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山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

奈良・室生寺の秋と春 1

2016年09月20日 | 寺院・旧跡を訪ねて

昨年秋(2015/11/28、土)、お堂や仏像ではなく紅葉目当てに奈良県宇陀市の室生寺を訪れました。地図を見れば、近鉄・室生口大野駅から室生寺まで「東海自然歩道」が通っている。ウォーキングを兼ね、バスでなく自然歩道を歩いて行きました。結果からいえば、東海自然歩道でなく車道を歩くべきでした。東海自然歩道は杉木立と雑木林で囲まれ景観ゼロ、そしてゴロ石とぬかるみで疲れ果てた。帰りのバスで見ると、室生川に沿った車道には整備された遊歩道が設けられ、各所に紅葉の楽しめる場所が見受けられました。
紅葉も綺麗だったが、参道脇に群生している石楠花(しゃくなげ)が気になった。そこで今度は石楠花目当てに今年の春(2016/4/26、火)に再訪しました。この時は往復ともバスを利用。

★主に秋の写真を使っていますが、春の写真には(春:2016/4/26)と明記しています。

 大野寺と弥勒磨崖仏  


(写真は近鉄大阪線・室生口大野駅前の広場、2015/11/28日)
大阪・近鉄上本町駅7時51発急行に乗り、9時に大野駅に着く。室生口大野駅は急行が停車するので、大阪から乗り換え無しに来れる。改札口を出た脇に、小さな案内所があります。係員が常駐されているようなので、不明なことを訊ねたり、資料・地図などを入手できます。
少し下った駅前広場には室生寺行きのバスが待っててくれています。バスを利用すれば15分程ですが、快晴の秋日和なので東海自然歩道を歩くことに。大野の町を抜け、左奥の山中に入って行く。

バスで行く場合、駅前で乗るよりは、歩いて5分ほどの大野寺と弥勒磨崖仏に寄って、そこのバス停を利用するのが良い。ここの弥勒磨崖仏は必見です。帰りに寄るなら別ですが。
ここのバス停は公園風になっており、トイレや休憩所が整い、室生川とその対岸の弥勒磨崖仏を鑑賞できようになっている。
バス停から室生川越しの対岸を見れば、緑の樹木の間に白っぽい岩壁がはっきり見える。これが弥勒大磨崖仏(みろくだいまがいぶつ)です。このあたりは室生山火山群で火山岩による巨石が数多く、切り立った大岩壁が見られる。大岩壁で知られる名勝・香落渓も近い。
弥勒大磨崖仏は、高さ30mをこす岩壁を削り磨き上げ、そこに13.8mの光背を彫り窪め、内部を平滑になるように磨き、11.5mの弥勒仏の立像を線刻したものです。「大野寺石仏」の名称で国の史跡指定を受けている。
鎌倉時代初期の承元元年(1207年)に彫り始め、承元三年に完成し後鳥羽上皇臨席のもと開眼供養が行われたという。製作者は諸説あるが、「宋から来日した石工・伊行末(いぎょうまつ/いのゆきすえ)の一派と考えられている」(wikipedia)。彫像にあたっては、笠置寺の本尊として笠置山の山中に彫られていた弥勒像の下図を元に模刻したそうです。元になった笠置山の弥勒像は、後鳥羽上皇を追った北条軍によって火にかけられ焼失してしまい、現在目にすることはできない。

「石仏は岩盤からの地下水の滲出等で剥落の危険があったため、1993年から1999年にかけて保存修理工事を実施。岩表面の苔類の除去や地下水の流路を変える工事などが行われた」(Wikipediaより)。この修理のため、以前よりは線刻がはっきり見えるようになったという。そうはいっても白い岩壁への線刻なので、双眼鏡で見るでもしない限り、仏像の姿を明瞭に把握しにくい。西面しているので、西日の当たる夕方がはっきりと線刻が見えるそうでが、私が訪れたのは朝の9時でした・・・。

車道と室生川を挟み、弥勒磨崖仏と対面するように位置しているのが大野寺(おおのじ、おおのでら)。古くから室生寺の末寺で、室生寺への西からの入口に建つので「室生寺の西門」と呼ばれていた。

寺の大野寺縁起によれば「白鳳九年(681年)に役の小角が開き、天長元年(824年)弘法大師室生寺開創のとき、西の大門と定め一宇を建て、本尊弥勒菩薩を安置して慈尊院弥勒寺と称しました。その後地名を名付けて大野
寺と称すと伝えます」。役行者と弘法大師に関係付けるのはよくある話しですが・・・。真言宗室生寺派の寺院で、山号は楊柳山。
大野寺は枝垂桜の名所として知られている。広くはない境内ですが、樹齢300年を超える枝垂れ小糸桜が2本、他にも樹齢100年の紅しだれ桜30本が、春には咲き誇るそうです。本尊の木造弥勒菩薩立像(秘仏)ですが、本当の本尊は対岸の弥勒石仏かも。弥勒大磨崖仏が一番よく見える境内の場所に遥拝所が設けられ、道と川を挟んだ向こう岸の弥勒大磨崖仏を拝むようになっています。

 東海自然歩道  



室生口大野から東海自然歩道で室生寺までは約6km。大野寺を9時20分に出て山中へ向かう。横を流れるのは室生川で、大野寺近くで室生ダムからの流水と合流し宇陀川となる。名張市周辺で名張川と名を変え、梅林で名高い名勝・月ヶ瀬を越え木津川と合流し、さらに南山城の山崎あたりで淀川へ流れ込み大阪湾へ注ぎ込む。

宇陀川の渓流を眺めながら車道脇のよく整備された歩道を歩く。国道165号線の高架橋を潜り進むと、紅い欄干に「むろうじおおはし」と書かれた大きな橋を渡る。下は室生ダムから放流される川です。
「むろうじおおはし」を渡り10分ほどあるくと、また紅い橋「いちのわたりはし」が現れます。その先に「東海自然歩道 室生寺まで約4.4km」の標識が建てられている。ここが室生寺へ通じる東海自然歩道の入口のようです。大野寺から徒歩20分位でしょうか。
帰りのバスの中で気づいたのだが、ゴロ石とぬかるみで歩きにくい東海自然歩道よりはバス道を歩いたほうが良かったんじゃないかと。バス道の脇には幅広く整備された遊歩道が設けられていた。室生川の渓流が寄り添い、所々紅葉の美しい箇所もある。車も少なく、東海自然歩道より距離も短い。紅葉シーズンに限っては東海自然歩道に入らないで、そのままバス道を歩くほうが良いと思う。

東海自然歩道へ入ると杉が林立し薄暗い。この辺りはまだ平坦で、道幅も広くハイキング気分で歩けます。数人のハイカーを見かけた。
一本道で紛らわしい分かれ道はないが、入口から20分くらいの所に分岐する箇所がある。真っ直ぐ行かず、右側の狭いほうの道に入って行く。標識が建てられているので間違うことはないと思うが。「室生寺 4.0km」とあります。



道幅は少し狭くなってくるが、杉木立の間を傍の小川のせせらぎを聴きながら気分よく歩ける。まだ平坦な道が続く。









やがて道幅はさらに狭まり、坂道となってくる。山道らしくなってきました。そして散乱するゴロ石を踏みながら歩かなければならない。コブシから人頭大位までの苔むしたゴロ石が転がっている。足場は最悪です。山中に浸み込んだ雨水が流れ出しているのか、地面はぬかるんでいる。ぬかるみを避けようとゴロ石の上を踏むと、苔でツルッと滑る。何度か転びそうになった。ぬかるみと落ち葉で足を滑らせ、ゴロ石につまずく、水たまりもある・・・、散々な自然歩道でした。かって女人達もこんな道を歩いたのでしょうか。10時20分、「室生寺 3.1km」の標識が。

酷い「東海自然歩道」と思いながら耐えていると、「室生寺 1.8km」の標識が現れた。10時55分です。ここが門森峠のようで、ここからは室生の里まで下り坂です。ようやく悪路から解放されたようです。ここまで見晴らしも効かず、紅葉など一度も見かけなかった。

 室生山上公園「芸術の森」と室生の里  


下りはゴロ石もなく、落ち葉を踏みしめながらスイスイ降れる。杉林に囲まれた東海自然歩道を抜けると、やがて木立の間から建物が、そして広場が見えてきた。こんな山奥なのでゴルフ場かな?、と思った。しかしこれはれっきとした公園なのです。その名は「室生山上公園 芸術の森」。古刹・室生寺近くの山中に”芸術の森”、なんとも違和感を感じます。入口にあったパンフレットには「公共事業とアートの融合を目指し」とある。”公共事業とアート”、これまた???な組み合わせです。
調べてみました。元々、この一帯は棚田などの田畑だったが地すべりの危険があった。直ぐ下は室生寺のある室生の里です。そこで奈良県や宇陀市が協議し、地すべり防止を兼ねた公園とすることになった。そこで設計を任されたのが、周囲の環境や景観と同化した屋外作品で知られるイスラエルの彫刻家・ダニ・カラヴァン(Dani Karavan, 1930年~)です。既に日本でも「札幌芸術の森」「霧島アートの森」などを手がけていました。こうして「公共事業とアートの融合」が始まり、2006年3月に完成した。

ダニ・カラヴァンは、岡本太郎風の抽象的・シュール系の芸術家です。パンフを見れば、ここ室生山上公園には「ピラミッドの島」「天文の塔」「螺旋の水路」「波形の土盛」など、なんとも抽象的なオブジェが広い公園敷地に散らばっているだけです。この山中まで足を伸ばし、観覧料400円支払い抽象的なオブジェの意味を感得しようとする人がどれだけいるでしょうか?。外から眺めただけですが、土曜日の昼前なのに誰一人見かけなかった。

室生山上公園から室生寺のある里へ降りていきます。室生の里へ続く降り道も「東海自然歩道」のようで、道標が立てられている。
民宿があったり、軒先で野菜を売っているおばちゃんがいる。車道の整備された現在、この東海自然歩道は室生寺への道ではなくなっている。誰も人影を見かけません。野菜売りのオバチャンも、私を逃さまいと必死です。「帰りに寄るから」と逃れました。

室生川と、川沿いの飲食店、料理旅館や土産物屋などが建ち並ぶ門前町が見えてきました。11時半、腹ごしらえのためよもぎ餅を頬ばりながら室生寺へ。
バス停は写真の左下方向。室生寺入口まではチョッと歩かなければならない。


詳しくはホームページ

醍醐寺の桜見、そして醍醐山(上醍醐)へ (その 3)

2016年07月07日 | 寺院・旧跡を訪ねて

■2016/4月/9日 (土)、京都の桜の名所として知られる醍醐寺を訪れる。今回は上醍醐の紹介です。

 上醍醐登山口にあたる成身院(じょうしんいん、女人堂)  



回転扉を出て下醍醐とお別れ。数十mほど真っ直ぐ進めば、突き当りが上醍醐登山口にあたる成身院(じょうしんいん)です。醍醐寺の塔頭寺院の一つで、山上の准胝観音の分身が祀られている。

ここはかって女人結界の場所で、女性はこれ以上の立ち入りが禁止されていた。同じ真言宗の高野山と同じです。女性達は成身院の准胝観音を拝み、さらに山上へ向かって手を合わせたことと思われます。そのため成身院は、通称「女人堂(にょにんどう)」と呼ばれている。現在の本堂は江戸初期の再建だそうです。
右側の家は入山受付所で、ここで入山料600円支払って入ります。入山料を徴収するようになったのは、焼失した准胝堂を復興するためで、再建されると徴収されないという話です。
入山は一年を通じてできるようですが、入山受付時間が変わるようです。通常は午前9時~午後4時までですが、冬期(12月第1日曜日の翌日~2月末日)は午後3時まで。また午後5時までには下山するように、との注意書きもありました。
西国第十一番霊場は、標高450mの醍醐山の山頂にあり、約2キロ近い山道を40分ほどかけて登らなければならない。西国三十三ヶ所霊場の中でも、最難所とされています。

最初は歩きやすい緩やかな坂道が続きます。山道というより参拝道なので、歩きやすいように整備がされている。
道脇に丁標石(ちょうしるべいし)が見えます。これは一丁(約100m)間隔で建立され、おおまかな現在地の確認に利用できる。登山路の入口には「一丁」が建っていた。十五丁まではずっと登りで、そこから下った上醍醐境内の入口には十九丁が建っていた。

 秀吉花見の場所:槍山(やりやま)  


しばらく登ると「醍醐の花見」の槍山案内板に出会う。女人堂から15分ほど登ったところです。ここが慶長3年(1598年)に秀吉が催した有名な「醍醐の花見」のメイン会場「槍山」のようです。下醍醐から槍山に至る両側には畿内より集めた桜の木七百本が植えられ、要所には八軒の茶屋が設けられた。そしてこの槍山にはこの日のために豪華な花見御殿が建てられていた。この花見御殿は、現在三宝院内に「純浄観(重要文化財)」として残されている。女人禁制もなんのその、北政所(ねね)、淀君、その他女房衆を引き連れて登ってきたのでしょうネ。花見御殿で眼下に広がる桜風景や、自ら再興した下醍醐の伽藍や三宝院を一望しながら、女衆に囲まれ宴に酔いしれたことでしょう。
私も同じ場所で一望してみたかったのだが、残念ながらロープが張られ立ち入り禁止になっていた。危険な箇所でもあるのでしょうか?。
普通、桜といえば下から見上げるのですが、秀吉の花見は山の中腹から見下ろす。
秀吉は「醍醐の花見」の4年前の文禄3年(1594)の春に、徳川家康・前田利家・伊達政宗ら武将・公卿五千人を引き連れ吉野山で盛大な花見を催していた。その跡地は、今でも「豊太閤花見塚」として残されています。その場所は、吉野町とは谷間を挟んだ反対側の山の中腹で、下千本・中千本・上千本全体を眼下に一望できる見晴らしの良い場所でした。
3年前(2013/4/12)に訪れたのですが、雑草が生い茂り、ベンチが朽ち、荒地になっていた。今では、観光地図にも、地元の観光案内にも載らない忘れられようとしている跡地です。ここに立った時、”さすが秀吉!”、とうなったものです。

 登り道  


秀吉花見の場所から先へ進みます。勾配のきつい所もなく山登りというほどハードな道ではない。雑木林の中をハイキング気分で登ってこれます。
八丁あたりから道は少し勾配が大きくなり、そのためか階段が設けられている。階段はこの先ずーっと続きます。女性や年配者は、この辺りからキツク感じられてくるかもしれません。階段の中央にはロープが張られている。登りと降りを区別するためでしょうか?。区別しなければならないほど登山者(参拝者)は多くないのだが・・・。

山登りでは、すれ違った人と挨拶を交わすのがエチケット。参拝道といえ山登りなので、「こんにちは」「ご苦労さま」などと言葉を交わします。なかには「まだかなりありますか?」などと尋ねる方もいます。その気持ちよく分る。俺も聞きたかったが我慢した・・・。九丁の標識が見えるので半分は越えている。
九丁の標識の先に小さな祠が見えます。「不動の滝」と書かれ、祠の辺りからチョロチョロと水が落ちている。一休み用のイスも用意され、中間地点あたりなのでここで一服するのに丁度良い。

案内標識には「←准胝堂・観音堂 約1.1K 徒歩30分」「三宝院駐車場 約1.7K 徒歩33分→」と案内されている。


十五丁の標識の先に「醍醐寺」の案内板が見えてきた。どうやら上醍醐にたどり着いたようです。登り始めて40分くらいかかったでしょうか。簡単な腰掛も置かれているので、ここで一休みです。
特に急勾配の坂道もなく、歩きやすいよう階段状に整備されているのでそれほど苦にはならなかった。巡礼のための参道なので、他の登山道のような険しさはありません。ただ階段がズッ~と続くので、”まだかな、まだかな”という気持ちにはなります。
道は下りとなり、数分歩くと十八丁石とトイレが見えてくる。登山中にはトイレはありませんでした。
次の十九丁石に「上醍醐寺務所」と表札のかかった門が見えます。下醍醐とは別に上醍醐にも寺務所が置かれ、寺務関係者が常駐されているようです。上醍醐で何か異変でもあった場合、下からすぐ駆けつけるというわけにはゆきませんからね。
寺務所の門の左横の参道を進む。ここから上醍醐の境内になるようです。

 醍醐水井戸と清滝宮拝殿・本殿  


上醍醐の境内に入るとまず清滝宮の拝殿に出会うのですが、その拝殿横に寺名の起こりとなった醍醐水の井戸を覆った祠があります。閉ざされているので中は見えませんが、霊水は今も湧き続けているそうです。
貞観16年(874年)、弘法大師空海の孫弟子だった聖宝理源大師がここで一人の老人と出会う。その老人はこの地の地主神・横尾明神で、湧き出ている水を飲み『ああ醍醐味なるかな、この土地をあなたに差し上げよう』と言ったと伝えられている。理源大師は泉のほとりの柏の木で准胝観音、如意輪観音の両観音像を刻み、小堂宇を建立して安置した。これが醍醐寺の起源とされている。ここ笠取山も「醍醐山」と呼ばれるようになった。

醍醐水井戸の左横に上へ登る階段がある。階段途中の左側に清瀧宮本殿が、階段を登りきった上に准胝観音を祀った准胝堂があります。

醍醐水の祠の左に清滝宮拝殿が、拝殿奥の一段高くなった山腹に本殿がある。

山腹を削り、狭い場所に鎮座するのが清瀧宮本殿。祀られているのは醍醐寺の総鎮守神・清瀧権現(せいりゅうごんげん)。清瀧権現はインド神話に登場する八大龍王のひとつ。弘法大師(空海)が、唐・長安の青龍寺の守護神であった清瀧権現を勧請し、高雄山麓に祀った。それを醍醐寺開基の聖宝が真言密教の守護神として、西暦900年頃に醍醐山に祀るようになったとされる。本殿は、昭和32年に再建された新しいもの。

本殿の下、上醍醐の入口近くに建つのが清滝宮拝殿(国宝)。この拝殿も山の斜面に建てられているので、前面が崖にさしかかる懸造り(かけづくり、舞台造り)の構造になっています。拝殿は室町時代に再建されたものがそのまま残っているので国宝に指定されている。
下醍醐の五重塔前にも清瀧宮本殿・拝殿があり、上醍醐の清瀧宮本殿に祀られていた清瀧権現の分身を、永長2年(1097)に下醍醐に移し祀ったもの。

 准胝堂(じゅんていどう、准胝堂跡)と薬師堂  


醍醐水横の階段を登りきると、広い空き地にでる。この空き地が准胝堂のあった場所で、醍醐寺発祥の地です。
貞観18年(876)、聖宝理源大師が柏の霊木から准胝観世音菩薩を彫り、お堂を建ててお祀りしたのが准胝堂の始まりとされている。
そこに安置された本尊・准胝観音坐像は一面三目十八臂(ぴ)の木像。母の慈愛の心をあらわす観音さまで、安産や子育てにご利益があるとして信仰を集めてきた。“西国三十三霊場第十一番札所”となっている。

創建後、幾度かの火災により焼失したが、昭和43年(1968)に再建された。ところが平成20年(2008)8月24日未明の落雷によりまた焼失してしまったのです。落雷が予想される山上で、その防止策がなされていなかったのでしょうか?。現在、跡地にはロープが張られている。焼失から8年ほど経っているが、現在再建の気配は全くみえません。まだ再建費用が集まりきれていないのでしょうか?。

本尊・准胝観音坐像も焼失してしまったが、一回り小さい分身像がドイツの「醍醐寺展」に出陳されていて難を逃れた。そこで上醍醐の准胝堂が再建されるまでの間、下醍醐の大講堂を観音堂と改称して分身像を安置し、西国三十三所第十一番札所の御朱印、納経等が行われている。今は、キツイ山登りをしなくても札所巡りできるんです。再建しないで、下醍醐の観音堂を准胝堂としたらどうだろう。

准胝堂からさらに奥へ進むと薬師堂が現れる。低い石垣の基壇上に、入母屋造・檜皮葺き・正面5間・側面4間の落ち着いた佇まいをみせ、安定感があります。
延喜7年(907年)、醍醐天皇の勅願により聖宝理源大師により創建された。現在の建物は保安2年(1121)に再建されたものだが、上醍醐寺では最古の建物で、平安後期の貴重な建物として国宝に指定されている。

