【続続・鎮海の桜】
きのうの続きです。
『ある日韓歴史の旅―鎮海の桜』(朝日選書)から、桜に関する部分を抜粋しながらご紹介します。
《》がその引用部分と掲載ページです。 は私のコメントです。
6ページ《釜山の宿に戻ってから、軍港祭パンフレットを、辞書を引きひき読んでみた。 <中略> 軍港祭にはただ桜をめでることだけでなく、李舜臣将軍の霊を祭り、その護国精神を高くたたえるという基調が貫かれている。パンフレットには「わが国の桜の由来」という項目があって、つぎのような説明がなされていた。
鎮海といえば桜が連想されるが、日帝がわが国を侵略し、この地に軍港を建設するようになって都市の美化のために桜を植えたことがそのはじまりである。しかし、解放直後、桜が日本の国花だと勘違いした市民たちが、日帝の残滓だといって、桜の木をひどく切り倒し、ほとんど見る影もなくなってしまった。
その後、1976年4月、鎮海を世界第一の桜花都市として育てようという大統領命令を契機に、民・官・軍の一体となった桜の植樹運動が展開された結果、現在では八万余りを数える桜の株が植えられている。
桜の開花が始まると、全市街地に桜花のトンネルができる。今日ではこの桜花は鎮海市民だけのものではなく、わが国民すべてのものだということができよう。
ところが、一部では桜花を日本の国花だと見なして、まるで倭国から植民尖兵として侵入してきたもののように反対する傾向があるが、桜は日本から入ってきた樹木ではなく、元来、わが国の土壌で自生していたものなのである。》
韓国でも桜はナショナリズムの喧伝に使われているわけです。桜の精にとっては全く迷惑なお話ですネ。
第5章 桜祭りのなかで
1 鎮海の桜祭り
[桜祭りの由来]
229ページ《海軍次官にあてた、宮岡・鎮海湾防備隊司令官の文書(1910年3月31日付け)につぎのように記されている。 植樹の件 <中略> 杉5万本、赤黒松5万本を筆頭に、アカシア2万本、ポプラ2万本のほか、梅1万本、桃1万本、そして桜2万本など、合計23万3千本が植樹されたと報告されている。》
230ページ《韓国山林庁林業研究院の資料(鎮海試験林」、1990年)では、1910年に2万本、1913年に5万本、1916年に3万本、合計10万本の桜の苗木が植樹されたことが記録されている。》
[桜の名所]
234ページ《朝鮮各地の桜の名所は、八・一五以後、その様子を一変する。「桜=日本を象徴する花」という見方から、桜並木の多くは伐採されてしまったのである。柳やポプラなども日本人によって多く植樹されていたのだが、桜だけが「ねらわれた」。それは日本人の多くが、神社をはじめ官庁・兵営・学校・公園などに桜を次々と植樹し、またその桜に過剰なナショナリズムを託し、喧伝していたことに対する、いわばしっぺ返しであった。また解放直後の経済的な混乱のなか、燃料不足も深刻化しており、桜は格好の生活用燃料ともなった。「桜の鎮海」でも、かなり多くの桜が切り倒された(この時期に日本でも、同じような理由から桜がかなり切り倒されている)。》
[戦後の桜植樹運動]
234ページ《鎮海市史編纂委員会による『鎮海市史』から、「鎮海の桜」という節を引用しよう。
解放後は排日思想によって桜は日帝の残滓だといわれ、その多くは切られて姿を消していた。しかし、1962年に、朴万奎、プ・チョンギュなどの植物学者によって、鎮海に最も多くあるワンポッナム(日本名、ソメイヨシノ)の原産地は、日本ではなく、わが国の済州島であることが明らかにされ、その認識が改められた。
ところで、このワンポッナムの原産地が済州島であることは1932年に日本人の小泉博士によって学界に報告されていたが、[日本では]一部の国粋主義的な学者によって異説が提起され、一般化されることのないままになっていた。(中略)
八・一五以後は、前期のように桜は冷遇され、寿命のつきる樹木もあり、かっての桜の壮観さを見ることはできなくなっていた。しかし、1960年代に入り、鎮海を観光都市に発展させる計画の一環として、わが国自生種のワンボッナムをもう一度植えて桜の名所にしようということになった。第一回目の植樹は、日本からワンボッナムの苗木二千本を市と軍とが共同で購入し、ポッコジャン(直訳すれば「桜花場」、旧「桜の馬場」のこと)、海軍統制部内、そして帝皇山公園と市街地に植樹を始めた。》
