ことりのあしあと

ほんのわずかなじかん、立ち止まって耳をすませて自分を見つめたい。そんなあしあとをペタペタとのこしています。

読書日記7/12 鷲田清一、内田樹『大人のいない国』

2011年07月14日 19時40分35秒 | 日記
おとなになる、とはどういうことなのだろうか。

おとなである、というのはどういうことなのだろうか。

例えば、次のようなフレーズに答を見出だせる。

そして、原発を思うとき、日本が私たちが、確かに「おとなのいない国」にしてしまっていることに、思いあたる。


…これ以上向こうに行くと危ないという感覚、あるいはものごとの軽重の判別、これらをわきまえてはじめて「一人前」である。ひとはもっと「おとな」に憧れるべきである。そのなかでしか、もう一つの大事なもの「未熟」は、護れない。われを忘れてなにかに夢中になる、かちっとした意味の枠組みに囚われていないぶん世界の微細な変化に深く感応できる、一つのことに集中できないぶん社会が中枢神経としているのとは異なる時間に浸ることができる、世界が脱臼しているぶん「この世界」とは別のありようにふれることができる、そんな、芸術をはじめとする文化のさまざまな可能性を開いてきた「未熟」な感受性を、護ることはできないのである。
(鷲田)


そして、おとなとなるために教養を我がものとしていくプロセスが必要になる。
その「教養」を「知識」と比較しながら内田は、次のように述べていて、いま、そしてかつてから図書館を自らの城にしたいと願っている私には、腑に落ちる。


…図書館にある本は情報化された知識ですよね。教養というのは、いわば図書館全体の構成を知ること。…図書館のマップがあれば、自分が読んだ本がどこにあり、読むべき本がどこにあるのかわかる。自分自身の知識がどれほどのもので、自分が知らないことがどういう広がりをもっているかを知ることができる。…
(内田)



哲学者がリアルに通用するコトバを語ることが、いま、生きる知恵として、押し迫って必要だ。ということをしみじみと感じている。

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