薬師堂には、薬師如来坐像と脇侍の日光菩薩・月光菩薩からなる醍醐寺の本尊「薬師三尊像」が祀られている。どれも国宝です。平成13年、山下の霊宝館に平成館がオープンした時、そこに移された。火災、盗難など想定したら、山頂に国宝を置いておくのは危険なのでしょうね。

 五大堂・ 如意輪堂・開山堂  


薬師堂からさらに奥の五大堂や如意輪堂を目指します。ちょっとばかり距離があり、山道を上ったり下ったりしますが、ハイキング気分で歩けます。

五大堂は延喜7年(907年)に醍醐天皇の勅願により創建された。その後、何度も焼失、再建を繰り返し、現在の建物は昭和15年(1940)に再建されたも。五大堂は、密教の五大明王を祀るお堂。不動明王、後三世夜叉明王、軍茶里夜叉明王、大威徳明王、金剛夜叉明王で、五体一組で国の重要文化財に指定されています。

五大堂の前に佇むブロンズ像は、中央が醍醐寺の開基・理源大師聖宝、左が醍醐寺一世座主・観賢僧正、右が修験道の祖・役小角です。

五大堂から戻り、分岐道を右へしばらく歩くと如意輪堂と開山堂の二つの大きな建物が見えてきます。どちらも慶長11年(1606年)豊臣秀頼が再建した建物で、国の重要文化財になっている。

手前の、崖に半分せり出した懸造りで建てられているのが如意輪堂。
如意輪堂は、貞観18年(876)、醍醐寺開山の理源大師聖宝が上醍醐を開いた際、准胝堂と共に最初に建てた建物です。理源大師は自ら彫った如意輪観音をこのお堂に祀った。如意輪観音は現在霊宝館に展示中ですが、建物前の案内板に「本尊は二臂如意輪観世音で、豊家ゆかりの女房衆の寄進になるものである」と書かれているが・・・。
奥の開山堂は、醍醐寺を開創した聖宝・理源大師を奉安したお堂。内陣中央には重要文化財に指定されている「木造理源大師像」が、左に弘法大師像、右には醍醐寺一世座主・観賢僧正像が安置されている。

 上醍醐陵・朱雀天皇醍醐陵・醍醐天皇後山科陵  


五大堂から如意輪堂・開山堂へ向かう山道の途中で、白河天皇皇后・皇女の上醍醐陵なる標識を見かけました。こんな山頂に陵墓が存在することを初めて知りました。地図などには載っていなかった。陵墓と聞けば、史跡めぐりの習性から訪ねないわけにはいかない。
開山堂横から見下ろせば、すぐ見えています。階段を降ればすぐ。ここは500m近い醍醐山の山頂なので、全国の御陵の中でも最難所の一つとされている。
御陵の被葬者として制札には、「白河天皇皇后賢子、白河天皇皇女?子内親王・令子内親王」が載っている。第72代白河天皇の中宮(皇后)だった藤原賢子(けんし、1057~1084)、その娘で堀河天皇の中宮になった?子内親王(やすこ、1076~1096)、賀茂の斎院になった令子内親王(れいし、1078~1144)の三人の母子。
陵形は円墳で、同域には鳥羽天皇第一皇女で、賀茂斎院を務め享年12歳で亡くなった禧子内親王(1122~1133)の墓もある。

陵墓の上醍醐陵を訪れたので、ついでに醍醐寺に近い朱雀天皇醍醐陵、醍醐天皇後山科陵も訪れることにしました。この二陵は天皇陵なので、いずれも地図に載っている。まず近くの朱雀天皇醍醐陵(だいごのみささぎ)を目指します。西大門(仁王門)前を北に進むと醍醐寺の北門です。この辺りは訪れる人も少なく閑散としている。白壁に沿って進み住宅地に出る。北門から真っ直ぐ進むが、途中で東側の住宅路に入り込む。これが判りづらいので住民の方に尋ねるのがよい。住宅に挟まれ、狭い参道が伸びている。入口には宮内庁の制札が掲げられています。御陵の正面拝所は、参道奥の突き当りを左に折れれば見えてくる。

第61代朱雀天皇(すざくてんのう、923~952、在位:930~946)は、第60代醍醐天皇の第一皇子で、母は関白藤原基経の娘の中宮藤原穏子(やすこ)。
延長8年(930年)、父醍醐天皇の崩御に伴い8歳で即位。伯父の藤原忠平(時平の弟)が摂政として政治を取り仕切っていた。治世中には、平将門の乱、藤原純友の乱が起こり、また富士山の噴火(937)や地震・洪水などの天変地異が続いた。自らには全く皇子女がいなかったので、その座を弟の成明親王(村上天皇)に譲位し、早々と朱雀院に隠居してしまう。天暦6年(952年)に出家して仁和寺に入ったが、その年に30才という若さで崩御する。遺体は来定寺の北野(伏見区深草村付近)において火葬された。遺骨は父・醍醐天皇陵の近くに埋められ、祠が造られた。

幕末(1864)の改修によって拡張・整備され、直径6mの円形の盛土を中心とし、一辺18mの方形の土地に周溝がめぐらしてある。陵形は円墳、宮内庁の公式形式は「円丘」となっている。ここから少し北西に行けば父帝醍醐天皇の山科陵がある。そこから、古くは醍醐天皇陵が「上ノ御陵」、朱雀天皇陵が「下ノ御陵」と呼ばれていたそうです。

朱雀天皇醍醐陵から北西へ7~8分歩きます。広い車道の向かいに入口が見える。周囲は閑静な住宅地です。
ここが醍醐天皇後山科陵(のちのやましなのみささぎ)で、入口から入ると砂利を敷き詰めた真っ直ぐな参道が伸びている。参道脇の松や植込みが厳かな雰囲気をかもし出しているが、そのすぐ外側には新しい一戸建て住宅が並んでいる。ここは京都市伏見区の市街地なので、朱雀天皇醍醐陵にしても、この醍醐天皇後山科陵にしても窮屈そうです。
第60代醍醐天皇(だいごてんのう、885~930、在位:897~930)は、宇多天皇の第一皇子、母は藤原胤子(いんし)。36人の子宝に恵まれ、その中から第61代朱雀天皇、第62代村上天皇がでている。
13歳で即位したが、菅原道真と藤原時平が右大臣・左大臣として政治を取り仕切っていた。しかし昌泰4年(901)、天皇の廃位を謀ったという藤原時平の讒言により道真は九州の大宰府に左遷され、そこで亡くなる(延喜3年、903年)。
醍醐天皇の治世は、後に「延喜の治」と呼ばれ治世の鑑とされたが、と同時に醍醐天皇の身の回りで不吉な出来事が相次いで起こります。
道真の死後、京の都では疫病がはやり、醍醐天皇の皇子が相次いで病死、道真追放を画策したとされる藤原時平以下の関係者が次々変死し、時平の縁者も若死にするという変事が続く。世間では、道真の祟りであるという噂が広がっていく。祟りを恐れた朝廷は、延長元年(923)左遷証書を焼却し道真を右大臣に戻したり、正二位を追贈したりするが怪異は収まらない。
延長8年(930)の6月26日、清涼殿に落雷があり多くの官人が雷に撃たれて死亡した。そこで朝廷は道真の祟りを鎮めるため、京都に北野天満宮を建立し、道真を雷神(天神)として祀るようになった。それ以後、道真は天満大自在天神(天神様)として神格化され、全国各地に菅原道真を祀る神社が建立されていく。

醍醐天皇も道真の怨霊におびえながら、自らも病に伏すことになり、寛明親王(朱雀天皇)に譲位する。その数日後、46才で崩御した。醍醐寺の北、笠取山の西、小野寺の下に埋葬された。ここは母の育った土地で、この土地に葬って 欲しいというのが醍醐天皇の遺言だった。「醍醐天皇」名は、その御陵が勅願寺醍醐寺の近くにあることから後で追号されたもの。

直径45mの円憤だが、盛り土はなく周囲に周溝と外堤をめぐらせたもの。宮内庁は「陵形:円形」と表している。天皇陵の多くは被葬者が不確かだが、この醍醐天皇陵は長く醍醐寺が管理と祭祀を継続して行ってきたので確実性の高い天皇陵の一つです。


詳しくはホームページ

醍醐寺の桜見、そして醍醐山(上醍醐)へ (その 1)

2016年06月12日 | 寺院・旧跡を訪ねて

■2016/4月/9日 (土)
桜の季節です。今年の桜見は、秀吉の「醍醐の花見」で有名で、桜の名所として知られる醍醐寺と決めていました。6~7年前に一度訪れており、参道や境内は花見客で大混雑し、桜のトンネルの見事さ、豪華華麗な枝垂桜に感動したものです。その感動をもう一度と、期待したのですが・・・。
毎年4月の第2日曜日に、「豊太閤花見行列」が催される。今年は明日の10日です。多分大混雑するだろうと思い、前日の土曜日(9日)を選んだ訳です。花見行列が行われるので、桜も見頃だろうと早合点してしまっていた。早めに開花情報を調べておくべきでした。
前回は花見だけで、三宝院にも霊宝館にも入っておらず、下醍醐だけを周っただけでした。今回は醍醐寺の全てを見る予定です。醍醐山(上醍醐)にも登ります。

 醍醐駅から醍醐寺・総門へ  


大阪(日本橋--北浜)から京阪電車で三条駅下車。同駅と連結している京都市営地下鉄東西線に乗り醍醐駅で下車。大阪からだと1時間半位かかる。6~7年ほど前に一度来ているので、道順はわかっていた。駅を出、地上からさらに上に高架の道が通っており、この道が醍醐寺への最適な道となっている。タイル張りされた広い散策路(駅への住宅路?)を山側へ向かって歩く。快晴の早朝、脇の桜やツツジを眺めながら爽快な気分で歩けます。

やがて見えてきた車道の橋げたを潜れば、醍醐寺の総門が見えてくる。地下鉄・醍醐駅から総門まで15分位でしょうか。
真言宗醍醐派の総本山で、西国三十三所第十一番札所(上醍醐)。昭和42年(1967年)12月、醍醐寺境内全体が国の史跡に指定され、さらに平成6年(1994年)12月「古都京都の文化財」として「世界文化遺産」に登録されました。「花の醍醐」、桜の名所らしく総門横の桜はピンク色に染まり艶やかでしたが・・・。

 醍醐寺の境内図と歴史  



醍醐寺の境内は、大きく3つの領域に分かれている。
総門を入った桜の馬場を中心に、三宝院や霊宝館のある場所。2つ目は、山麓の金堂、五重塔を中心とした「下醍醐」。3つ目が山上の「上醍醐」です。上醍醐は醍醐寺発祥の地であり、西国三十三所観音霊場第十一番札所としてお参りの場所でもある。しかし上醍醐は500m近い醍醐山の山頂にあり、30~40分の山登りをしなければならない。誰でも簡単にお参りできる場所ではありません。上醍醐まで登られる人は少ないようです。
なお、三宝院、霊宝館、下醍醐、上醍醐それぞれ別個に600円の拝観料を要します。

★★ 醍醐寺の歴史 ★★
貞観16年(874年)、弘法大師空海の孫弟子であり修験道中興の祖とされている聖宝理源大師が、都の東南の山を眺めると五色の雲がかかっていた。雲に導かれてこの山に登ってみると、一人の老人が現れ、そこに湧き出ている水を飲み、『ああ醍醐味なるかな、私はこの土地の地主神(横尾明神)だが、この土地をあなたに差し上げよう』と言ったと伝えられている。「醍醐寺」の名の由来になったこの湧き水は現在でも湧き続けている。
理源大師は泉のほとりの柏の木で准胝観音、如意輪観音の両観音像を刻み、小堂宇を建立して安置した。こうして醍醐寺は山上(上醍醐)の准胝堂、如意輪堂から始まった。この山(笠取山)も「醍醐山」と名付けられた。

延喜7年(907)には醍醐天皇の勅願寺となり、山上に薬師堂、五大堂が建立され上醍醐の伽藍が完成する。それに引き続き山麓にも伽藍は建立がされ、延長4年(926)に現在の金堂の前身である釈迦堂が、ついで天暦5年(951)に五重塔が完成する。山麓の大伽藍「下醍醐」も整い、最盛期には山上山麓合わせて五百余りの堂宇が建ち並んでいたという。これらは醍醐(897-930)・朱雀(930-946)・村上(946-967)各天皇の帰依により手厚い庇護
によりことが大きい。永久3(1115)年には三宝院も建立され、以降も貴族や武士などの信仰も集め、真言密教の中心的な寺院としての立場を確立していった。

その後、室町時代の応仁・文明の乱(1467-1477)等相次ぐ戦火で三宝院や下醍醐の堂宇は灰燼に帰し、荒廃する。上醍醐も荒廃し、荘園も失い寺勢は衰え廃寺同然となっていった。

こうした荒廃した醍醐寺を立て直したのが、豊臣秀吉の庇護を受けた第80代座主の義演准后(ぎえんじゅごう)です。秀吉による「醍醐の花見」(慶長3年、1598年)を契機に、三宝院やその庭園、金堂の再建、さらには上醍醐の再建など醍醐寺が再興されていった。秀吉死後も秀頼、徳川家からの援助によって伽藍の復興、寺門の整備がされ、今日の醍醐寺の姿が整っていった。
現在、真言宗醍醐派の総本山として、多くの国宝を持ち、世界文化遺産にも登録されている。

 三宝院  


三宝院入口に当たる門。三宝院は醍醐寺の塔頭寺院の一つで、永久3年(1115)、醍醐寺第14世座主・勝覚僧正により創建された。鎌倉から室町時代にかけ、幕府と結びつき力を得る。醍醐寺の中でも中心的な塔頭となり、歴代の醍醐寺座主を多く輩出するようになる。しかし応仁の乱(1467-1477)で三宝院も焼失し、廃寺同然となる。これを復興再建したのが豊臣秀吉です。慶長3年(1598)春に催された「醍醐の花見」を契機に、三宝院の伽藍再建が始まり、秀吉亡き後は秀頼によって継続された。
現在では、醍醐寺の宗務事務所が三宝院内に設置され、醍醐派管長・醍醐寺座主・三宝院門跡の三職兼務が定められているという。

入口を入ると、左側に立派な枝垂桜が見える。樹齢160年を越える大紅しだれ桜で、太閤・秀吉にちなんで「太閣しだれ桜」と呼ばれている。秀吉の「醍醐の花見」で集められた枝垂桜の子孫とか。
反対側には「クローン桜」の名札が付けられた桜があります。クローン桜とは、同じ遺伝子を持つクローン苗から育てられた桜のこと。平成16年(2004)に住友林業が「太閣しだれ桜」をバイオ技術で増殖して移植したもので、世界で初めて開花に成功したクローン桜です。「太閤千代しだれ」と呼ばれている。

残念ながら親子とも青々とした姿でした・・・、一週間遅かった。

三宝院の大玄関(重要文化財)で履物を脱ぎ上がります。重要文化財に指定されている「葵の間・秋草の間・勅使の間」横の廊下を直進すれば表書院に突き当たる。表書院は平安時代の寝殿造りの様式を取り入れた桃山時代を代表する建造物とされる。長い縁側には勾欄がめぐらされ三宝院庭園に面している。
パンフによれば、下段・中段・上段の間があり、下段の間は別名「揚舞台の間」とも呼ばれ、畳をあげると能舞台になるという。そして長谷川等伯一派による襖絵(重要文化財)が描かれているそうです。そうした表書院内部を仔細に鑑賞する人は少ない(俺も・・・)。すぐ縁側に出て見事な三宝院庭園に魅入るのです。

表書院は国宝ですが、内部に自由に入れる。畳に横たわり庭園を鑑賞してる人もいる。太閤・秀吉になった気分でしょうネ。なお葵の間・秋草の間・勅使の間や表書院の内部は撮影禁止になっています。外からチラッと映る程度なら・・・(^.^)。

 三宝院庭園  



表書院の縁側から三宝院庭園の全景が見渡せる。三宝院庭園は、秀吉が慶長3年(1598)3月に催した「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭園で、秀吉自ら池、島、石組みなどの場所を決める「縄張り」を行ったという。秀吉死後も作庭作業は続けられ、完成まで20年以上かかっている。
桜を好んだ秀吉にしては桜は見られない。池を中心に石、島、橋、滝などが配置された緑豊かな回遊式庭園です。ここにも鶴と亀がいる。国の特別史跡・特別名勝に指定されています。

池の左後方の風景です。中央に長方形の形をした石が立っている。これが「藤戸石」と呼ばれ、源氏の軍勢が平家を追い詰めた備前・藤戸におい て武将佐々木盛綱が一番乗りを果たした浅瀬にちなむ石とされる。秀吉が自分の居館であった聚楽第から運ばせたもの。それ以前は織田信長が有していたといわれ、歴代の武将に引き継がれたことから「天下の名石」といわれている。左右に低い景石を置き、阿弥陀三尊を表すという。

藤戸石後方の一段高い所にある祠が豊臣秀吉を祀る「豊国大明神」。慶長5年(1600)、醍醐寺全体の復興に尽力した太閤秀吉の恩に報いるために、秀吉を祀る豊国神社より分霊を迎えて祀ったもの。
左端に水の落下する二段の小さな滝が見える。実際は三段の滝で、最上段は隠れて見えない。

表書院からさらに奥に、廊下でつながった建物がある。純浄観、本堂、奥宸殿で、いずれも重要文化財に指定されている。通常は非公開だが、桜の季節には特別公開されています。
写真に見える高床式の建物は純浄観。秀吉が花見のために醍醐山(上醍醐)中腹の槍山に建てた建物を移築したもので、「太閤ゆかり花見御殿」とある。三宝院庭園がよく見渡せるそうです。別に拝観料千円、表書院の縁側でも十分見渡せるので・・・。

 桜の馬場と「醍醐の花見」  



三宝院前一帯は「桜の馬場」と呼ばれ、醍醐寺桜見物のメインストリートです。この一帯は拝観料不要で、自由に散策できる。前回訪れた時は満開時で、人で溢れかえっていた。今日のこの寂しさ・・・。西大門(仁王門)へ続く右側の白塀越しに、霊宝館敷地内の見事な枝垂桜群が覗き見え、大変感動したものですが、今回は宴の後の青葉しか見えませんでした。
三宝院入口脇に白テントが張られ、醍醐寺の拝観券を販売しています。三宝院、霊宝館、西大門(仁王門)から奥の下醍醐と、それぞれ別個に拝観料(600円)がかかります。ここのテントでは共通券が購入できる。3箇所に入れる1500円券、2箇所入れる1000円券です。

三宝院入口前方に、真っ直ぐな長い参道が伸びている。満開時には両側から覆いかぶさるような桜のトンネルとなり、大混雑で歩けないほど。残念ながら、今日はスイスイ歩けます。醍醐寺は関西でも有数の桜の名所で、豊臣秀吉の「醍醐の花見」で有名です。私も桜目当てに来たのですが・・・。

慶長3年3月15日(1598年旧暦、現在では4月20日)、秀吉はここ醍醐寺にて盛大な花見の宴を催した。息子の秀頼・北政所・側室の淀殿ら近親の者を初めとして、女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な催しで、「花見に招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の他には唯一前田利家の名が見えるのみである。参加した女性たちには2回の衣装替えが命じられ、一人3着ずつ着物が新調され、衣装代だけで2015年現在の39億円に相当する金額がかかった」(Wikipediaより)そうです。秀吉に距離を置く九州の島津義久が、女達の2度のお色直しの衣装を担当させられた。そのため島津家の財政は底をついたという。

伏見城から醍醐寺までの沿道には諸大名の大警備がしかれ、その中を行列が進む。醍醐寺周辺には23ケ所の検問所が設けられ、弓、槍、鉄砲で武装した武士達が見張り、男の出入りは一切禁止されたという。一行は三宝院に入り、そこから五重塔の傍を通り醍醐山中腹の槍山を目指して移動します。その間に8つの茶屋が設けられていた。そこで茶会、歌会が催され、湯殿のある茶屋もあったそうです。槍山にはこの日のために立派な花見御殿(現在、三宝院表書院の奥に移築されている重要文化財・純浄観)が築かれており、桜風景を眼下に大宴会が行われた。