この鎮海市史に記されている「ソメイヨシノ(ワンポッナム)の原産地=済州島説」は、その後、DNA鑑定を用いた京都大学の研究グループにより、最終的に否定されています。
その経緯は次回にまわします。(嫌韓派の人なら喜びそうなお話です)
← 鎮海市のホームページから無断借用した帝皇山公園の桜です。
236ページ《鎮海市庁で見せていただいた「在日僑胞献樹現況」という資料によれば、1966年11月に1万本の苗木が贈られたのを皮切りに、81年までの間に、在日韓国人の協力で、合計、じつに5万9千3百本もの苗木が、鎮海の市街地や山林組合の圃場などに植樹された(このほか楓などの樹木も贈られている)。》
[同窓会の桜]
238ページ《さきの『鎮海市史』の記述にはまったくふれられていないが、この鎮海の桜の植樹には、在日韓国人だけではなく、じつは日本人たちもかかわっていた。》
239ページ《軍港祭パンフレットの、「1976年4月、鎮海を世界一の桜花都市として育てようという大統領命令を契機に、民・軍・官の一体となった桜の植樹運動が展開された」という記述は、かならずしも正確な説明ではない。市や軍、そして地元有志による植樹運動や、その呼びかけに協力する在日韓国人たちの活動は、すでに1960年代から始められており、また日本人たちの協力も70年代初頭から見られたのである。とくに、在日韓国人たちの献身的な協力がなければ「桜の鎮海」の復活はありえなかったこと、また在韓・在日の同窓生たちを中心にした市民レベルの、しかも国境を越えた自主的な活動があったという事実も記憶されおくべきだろう。》
明日に続く
だらだらと書き写しているだけなので、終わりまでいきませんでした。
こんな面白くもない話を長々と書いて恐縮です。あと1回か2回で終わりにしたいとは思っています。
きのうの続きです。
『ある日韓歴史の旅―鎮海の桜』(朝日選書)から、桜に関する部分を抜粋しながらご紹介します。
《》がその引用部分と掲載ページです。 は私のコメントです。
6ページ《釜山の宿に戻ってから、軍港祭パンフレットを、辞書を引きひき読んでみた。 <中略> 軍港祭にはただ桜をめでることだけでなく、李舜臣将軍の霊を祭り、その護国精神を高くたたえるという基調が貫かれている。パンフレットには「わが国の桜の由来」という項目があって、つぎのような説明がなされていた。
鎮海といえば桜が連想されるが、日帝がわが国を侵略し、この地に軍港を建設するようになって都市の美化のために桜を植えたことがそのはじまりである。しかし、解放直後、桜が日本の国花だと勘違いした市民たちが、日帝の残滓だといって、桜の木をひどく切り倒し、ほとんど見る影もなくなってしまった。
その後、1976年4月、鎮海を世界第一の桜花都市として育てようという大統領命令を契機に、民・官・軍の一体となった桜の植樹運動が展開された結果、現在では八万余りを数える桜の株が植えられている。
桜の開花が始まると、全市街地に桜花のトンネルができる。今日ではこの桜花は鎮海市民だけのものではなく、わが国民すべてのものだということができよう。
ところが、一部では桜花を日本の国花だと見なして、まるで倭国から植民尖兵として侵入してきたもののように反対する傾向があるが、桜は日本から入ってきた樹木ではなく、元来、わが国の土壌で自生していたものなのである。》
韓国でも桜はナショナリズムの喧伝に使われているわけです。桜の精にとっては全く迷惑なお話ですネ。
第5章 桜祭りのなかで
1 鎮海の桜祭り
[桜祭りの由来]
229ページ《海軍次官にあてた、宮岡・鎮海湾防備隊司令官の文書(1910年3月31日付け)につぎのように記されている。 植樹の件 <中略> 杉5万本、赤黒松5万本を筆頭に、アカシア2万本、ポプラ2万本のほか、梅1万本、桃1万本、そして桜2万本など、合計23万3千本が植樹されたと報告されている。》
