な改修を行わせた。本丸には多聞櫓で連結された三重の大小天守が、二の丸には大名屋敷が造営され、城内には多くの門や櫓が建ち並んだ。こうして本多氏の時に平城(ひらじろ、平地に築いた城)の築城技術を取り入れ整備し、近世的城郭としての山城に生まれ変わった。利久の子俊政は豊臣秀吉の直臣となり1万5千石が与えられ高取城主となる。
秀吉没後の混乱期にはいると、俊政は徳川家康についた。慶長5年(1600)、徳川家康の会津上杉景勝討伐に俊政が従軍して不在中、高取城は石田三成の兵に攻められるが要害堅固な山城のため守りきり敗退させている。関ヶ原の戦い(1600年)で東軍に加わった俊政は、その功が認められ1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となった。元和元年(1615)には一国一城令がだされたが、高取城は重要な山城として破却を免れている。しかし俊政の子の政武が嫡子が無いまま寛永14年(1637)に没し、ここに本多氏は三代で断絶することになった。

宇陀門跡。

■~高取城の歴史(3):江戸時代(植村氏の時代)~■
本多氏が絶えた後、徳川家譜代の家臣だった植村家政が寛永17年(1640)に2万5千石の大名に取り立てられ高取藩主として入城する。植村氏は三河時代から松平家(徳川家)に仕えた古参譜代で、家康より「家」の一字を与えられ、以後子孫代々「家」を名乗っている。植村家政は、家光の時、三河(愛知県)からやって来たのだ。「当然、家来などもすくなかったため、大和へ入部する途中、志願してきた牢人者などをも、顔を見ただけで召しかかえ、また東海道新居の船のなかで乗りあわせたという牢人者を、ひとかどの兵法者だと思って召しかかえたりしている。2万5千石の身代相当の人数を掻きあつめるのは、よほどあわただしいものだったらしい。土佐の町というちっぱけな城下村は、そのようなひとびとによって作られた。」(司馬遼太郎「街道をゆく<大和・壺阪みち>」より)

以後、明治維新時の最後の城主植村家壷まで14代にわたって高取藩植村氏の城として続いた。その間200年以上、大きな焼失や災害にあうことなく城郭が維持されてきた。避雷針の無い時代、多くの寺などが落雷で焼失しているが、山上にありながらそれを避けれたというのは奇跡に近いのではないだろうか。しかし時の経過や風雨による傷みや崩れなどはあったであろうが、そのつど修繕されてきた。江戸時代は城普請、即ち城に手を加えるには幕府に報告し許可が必要であった。しかし高取城の場合、三代将軍家光より「一々言上に及ばず」という「常普請」の許しをもらっており、届け出をしなくても勝手に行ってよいとされた。植村氏は松平時代からの古参譜代であり、また山上にあることから年々破損も多いと思われることからの特別な待遇だと思われる。また司馬遼太郎は「街道をゆく<大和・壺阪みち>」のなかで、次のように推測している。徳川幕府の仮想敵は、家康の代から薩摩の島津氏と防長の毛利氏だった。島津氏が京都に入って近畿をおさえ、天皇を擁して幕府と対決したとき、「大和の幕軍は平城の郡山城をすててこの高取城にこもり、他の方面の幕軍の巻きかえしを待つという戦略があったのではないか」と。
山上の城郭は維持されてきたが、そこに住んでいたのではない。当初は山上で生活していたようですが「江戸期も安泰期に入ると、山上の不便さに堪えられなくなり、藩主もふもとに降りてきて下屋敷に住むようになった。重臣たちも同様ふもとへ降りたが、中級以下の家臣の多くはなお山上の城に残って、城廓をまもった」(司馬遼太郎「街道をゆく<大和・壺阪みち>」より)

千早門跡。千早門の先は「三の丸」で、多くの侍屋敷が建っていたという。

■~高取城の歴史(4):近代~■
幕末の文久3年(1863)に尊皇攘夷派の天誅組約千人の襲撃を受けたが、二百名たらずの守備隊で守り切りきっている。
明治元年(1868)植村家壺が十四代藩主になるが、明治2年(1869)版籍奉還により高取城は明治政府兵部省の所管となり、家壺は高取藩知事となる。そして明治4年(1871)廃藩置県で高取藩は廃止され高取県となった。
城の必要性は無くなったので全国の多くの城郭が廃されることになった。高取城も廃城とされ、明治6年(1873)に入札が行われ一部の建造物は近隣の寺院などに払い下げが行われた。二の門は子嶋寺の山門に、新御殿(藩主下屋敷)の表門は石川医院の表門に、松ノ門は児童公園の表門に、確認されている高取城の現存構造物はこれだけです。売却されなかった天守以下の建造物の全ては明治中頃までに取り壊され解体された。現在、高取城内には建造物はなく、壮大な石垣が残っているだけです。
・昭和28年(1953)国史跡に指定される。
・平成18年(2006)「日本100名城」に認定

城郭は明治20年頃まで残っており、取り壊し直前に撮影された数枚の写真が現存している。往時の高取城の建物の姿を伝えるもので、これはその内の一枚。「明治20年頃の御城門(大手門)から太鼓御櫓を仰ぐアングル。この写真の最も奥に太鼓御櫓が写っており、重箱造で天守と同じ白漆喰総塗籠、方形の格子窓2つ、上部の入母屋破風が確認できる。この写真には一部「十五間多門」も写りこんでいる。」(Wikipediaの説明)