この「醍醐の花見」が実現したのには、醍醐寺第80代座主である義演の働きかけが大きい。醍醐寺公式サイトの「醍醐の花見」アーカイブスには、以下のようなことが記述されている。
天正13年(1585)、秀吉は従一位関白に就任する。代々、摂政関白は二条家が継ぐことになっていた。義演の父二条晴良、実兄二条昭実も従一位関白だった。それを秀吉は二条家から横取りしたのです。それに関わったのが義演で、その縁で秀吉と義演は親密になったと思われる。

秀吉の、宴会好き、花見好き、女・・・は有名です。義演は秀吉に”あんな遠い吉野山まで行かなくても、伏見城に近い醍醐寺で、女達を集め花見の宴を開いてはどうでしょうか・・・”と囁いたと思われる。「醍醐の花見」の4年前の文禄3年(1594)の春には、秀吉は徳川家康・前田利家・伊達政宗ら武将・公卿五千人を引き連れ大阪城を出発、吉野山で盛大な花見を催していた。その跡地は、今でも「豊太閤花見塚」として残されています。
”女、宴”と聞いて、秀吉は心踊らされないはずはない。秀吉はさっそく下見に醍醐寺へ赴きます。しかしそこで見た光景は、応仁の乱(1467-1477)以降の荒れ果てていた醍醐寺の姿でした。そして義演のためならと、仁王門や五重塔の修理、金堂や金剛輪院(現在の三宝院)などの醍醐寺伽藍の再建を始めた。三宝院庭園もこの時に造園されたものです。そして総門から槍山にかけ、吉野をはじめ近畿各地から集めた700本の桜を植樹した。醍醐寺の復興は、秀吉死後もその息子秀頼によって継承され、山上山下の多くの堂宇が整備された。そして第80代座主・義演は醍醐寺を復興させた「中興の祖」となったのです。

こうした贅を尽くした花見の宴の5ヵ月後、秀吉は62歳の生涯を閉じます。
 露と落ち 露と消えにしわが身かな なにわのことは夢のまたゆめ  秀吉

★「豊太閤花見行列」
秀吉の「醍醐の花見」にちなんで毎年4月の第2日曜日に、「豊太閤花見行列」が催される。秀吉、ねね、淀などに扮した豪華な行列が午後1時に三宝院を出発し、桜の馬場、境内を練り歩き、金堂前の特設舞台で舞楽、醍醐花見音頭、狂言などを披露し、再び三宝院に戻る。今年は、明日の10日です。その混雑を避けて前日の今日土曜日にやって来たのですが、見事な桜の散り具合・・・。明日の豊太閤花見行列は、どのような盛り上がりをみせるのでしょうか?。
聞けば醍醐寺での桜の最盛期は、3月下旬から4月第一週までだそうです。秀吉が「醍醐の花見」を催したという4月20日に桜など残っているはずがない。400年以上経った現在、やはり温暖化の影響で開花日が早まったからでしょうか?。

 霊宝館  


「桜のトンネル」の中ほどに霊宝館がある。醍醐寺には国宝6万9千点、重要文化財6千5百点の寺宝があるという。これらの保存と公開を兼ねて昭和5年(1930)に造られた建物。現在、桜シーズンに合わせ春の特別展が開催されている。拝観料600円。寺宝にはあまり興味はないが、枝垂桜の散り様を眺めるために入ります。
案内係りでしょうか、入口の若い僧侶も暇をもて余しているようです。

左の本館と仏像館(右側)の間の中庭には樹齢180年以上といわれる枝垂桜の名木がある。今は散った後だが、それでもその枝振りは見事なもの。ピンク色に染まった姿を鑑賞できなかったのが、かえすがえすも残念です。敷地内には、この名木以外にも多くの枝垂桜があり、どれも立派なものです。
霊宝館敷地は枝垂桜の宝庫でもあるので、それが目的の人が多いと聞く。閑散とした敷地内はもの寂しい。売店の方によると、「一週間遅かったですネ」だそうです。

霊宝館入口の反対側が、お食事処、休憩所です。公園のような敷地内に露天風のお店が並び、団子、お茶、お土産などを売っている。雨月茶屋という京料理を食べられるお店もあります。

今日の醍醐寺では、ここが一番賑わっていました。ここの桜が一番綺麗だったので、ここで花見を済ます人もいるのではないでしょうか。もちろん、この中も無料で開放されています。
これから向かう下醍醐、上醍醐には、飲料水の自動販売機はありますが、食べ物を手に入れる所はありません。ここで食事を済ますか、弁当を買って行くかです。


詳しくはホームページ

2015年秋、皇室の菩提所・泉涌寺へ (その 3)

2016年04月27日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2015/11/24(火)「御寺(みてら)」と呼ばれる天皇家の菩提所・泉涌寺を訪れた時の記録です。

 月輪陵(つきのわのみささぎ)、後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)  


霊明殿の真後ろに、天皇を初め皇室の方々のお墓が並ぶ月輪陵、後月輪陵が位置している。正面拝所には霊明殿右横から入れます。入口の横には、どこの天皇陵にも見られる画一化された宮内庁の制札が掲げられている。しかし、ここの制札は横に長~~く、たくさんの天皇以下皇族の名前が並んでいます(みな知らない方々ばかりで、著名な天皇さんは見当たらないのだが・・・)。影の薄い御名に比べ、「みだりに・・・・宮内庁」のデカイ文字がひときは目立つ。

1234年、第86代後堀河天皇が亡くなり、泉涌寺内の観音寺に埋葬される(観音寺陵)。仁治3年(1242)1月、次の第87代四条天皇が12才で崩御されると、父である後堀河天皇の近くに葬られたいとの遺言から、泉涌寺で葬儀が行われ、月輪大師の御廟(開山堂)近くに埋葬された。これが月輪陵の最初です。

南北朝時代中頃から泉涌寺で天皇の火葬が行われるようになり、遺骨は別の場所に埋葬された。制札の後半に、第103代後土御門天皇(1442-1500)~第107代後陽成天皇(1571-1617)の5人の天皇には[灰塚]と表記されている。これは火葬後に残った「灰」を埋葬し石碑をたてたもので、供養塔の一種。「骨」を埋めた正式な御陵は「深草北陵」(伏見区深草坊町)にある。ところが、後陽成天皇の葬儀の時に「髪、灰、骨」の形見分けで一悶着あったらしく、その次の第108代後水尾天皇(1596~1680)からは「土葬」されるようになった。そして以後の天皇は葬儀場だった泉涌寺にそのまま埋葬されることになったとのこと。
制札に列挙されているように、以後幕府最後の天皇・121代孝明天皇の前まで続きます。13人の天皇が月輪陵に、2人の天皇が後月輪陵にお眠りになっている。皇族の方々を含め、全部で25陵・5灰塚・9墓が鎮まっています。まさに皇室の香華所(菩提所)に相応しい。

門内に入ると、白砂が敷き詰められた広い前庭となっている。中には入れず、かなり離れて遥拝することになる。陵地は一段高くなっており、中央に構える石段上の唐門が、天皇陵に相応しい威厳を表している。

天皇家唯一の菩提寺として幕府の保護を受けてきた。ところが明治維新政府の神仏分離方針のもと、明治11年(1978) これまで泉涌寺の境内の一部だった月輪陵・後月輪陵は宮内省の管轄になった。それでも歴代の天皇の位牌や尊像は泉涌寺に祀られているというところから、宮内省から若干の補助は受けてきたようです。しかし終戦後の新憲法では、国が直接神社仏閣に資金を供することが禁止された。泉涌寺は皇室の御寺として、通常の寺院のように壇信徒を持っていない。そのためお寺の懐事情も苦しいようですが・・・。

内部を覗けないので、Google Earthで空中から覗きます。天皇陵といえば仁徳天皇陵などの巨大な前方後円墳を思い浮かべるが,7世紀以降になると方墳、円墳へと変化し、さらに八角墳が採用されるようになった。また仏教思想の影響により、火葬の導入(持統天皇)が見られるようになる。
中世にはいると天皇も仏式に火葬され寺に埋葬というのが一般的になる。月輪陵の最初の第87代四条天皇も、ここ泉涌寺で火葬され納骨された。ところが江戸初期の第108代後水尾天皇(1596~1680)から天皇家の葬礼が土葬にかわる。泉涌寺で葬儀が行われ月輪陵内に埋葬され、石造塔形式の陵墓が建立されただけです。こうした方式は、以後孝明天皇の前(第120代仁孝天皇)まで続けられ、かってのように墳丘が造営されるのではない。すべて土葬され仏式の御石塔でお祀りされている。天皇は九重の石塔(宮内庁は「陵形:九重塔」と表現している)、皇妃は無縫石塔(むほうせきとう)、親王墓は宝篋印石塔(ほうきょういんせきとう)だそうです。まさに武士の時代で、皇室の衰えを象徴している。

ところが、幕末にいたって尊皇思想が高揚してくると天皇のお墓についても変化が生じてくる。第121代孝明天皇が崩御されると、月輪陵の裏山に大規模な墳丘を持つ円墳が築造された。明治天皇(伏見桃山陵)、大正天皇(武蔵野陵)、昭和天皇(武蔵野陵)も、土葬され「陵形:上円下方」(宮内庁の呼び方)の墳丘となっている。

★平成25年(2013)11月14日、宮内庁から「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」が発表された(内容は宮内庁サイトを)
それによると、ご葬法について今上天皇(明仁)および皇后(美智子)さまから「御陵の簡素化という観点も含め,火葬によって行うことが望ましいというお気持ち,かねてよりいただいていた」という。それを受けて宮内庁で検討した結果、
・御陵は今までどおりの上円下方形とし、規模は昭和天皇陵の8割程度とする。
・今後の「御葬法として御火葬がふさわしいものと考えるに至った」
と発表された。これにより、江戸時代初期から350年以上続いてきた天皇・皇后の葬儀と埋葬方法は今上天皇の代では大きく変わることになる。

いつの日か、”美しく強いニッポン”の象徴として巨大な天皇陵がそびえることのないよう・・・お願いします

 第86代後堀河天皇・觀音寺陵(かんおんじのみささぎ)  


泉涌寺の東の山中に第121代孝明天皇の後月輪東山陵がある。直ぐ裏手で近いので訪れてみることに。泉涌寺境内の北側、仏殿の横に守衛所があり、ここから出入りできる。拝観券を見せると再入場もできます。
後月輪東山陵へは、ここを出て右側の緩やかな坂道を山中の方向に登って行くとすぐです。

5分位進むと、左手に階段が見え、宮内庁の例の制札が建っている。「後堀河天皇 観音寺陵」とある。
階段から坂道を登った行くと、左下には泉涌寺の建物が見えます。天福2年(1234)崩御された第86代後堀河天皇は、泉涌寺内の東山観音寺に埋葬されたという。これがその「観音寺陵(かんおんじのみささぎ)」です。宮内庁は「陵形:円丘」としている。

承久3年(1221)「承久の乱」がおこり、後鳥羽上皇を中心とした天皇側と鎌倉幕府との天下分け目の決戦が起こる。結局天皇側は負け、後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇の三上皇は配流され、仲恭天皇は退位させられた。幕府は次の天皇として後鳥羽上皇の直系子孫でない後堀河天皇(第86代、ごほりかわてんのう、1212-1234)を即位させた。まだ10歳で、幕府の言うがままで何もできない。10年後(1232年)、息子でまだ2歳の四条天皇に譲位し院政を行うが、2年後に23歳の若さで崩御した。



 第121代孝明天皇後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)  


後堀河天皇觀音寺陵からさらに進むと、左側にコンクリートの柵が見えてくる。入いるナ!、という宮内庁の意思表示で、この中に孝明天皇の女御・英照皇太后の御陵「後月輪東北陵」が築かれている。柵に沿って少し進むと広場に出る。
ちなみに明治天皇は英照皇太后の子ではない。孝明天皇と英照皇太后との間には2人の皇女がいたが、2人とも幼児期に夭折してしまう。そこで天皇と典侍の中山慶子との間に生まれた祐宮睦仁親王(当時9歳)を養子にもらい、「実子」と称した。この睦仁親王がのちの明治天皇なのです。

広場に宮内庁の制札「孝明天皇後月輪東山陵、英照皇太后後月輪東北陵」が掲げられている。その横には塀と扉しかなく、陵墓でよく見られる石の鳥居や柵などからなる正面拝所ではなし。どうやら孝明天皇、皇太后の陵墓はこの奥で、一般人は入れないようになっている。遥拝したければこの扉に向かってどうぞ、ということでしょうか。
第121代孝明天皇は幕末最後の天皇で明治天皇の父。慶応2年(1866)12月25日36歳で突然崩御する。公式には天然痘で亡くなったとされていますが、毒殺説、刺殺説などが残る。

前代の第120代仁孝天皇までは埋葬し、九重の石塔を建てるだけの簡素なものだった。次の孝明天皇から再び大きな墳丘が造営されるようになったのです。王政復古の象徴です。現代まで続いている。

 第85代仲恭天皇九条陵(ちゅうきょうてんのうくじょうのみささぎ)  



東福寺、泉涌寺周辺にはもう一つ天皇陵が在ります。第85代仲恭天皇・九条陵(ちゅうきょうてんのうくじょうのみささぎ)です。地図では東福寺塔頭の光明院のすぐ裏手になっている。そこで光明院を訪れた後、地図を頼りに住宅地を抜け裏山へ入っていった。雑木林の中へ入り込むと、広場とその正面に陵墓の遥拝所が現れた。どこにもある制札は見かけなかったが、「仲恭天皇九条陵」の石柱が建てられている。宮内庁は「陵形:円丘」としている。

第85代仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、1218-1234)は在位78日間で、歴代天皇の中でも最も短命の天皇として知られる。承久3年(1221)「承久の乱」が起こる。祖父後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討幕計画を画策し、父順徳天皇もこれに加わった。そのためわずか3歳で天皇になった。しかし2ケ月後、後鳥羽上皇軍は幕府執権北条泰時に敗れ、後鳥羽上皇は隠岐、父順徳上皇は佐渡に配流される。そして仲恭天皇は廃位となり、後堀河天皇が即位したのです。
仲恭天皇は明治時代になるまで正式な天皇として認められず、「半帝」「九条廃帝」と揶揄されてきた。正式な即位式も無く短命で、反乱を起こした反幕府側だったためです。廃位後は、母の実家九条道家の邸(九条殿)に母と共に暮らし、天福二年(1234)に17歳で崩御する。
明治時代になって、幕末以来の尊王思想の影響を受け、歴代天皇の系統の見直しが行われた。明治3年(1870)「仲恭天皇」と追号され、第85代天皇として初めて歴代天皇に加えられたのです。
仲恭天皇の埋葬地はどこか?。わずか78日間在位期間で、かつ長い間天皇として認められてこなかった。そうした仲恭天皇については歴史資料も乏しく、ましてや埋葬地など分っていない。晩年は叔父で、東福寺を創建した九条道家の九条殿で過ごしたということから、明治22年(1889)その近辺に円丘墳が築かれた。これが現在の「九条陵」です。
ところがもう一つ候補地がある。東福寺の項で紹介した法性寺の横に位置する「東山本町陵墓参考地」(東山区本町十六丁目)です。そこには柵で囲まれた空き地が在り、宮内庁の制札「東山本町陵墓参考地」が立っている。
東山本町のこの地に円丘状の土塚があり、塚上に廃帝社と呼ばれる祠があったということがわかってきた。そこで宮内庁は大正13年(1924)、「ここかもしれない・・・」として陵墓参考地に指定し、現在にいたっている。

私は裏から入ったのだが、表側には小石を敷き詰めた立派な参道が築かれていた。そしてこの参道からの眺めがすこぶる良い。京都市内が見渡せます。歴代天皇中で最も影が薄い天皇で、真陵かどうかも不明なので御陵は別にして、東福寺訪問後の気分転換に裏山に登ってみるのもよいかも。人の散歩は許されているようですので・・・

この参道の途中に「崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵(すとくてんのうちゅうぐうこうかもんいんつきのわみなみりょう)」があります。
藤原聖子(ふじわらのきよこ)は、摂政・藤原忠通の娘で、後に崇徳天皇の中宮となりました。ところが崇徳上皇は保元の乱で敗れて讃岐に配流されてしまう。聖子は京都に留まって出家し「皇嘉門院」となり、縁戚の九条家で余生を過ごしたという。この辺りが九条家の領地なので、ここにお墓が造られたのでしょう。
見晴らしの良いこの場所が選ばれたのも、崇徳上皇の怨霊を鎮めるためでしょうか?

詳しくはホームページ

2015年秋、皇室の菩提所・泉涌寺へ (その 2)

2016年04月21日 | 寺院・旧跡を訪ねて

015/11/24(火)「御寺(みてら)」と呼ばれる天皇家の菩提所・泉涌寺を訪れた時の記録です。

 大門(重要文化財)と楊貴妃観音堂  


来迎院から元の参道(泉涌寺道)に戻る。10分位歩くと泉涌寺の入口となる大門(重要文化財)にたどり着く。大門には、泉涌寺の山号「東山」(とうぜん)の額が掲げられているところから「東山門」とも呼ばれている。くる。門脇に受付があり伽藍拝観料 500円必要。
創建について公式サイト
「当寺は天長年間(824-34)、弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、後に仙遊寺と改名された。建保6年(1218)に、当寺が開山と仰ぐ月輪大師・俊(がちりんだいし・しゅんじょう)が宇都宮信房からこの聖地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を志し、嘉禄2年(1226)に主要伽藍の完成をみた。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めた。この泉は今も枯れることなく涌き続けている。」と書かれている。

月輪大師は肥後国(熊本県)出身で、正治元年(1199年)宋に渡り天台と律,禅を学び、12年後の建暦元年(1211年)日本へ帰国した。彼は宋から多くの文物をもたらし、泉涌寺の伽藍は全て宋風に造られた。嘉禄2年(1226)に伽藍の完成をみた。そうしたことから実質的な開祖は鎌倉時代の月輪大師とされる。

泉涌寺は皇室・公家・武家など朝野から尊信篤く,深く帰依された。貞応3年(1224)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められ,仁治3年(1242)に四条天皇が当寺に葬られてからは、歴代天皇の山稜がこの地に営まれるようになる。こうして皇室との結びつきが深まり、皇室の御香華院(菩提所)として篤い信仰を集めることとなり,「御寺(みてら)」と呼ばれるようになった。

伽藍は中世の戦乱で荒廃するが、信長・秀吉・徳川家の寄進で再興され、なかでも寛文4年(1664年)からの6年間に徳川家綱によって大規模な再建事業がなされ、現在の姿になった。

大門を潜ると,真っ直ぐな広い参道が仏殿まで続いている。寺院では珍しく下りの坂道となっています。そこから「下り参道」と呼ばれている。紅葉シーズンだが、華やかな明るさはなく、深緑に覆われ静寂な雰囲気が漂う。大混雑の東福寺に比べ、地味な泉涌寺はさすがに訪れる人は少ない。路上に散乱する落葉が、泉涌寺で唯一の華やかさでした。

大門を入った左横に,後水尾天皇中宮東福門院が寛文5年(1665年)に寄進した楊貴妃観音堂がある。
建長七年(1255年)中国に渡った僧・湛海律師(月輪大師の弟子)が仏舎利とともに宋より請来した中国・南宋時代の観音菩薩坐像が祀られている。
通称「楊貴妃観音像」(重要文化財)と称されている。玄宗が亡き楊貴妃の面影を偲ぶため香木で等身坐像にかたどった聖観音像を造ったという伝承が残され,近世初期以降に楊貴妃観音として信仰を集めた。
私は拝観していないのだが,整った鼻筋、紅を差したような唇,日本一美しい観音像といわれているそうです。そして口のまわりにヒゲが・・・との噂も?。

 雲龍院(うんりゅういん)  