230ページ《韓国山林庁林業研究院の資料(鎮海試験林」、1990年)では、1910年に2万本、1913年に5万本、1916年に3万本、合計10万本の桜の苗木が植樹されたことが記録されている。》
[桜の名所]
234ページ《朝鮮各地の桜の名所は、八・一五以後、その様子を一変する。「桜=日本を象徴する花」という見方から、桜並木の多くは伐採されてしまったのである。柳やポプラなども日本人によって多く植樹されていたのだが、桜だけが「ねらわれた」。それは日本人の多くが、神社をはじめ官庁・兵営・学校・公園などに桜を次々と植樹し、またその桜に過剰なナショナリズムを託し、喧伝していたことに対する、いわばしっぺ返しであった。また解放直後の経済的な混乱のなか、燃料不足も深刻化しており、桜は格好の生活用燃料ともなった。「桜の鎮海」でも、かなり多くの桜が切り倒された(この時期に日本でも、同じような理由から桜がかなり切り倒されている)。》
[戦後の桜植樹運動]
234ページ《鎮海市史編纂委員会による『鎮海市史』から、「鎮海の桜」という節を引用しよう。
解放後は排日思想によって桜は日帝の残滓だといわれ、その多くは切られて姿を消していた。しかし、1962年に、朴万奎、プ・チョンギュなどの植物学者によって、鎮海に最も多くあるワンポッナム(日本名、ソメイヨシノ)の原産地は、日本ではなく、わが国の済州島であることが明らかにされ、その認識が改められた。
ところで、このワンポッナムの原産地が済州島であることは1932年に日本人の小泉博士によって学界に報告されていたが、[日本では]一部の国粋主義的な学者によって異説が提起され、一般化されることのないままになっていた。(中略)
八・一五以後は、前期のように桜は冷遇され、寿命のつきる樹木もあり、かっての桜の壮観さを見ることはできなくなっていた。しかし、1960年代に入り、鎮海を観光都市に発展させる計画の一環として、わが国自生種のワンボッナムをもう一度植えて桜の名所にしようということになった。第一回目の植樹は、日本からワンボッナムの苗木二千本を市と軍とが共同で購入し、ポッコジャン(直訳すれば「桜花場」、旧「桜の馬場」のこと)、海軍統制部内、そして帝皇山公園と市街地に植樹を始めた。》
この鎮海市史に記されている「ソメイヨシノ(ワンポッナム)の原産地=済州島説」は、その後、DNA鑑定を用いた京都大学の研究グループにより、最終的に否定されています。
その経緯は次回にまわします。(嫌韓派の人なら喜びそうなお話です)
← 鎮海市のホームページから無断借用した帝皇山公園の桜です。
236ページ《鎮海市庁で見せていただいた「在日僑胞献樹現況」という資料によれば、1966年11月に1万本の苗木が贈られたのを皮切りに、81年までの間に、在日韓国人の協力で、合計、じつに5万9千3百本もの苗木が、鎮海の市街地や山林組合の圃場などに植樹された(このほか楓などの樹木も贈られている)。》
[同窓会の桜]
238ページ《さきの『鎮海市史』の記述にはまったくふれられていないが、この鎮海の桜の植樹には、在日韓国人だけではなく、じつは日本人たちもかかわっていた。》
239ページ《軍港祭パンフレットの、「1976年4月、鎮海を世界一の桜花都市として育てようという大統領命令を契機に、民・軍・官の一体となった桜の植樹運動が展開された」という記述は、かならずしも正確な説明ではない。市や軍、そして地元有志による植樹運動や、その呼びかけに協力する在日韓国人たちの活動は、すでに1960年代から始められており、また日本人たちの協力も70年代初頭から見られたのである。とくに、在日韓国人たちの献身的な協力がなければ「桜の鎮海」の復活はありえなかったこと、また在韓・在日の同窓生たちを中心にした市民レベルの、しかも国境を越えた自主的な活動があったという事実も記憶されおくべきだろう。》
明日に続く
だらだらと書き写しているだけなので、終わりまでいきませんでした。
こんな面白くもない話を長々と書いて恐縮です。あと1回か2回で終わりにしたいとは思っています。