千早門跡をすぎると大きな城壁が現れる。ここに御城門(大手門)が建っていた。外部から高取城へ入るには二の門口、壺阪口門、吉野口門の三コースがあるが、必ずこの大手門に合流する。大手門こそ二の丸、本丸のある城の中核場所へ通じる唯一の入口です。頑丈な門だったと想像されます。

高い石垣の手前の道を右へ入ると壺阪寺への道です。

御城門(大手門)を入っていく。二の丸、本丸への唯一の入口なので、敵の侵入を阻むため曲がりくねり要害の構えをしている。内側には平櫓の「竹櫓」が置かれていた。「竹櫓」には防御用の竹が保管されていたという。城へ登る山道の要所要所にびっしり竹の皮を敷き詰め、攻めてきた敵の足を滑らせるという作戦だったようです。なんか祇園祭を想起してしまった。

御城門(大手門)から入るとすぐ次の門、十三間多門の跡があります。ここが二の丸の入口となるので厳重になっている。

 高取城址 3(二の丸~本丸)  



二の丸跡の広場が見えてきた。東西に約65メートル×南北は約60メートルあり、高取城址で一番広い場所です。二の丸には御書院、大広間、湯殿などからなる「二の丸御殿」があった。
広場の中央に休憩所も設置されている。一時小雨が降ってきたので雨除けに役立ちました。建物がまったく無いので雨になったら大変です。考えもしなかったが雨具は必須です。

広場の片側には台形の巨大な石垣が突き立っている。この上に、左端に「太鼓櫓」、右端に「新櫓」が建っていた。ともに二重二階の建物で、その間を土塀でつないでいた。この奥にある本丸を防御する最後の砦なのか、高くて堅牢そうです。この石垣は昭和49年(1974)に修復を受けている。


太鼓櫓が建っていた石垣の角を曲がると入口が見え、「十五間多門跡」とあります。
高取城の特徴として、櫓の数棟が多く、独特の名称が付けられている。三重櫓は天守・小天守を含めると6棟、二重櫓が7棟、また、鐙櫓、具足櫓、十方矢倉、火之見櫓、客人櫓、小姓櫓など独特の櫓名がある。

十五間多門跡を通ると太鼓櫓・新櫓の背後が見える。中央に石の階段があるので、石垣の上に櫓が建っていたのでしょう。まるで砦のように見えます。

太鼓櫓・新櫓の反対側に高い石垣がそびえる。この上に白亜の天守閣が建っていた。

苔で覆われ青さびた石垣は高さ約12mあり、高取城で最も高い石垣。よく見かける城の石垣は、少し反りが見られます。ところが高取城の石垣には反りがなく、ピラミッドのように直線をしている。算木積みで反りのない工法を用いた古いタイプの山城の特徴とか。
この石垣の上、左端に天守台が、右端に小天守台が築かれていた。

すぐ横は深い谷です。本丸の周辺も、山の急斜面を利用して垂直に近い石の壁が築かれています。今まで攻められ落城したということが一度もない難攻不落の城、というのもうなずける。

横へ廻ると本丸への入口が見える。緩やかな坂となっており、曲がりくねっている。案内は無いが、ここにも門があったのでしょうか。本丸への最後の関門です。
パンフには「本丸虎口」とある。「虎口(こぐち)」とは城の出入口を呼ぶが、ここ本丸の虎口は「桝形虎口(ますがたこぐち)」という最も堅固な形式だそうです。山頂のここまで敵が侵入することなどないと思うのだが・・・。

本丸に入る。ここも広場になっており、この時期、紅葉の落ち葉に覆われ美しい。
写真で、入口のある右側が北で、上が西側になる。西側右隅に三重三階の天守閣が、左隅に少し小さい三重三階の小天守が建っていた。山城で小天守まであるのは珍しいという。

天守閣へ入る通路。高取城には古墳石室の石材や仏石などの転用石が多く使われているという。写真の左側の石垣の、最上段と下から二番目の横長石は石棺からの転用石らしい。
大和郡山城の石垣にも寺院から集めた礎石,墓石や石仏(地蔵),仏塔などが使われていた。当時大和は石材に乏しかったために、石垣に利用できる石類は何でも利用したらしい。平地と違い、こんな山上まで石材を運びあげるのは大変だったことと思う。


天守閣の建っていた場所。天守の大きさは東西に約16メートル、南北に約14メートルの規模。


天守閣のある西側からの東方向を眺める。血染めのような紅葉の絨毯となっています。
本丸は、西側に大小二棟の天主台、反対の東側に煙硝櫓が、中央南側には鉛櫓が建ち、それぞれ多聞櫓(塁上に設けられた細長い単層の櫓)と塀によって連結された連立式天守の形態をといっていたという。

本丸から周辺を眺める。

どの方面でしょうか?。司馬遼太郎の表現を借りれば「見わたすかぎりの山々は、杉葉の濃い緑が鬱然としていて、いかにも自然が贅沢にあるという感じである」。この眺めは、今も昔も変わらないはず。

本丸の石垣、一段と高くなった石垣の上に三層の天守台が建っていた。
私の青春時代のはやり歌「古城」を口ずさむ。

松風さわぐ  丘の上
古城よ独り 何偲(しの)ぶ
栄華の夢を 胸に追い
ああ 仰げば侘(わ)びし 天守閣

次は壷坂寺をめざします。



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