大門を潜ってすぐの右側(楊貴妃観音堂の反対側)に入っていくと雲龍院があります。右側の門が「勅使門」で、皇族方の出入りだけに使われ普段は閉じられている。近年では常陸宮妃華子殿下がお使いになられたそうです。我々下々のものは、手前の山門から入り拝観料400円支払う。

山門脇の由緒書きによれば、南北朝時代の応安5年(1372)に北朝第4代の後光厳天皇が竹巌聖皐(ちくがんしょうこう)律師を招いて菩提所として建立されたのがこの寺のはじまりとされる。その後、歴代天皇の信仰があつく、皇室の帰依を受けて発展したとされる。以来、天皇家ゆかりの寺として、泉涌寺山内にありながら別格本山という高い寺格が与えられている。

写真の建物は霊明殿。明治元年(1868年)に再建された皇族の位牌堂です。
(公式サイト)「当院は後水尾天皇以降の歴代の陵が後山にあり、皇室と大変密接なご関係のお寺です。霊明殿はその皇族の位牌堂のことで、現在の建物は明治元年に孝明天皇・大宮御所・静寛院宮・各尼門跡宮からの援助を受け建立されました。内陣の中央には、北朝の後光厳天皇、後円融天皇、後小松天皇、称光天皇の御尊牌そして左側には後水尾天皇から孝明天皇までの歴代天皇、右側には東福門院・普明照院といった江戸時代の皇子・皇女の尊牌が奉安されています」とある。

霊明殿の前の燈籠は、最後の将軍となった15代将軍徳川慶喜が寄進したもの。白砂で形造られ皇室の十六菊の御紋が印象的。京都を愛したサスペンスの女王、山村美紗さんのお墓もここ雲龍院にあるという。(皇室の仲間入り・・・?、皇室を題材にしたサスペンスって面白そう・・・)

多くの人は、皇族の位牌が安置されているから雲龍院を訪れるのではない。この雲龍院の魅力は、庭園の美しさとそれを眺める仕掛けです。訪れる人の大部分は庭園を眺めることが目的でしょう。
書院前には広い庭園が広がっている。東山月輪山を借景に、苔と石組み、刈込、楓、松を配置した築山式庭園です。畳敷き「大輪(だいりん)の間」には縁側、半開きされた障子、赤い毛氈が設えられ、好みの位置・角度から庭を額縁の絵のように鑑賞できるようになっている。それほど人も多くないので寝転がって寛ぐのが一番でしょうか。枯山水より、こうした緑の築山式庭園のほうが落ち着きます。

「大輪の間」の隣が「れんげの間」。雪見障子の四角いガラス越しに、額縁で切り取ったように四枚の絵色紙が眺められる。「しきしの景色」と名付けられています。左の窓から椿・灯籠・楓・松が透かし見える。四季折々に異なった趣の絵色紙を鑑賞できるという。
部屋の一角に座布団が置いてあり、その座布団に座って鑑賞するのが「報道ステーションのお天気お姉さん推奨」と説明書きされていました。

台所から右へ曲がりさらに奥の部屋に行くと、有名な「悟りの間」があります。悟りの間には、四角い窓と丸い窓があります。四角い窓は「迷いの窓」と呼ばれているそうです。人生に於ける「生老病死」の苦しみを四つの角で象徴しているとか。

正確な真円を描いてる「悟りの窓」は、禅における悟りの境地を表しているという。春には紅梅やシャクナゲが、秋には紅葉が鑑賞できるそうです。
知られた撮影スポットだけあって、玄人、素人集まってくる。良いアングルをとるには順番待ちしなければなりません。

 泉涌水屋形と清少納言の歌碑  


下り参道の正面に仏殿があり、その東横に「泉涌水屋形(せんにゅうすいやかた)」がある。泉涌寺の名前の由来ともなった湧き水が出た場所です。今も尽きることなく水が湧き出ています。寛文8年(1668)の再建で、間口2間に奥行き1間半の屋形で覆われている。

泉涌水屋形の傍に,平安時代の歌人・清少納言(966-1025)の歌碑が設置されている(1974年建立)。
清少納言は一条天皇皇后定子(藤原定子、977 -1001)に仕えた。定子が亡くなり鳥部野陵に埋葬されると、彼女はその近くの泉涌寺付近に庵を結び隠棲し生涯を終えたとされています。
歌碑には,藤原行成と交わした歌「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」の歌が彫られている。

 仏殿と舎利殿(しゃりでん)  



境内の中央にあるのが本殿にあたる「仏殿」(重要文化財)。応仁の乱で焼失後,寛文8年(1668年)徳川四代将軍徳川家綱の援助で再建された。桁間5間、梁間5間、一重裳階付入母屋造、本瓦葺で唐様建築の代表作。

内部には、運慶の作と伝えられている本尊の三世仏が祀られている。即ち過去・現在・来世を表す阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来です。そしてお堂の左奥には開山された月輪大師像が祀られています。
仏殿内陣の鏡天井には,江戸時代の画家狩野探幽の「雲竜図(うんりゅうず)」(パンフは「蟠龍図(ばんりゅうず)」となっている)が描かれている。畳八畳分の大きさをもつ龍の絵です。

仏殿の背後にある白壁の建物が舎利殿(しゃりでん)。御所にあった御殿を移築したもので、ここには仏牙舎利(釈尊の骨)が祀られている。安貞2年(1228)、月輪大師の弟子湛海が宋から持ち帰ったもので、釈迦の口元の骨(歯)だそうです。
現在同時に将来された韋駄天像・月蓋(がつがい)長者像(共に重文)とともに内陣に奉祀されている。

ここ舎利殿の天井にも狩野山雪筆の『蟠龍図』(ばんりゅうず)が描かれている。天井画の下で手を叩くと、その音が反射して龍が鳴いているような音が返ってくるという。そこから「鳴き龍」と呼ばれている。通常非公開ですが、12年に1度、辰年にのみ特別公開されるそうです。 世阿弥作と伝えられる謡曲「舎利」の舞台がこの舎利殿。

 御座所(ござしょ)と霊明殿(れいめいでん)  


舎利殿の裏手にはお坊さんの住む本坊と繋がって御座所(ござしょ)がある。御座所とは天皇・皇后をはじめ皇族の方々が訪れた際に休息所として使用した所。現在も皇室や宮内庁の関係者が来寺したときには休息所として使用されているが、普段は一般にも公開されている。

建物は明治17年(1884)年、明治天皇の命により京都御所内にあった皇后宮の御里御殿(おさとごてん)を移して再建されたもの。女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などの部屋があり,狩野探幽などの貴重な襖絵が見られる。またここの「御座所庭園」も美しさで有名です。
中へ入るには特別拝観料(300円)が別途必要。今日は枯山水の庭園をたくさん見てきたので,庭園はもういいか,と入らなかった。しかし皇族の気分を味わえるよい機会だったのにと,後で後悔しました。

御座所の東側には「海会堂(かいえどう)」と呼ばれる御堂がある。明治政府が発足すると、神仏分離・廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる。神道を基とする皇室も例外ではない。他の寺院のように仏教物を破壊するわけにもいかない。そこで明治9年(1876)、京都御所にあった天皇の念持仏が祀られている御黒戸(おくろうど=仏間)を丸ごと泉涌寺に持ってきた。これが海会堂で、今でも歴代天皇、皇后、皇族方の御念持仏が祀られているそうです。

舎利殿の右奥が霊明殿。ここには天智天皇、光仁天皇そして桓武天皇以降、昭和天皇に至る歴代天皇・皇后の尊牌(位牌)がお祀りされている。これも明治初期の神仏分離で、各地の寺院に分散していた皇室の位牌を集め、ここ霊明殿に祀りしたもの。

毎月の御命日やお彼岸・お盆等には御法要が行われ、また日々の回向が行われているという。そして祥月御命日には皇室の代理として宮内庁京都事務所からの参拝が行われるそうです。

現在の建物は明治15年(1882)の炎上後、明治天皇によって明治17年(1884)に再建されたものである。入母屋造、檜皮葺で寝殿風の造り。

門より中へ入ることはできない。菊の御紋が目を光らせている・・・。




詳しくはホームページ

2015年秋、皇室の菩提所・泉涌寺へ (その 1)

2016年04月15日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2015/11/24(火)京都・東福寺の紅葉見物の後、近くの泉涌寺(せんにゅうじ)に立ち寄る。泉涌寺は「「御寺(みてら)」と呼ばれ、天皇家と大変深い関係があります。境内には月輪陵と呼ばれる御陵があり、沢山の天皇さんが眠っておられる。今まで前方後円墳などの多くの天皇陵を見てきたが、天皇陵の総本山たるここを見過ごすわけにはいかない。

 新熊野神社(いまくまのじんじゃ)  


京阪・JRの東福寺駅へ戻り、今度は東大路通りを北東へ歩く。泉涌寺道への入口が見えるが、それを通り越し200mほど進むと路傍にクスノキの大樹が見えてくる。ここが新熊野神社です。

後白河法皇(在位:1155年~1158年)は退位後も法住寺にて院政を敷き、「法住寺殿」と呼ばれていた。当時熊野詣が盛んで、法皇も34回熊野に参詣したという。しかし紀州熊野はさすがに遠い。そこで永暦元年(1160年)、近くに鎮守社として新熊野神社を創建し、熊野の神をここに勧請したのです。造営を平清盛・重盛父子に命じ、熊野より土砂材木等を運び社域を築き社殿を造営、神域に那智の浜の青白の小石を敷き霊地熊野を再現しようとした。紀州の熊野に対して、京の新しい熊野として「新熊野(いまくまの)」と呼ばれた。同時に鎮守寺として三十三間堂も創建された。




神社入口左手に、しめ縄のかけられた樟(クスノキ)の大樹がそびえる。神社創建時に、熊野より移植した後白河上皇みずからお手植といわれている。幹周/6.58m、樹高/21.9m、樹齢/伝承800年。樹齢900年以上京都市指定天然記念物 (S58年6月1日指定)


ここの境内は、能楽発祥の地といわれている。能楽の礎をつくった観阿弥・世阿弥の出たところです。






 泉涌寺道(せんにゅうじみち)  


新熊野神社から東大路通りを200mほどバックすると、泉涌寺へ通じる道がある。これが「泉涌寺道(せんにゅうじみち)」と呼ばれ、泉涌寺の大門まで500mほど緩やかな坂道となっています。



泉涌寺道の中ほどに泉涌寺の総門が構える。道の両側には、即成院、戒光寺、悲田院、来迎院、今熊野観音寺などの泉涌寺の塔頭寺院が点在している。

毎年成人の日(1月の第2月曜日)には、泉涌寺道で「泉山七福神巡り(せんざんしちふくじんめぐり)」が盛大に行われるそうです。泉涌寺道沿道の塔頭を順に参拝していく人で、例年多くの人出があるという。

 即成院(そくじょういん)  


泉涌寺総門の手前にある即成院は、泉涌寺の山内にある塔頭です。
寺伝によれば,正暦3年(992)、恵心僧都源信により伏見(宇治川北岸)に建立された光明院を起源とするとされる。 その後いろいろ転移を繰り返し、最終的に泉涌寺塔頭の法安寺と合併し明治35年(1902年)に総門近くの現在地に移された。本堂には、本尊・木像阿弥陀如来坐像並びに二十五菩薩坐像が安置されている。いずれも国の重要文化財に指定されています。本尊は、ぽっくり信仰を集め「ぽっくり寺」とも呼ばれるとか。
即成院は那須与一ゆかりの寺とされており、本堂裏には与一の墓と伝えられる高さ3メートルにも及ぶ石造宝塔が建っている。与一は、熱心に即成院の阿弥陀さまを信仰していた。そして平家の船上に掲げた扇の的を見事一発の弓矢にて射抜くという武勲を立てた。最終的には即成院の阿弥陀さまの前で亡くなったという。
門を潜った右手に「与一の手洗い所」が設けられている。「願いが的へ」と書かれた箱もあります。紙石鹸が入っており、湿らせた手に紙石鹸をのせ、願いを込めて手を洗うと「願いが的へ」へ通じるという。
那須与一は『平家物語』に描かれた半ば伝説上の人物とされるのだが・・・

 悲田院(ひでんいん)  


総門を入ってしばらく歩くと、右手に悲田院への標識が見える。悲田院とは奈良時代より、仏教の慈悲の思想に基づき、身寄りのない老人、孤児、貧窮者、病者などを収容するの救済のための福祉施設。平安時代にも京に幾つか建てられたという。正保2年(1645)、高槻城主・永井直清が現在地に移建し、如周和尚を迎えて住持としたのが現在の悲田院でとされる。
泉涌寺の塔頭寺院のひとつで、本尊は阿弥陀如来。除災招福の毘沙門天が有名とか。

山の中腹に位置しているため、眺望がすこぶる良い。建物の西側には、柵が設けられベンチが置かれている。まさに展望台で、京都タワーをはじめ、京都市内を一望できます。境内は無料で入れますので、疲れを癒すのに最適な場所です。

 今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)  


悲田院から泉涌寺参道に戻り、少し歩くと左側に「紅葉まつり」の立て看とともに「頭の観音さん 今熊野観音寺」の標識が見える。緩い坂道を下ってゆくと今熊野川に架かる朱色の橋が見えてきます。橋の名前は「鳥居橋」。朱色の橋といい、”鳥居”という名前といい、まるで神社のようです。古くからこの地には熊野権現社が鎮まっていた名残のようです。
鳥居橋を渡ると今熊野観音寺の境内に入ります。通常の寺のように山門はありません。この鳥居橋が門の代わりなのでしょうか?。

寺伝によれば、平安の昔、弘法大師空海が創建したと伝わる。850年代、左大臣藤原緒嗣が伽藍を造営したと伝えられ、当初は東山観音寺と称していた。「熊野信仰」の大流行の際、後白河法皇が永暦元年(1160)に新熊野神社を勧請創建された際、その本地仏を祀る寺として今熊野観音寺と称するようになったという。その後、泉涌寺をも凌ぐ大寺となったが、応仁の乱の戦禍でほとんどの堂宇を失ってしまった。
境内に入り杉並木の参道を通り抜けると、本堂へ続く階段前に「子護り大師」像が建つ。子どもの心身健康・学業成就などにご利益があるといわれている弘法大師像です。像の周りには砂が敷き詰められ、「南無大師遍照金剛と唱えながら四国八十八箇所のお砂を踏んでお大師様を廻って下さい」と書かれた札が立てられている。

「子護大師像」後ろの石段を上がると本堂の前に出る。本堂も応仁の乱で消失たが、正徳3年(1713)に再建され現在に至っています。本尊は、弘法大師御作と伝えられる十一面観世音菩薩(身丈・一尺八寸)。秘仏なので直接拝観することはできない。
本堂の東側に、弘法大師をお祀りしている大師堂があり,その入口階段横に「ぼけ封じ観音」が建てられている。
頭痛の悩んでおられた後白河法皇が、今熊野観音に頭痛平癒のご祈願を続けられたところ、不思議にもたちまちに癒えた、という「後白河法皇頭痛封じ霊験記」からきているそうです。

「ぼけ封じ観音」の傍には多数の小さな「身代わり石仏」並んでいる。授与所で奉納料(2万円)を支払い,いただいた小石仏にボケ封じの願を掛け,本堂で御祈祷を受けた後この場所に奉安される。
「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」なるものがあり,今熊野観音寺はその第一番札所だそうです。私もそろそろ霊場巡りを・・・それとも身代わり石仏を((-_-;))。

 来迎院(らいごういん)  


今熊野観音寺から引き返し鳥居橋を渡ると,参道に出る手前に宮内庁書陵部の管理事務所「月輪陵墓監区事務所」がある。その前の道を林の中へ入っていくと来迎院への入り口が見えてくる。

薄暗い山中の山門。いかにも大石内蔵助が隠れ住み,謀議を話し合ったという雰囲気が現在でも漂う。訪れる人は少ない。

泉涌寺の塔頭寺院。創建は,大同元年(806年)に弘法大師空海が唐で感得した三宝(仏・法・僧)荒神像を安置して開いたと伝えられ、今も大師ゆかりの独鈷水がある。応仁の乱(1418)の兵火により伽藍が焼失し、荒廃したが、織田信長や徳川家の援助により再興される。明治時代になると廃仏毀釈により荒廃したが、大正時代になって修復され、現在に至る。本堂には運慶の作と伝えられる阿弥陀如来が安置されている。
本堂前を奥へ進むと,大石内蔵助ゆかりの含翆軒と含翆庭があります。拝庭料400円払い,中に入る。小さな庭園はこの時期紅葉で色づくが,それ以外熊笹で覆われ,華やかさはない。

庭の一角に大石内蔵助が建てたという茶室・含翆軒(がんすいけん)が佇む。
赤穂浅野家断絶後,大石は外戚にあたる当時の泉涌寺長老でここの住職であった卓巖和尚を頼り、来迎院の檀家となって寺請証文を受け山科に居を構えた。そしてここ来迎院でよく茶会を催し、赤穂の浪人たちと密談をかわした、とされています。そして、今も本堂に安置されている勝軍地蔵を念持仏として祈願していた。その甲斐あってか見事に討ち入りを成就さした。


詳しくはホームページ

2015年秋、紅葉の東福寺(その2)

2016年04月04日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2015/11/24(火)京都・東福寺へ紅葉見物に出かけたときの記録です。

 本堂と三門  


境内のほぼ中央に二つの巨大な建物が佇む。 東福寺の中心伽藍である本堂(仏殿 兼 法堂)と三門(国宝)です。
本堂(仏殿 兼 法堂)は、鎌倉時代中頃に高さ5丈の本尊釈迦像を安置するため建てられた。明治14年(1881年)に焼失したが、昭和9年(1934年)に再建された。裳階付き重層入母屋造り、高さ25.5m、間口41.4mで昭和期の木造建築としては最大級のもの。
本尊釈迦三尊像(中尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)が祀られているが、これは明治14年の火災後に万寿寺から移されたもので、鎌倉時代の作。
皆さん正面の扉から中を覗き、見上げていらっしゃる。内部の大天井には仏教を守護する雲龍図が描かれている。内部が非公開のため入ることはできないので、覗いているのです。。京都生まれの画家、堂本印象画伯の作品で、東西約22m、南北約11mの天井に描かれた龍の大きさは体長54m、胴廻り6.2mにもなるという。私も見上げたが薄暗くてよく判らなかった。
本堂の南には三門(国宝)がどっしりと構える。元応元年(1319)の大火によって失われた後、室町時代初期の応永年間(1394年~1428年)に室町幕府四代将軍、足利義持によって再建された。「三門」とは空門・無相門・無作門の三解脱門のことで、現存する禅宗寺院の三門としては日本最古のもの。国宝になっている。
五間三戸(柱間五間で入口が三つの門)、二階二重門、入母屋造、本瓦葺、棟高は22m余で、南禅寺・知恩院の門と並び京都の三大門と称される。
手前の池は「思遠池(しおんち)」。夏には、「思遠の蓮」と呼ばれる美しい白い蓮が咲くそうです。池の中央には、三門へとつながる石橋が懸けられている。近くには勅使門があり、天皇の勅使が出入りする時だけに使われる橋です。

思遠池の橋を渡り、そのまま直進すれば三門を潜り本堂へ通じている。天皇の勅使しか歩めないコースです。

三門の左右には階上へ登るための階段が設けられている。しかし特別公開(3月14日~16日の涅槃会に公開、拝観料:大人500円)以外は一般公開されていない。
楼上からは洛南一帯の雄大な景色を一望でき、かの石川五右衛門が「ここも絶景だゾ!、絶景だゾ!」と叫んだとか、叫ばなかったとか・・・。


 浴室と東司(便所)  


本堂や三門の東側の境内を歩いて見ます。こちらには浴室(重文)、五社成就宮、十三重石塔、大鐘楼などがある。
浴室(重文)は、室町時代の長禄3年(1459年)の瓦銘が残り、禅宗伽藍としては現存最古の浴室建築。奈良・東大寺の湯屋に次いで古い浴室で、1907年(明治40年)に国の重要文化財に指定される。内部は非公開。
内部は、土間の奥の左右に腰掛が設けられ、中央の板敷を洗い場にした蒸し風呂形式。現在のサウナの同じ。説明版によれば、「沐浴にお湯を使用すると膨大な量となる。当然お湯を沸かす貴重な水はもとより、水を沸かす薪の量も多く、東山三十六峰の山々が禿げ山になる可能性がありました。そのためお湯でなく蒸気で体の垢をふやかし擦り落とすことで、お湯の使用量を格段に節約し、自然を大切にしたのである」のだそうです。
後方に釜と焚き口があり、蒸気をスノコを通して下から送っていた。

本堂や三門の西側には禅堂と東司(とうす)がある。二階建てに見える白壁の建物が禅堂で、お坊さん達が寝食を共にしながら坐禅をし修業する道場。
手前の平屋の建物が「東司」、いわゆる共同トイレです。現代でもこれだけの規模の便所って無いですよネ。
禅堂内で修行する僧が使用するもので、禅寺には必ず禅堂の隣に用意されていたという。室町時代の建築で、現存するのはここだけで、浴室と共に室町時代の禅僧の生活を知る上で貴重な建物となっている。
非公開だが、東側の連子窓から内部を見ることはできる。いわゆる”覗き見”です。窓の下には覗き見し易いように親切に踏み段が置かれています。内部は中央通路をはさんでその両側に便壺が十五個づつ並んでいる。多くの修行僧が一斉に用を足すことから「百雪隠(ひゃくせっちん、百間便所)」とも呼ばれる。

説明版に「当時の排泄物は貴重な堆肥肥料であり、京野菜には欠かせない存在となっていた。京都の公家、武家、庶民の台所をおいしい野菜で潤した。叢林としても現金収入の大きな糧となっていた」とあります。厳しい修行に励んだ僧たちの便だからこそ、おいしい京野菜が・・・。

明治35年(1902)に国の重要文化財に指定されている。便所で重要文化財指定って他にあるんだろうか?。浴室と共に室町時代の禅僧の生活を知る上で貴重な建物です。

 勅使門(ちょくしもん)と六波羅門(ろくはらもん)  


三門前の思遠池の南西角にあるのが勅使門(ちょくしもん)。天皇の勅使をお迎えする時だけに使われる。通常は閉ざされ、開かずの門なのです。天皇の勅使は、この勅使門から入り思遠池中央に架けられた石橋を渡り、三門をくぐって本堂前に進む。
桃山時代の天正18年(1590)に、現在地より南方にある塔頭の南明院に建造された。明治18年(1885)に現在地へ移築された(私の推測だが、明治初めの廃仏毀釈で東福寺の境内が大幅に縮小され、勅使門も境内外になってしまったので移築したのでは・・・)。四脚門、切妻造、本瓦葺で、1993年(平成5年)4月9日に京都府指定文化財に。

勅使門の直ぐ西にある門で、こちらは開いており、境内南側の通用門としてくぐれる。もと北条氏の六波羅探題にあったものを移したことから、この名で呼ばれている。

鎌倉時代前期の門で、東福寺では月下門とともに最も古い建築物で、国の重要文化財に指定されている。
一間一戸・切妻造・本瓦葺。



 芬陀院(ふんだいん、雪舟寺)  


本堂西の日下門から出ると、さらに西の中門まで参道が伸びている。その中ほどに「雪舟寺」として有名な、東福寺の塔頭寺院のひとつ芬陀院(ふんだいん)があります。大混雑の東福寺境内から一歩外れると、訪れる人も少なく、静かな雰囲気になってくる。
鎌倉後期の元亨年間(1321~1323)に、時の関白・一條内経(うちつね)が父親の菩提を弔うために創建した寺。それ以来、摂関家の一つであった一条家の菩提寺となっている。一條内経の戒名が「芬陀利華院殿(ふんだりかいんでん)」だったので「芬陀利華院」と呼ばれていたが、略して「芬陀院」となった。

ここの南庭は禅院式枯山水の「鶴亀の庭」といわれ、寛正年間(1460-1466)から応仁年間(1467-1468)に、時の関白一條兼良公の好みにより雪舟が作庭したと伝えられている。
水墨画などで有名で、また禅僧でもあった雪舟(1420-1506)が少年時代を過ごした備中(岡山県)の宝福寺は東福寺の末寺だった。その縁で雪舟が東福寺に参った時は芬陀院に起居していたという。

その後二度の火災で荒廃していたが、作庭家・重森三玲(1896-1975)が東福寺の方丈「八相の庭」や光明院「波心庭」を作庭した同じ年の昭和14年(1939)に、修復・復元した。重森三玲はそれまでの実測調査の結果と、雪舟が山口に作った常栄寺庭園の実測資料を参考にして復原したという。白砂と苔と石組みによる京都最古の枯山水庭です。
白砂の奥にウマスギゴケを敷き詰め、その中に石組みで表された鶴島と亀島が浮かんでいる。右の二重基段状になっているのが亀島、左が折鶴を暗示した鶴島。

方丈の東側には、昭和14年(1939)南庭の修復・復元時に、重森三玲が新たに作庭した「東庭」がある。モチーフは南庭と同じ苔と石組による鶴亀の島からなる枯山水庭園。
その奥に茶室「図南亭(となんてい、恵観堂)」があり、茶室には丸窓が設けられ、障子の隙間から東庭を切り取って眺めることができます。

 光明院(こうみょういん)  



東福寺境内から南に出て、南に続く路地には幾つかの東福寺塔頭寺院が並んでいる。その中の一つに「光明院(こうみょういん)」があります。「苔の虹寺」とも呼ばれ、美しい庭園があるというので訪ねてみることに。

明徳2年(1391)金山明昶(きんざんみょうしょう)により創建された東福寺塔頭。入口には「雲嶺庭」の石柱が建ち、数段の石段を登った山門には「波心庭」の札が掛けられている。

方丈前の枯山水庭園は、重森三玲の作庭で「波心の庭(はしんのにわ)」と呼ばれている。東福寺方丈庭園と同時期(昭和14年、1939年)に作られたもので、重森三玲の初期の名作とされる。
寺号にちなみ「光明」をテーマに作庭され、大海原を表す白砂と杉苔の間に、斜線状に立石が並べられ、仏の光を表しているという。また、背後の刈り込まれたサツキやツツジは雲紋を表すそうです。

庭の奥には、茶亭「蘿月庵(らげつあん)」がある。紅葉の時期にはここの茶亭でお抹茶や京番茶とおはぎ、饅頭などをいただくことができます。
抹茶+おはぎか饅頭:600円
京番茶+おはぎか饅頭:400円
ここも芬陀院同様に、訪れる人は多くないので、静かに落ち着いた気分で鑑賞できます。
蘿月庵の丸窓は月を表し、「波心庭」から眺めると、東の空に月が昇る様子を楽しむことができるそうです。
京の寺には窓越し、障子越しに庭や紅葉を鑑賞できる仕掛けが多い。作為を感じなくも無いが、これも創作美としてとらえるべきでしょうネ。

 法性寺(ほうしょうじ) 


東福寺境内を西に外れた、京阪電車沿いの本町通り(鳥羽街道)に小さな小さなお寺が在ります。京阪・東福寺駅にも近い。入口は閉められ、誰も振り向かない街中のありふれたお寺に見えます。ところがこのお寺は、東福寺よりも古く大変由緒ある古刹なのです。
浄土宗西山派の尼寺「法性寺(ほうしょうじ)」。延長三年(924)、左大臣・藤原忠平によって創建された。藤原家の氏寺として栄え、藤原忠通(法性寺入道)の時には、広大な寺域に大伽藍を構え、京洛二一ケ寺の一刹に数えられていた。しかし、その後藤原氏の衰退や兵火により、堂宇は悉く焼失してしまった。 その跡地に創建されたのが現在の東福寺なのです。
現在の法性寺は明治維新後に再建されたもので、東福寺に比べ陰の薄い存在になってしまっている。本堂に安置されている千手観世音菩薩像は、旧法性寺の五大堂の一つである灌頂堂の本尊と伝えられ、国宝に指定されています。


詳しくはホームページ

2015年秋、紅葉の東福寺 (その 1)

2016年03月28日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2015/11/24(火)京都・東福寺へ紅葉見物に出かけたときの記録です。

かねがね東福寺・通天橋で紅葉を眺めてみたいと思っていた。今年こそはと思い、チャンスをうかがっていると、ネット情報では「見ごろ」と出ている。土日を避け、以降の天気予報を考えると、今日(11/24、火曜日)に限ると判断し出かけました。9時開門とあったので、それに合わせて京阪電車の乗る。ところが、駅で見た東福寺のポスターには8時半開門とあります。紅葉シーズンは繰り上げ開門らしい。誤算でした。

 臥雲橋  



半曇の晴れ、8時半過ぎに京阪・東福寺駅に着く。もうすでに沢山の人がゾロゾロと歩いています。この人並みに従って歩けば、最短コースで東福寺へ行けるはずです。北門から入り、10分ぐらいで臥雲橋に到着しました。この臥雲橋からの眺めも絶景ポイントの一つ、しかもここは無料ときているのでかなり混んでいる。

臥雲橋から通天橋を眺めた写真です。小さな「三ノ橋川」を挟んだこの谷間は「洗玉澗(せんぎょくかん)」と呼ばれている。ここが紅葉の絶景地(ここだけですが・・・)。よく見かける写真は、上方の通天橋からこちらの臥雲橋を見下ろしたものが多いいが、こうして通天橋を見上げるのもなかなか良い。

 通天橋(つうてんきょう)  



30mほどの臥雲橋を渡りきって少し進むと、左に「日下門」が見えてくる。日下門を潜って境内へ。平日の9時前だが、もうすでにこの人混み。正面に見える仏殿(本堂)手前に拝観受付がある。拝観料は大人400円、小人300円で、通天橋・開山堂・洗玉澗を巡れる。再入場はできません。


仏殿(本堂)から開山堂(常楽庵)へ屋根付き廊下が通っている。その屋根付き廊下が、洗玉澗の三ノ橋川の上では橋になっている。それが「通天橋(つうてんきょう)」で、京都を代表する紅葉の名所として知られています。
かって僧侶たちが仏殿(本堂)から開山堂へ通うため、洗玉澗の渓谷を渡らなければならなかった。その労苦を救うため、天授6年(1380年)に普明国師(春屋妙葩)が橋をかけたのが始まりとされている。南宋径山(きんざん)の橋を模したもので「通天」と名付けられた。
昭和34年(1959年)8月の台風で崩壊したが2年後に再建された。その際橋脚部分は鉄筋コンクリートにされたそうです。そうでもしなければこの人混みを支えきれないのでは。偃月橋・臥雲橋とともに東福寺三名橋と呼ばれています。

通天橋の中央部分が張出し舞台(と言っては大げさですが・・・)のように出っ張っている。この位置が写真撮影の絶好場所とされる。ここに皆が集中し、最前列目指して押し合いとなります。手ブレなしにシャッターを切るのが難しい。アングルを考え、明るさを調整してなどとゆっくり時間かけて撮影するなどできません。とにかくシャッターきりまくる。沢山撮っておけば、数枚は気に入った写りもあると思う。中には頭上に紅葉といった写真も。それもよくボケた頭が・・・。
さっき見上げた臥雲橋を、今度は見下ろします。臥雲橋もかなり混雑しているようです。あちこち絶景を見慣れた眼には”絶景”とは感じらませんが、でも綺麗です。

現在は紅葉の名所ですが、昔は桜の名所だったという。しかし室町時代に、あまりにも桜が綺麗でお坊さん達の修行の妨げになるということで全て伐採され、代わりに楓の木が植えられたそうです。この紅葉の景観でも修行の妨げになりそうですが・・・。

それにしても人が多い。紅葉の雲海に漂う人、人、人の波・・・。人に急かされ、押され、心静かに堪能している余裕がありません。平日の早朝でこれですから、土日、祭日などには絶対に来てはいけませんゾ・・・。この人出も修業の妨げにならないのでしょうか。




 開山堂  



通天橋からさらに屋根付の渡り廊下は続いている。廊下の突き当たりで、左に出れば紅葉の広がる洗玉澗の渓谷へ、右へ曲がり登ってゆけば開山堂です。

楼門を潜ると、正面が東福寺創建に携わった円爾弁円(聖一国師)を祀っている開山堂(かいさんどう、別名「常楽庵」、重要文化財)、左が客殿にあたる普門院(ふもんいん、重要文化財)。

開山堂に続く細道(参道?)の右手はサツキの植栽が散らばった緑の池泉庭園、左手が枯山水の白い庭園と、左右対照的な構図の庭園となっている。
普門院前の枯山水庭園は、砂紋が描かれた白砂が格子状に広がり、白砂全体が市松模様に見えます。南側の一角に植込みと石組みからなる鶴島、亀島が配置されているが、それ以外は白砂だけで単調に見えます。しかし奥の池泉築山式庭園と一体としてみれば味わいがあります(参道の人の列が邪魔でが・・・)。

客殿の前には長椅子が並べられている。通天橋でもみくちゃにされた身体を休めるようにとの配慮からでしょうか。ここの椅子に座りペットボトルを傾けながら、眼前の白砂と、その奥の苔や松の緑を眺めているとホッと一息つけます。ここには紅葉のような華やかさはありませんが、安らぎをおぼえます。

 洗玉澗(せんぎょくかん)  



開山堂から、今度は廊下の眼前に広がる紅葉地帯に出てみる。ここは「洗玉澗(せんぎょくかん)」と呼ばれる渓谷になっている。
こうして通天橋を見上げるのも絵になります。それにしてもすごい人出です。この時期、関西だけでなく全国からやって来るという。外人さんも多いが、ここでも中国語が飛び交っていた。

谷底へ降りてみます。谷底に「三ノ橋川」が流れています。この三ノ橋川に架かる臥雲橋と通天橋との間が紅葉の名所なのです。下から見上げる紅葉越しの通天橋も素晴らしい景色です。真っ赤に染まった夕焼けに浮かび上がる通天橋といったところ。
三ノ橋川はやや干からび、せせらぎは聞こえない。水面にそそと流れる楓・・・なんて絵になるんでしょうが。
谷底から反対側の斜面を登っていくと、そこが拝観料範囲の出口になっている。通天橋→開山堂→洗玉澗→出口と周るのが有料コース。いったん出れば、再度拝観料を払わなければ入れない。



 方丈庭園「八相の庭」  


通天橋拝観受付の横の門を潜ると、広い境内となっている。正面に切妻造りの白い建物が見える。これが方丈の庫裡(台所)で、方丈庭園への受付となっている。方丈(住職の居所)は庫裡の左側、庫裡と屋根付き廊下で繋がっている。方丈、庫裡とも明治14年に焼失したが、現在の方丈は明治23年(1890)に再建、庫裡は明治43年(1910)に再建されたもの。
受付で拝観料400円支払い、靴を脱ぎ中へ入ります。京都では庭を「見学」するとは言わず「拝観」するというそうです。方丈を囲う東西南北に庭園が配置されている。昭和を代表する作庭家・重森三玲(1896-1975)によって昭和14年(1939)に作庭された枯山水式の庭園。重森三玲の初期の作品で、彼のデビュー作とも言える。
四方の庭によって、釈迦の生涯を八段階に分けた「八相成道(はっそうじょうどう)」を表現しているそうです。そこから方丈庭園を「八相の庭」とも呼ぶ。平成26年(2014)10月、国の名勝に指定されました。

これが南庭庭園。方丈の南側には広い縁が設けられ、眼前に展開する枯山水の南庭を寛いで鑑賞できるようになっている。
この南庭は何を表現しているか?。ジッーと見つめていても何も浮かんでこない。頂いたパンフレットに頼ることに。「古来中国大陸の蓬莱神仙思想では、東の大海の彼方に仙人が住む「蓬莱」「方丈」「瀛洲」「壷梁」と呼ばれる四仙島があり、島には仙薬財宝があると信じられた。広さ210坪の枯山水庭園である南庭は、この
四仙島を十八尺の長石を基本に巨石を剛健に配し、渦巻く砂紋によって「八海」を表す」と書かれています。突き立っている石、横たわっている石、丸い石、ぞれぞれ意味があるんですネ。難解です・・・。禅の修行を積まなければ理解できないのかも。
要するに、大海に浮かぶ四つの島なのだ。西の隅に配された築山は、京都五山を表現しているそうです。
なお、庭園奥の中央にある唐門は、昭憲皇太后(明治天皇皇后)より下賜されたもので、「恩賜門」とも呼ばれるそうです。
西庭から北庭へ曲がる角に、一段低くなった展望台が設けられている。「通天台」と呼ばれ、文字通り通天橋を裏から望む展望台です。通天橋はかなりの込み具合。談山神社や大原・三千院などの紅葉を鑑賞してきたので、それほど絶景だと感動しなかったが、異常な人出です。やはり交通の便の良さでしょうか。JRや京阪の駅から徒歩10分位というのは身近ですネ。
裏から眺めた通天橋の紅葉も冴えます。

方丈庭園には、七個の円柱の石で北斗七星を表現した東庭「北斗の庭」、市松模様を表現した西庭や北庭もあります。東、南、西、北と四面の庭園を鑑賞したが、枯山水庭園というのは難しい。感じるものなのか、思惟するものなのか?。かって龍安寺の有名な石庭を見た時も、困惑し何も得られなかった。それなりの素養と感性を必要とするのでしょうネ。私には苦手です。やはり築山式の池泉庭園のほうが良い。



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百舌鳥古墳群は世界遺産に相応しいか?

2015年12月23日 | 寺院・旧跡を訪ねて


「堺・百舌鳥野。ここには古代に造営された古墳が、1500年の時を経て今も残っています。古墳文化が花開いた時代、大阪湾にほど近いこの地には、かつてない巨大な前方後円墳が造営されました。そして、それをとりまく中小の古墳とともに、様々な形状の古墳を擁する古墳群を形成しています。古墳の一つ一つがかつての日本の姿を今に伝える貴重な歴史遺産であり、日本の歴史の1ページを語る世界的な遺産でもあります。この遺産を今後も末永く守り、まちづくりへと活用していくため、堺市は百舌鳥古墳群の世界文化遺産登録をめざした取り組みを進めています。」(堺市HPより

現在、堺市を中心に大阪府・羽曳野市・藤井寺市、そして「古墳群は地元市だけでなく大阪全体の貴重な財産だ」として大阪府市長会も全面支援している。現在までの経過は
・平成19年(2007)9月26日、世界遺産の国内暫定リストへの追加を求める提案書を提出
・平成20年(2008)9月26日、国の世界文化遺産特別委員会による審査の結果、「百舌鳥・古市古墳群」をはじめ5件が世界遺産の国内暫定リストに追加された。
・平成27年(2015)7月28日、国の文化審議会世界文化遺産特別委員会での審議の結果、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)の推薦が適当とされ、「百舌鳥・古市古墳群」の今年度の推薦は見送られた。

現在、次年度以降の推薦待ちという状況です。一国一件という枠があるので、当面はかなり厳しいと思われます。

 世界遺産とは・・・  


1972年のユネスコ(国連教育科学文化機関)総会で「文化遺産及び自然遺産を人類全体のための遺産として、損傷、破壊等の脅威から保護し、保存すること」を目的に締結された条約にもとづく。登録されるためには「顕著な普遍的価値を有する」ことが必要とされています。そしてWikipediaには次のように書かれている。
「その「顕著な普遍的価値」を証明できる「完全性」と「真正性」を備えていると、世界遺産委員会から判断される必要がある。完全性とは、その物件の「顕著な普遍的価値」を証明するために必要な要素が全て揃っていることなどを指す。真正性とは、特に文化遺産について、そのデザイン、材質、機能などが本来の価値を有していることなどを指す。」

 百舌鳥古墳群の世界遺産たる「顕著な普遍的価値」  


5,6世紀の墳墓として貴重な歴史遺産には間違いない。ただし、これは誰かを埋葬した墳墓です。その”誰か”を確定的に特定できない点、文化的価値に瑕疵を生じさせている。堺市HPの「世界遺産登録に関するQ&A」に

Q.古墳に葬られている人が特定できなくても、世界文化遺産に登録できるのですか。
A.世界文化遺産への登録にあたっては、それが本当に古墳かどうかという点が問われます。たとえ学術的に被葬者が特定されていない場合でも、ただちに世界文化遺産登録の支障になるものではないというのが世界遺産の専門家の見解です。

その通りだと思います。やや価値を減じるが、その点では世界遺産登録には支障はないと思う。「5,6世紀の巨大な墳墓」という価値はあるのです。問題なのは、世界遺産たる「顕著な普遍的価値」を証明できる「完全性」と「真正性」を備えているか、ということです。

まず「完全性」について。墳墓の被葬者のみならず、内部の構造、石室、埋葬品、埋葬状況など分っていないことが多い。1500年前の遺物なので、解明に困難が伴うのは当然ですが(盗掘ということもある)、解明しようとする努力がなされているかどうか、ということです。これが現在、国の意思によって拒否されている。
宮内庁は「陵墓は単なる文化財ではなく皇室の祖先祭祀の場である。よって静安と尊厳を維持すべきものである」として、一般人の出入りだけでなく考古学者など研究者の立ち入り調査さえを拒否している。皇室用財産で、立ち入ることのできない聖域なのです。現状では「完全性」を追求することができない。

次に真正性について。現在目にする大仙陵古墳(仁徳天皇陵)などの陵墓は、周囲を広い濠に囲まれ、青々とした常緑樹が繁る墳丘を、真っ白な玉砂利が敷き詰められた奥に石の鳥居,陵標,石柵などの設置された拝所から遥拝する。その威厳に満ちた雰囲気は、万世一系皇室の存在を改めて印象づけさせられる。
しかしこうした姿は、原初のものでしょうか?。築造当時は葺石で覆われ埴輪などが並べられていた。決して現在のように青々としたものではない。その後古墳の大部分は、放置され、農民など自由出入りし、さらには盗掘されれるままになっていた。ところが江戸末期,幕末に近づくにつれ様相が一変する。勤皇思想の高まりと尊王攘夷の動きで,陵墓の管理が厳しくなってくる。立ち入りが禁止され、全国的な陵墓の大修理・増築が開始されるのです。濠を拡張・改造し、墳丘を整形し松,杉,カシ,ヒノキなどの常緑樹が植えられ、前方部正面に拝所が設置された。明治維新政府も天皇中心の国づくりのため天皇陵を神聖化し、今日見るような景観に整形・改造・変形していったのです。これで本来の価値を保持しているといえるのでしょうか?。真正性についても疑問です。

 文化財か?、皇室財産としての聖地か?  


宮内庁の管理する陵墓は、現在文化庁の文化財行政の対象となっていない。天皇陵で「国宝」「重要文化財」「特別史跡」「史跡」といった指定を受けているものは皆無なのです。小さな古墳ながら、国の史跡指定を受けている古墳は幾つもある。陵墓でないからです。ここ百舌鳥古墳群でも、いたすけ古墳は国の史跡に指定されている。ところが百舌鳥古墳群で中核をなす大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、田出井山古墳(反正天皇陵)、ミサンザイ古墳(履中天皇陵)、ニサンザイ古墳、御廟山古墳は一切の指定を受けていない。陵墓もしくは陵墓参考地として宮内庁管理の下に置かれているからです。

国内で文化財として扱われていないものが、世界文化遺産として認められるはずがない。正倉院の例があります。正倉院は、1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産(文化遺産)に登録された。その時、正倉院は皇室用財産として文化財保護法による指定の対象外となっていた。しかし世界文化遺産として登録されるには、文化財として国の法律によって保護されていなければならないという条件があった。そこで前年の1997年(平成9年)5月19日、文化財保護法による国宝に指定されたのです。

「百舌鳥・古市古墳群」は、平成20年(2008)9月、国の世界文化遺産特別委員会よって世界遺産の国内暫定リストに追加された。国の認定なので、当然宮内庁も了解したものと考えられる。国は、宮内庁は陵墓を文化財として扱うようになったのでしょうか?。宮内庁の見解を知りたく探したが見つかりませんでした。
今年(2015年)の国内推薦は逃したが、堺市は次年度以降の推薦を目指して更なる努力をすると意気込んでいる。そして多くの税金がつぎ込まれていく。先日の報道では(2015年12月初旬)、関西の大御所・桂三枝まで引き出したようです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
国の推薦を受けると、ユネスコの審査官がやって来ます。

官「この景観は、原初のものですか?」
市役人「・・・・・」
官「誰のお墓ですか?」
市役人「**さんのようですが、ハッキリしたことは・・・」
官「現在お調べ中ですか?」
市役人「諦めています」
官「中を見させていただけますか?」
市役人「オエライ方が眠っていらっしゃいますのでご遠慮下さい」
官「なぜですか?」
市役人「静安と尊厳を維持したいからです」
官「????」

審査を通るはずがない。ロビー活動、おもてなしによっては・・・(そんなもんかもしれないが・・・)

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世界遺産をめざす百舌鳥古墳群 (その 2)

2015年12月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2015年9月22日(火)、百舌鳥三陵を中心とした百舌鳥古墳群を周る。世界遺産にふさわしいか?

 ミサンザイ古墳(石津ケ丘(いしづがおか)古墳、履中天皇陵)  


大仙公園の南出口を出ると、車道を挟みミサンザイ古墳(履中天皇陵)が見えてきました。この車道沿いの公園内にも幾つか古墳が残されている。出口の左(東)側には「グワショウ坊古墳」「旗塚古墳」、右(西)側には「七観音古墳」です。

公園の南西端にあるのが七観音古墳。直径約25m、高さ約3.5mの円墳で、荒れていた古墳を保護するために盛り土をして整備されている。整備されすぎて古墳には見えない。すぐ南の履中天皇陵の陪冢と考えられている。堺市の調査により葺き石、埴輪のかけらなどが見つかっているが、周濠跡は確認されていない。

大仙公園内には、その他にもたくさんの小さな古墳が点在している。古墳標識が立てられているのですぐ判る。ほとんどが大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の陪冢と考えられている。しかし原型をとどめているものは皆無。前方部は削られたり、濠を埋めたり、墳丘を整形したりと、公園化のために縮小・変形してしまっています。

車道を西へ進むと、ミサンザイ古墳西側に入り込む道が設けられている。すぐ近くまで住宅が迫っているが、古墳の堤に沿ってゆったりとした周遊路が整備され、快適に歩ける。堤側は鉄柵で塞がれ、濠越しに墳丘を眺める、というようなことはできない。鉄柵にすがって眺めると、なんか牢に閉じ込めれれている気分になる。
この辺り、ワンちゃんにとって快適な環境ですが、犬の散歩はどうなんでしょうか?
正面拝所は南側に設けられている。宮内庁により,百舌鳥耳原三陵の「履中天皇 百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)」として治定・管理されています。
第十七代履中天皇は、第16代仁徳天皇と磐之媛との間に生まれた第一皇子。弟に第十八代反正天皇、第十九代允恭天皇がいる。磐余(いわれ)の稚桜宮(わかざくらのみや,桜井市池之内)で即位したが、治世6年で亡くなり「百舌鳥耳原陵」に葬ったと、『日本書紀』は伝えている。

ところが出土した埴輪、陪塚の出土品などから5世紀前半頃の築造とされ、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)より古いことがわかってきた。父よりも息子の墓のほうが古い・・・?。現在「百舌鳥耳原三陵」については諸説あり混乱しています。しかし宮内庁が立ち入り・調査を拒否している現状では、これ以上の解明は閉ざされている。いったい誰が眠っているのでしょうか・・・?

ミサンザイ古墳の西側や南側は民家が近くまで接近し取り囲んでいるので、墳丘全体を眺める場所が少ない。ところが東側へ廻ると堤の上が散策路になっており、幅広い周濠と墳丘全体を見渡すことができます。
この古墳もいろいろな呼び名をもつ。「ミサンザイ古墳」「石津ケ丘(いしづがおか)古墳」「上石津ミサンザイ古墳」「百舌鳥陵山古墳(もずみささぎやまこふん)」「履中天皇陵古墳」、混乱してきます。「ミサンザイ」とは「ミササギ(陵)」の転訛したものとか。
墳丘の全長約365m、後円部・・・直径約205m、高さ約27.6m、前方部・・・幅約235m、高さ約25.3m
百舌鳥古墳群では2番目、日本では3番目の大きさを誇る前方後円墳です。三段築成の墳丘で、前方部を南に向けている。現在は、一重の盾形の濠と堤だけだが、調査により幅10m程の二重目の周濠の跡が見つかっている。

 乳岡(ちのおか)古墳  


ミサンザイ古墳(履中天皇陵)の西方かなり離れた場所に乳岡(ちのおか)古墳がある。百舌鳥古墳群では一番最初に築造された古墳だ,ということなので訪ねてみることにした。ミサンザイ古墳から泉北1号線に沿って歩くこと30分。ようやく車道脇に緑の墳丘が見えてきた。正面になる前方部は車道とは真反対の裏側(南側)です。
南へ廻ると、古墳標識と説明版が置かれている。元の大きさは,三段築成のかなり大きな前方後円墳だったようです。百舌鳥古墳群では6番目の大きさになり,田出井山古墳(反正天皇陵)やいたすけ古墳より大きいことになります。前方部の大半が削られて、周濠も埋めたてられ住宅や工場などになってしまっている。
出土遺物から4世紀末頃から5世紀の初め頃に築造されたと考えられ、百舌鳥古墳群では最も古い古墳だそうです。現在、国指定史跡(1974年指定)になっており、フェンスで囲まれ中へは入れない。

 いたすけ古墳  


ミサンザイ古墳(履中天皇陵)から東へ、JR阪和線の踏み切りを越え住宅街の中を進むと「いたすけ古墳」が目に飛び込んでくる。

墳丘の全長約146m、後円部径約90m、高さ約12.2m、前方部幅約99m、高さ約11.1m、百舌鳥古墳群では八番目の大きさ。前方部を西に向けた三段築成の前方後円墳。一重の楯形周濠が巡っている。墳丘には埴輪と葺石のあることが確認され、その特徴から5世紀中頃から後半頃の築造と推測されている。
古墳の横腹にあたる南側は、堤上に遊歩道が設けられているので、真横から濠越に古墳の全体を眺めることができます。以前は「イタスケ古墳」とカタカナ表記されていたが、昭和31年(1956)国の史跡に指定された時「いたすけ古墳」というひらがな表記に統一されたそうです。
いたすけ古墳が注目され脚光を浴びたのは、全国的な保存運動からです。百舌鳥古墳群にはかって100基以上の古墳が存在していた。それが現在では半分以下になってしまっている。戦後、法の不備から古墳は民有地に払い下げられ、所有主が土建業者に売却し宅地開発などで壊され消滅してしまったからです(大塚山古墳、カトンボ山古墳、七観山古墳、平塚古墳など)。いたすけ古墳は残された唯一の貴重な古墳だった。

昭和30年(1955),当時私有地だったこの古墳に宅地開発の計画が持ち上がった。土建業者が住宅の壁土に利用するため墳丘の土砂採取をし,その跡地を住宅地にする計画です。工事車輌を墳丘に入れるための橋が周濠に架けられ、樹木が伐採され始めた。
市民・研究者を中心に”いたすけを守れ”との声が沸き起こり、全国的な保存運動に発展。保存のための募金活動も全国的に行われた。その結果工事は中止され,堺市が古墳と橋を開発会社より買い取り文化財として保存することになる。翌31年(1956)5月には国の史跡に指定された。

いたすけ古墳は古墳保存運動のシンボルとなり、出土した冑形埴輪は堺市の文化財保護のシンボルマークになっています。堺市博物館には、昭和30年(1955)時の保存運動の新聞記事が多数掲示され、当時いかに大きな社会問題だったかがうかがい知れる。現在でも南側の濠で、橋桁の一部を醜い姿でそのまま目にすることができます。シンボルとして残されているのでしょうか・・・。

 御廟山古墳(ごびょうやま)と林家住宅  


いたすけ古墳から東へ数分で御廟山古墳(ごびょうやま)につく。墳丘長さ約186m、後円部直径約113m、高さ18m、前方部幅約136m、三段築成の前方後円墳。百舌鳥古墳群で四番目の大きさ。現在盾形の濠と堤が巡っているが、外側にも二重濠があったことが確認されている。埴輪の特徴から、5世紀中頃の築造と考えられている。

江戸時代地元では、この古墳は東側に位置する応神天皇を祀る百舌鳥八幡宮の奥の院、即ち応神天皇の御廟と考えられていた。江戸時代の絵図には応神天皇陵と書かれているものもある。また神功皇后陵の伝承も残る。
現在、宮内庁は応神天皇の可能性を考慮して墳丘部分を「百舌鳥陵墓参考地」に指定し管理している。外濠は堺市の管理。陵墓参考地ながら、宮内庁が管理していて学術調査すら一切拒否しているため、主体部の構造や副葬品などは不明のまま。

御廟山古墳のすぐ東側に、江戸時代の大庄屋の屋敷「林家住宅」が保存され,国の重要文化財に指定されている。白漆喰の土塀で囲まれ,主屋・土蔵・不動堂・稲荷社がある。また切妻造の茅葺屋根と一段低い瓦葺の屋根が組み合わせられた「大和棟(やまとむね) 」と呼ばれる屋根形式に特徴があるそうです。
内部は公開されていない。近所のオバサンの話では、役所に申し込みある程度人数が揃ったら見せてくれるそうです。またタイミングよければ、団体さんに公開される時一緒に入れるそうです。

 百舌鳥八幡宮(もずはちまんぐう)  


御廟山古墳、林家住宅から、民家の密集する中をさらに東へ200mほど行けば百舌鳥八幡宮に出る。
境内はかなり広い。時間がなかったので周りきれず、本殿周辺を見ただけ。奥の本殿は三間社流造で、屋根は檜皮葺。本殿と拝殿との間に幣殿を設ける権現造。
社伝によれば、昔、神功皇后が三韓征伐を終えて難波に戻られたとき、この地に留まり、幾万年の後まで天下太平で人民を守ろうという御誓願を立てられたという。欽明天皇(在位532~571)の時代,八幡神の宣託をうけ神社を創建し応神天皇を祀ったのが創起とされている。
本殿右前には,幹囲り5.2m、樹高25m、樹齢 7~800年ともされるクスノキの名古木があり、大阪府指定の天然記念物に指定されている。

この日境内では、櫓が組まれ紅白の幔幕が張り巡らされ、秋祭りの準備中でした。尋ねると、今度の土日(9月26日~27日)に例祭が行われるそうです。見所は、氏子9町による大小16基の「ふとん太鼓」が勇壮に練り歩くこと。ふとん太鼓は、太鼓を仕込んだ台の上に朱色の座布団を五段重ねにした造りで、高さ約4m、重さ約3t。約70人で担ぎ、「ベーラベーラベラショッショイ」という独特のかけ声と太鼓の音に合わせ練り歩くそうです。
山車に布団とは・・・不思議な組み合わせです?。調べてみると、「堺まつり ふとん太鼓連合保存会」ホームページに
「堺では明治時代まではだんじりが一般であった。(ほかにも船地車が曳行されていた)しかし、明治29年の旧暦八月一日のことである堺市中之町西の紀州街道(地車が1台通れるほどの細い道であった)において、湊組の船地車と北の鍛治屋町地車が鉢合わせとなり、お互い道を譲らず争論となり、あげくの果てには周辺民家の瓦を剥がし瓦合戦になってしまい、湊組が突きかかり2名の殺傷者を出してしまった。 堺警察の警官が数十名駆けつけ双方の数十名を捕縛した。この事件は「堺の地車騒動」といわれている。この事件より祭礼には地車は一切曳行してはいけなくなった。後に日本は日露戦争に勝利しそれを祝し、翌年明治39年練物曳行は許可された。 その翌年に菅原神社の北開仲、北浜、並松町 船待神社の西湊が地車に代わり"ふとん太鼓"を新調しそれぞれの神社に奉納した。・・・ふとん太鼓の五枚の座布団は神様が座るところといわれている。」と書かれている。

上記の事件以降、堺では山車に布団を用い、今ではそれが名物になっている。堺より南の岸和田方面では、現在でもだんじりが使われています。一昨日の20日、岸和田のだんじり祭りを見てきました。勇壮なだんじりが町中を走り回る。時々ひっくり返ったり民家を壊したりすることはあるが、現在では統制が取られているのでぶつかることはない。あれが正面衝突したら死者もでることでしょう。今度の土日に見学に来る予定だったが、用事ができ叶わず。来年にはぜひ。

 ニサンザイ古墳(土師ニサンザイ古墳)  



百舌鳥八幡宮の石の大鳥居を出て、ニサンザイ古墳目指して南へ歩く。
墳丘全長は約290m、後円部の高さは約24.6m。百舌鳥古墳群では三番目,全国でも八番目の大きさを誇る三段築成の前方後円墳。かって二重目の周濠があったが,今は住宅地になってしまい、一重の盾形周濠だけとなっている。周濠の周りの堤上は周回路となっており、墳丘を眺めながら散策できます。出土した埴輪の特徴から5世紀後半の築造であり、百舌鳥古墳群では最も新しい大型前方後円墳。

”ニサンザイ”の語源は”ミサンザイ”同様に「陵」が語源と考えられている。江戸時代から「反正天皇陵」の伝承があり,反正天皇の真陵とみる見解もかなり多い。現反正天皇陵(田出井山古墳)よりは面積で4倍も大きい。そのためか宮内庁も反正天皇陵かもしれない、と想定し「東百舌鳥陵墓参考地(ひがしもずりょうぼさんこうち)」として治定、管理している。被葬者不明の陵墓参考地なのです。それなら考古学的な調査をすればよいのに・・・。どなたの「静安と尊厳」を保つためなのでしょうか?

今年(2015年)の夏,「百舌鳥古墳群の堀、真っ赤に染まる 浮草が大量繁殖か」の見出しの新聞記事を見た。ニサンザイ古墳の幅約50mの濠の北側一面が真っ赤に染まっているという。雑草が生えるのを抑制するために農業用に改良された浮草が、鳥の足について運ばれたりして入り込み、大量に繁殖したとみられている。墳墓だけに、血の流れに見え異様に感じられてしまいます。血の流れの間の青草には薄ピンク色の小さな花が咲き、対照的に綺麗だった。浮草の片付けをされていた作業員の方に尋ねると「こけいあおい」という花だそうです。

 筒井家屋敷と御廟表塚古墳  


帰るため南海・中百舌鳥駅へ向かって歩いていると、車道左手に青々と樹木の繁った屋敷が見えてくる。ここが筒井家屋敷と御廟表塚古墳がある場所です。横道に入っていくと突き当たりになる。突き当たり左に筒井家屋敷、右手に御廟表塚古墳が位置しています。

筒井家は戦国武将として名高い筒井順慶を祖先に持つ名家。江戸時代にはこの一帯を開墾した庄屋で,その名家の屋敷が残されている。現在は17代目の御当主がお住まいのようです。

説明板【百舌鳥のクス】によれば、幹周10.1m、樹高13m、推定樹齢800~1000年。大阪府下で一番古い樹木であるといわれています。府指定の天然記念物であるとともに、堺市指定の保存樹林でに指定されています。昭和25年の台風で大きな枝が折れるなど大きな被害をこうむったそうです。裏側に廻ると大きな空洞ができ痛々しいとか。

筒井家屋敷の傍にあるのが御廟表塚古墳(ごびょうおもてづか)。
もとは前方部を西に向けた二段築成の帆立貝形前方後円墳だったが、現在は前方部が削平され住宅地となってしまっているため円墳に見えます。墳丘の全長は約75m、後円部径約54m、、高さ約10mと推定されている。
周濠も後円部側の一部を残し埋め立てられ、失われている。円筒埴輪や朝顔形埴輪、家型埴輪などが出土し、それらから5世紀後半ころの築造と推定されています。平成26年(2014)、後円部及び北東隅に残された周濠の一部が国の史跡に指定された。

詳しくはホームページ

世界遺産をめざす百舌鳥古墳群 (その 1)

2015年12月10日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2015年9月22日(火)、百舌鳥三陵を中心とした百舌鳥古墳群を周る。世界遺産にふさわしいか?

 田出井山古墳(反正天皇陵)  


百舌鳥古墳群巡りの出発点を田出井山古墳(反正天皇陵)とします。南海電車堺東駅の裏側・東出口から出る。堺市一の繁華街・堺東駅のすぐ前に堺市役所がそびえる。最上階の21階展望ロビーは無休で開放されている(9:00~21:00)。地上80mの高さから360度パノラマ展望ができ,ボランティアガイドさんもいて,親切に説明してくださる。
大仙陵古墳(仁徳天皇陵)は余りに大きすぎ,近くで眺めてもその全体像がつかみにくく、上空から眺めるしかない。この堺市役所21階展望ロビーは、上から古墳群を見下ろせ、絶好のビューポイントです。
堺東駅東側は,表側(西出口)の騒々しい繁華街と違い,閑静な住宅街です。その中を200mほど行くと突然高い鉄柵で囲まれた繁みが現れる。鉄柵に沿い進むと,すぐ正面拝所が見えてきました。
ここは宮内庁によって「反正天皇 百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)」に治定・管理されている。その根拠は,平安時代の「延喜式諸陵寮」(927)に「百舌鳥耳原北陵 反正天皇」と記されていることからくる。一番大きな大仙陵古墳を「百舌鳥耳原中陵」とし,仁徳天皇陵にあてはめ,その北側に位置しているこの古墳を「北陵」としただけである。それ以外に明確な根拠があるわけではない。
百舌鳥古墳群では七番目の大きさで,天皇陵にしては小さく,これを反正天皇陵とすることを疑問とする人も多い。現仁徳天皇陵の東方に位置するが,倍近い大きさのニサンザイ古墳を反正天皇陵だとする意見もある。宮内庁もニサンザイ古墳を、反正天皇陵かもしれないとして陵墓参考地に指定し管理している。
考古学的には「田出井山(たでいやま)古墳」と呼ばれる。濠や墳丘を眺めようとしても、古墳のすぐ傍まで接近している住宅のため見ることができない。。北側に位置する方違神社の境内からはよく見えます。方違神社の境内へきて、初めて古墳らしさを感じます。
全長約148m、後円部径約76m、高さ約14m、前方部幅約110m、高さ約15mの前方後円墳で,百舌鳥古墳群では七番目の大きさ。現在盾形の濠と堤が巡っているが、前方部外周で行われた発掘調査で、かつて二重濠があったことが確認されている。5世紀後半の古墳とされているが、宮内庁は学術調査など一切認めておらず,詳しいことはわかっていない。

 方違神社、けやき通り  


田出井山古墳(反正天皇陵)のすぐ北側に方違神社がある。
御祭神は「方違幸大神(かたたがえさちおおかみ)」だが,方違神社は「ほうちがいじんじゃ」と読む。この神社は”方違”という言葉が全てを表しています。

日本には古来から「方角(方向)がいい」「方角が悪い」という「方違え(かたたがえ)」の風習があった。
方違神社の公式サイトに「陰陽道(おんみょうどう)に基づく考え方で、平安時代に最も盛んに行われた風習です。外出の際、目的地が禁忌の方向に当たる場合、前夜に別の方角に行って泊まり、方角を変えてから出発するなど、直接目的地に行かず屈折して行くことで凶方を避けることを「方違え」と言います。
ご由緒にもありますが、方違神社の鎮座する三国ヶ丘は、摂津の国と河内の国と和泉の国の三つの国の境界地点です。この国境地は摂津の国から見ると南にあり、和泉の国からは北にあります。つまり南であり北でもあるので南北を相殺しています。同様に東西も相殺しているため、当地には方角が無いとされ、旅に出るときや家を移るときにお参りをすれば、一挙に三国を旅したことになり、おのずと「方違え」をしたことになると考えられてきました。」と記されている。
神社は,摂津、河内、和泉三国の境に位置し(現在は堺市堺区北三国ケ丘町),“三国山”“三国の衢(ちまた)”また“三国丘”とも称され,どの方角にも属さない清地として古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきた。ちなみに、”堺”という地名は”三国の境”に由来する。

方違神社から東へ数分歩くと,「けやき通り」と呼ばれる美しいケヤキの並木道にでる。
道いっぱいにケヤキがアーチ状に覆い,清涼感たっぷりです。百舌鳥三陵周遊路のハイキングコースに含まれている。このけやき通り沿いには、大阪府指定天然記念物「方違神社のくろがねもち」が痛々しい姿で佇み、さらに南へ行けばレトロな雰囲気を残す明治の上水道施設として国の登録有形文化財に登録されている「旧天王貯水池」の跡が見れます。けやき通りは大通りに出、そこの向陵西町交差点ので終りです。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)はもう目の前。

 大仙陵古墳(仁徳天皇陵)  


広い大通りを横切らないと大仙陵古墳(仁徳天皇陵)へ行けない。西へ100mほど行った所に大通りをまたぐ歩道橋が見えます。まず歩道橋上から眺めてみることに。大通りを挟んで北側に永山古墳が見える。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の陪塚(ばいちょう)とされている。陪塚とは,大古墳の近くにある,近親者や従者を葬ったされる小さな古墳のこと。大仙陵古墳の周辺には,築造時期が接近する小型の古墳が多数点在しているが,宮内庁はそのうち12基を陪塚として指定し,管理している。
北側から西を廻り、やっと大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の正面にたどり着く。古墳名は「大仙古墳(だいせんこふん)・大山古墳」。仁徳天皇の陵墓として親しまれてきたので「仁徳天皇陵古墳・大仙陵古墳」とも呼ばれる。また年配の人(俺も・・・)は,教科書にそう書かれ教えられてきたから単に「仁徳天皇陵」と呼ばれることも多い。堺市民は親しみを込めて「御陵さん」と呼んでいるそうです。
近年では,仁徳天皇の墓だ,ということが学問的に確認できないので,「伝仁徳天皇陵」と呼んだり,天皇名を付けず「大仙古墳,大仙陵古墳」と呼ばれることが多くなっている。なお宮内庁の公式名は「仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵」(もずのみみはらのなかのみささぎ)

古墳の規模について,堺市の公式サイトでは以下の数値を公表している。
周濠を含めた古墳最大長:840m,最大幅:654m
墳丘は全長:486m
後円部
 直径:249m、高さ:35.8m
前方部
 幅:307m、長さ:237m,高さ:33.9m
 
三段に築成された日本最大の前方後円墳。あまりに大きすぎて全体が見渡せない。古墳全体を眺めるには、堺市役所にある21階展望ロビーを利用するのが、手っ取り早い。年中無休(9:00~21:00)で,360度パノラマ展望ができ,ボランティア・ガイドさんがおられ、懇切丁寧に説明してもらえます。それ以外では,上空の飛行機の窓から覗き見るか、概観を俯瞰するならGoogle Earthを使う手もある。

どの陵墓もそうですが,埋葬施設のある後円部でなく,前方部に遥拝所が設けられ正面となっている。前方部が南を向く大仙陵古墳(仁徳天皇陵)も,西側の周回路から南側に出ると雰囲気が一変する。今までよく見えなかった濠が現れ,松並木と鉄柵のある低い堤を隔てて整然とした広い車道と遊歩道が真っ直ぐ伸びている。満々と水を貯えた濠も見通せる。といってもこれは三重目の濠で,その内部にさらに二重の濠が廻っている。内側の二重の濠は,上空から見下ろすしか見ることができない。

大仙陵古墳は,宮内庁によって「仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵」(もずのみみはらのなかのみささぎ)に治定されている。前方部正面の遥拝所は,鳥居・灯籠・陵標・玉垣,玉砂利など宮内庁管理の画一的陵墓の形式に沿ったもので,金太郎飴のようなもの。しかし広さ,奥行きは他のどこの陵墓よりも大きく,その前に立つと背筋を伸ばさなければならないような威厳を感じさせる。

遥拝所は三つに区分けされている。
一番奥,第一堤上に鳥居,灯篭,陵標が設けられ,周囲は玉垣といわれる石の垣で整然と囲われている。ここは皇族用の拝所で,天皇と皇族以外は入れない。
埋められた二重目の濠上から第一堤上にかけては特別拝所で,ここも一般人は入れないように柵で区切られ鉄扉で塞がれている。一般人が入れるのはその手前,第二堤上までである。ここにはボランティアガイドさんが常駐されていて,大仙陵古墳の詳しい解説をしてもらえます。

江戸時代までは,桜見物など物見遊山や酒宴,ワラビ取りやシバ集めなど墳丘には自由に出入りできたという。ところが江戸末期,幕末に近づくにつれ様相が一変する。勤皇思想の高まりと尊王攘夷の動きで,陵墓とされる場所に制限が加えられてくる。立ち入りを禁止され、石の鳥居,陵標,石柵などからなる拝所が設置され天皇の墓所らしく大修理・増築が行われた。それまで雑草の生える禿山だったり,竹や雑木が茂っていた墳丘には,松,杉,カシ,ヒノキなどの常緑樹が植えられ,今日見るような景観に整えられていったのです。民衆に身近だった存在から,人々から隔離され,遠くから仰ぎ見る聖域に変わってしまった。「立ち入るな」「魚釣りするな」「犬を散歩させるな」等なにかとやかましく、明治の皇国日本の片鱗が今でも漂っています。

 大仙公園(だいせんこうえん)  


大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の遥拝所がある南側は,広い車道を挟んで大仙公園となっている。33万平方メートルの広大な敷地に堺市博物館、日本庭園,大芝生広場,園池、茶室などが配置され、緑に覆われ市民の憩いの場となっている。公園内には小さいが古墳が点在し,歴史も体感できる古墳公園でもある。「日本の都市公園100選」(1989年)、「日本の歴史公園100選」(2007年)に選ばれています。

大仙公園観光案内所の手前の公園内に、「百舌鳥耳原」由来を説明した仁徳天皇と鹿の像が建てられている。
『日本書紀』によれば、仁徳天皇は河内の石津原(現在の堺市石津町から中百舌鳥町一帯)に行幸して陵地をさだめ,工事が開始された。陵を造り始めた十八日に,野原から鹿が走り出てきて、工事人たちの前で倒れて死んだ。その時、鹿の耳から百舌鳥が飛び去ったという。それで、この地を「百舌鳥耳原」と名付けたとされる。

公園中央にある堺市博物館は市制90周年記念事業として昭和55(1980)年に開館。古代から近代までの堺の歴史を,出土品や文化財などを展示しながら説明している。「ここに来れば堺の歴史と文化がわかる」そうです。
百舌鳥古墳群での出土品を展示している。また百舌鳥古墳群シアター(無料)では,200インチ大型スクリーンを使ったVR(バーチャル・リアリティ)映像で百舌鳥古墳群を空中散歩させてくれる。巨大すぎて全体像がつかみにくい大仙陵古墳(仁徳天皇陵)もよくわかる。
ただ残念なのは、あれだけ力を入れている世界遺産登録への情報が少なかったこと。登録したいという堺市の理由付けを知りたかったのだが・・・。
開館時間:9時30分~17時15分
観覧料:一般 200円、高・大学生 100円、小・中学生 50円
65歳以上は無料とある。証明するものを持参してなかったが、食品スーパーの「65歳以上優待パス」を見せると、笑顔で通してくれた・・・(^.^)

詳しくはホームページ

2015年初詣 男山岩清水八幡宮(京都府八幡市)

2015年01月06日 | 寺院・旧跡を訪ねて

明けましておめでとうございます。本年もこの拙いブログを時々覗いてください。
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今年の初詣は京都府八幡市の「男山石清水八幡宮」と決めていた。この春に、わゆる「近つ飛鳥」と呼ばれる大阪府太子町を訪れた時、源氏発祥の地に壺井八幡宮があったからです。この宮は、京の都を守護する武の神を祀っている男山石清水八幡宮の御神霊を分祀され、源氏の氏神としたとされる。それだけの理由ですが・・・。

関西でも有名な初詣神社なので、混雑が予想される元旦、二日は避け、三日に訪れました。元旦、二日は京都地方は数年来の大雪で、ニュースにもなっていた。幸い三日は快晴で、絶好の初詣日和。しかし残雪があり、土道はぬかるみドロンコ状でした。

 一の鳥居~表参道~山上へ  



京阪電車・八幡駅前には八幡市の観光案内所が二か所あり、市の観光パンフが置かれています。これが大変良くできたパンフで、男山と神社を中心に、市の観光名所がイラスト風に描かれたマップです。これを見ていると、もう一度八幡市へ来たくなるよう気持ちにさせられる。紙質も丈夫で、持ち歩くのに良い。今まで数多くの観光パンフを見てきたが、これが一番ですネ。
駅からの人の流れは、横の男山ケーブル駅へ向かっている。初詣くらいは、正々堂々と正面から歩いて参拝したいものです。一の鳥居は駅からすぐ近く。ケーブルのせいか、こちらの人混みは混雑するほどではない。元旦・二日と家に閉じこもっていたので、晴れ着、出店ありで、やっと正月気分を味わえました。ただ一の鳥居から頓宮周辺は土道で、水溜り状で大変歩きにくかった。

一の鳥居の手前から右の道へ入ると神應寺(じんのうじ)へ行ける。ただこちらへ向かう人は誰もいない。寄り道してみる。
神應寺(じんのうじ)に登る長い石段の入り口脇に、日本最大級といわれる石造りの五輪塔がある。頓宮の西側にあたり、鎌倉時代のもので、高さ6m、下部の方形の一辺2.4mの石塔。国の重要文化財に指定されているそうです。この五輪塔には刻銘がないため、様々な伝説が残りはっきりしたことは分からない。八幡市の観光パンフには「航海記念塔」とある。高倉天皇の御代に「摂津尼崎の商人が中国宋との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、その恩に報いるため建立されたと伝えられる。航海の安全を祈って参詣され、航海記念塔とも称されている」との伝承からとか。
前日の京都地方は数年来の大雪だった。溶けてなかったら巨大な雪ダルマだったでしょうね。右上に男山ケーブルの鉄橋が見えます。京阪電車・八幡駅の傍にケーブル駅があったが大変な混雑で、行列ができていました。たかが百メートルほどの山、坂道といえ初詣くらいは参道を歩いてお参りしてほしいものです。
頓宮を出ると、二の鳥居まで200m位だが両側に露店がズラリと並ぶ。ここの参道脇に「タブの木」とか「頼朝ゆかりの松」とかあるのだが、出店が邪魔し見つからない。辛うじて松だけは見つけました。
鳥居をくぐりまっすぐ進めば、七曲りの階段を経て三の鳥居に続く表参道。鳥居手前に右へ登ってゆく坂道がある。これが裏参道と呼ばれ、近道だがかなり急な階段のようです。堂々と表からお参りすることに。

神社参道の脇にある広場には、神社境内とは思われないような風景だ展開します。巨大なピカピカの塔がそびえ、その近くにも真鍮光する大きな記念碑が横たわっている。あの発明王・エジソンの碑とあります。八幡大神様をお祀りする由緒ある日本の神社とエジソンとは不思議な組み合わせですが、初めて知りました。

1879年に炭素白熱電球を発明したエジソンは、さらに長時間輝き続ける材料を世界中から探し続けたという。「紙や糸、植物の繊維など数々の材料からフィラメントを作り電球の試作を繰り返し、その数は植物の種類だけでも6,000種類以上といわれます。試行錯誤の研究を進める中、ある日エジソンは日本からのお土産として研究所にあった扇子を見つけ、その骨を使って電球を試作してみました。するとその結果、電球の寿命は飛躍的に延びました。そしてその扇子の骨こそが竹であったのです。竹は繊維が太く丈夫で、長持ちするフィラメントを作るのに最適であったのです。さっそくエジソンは「究極の竹」を求め世界中に研究員を派遣し、その中の一人であった探検家ウィリアム・H・ムーアは中国を経て日本へとやってきます。ムーアは様々な地域・種類・成長度の竹を集める中、京都を訪れた際、当時の槇村正直京都府知事から竹の名産地であった八幡の「八幡竹」を紹介され、他所の竹と共にエジソンのもとへと送りました。ムーアからの日本各地の竹を受け取ったエジソンはそれらを使いさらに実験を繰り返し、そしてついに、最も長持ちのする、最高の竹を発見します。そしてその竹こそが京都・男山周辺の真竹だったのです。この竹を使用した電球は何と平均1,000時間以上も輝き続けたといいます。」(八幡宮公式HPより)

電球内の電気を流すあの細い線が竹を材料にしていたとは、驚きです。その縁で、昭和9年(1934年)この境内の隣に「エジソン記念碑」が建立された。そして八幡市は、エジソン生誕の地であるアメリカ・マイラン村と姉妹都市協定を結んでいるそうです。

 三の鳥居~社殿で初詣  


七曲りのかなり長い坂道の続く表参道を登りきると、道はほぼ直角に右へ折れ、その場所に三の鳥居が立っている。木立と石燈籠の並ぶ平坦な参道の奥には紅い社殿が見えている。もうそこです。
この写真では分かりづらいが、鳥居をくぐり4~5m進んだ先の参道の中央に、石畳とは異なる自然石の一部が露出し盛り上がっている。これが「一ッ石」「勝負石」などと呼ばれ、かって競走馬の出発点となっていたそうです。写真奥に見える南総門下に「五ッ石」があり、そこがゴール。この直線で、応神天皇賞レースをしてたんでしょうね。鳥居の手前、登りきった直角の門には「神馬舎(じんめしゃ)」という馬小屋が残っている。
参道の正面奥には、大きくはないが風格のある朱塗りの南総門が建つ。現存する門は寛永11年(1634年)に三代将軍徳川家光によって建造されたもので、重要文化財に指定されている。門の東側横にはカヤ(榧)の巨木が立つ。樹齢700年以上、根周り7m、樹高約20m、樹冠30m 。

南総門を入るとすぐ社殿で、初詣の人で込み合っている。並んで順番待つのも時間の無駄、遠くから手を合わすだけにした。危険なので賽銭は投げない・・・(-。-)y-゜゜゜

この神社の創建は、石清水八幡宮のホームページに次のように記されている。
「平安時代始め、清和天皇の貞観元(859)年、南都大安寺の僧・行教和尚は豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神様の”吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん”との御託宣を蒙り、同年男山の峯に御神霊を御奉安申し上げたのが当宮の起源です。そして朝廷は翌貞観2(860)年、同所に八幡造(はちまんづくり)の社殿(六宇の宝殿[ろくうのほうでん])を造営し、4月3日に御遷座されました」

御祭神は本殿中央に応神天皇、西に比大神(ひめおおかみ)、東に神功皇后が祀られている。九州の宇佐神宮、関東の鶴岡八幡宮とともに日本三大八幡社の一つです。宇佐八幡宮の御神霊が八幡の男山に分祀され、さらに男山八幡宮の御神霊が源氏の氏神として河内の壺井八幡宮へ分祀された。さらにそこから鎌倉の鶴岡八幡宮へと・・・。神様はどこまでも広がっていく。

回廊で囲まれた社殿は、正面に「楼門」があり、奥に向かって「舞殿」「弊殿」と続き、その奥に祭神が祀られている二棟の「本殿」がある。私たちが両手を合わせ礼拝しているのは楼門で、通常は拝殿と呼んでいるもの。奥の舞殿・弊殿・本殿には拝観料をお支払しなければ入れない。
南総門を含めこれらの建物は何度も造営・修理が繰り返され、現在のものは寛永11(1634)年、徳川三代将軍家光の建立によるもの。家光らしい朱塗りの豪華絢爛なものです。これら全て重要文化財に指定されている。

この築地塀は「信長塀」とも呼ばれ、織田信長が好んだ様式だそうです。
説明版には「織田信長が天正八年(1580)に寄進した土塀。瓦と土を幾重にも重ねているため耐火性、耐久性に優れており、御本殿を囲むように築かれています」

社殿を囲む回廊と信長塀との間を通って社殿裏へ回る。ここにも境内社が鎮座している。左から住吉社、若宮社、若宮殿社。

特に応神天皇の皇女が祀られている一番右の若宮殿社が人気があるようです。神徳は祈願成就、心身健康で女性の守護神だからでしょうか。でも、女の神様なのに何故”殿”ののでしょうか?。
若宮社には応神天皇の皇子である仁徳天皇が祀られ、男性の守護神だそうです。住吉社は?。

 展望台~裏参道からお帰り  



裏参道から展望台に立ち寄ってみる。ちょうど男山ケーブル駅の上に位置し、京都方面への見晴がすこぶる良い。
展望台からは桂川、宇治川、木津川の三川が眺望でき、その奥には京都を挟み西の愛宕山から、東の比叡山まで一望できます。
比叡山延暦寺が京の都を守護する鬼門なら、ここ男山は裏鬼門にあたる重要な位置だった。羽柴秀吉と明智光秀が勇を決した天王山も目の前です。

ドロンコの土には閉口しましたが・・・。
展望台からの帰り道は、途中で石清水社、松花堂跡に寄ってみたいので裏参道を降りることにした。ところが石清水社、松花堂跡への分かれ道にはロープが張られ立ち入り禁止になっている。前日の大雪で危険箇所があるのか、あるいは正月の初詣で混雑するのを防ぐためか。誰も入ろうとしないが、でも私はロープを跨ぎ入りました。危険なら引き返せばよいだけです。傾斜のきつい急な階段が続いている。しかも雪後のぬかるみです。確かに大勢の人が降りれば危険が予想されますネ。誰もいない階段を、足元に気をつけながら数分降りれば石清水社です。

「石清水八幡宮」の社名となったこの石清水社は、元は石清水寺というお寺だったようです。男山中腹に位置し、水が湧き出る井戸があり、これが厳冬にも凍らず旱魃でも枯れない霊泉「石清水」として尊ばれてきた。
鳥居をくぐった正面に井戸がある。柄杓が置かれているので、今でも使えるようです。現在でも八幡宮の行事には、この井戸から早朝に汲み上げられた「石清水」が必ず御神前に献供さるそうです。井戸の真上に「石清水様の井戸の中におさい銭や物を入れないで下さい」という張り紙がありました。

石清水社のすぐ下に松花堂跡が見える。
本当に”跡”で、何にも遺物はありません。跡地と説明版があるだけ。”松花堂昭乗”?、全く知りませんでした。説明板から要約します。
松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう、1582-1639)は、江戸時代初期の真言宗の僧侶で文化人。男山には、かって「男山四十八坊」と呼ばれるほど多くの宿坊が建ち並んでいた。昭乗は男山に登り出家、初め鐘楼坊、のち瀧本坊に住み修業に励む。、やがて阿闍梨に昇り、44歳で瀧本坊住職に。同時に書や画を能くし、茶人としても有名で、小堀遠州や近衛信尋、沢庵宗彭などと交友があった。特に能書家として高名で近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」の一人に数えられ、松花堂流(滝本流)の開祖となる。晩年になると、泉坊境内に一宇の庵「松花堂」を自ら建て隠棲する。ここに小堀遠州、木下長嘯子、江月、沢庵など、多くの文人墨客が訪れ、さながら文化サロンの風だったそうです。
これらの宿坊のほとんどは、明治の廃仏毀釈で撤去されてしまった。かろうじて泉坊書院の一部や松花堂(茶室)は八幡市女郎花へ移築され、松花堂庭園として残されている。この跡地は昭和37年国の史跡に指定されている。

”松花堂弁当?吉兆?”・・・おれには縁無いナァ!

━━━━━ 今年は私にとって良い年でありますように! ━━━━━━━━━━━━━



「西の京」から大和郡山へ(その 6)

2014年07月08日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 金魚の養殖池  


大和郡山といえば”金魚”しか浮かばない。お城など有るとは知らなかった。「金魚の町」としてのイメージしかなかった。
ここへ金魚が入ってきたきっかけは、享保九年(1724)柳沢吉里が甲府(山梨県)から郡山藩に国替えになった時に観賞用に持ち込んだもの。武士の内職として飼育していた金魚の養殖技術が付近の農家に広まり、水利の便の地の利を得て金魚養殖が盛んになる。そして下級武士や農民の内職や副業となり,それを行商人が各地に販売し広めていった。かって貴族や豪商しか嗜好しなかった高級魚だったが,明治以降は庶民の間でも飼うことが流行するようになり,大和郡山の金魚産業として盛んになっていく。そして「日本一」の金魚の町になり、金魚といえば大和郡山が想起されるまでになった。最近ではその座を愛知県弥富町に譲っているようですが、それでも金魚すくいでおなじみの「小赤(和金)」の7~8割は大和郡山産だそうです。

大和郡山城から南へ歩き、住宅街を抜けると田園地帯が広がる。畦道で区切られ、濁った水面が鏡のように反射し、田植えを待っているかのようです。ところがこれらは全て「金魚の養殖池」でした。近づいてよく見ると、濁った水面に小さな赤い金魚の群れが泳いでいるのが見えます。水は藻が繁殖しているせいか黒緑に濁っている。こうした水が金魚の養殖に適しているのでしょうか?。目にするのは小さな金魚ばかりで,祭りの夜店などで見かける金魚すくい用のもののようです。高級な金魚はこうした養殖池でなく,水槽で飼育しているんでしょう。


池の傍でご夫婦と子供さんが細い紐を張る作業をされていた。「何をなされているんですか?」と尋ねると,鳥が金魚を咥え去るので,紐を池の上に張りめぐらせ防いでいるそうです。病気以外にもいろいろ苦労があるようだ。大雨で金魚が流れ出てしまうとか,強風で吹き寄せられ、押し合って死んでしまうとか。

 郡山金魚資料館「やまと錦魚園」  


養殖池の広がる中にポツンとトタン屋根の建物が見える。「やまと錦魚園」の看板が見えるのでここが有名な「郡山金魚資料館」らしい。資料館とあるからもう少し立派な建物を想像していたのですが。しかし公営でもなく、補助も無く、一個人事業者さんが全て自己負担で運営されている施設です。資料館への入場は無料,「やまと錦魚園」さんの養殖池や水槽も自由に見学できます。受付も無ければ、係員もいない。全くオープンな施設です。定休日(月曜日)、営業時間 9:00~17:00
この地で金魚の養殖業を営んでおられた先代社長の嶋田正治さんが,見学に訪れる小中学生や団体などに自営の養殖場を無料開放し,説明役も務めておられた。そうした経験から資料館の建設は永年の夢であったようです。昭和57年7月,100坪の養魚池を埋め立て私費、手作りで完成されたそうです。”館”らしくない入り口をくぐると手造りの展示室がある。その内容は資料館そのもので,ものすごく充実している。よくこれだけの物を収集され,それを無料で公開されているものです。
金魚の書籍,古い飼育書,その他金魚に関する文書や資料、絵画など。古文書や錦絵,浮世絵,養殖器具,金魚を題材にした民芸品,古い金魚の番付表。金魚型の文鎮。金魚柄のお皿なども。
資料館の奥の庭のような場所には,30個の水槽を並べた「金魚の水族館」になっており,金魚の原種や高級金魚などがじっくりと見られます。
その中央には,金魚の学術研究に尽力したという近畿大学農学部水産学科教授・故松井佳一(明治24年~昭和51年)(1891―1976)の銅像が立つ。説明版に
「金魚の研究によって昭和九年農学博士号を授与される。一生を金魚の研究に尽くし世界に広く日本の金魚を学術的に紹介し、当養魚場へは研究のために足を運ばれて多くの著書を残された。」と書かれている。金魚に関する多くの著書があり,また金魚に関する内外の文献のほか、希書、書画骨董の収集家でもあってようです。資料館に展示されている多くは故松井圭一先生が収集されたものようです。

 金魚すくい道場「こちくや」  


紺屋川の流れる紺屋町の中ほどに、「こちくや」という一風変わった金魚屋さんがある。風情の残る古い町並みの中に、でっかく真っ赤な金魚が入口を飾り目立つのですぐ判る。
金魚をテーマとした美術工芸品・生活用具などを展示し、同時に金魚グッズ、金魚をモチーフにした小物類・お土産品・記念品などの販売もなされている。
それよりもここが有名なのは併設されている「金魚すくい道場」。常時10台の水槽が置かれ,一年中金魚すくいを体験・修業できる。1回,即ちポイ1枚50円。先生が金魚のすくい方もお教えてくれます。
段位認定制もあり,1分間にすくい上げる金魚の数によって初段から師範まで6段階で認定。1分間に5~6匹取ることができれば『初段』認定されるそうです。
毎年8月第3日曜日は「金魚すくいの日」とされ、ここ大和郡山市で「全国金魚すくい選手権大会」が開催されている。大会ルールはいたってシンプルで『制限時間の3分間に、1枚のポイで何匹の金魚をすくうことができるか』を競います。昨年(2013)の一般の部の優勝者は24匹。
この道場は多数の門下生を抱かえ,ここで練習に励み大会に出場している。過去,全国チャンピオンをはじめ,多数の入賞者をだしているそうです。

先日TVで「金魚すくいのコツ」が紹介されていました。

・ポイは最初に水に入れて、全部濡らしておく。(部分的に濡らすとそこから破れる)
・斜めにポイの枠から入れ,水中では泳ぐように水平を保つ!,上下すると破れる
・金魚と一緒に水平に泳いで金魚の頭からすくう。金魚の尾っぽは乗せない(尾で紙を破られることがあるから)
・枠に金魚をひっかけるようにポイを斜めに水から出す。

たかが“金魚すくい”といえど奥が深い。

 金魚の町:大和郡山市  



町を歩いていると、あちこちで金魚を見かける。水瓶に、路面に。

駅前に大和郡山市役所がある。市庁舎の屋上には、「平和のシンボル 金魚が泳ぐ 城下町」の大きなの看板が掲げてある。やはり金魚と城下町がこの市のウリのようである。 庁舎の前に、郡山城の堀割りを利用したらしい広い池がある。大和郡山なのだから金魚が泳いでいるのだろうと覗いてみると、いるわいるわ、鯉がうようよしている。それも真っ黒な。庁舎内には、大きな金魚鉢が備えられ鑑賞できるようになっていることでしょうネ。きっと。近鉄・大和郡山駅16:00発で大阪へ

詳しくはホームページ

「西の京」から大和郡山へ (その 5)

2014年06月26日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 大和郡山「箱本十三町」  



近鉄・郡山駅とJR郡山駅との間は「箱本十三町」と呼ばれる古い町家やお寺が残され,歴史情緒を感じさせてくれる。
筒井順慶が郡山城を縄張りしたときに、本貫地の筒井から商人を呼び寄せて作ったのが「本町」で、これが最も古い。豊臣秀長が100万石大名として郡山に入城したとき、奈良での商売は郡山に限ると決め、各地の商人を呼び集めて町割りした。今井町・奈良町・堺町はその地から集まったものでしょう。魚町・茶町・綿町・雑穀町・豆腐町・紺屋町・材木町は取り扱いの商品名からのもの。各町の商人はそれぞれ商売の独占権が与えられ,地代免除などの特権が与えられていてた。また治安・消火・伝馬・徴税など、町政の一部を当番制で仕切る自治制度を与えられた。「箱本」というのは、当番の町が特許状の入った朱印箱を置き,「箱本」と染め抜いた小旗を立て,一ヶ月全町の治安・消火・伝馬などの世話をしたことからくるという。

 大和郡山 : 外堀緑地  



「箱本十三町」の東側,JR郡山駅側に細長い遊歩道のような,公園のような場所がある。これが「外堀緑地」と呼ばれ,郡山城の外堀の一部(常念寺~薬園八幡神社周辺)を利用し美しく整備された市民憩いの緑地公園です。堀が復元され、郡山名物の金魚や鯉が放されているそうです。



 大和郡山 : 紺屋町  


「箱本十三町」の真ん中辺りに紺屋町がある。豊臣秀長の時代(1585~1591)に藍染を職業とする人が集まった職人町で、かっては13軒の紺屋があったという。 中央には外堀へと続く幅1mほどの紺屋川が流れている。昔はここで染物を洗いながしたそうです。TVでは金魚が泳いると紹介していたが,見かけなかった。地元の人に尋ねたら,先日の大雨で流れてしまったんでしょう,ということです。

紺屋町に残るのが箱本館「紺屋」。かって染物屋だった奥野家を改装し資料館として公開している。
陶磁器から絵画・玩具,美術工芸品や生活用品などの金魚のコレクションや、染色の道具、染め場、クドの復元や箱本関係の資料などを見ることができます。大和郡山の金魚研究家・故石田貞雄氏が蒐集された、金魚をテーマとした美術工芸品・生活用具など約1,000点を所蔵。随時入れ替えて展示されているようです。

「藍染め体験コーナー」では、手作り体験することもできる。天然灰汁発酵建て(てんねんあくはっこうだて)という昔ながらの方法で仕込んだ藍で、本格的なハンカチやかばん、ストールなどの染め体験ができるという。

 大和郡山 : 本家菊屋   


大和郡山市の市役所前に、奈良を代表する老舗の和菓子屋さんがある。創業四百有余年という「本家菊屋 (ほんけきくや)」です。
江戸時代末期に建てられたという店構えも、古い商家の佇まいで時代を感じさせてくれます。往来の人通りは少ないにもかかわらず、菊屋さんへの来店客は絶えまない様子。
菊屋さんでは、最中・カステラ・羊羹・栗まんじゅうなど、様々な和菓子を製造・販売されていますが、やはり豊臣秀吉が名付けたという銘菓「御城之口餅(おしろのくちもち)」が有名です。その菓子箱の由来書きが全てを物語ってくれます。
「名物 御城之口餅(おしろのくちもち) 由来
弊店祖 菊屋治兵衛(きくやじへい)が豊臣秀吉公の弟君 豊臣秀長公に召され大和の国に参りましたのが天正13年(1585)でございます。
秀吉公をもてなす茶会に何か珍菓を作るように命ぜられ献上いたしましたのが、粒餡を餅で包み、きな粉をまぶした一口サイズの餅菓子でした。秀吉公は大層お気に召され「鶯餅」と御銘を賜りました。時が経ちいつの頃からか、弊店が御城の大門を出て町人街の一軒目に位置しますことから、「御城の入口で売っている餅」という意味で「御城之口餅(おしろのくちもち)」と呼ばれるようになり、その通称名が菓銘となって、今日に至ってあります。二十六代目 菊屋」

「御城之口餅」は、つぶあん入りの餅にきな粉をまぶしたいたってシンプルなお菓子です。太閤秀吉にとって美味だったようだが、美味しいものに慣れてしまった現在のわれわれにとっては普通のきな粉餅。歴史を味わう御餅のようです。1300円(15個入り)

 源九郎稲荷神社  



かっての遊郭街、洞泉寺町に源義経ゆかりの源九郎稲荷神社があります。案内板が立っている。
「祭神 源九郎稲荷大神
歌舞伎・文楽「義経千本桜」でおなじみの「源九郎狐」(白狐)を神の使いとしています。兄頼朝と仲たがいし、奈良の吉野山をへて東北の平泉へ落ちのがれるおり、この武運強い義経を影ながら守ってきた武将佐藤忠信は実は、この神社の「白狐」の化身だったのです。そこで義経は奥州に下るとき、この白狐と別れる際自分の名である「源九郎」の名を与え「源九郎狐」と名のることを許しました。その後豊臣の時代には豊臣秀吉の弟で郡山大伏城の城主である豊臣秀長は築城にあたって、この源九郎稲荷をお城の守護神と定めました。日本三社稲荷の一つとされています」

創立・由緒などは不詳であるが、次のような話が伝わっているという。長安寺村に草庵を結んでいた僧宝譽の枕元に、白狐が老翁の姿に化け「われを郡山城の巽に祀ってくれるならば、守護神となって、城を守るであろう」と告げたという。宝譽は城主豊臣秀長にこのことを語ると、秀長は城内龍雲郭に白狐を祀ったといわれている。その後享保4年(1719)に現在地に移され、地元の人から「源九郎さん」の呼び名で親しまれているという。
境内には「六代目中村勘九郎 襲名記念植樹 枝垂れ桜」(平成24年9月26日)と添え書きされた立派な枝垂れ桜が満開を迎えていた。また「六代目中村勘九郎 襲名記念植樹 枝垂れ梅」も植わっています。
歌舞伎「義経千本桜」でも演じたんでしょうか。



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「西の京」から大和郡山へ(その4)

2014年06月21日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 大和郡山城  



薬師寺から南へ30分くらい歩いただろうか、やっと大和郡山城が姿を現した。城といっても、現在残っているのは櫓と石垣だけで、天守閣な残こっていない。
奈良県のほとんどは幕府の直轄地(天領)だったので、県内の城郭は大和郡山城と高取城の二つだけ。現在は、どちらも取り壊され城址だけが残るのみ。やはり”ミカド”発祥の地・大和には城は似合わないのでしょう。

追手門の脇に立っている案内板によれば、郡山城は以下の歴史を持つ。
織田信長の支援を得た筒井順慶(1549~1584)が大和国守護職となり、城を築いたのが始まり。その後、秀吉の異父弟・豊臣秀長(1540~1591)が入る(1585年)。秀長は,大和・和泉・紀伊の三国百万石の領国を任され,その中心となる郡山城の城郭の拡張や城下町の整備を急いだ。「箱本十三町」の自治制度もこの時作られる。
1600年関ヶ原の戦い以降、徳川家の譜代大名が歴代城主を務める。
享保9年(1724年)に柳沢吉里(よしさと)が甲府城から移り入城し、以来明治維新まで、柳沢15万石の居城となった。安政5年(1858年)の大火により城郭の多くが焼失する。再建に着手するが、明治維新政府により郡山城は廃城と決定され,破却されることになる。櫓・門・塀などの建築物は入札によって売却され、運び去られた。

長らく荒廃していた郡山城であったが、1960年(昭和35年)7月28日、本丸と毘沙門曲輪が奈良県指定史跡となり、昭和58年(1983)に梅林門、1983年(昭和58年)に追手門が、翌1984年(昭和59年)追手東隅櫓が、1987年(昭和62年)には追手向櫓が市民の寄付などにより復元された。内堀に沿って進むと追手門が現れ、そのすぐ左には追手門を守るための追手向隅櫓が、右方に追手東隅櫓が見える。お城らしい建物はこれだけです。

天守閣は無くなっているが,残された城石の上に立つと大和盆地の四方が見渡せ,景観が素晴らしいという。ところが天守台は柵で囲われ、「立ち入り禁止」となっていた。「郡山城天守台の石垣修復及び展望施設整備事業の実施に伴い、平成25年10月21日~平成29年3月下旬の期間立ち入り禁止」だという。残念です。
先日TVで紹介していた「逆さ地蔵」の石垣を見たかったのだが,天守台の裏側なので入れない。案内所で写真を出してくれたが,現地まで来て写真では・・・。
大納言秀長は郡山城の築城にあたって奈良中の石を集めたらしい。当時大和は石材に乏しかったために、石垣に利用できる石類は何でも利用した。寺院から集めた礎石,墓石や石仏(地蔵),仏塔など。中には、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている。石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれているお地蔵さんを確認することができ、これが「逆さ地蔵」と呼ばれているものです。大火や大地震による倒壊は,これらの祟りだというウワサもあるが。

さっき城址会館(大和郡山市民会館)の近くで,遠くながら天守台の裏側の城石がよく見える場所があったので,引き返す。掘り越しながら石垣がよく見える。大石垣があり、その上に二段の石垣でできている。遠目なので地蔵さんや墓石などの転用石は確認できない。

「郡山城址公園」は,平成2年「日本桜名所100選の地」に選定され,毎年3月下旬から行われる「お城まつり」には多くの花見客で賑わう。この日は平日だったが、桜の最盛期だったので多くの露店が並び見物客で混雑していた。現在、城郭の目立った建物が残っていないので、公園全体に花開く桜が唯一の見所のようです。堀に覆いかぶさるように並ぶ桜並木は圧巻です。
配布されたパンフによれば,「天正16年(1588年)に,豊臣秀長が多武峰談山神社を郡山に遷座した時に桜も城内に移したといわれる。その後,柳沢吉里が郡山に入城した時(1724年)多くの桜を補植し,花の時期には藩士や町民たちの楽しみとなり,御殿桜と呼び親しんでいた」と書かれている。

詳しくはホームページ