キツネノマド

松岡永子
趣味の物書き
(趣味とはなんであるか語ると長くなるので、それはあらためて)

迷信

2009-08-08 09:51:02 | 掌編
人ではなく獣でもない、凶つ鳥のような影を持つその怪物に名を呼ばれると三日のうちに悲惨な死を遂げるという。
もちろん迷信だ。

夜の森を抜け出して小さな流れに足を浸す。月の光の漣は、私の前でも後でも変わらず美しい。
私は黒い翼のような上衣に醜い姿を包んで立つ。月を背に立つ姿は、確かに一本足で休む巨大な鳥の影に似ているだろう。

滑らかな苔を踏む軽い足音が聞こえてくる。私は振り向くことも歩み去ることもしない。淡い月光色の姿。この娘は夜が怖くないらしい。ただ、珍しいものを見る目で私を見る。

私の爪なら熊でも一裂きにできる。切り裂くと動物は体をだらりと垂らし、一枚の布のようになる。この娘ならどんなに美しい布になるだろうと考え、うっとりする。私はうっとりしている。私は両腕を垂らす。
娘が手をさしのべようとして鑢のような私の上衣に触れ、白い腕が擦り剥けた。糸を垂らしたように血の筋が現れる。筋の上に浮かんだ小さな赤い玉を目を丸くして見ていた娘は傷口をぺろりと舐め、私にむかって微笑んだ。私は身動きできなくなった。
薄い衣と薄いこの皮膚に傷をつけずに触れることができるだろうか。私は黒い鉤爪を眺めた。

怪物は朝の光に弱いときく。夜明け、私は森の黒さに戻らず立ちつくしていた。太陽はゆっくりと昇っていく。白い陽にじりじりと灼かれながら体がこわばり胸が悪くなった。だがそれ以上は何も起こらない。十日ほどそうしていたが何も起こらない。

娘は私の名を尋ねる。答える自分の声とささくれだった名のおぞましさにぞっとする。その名を口の中で呟いてから(私の名すら可愛らしい毒虫のように聞こえる甘い声!)、娘は自分の名を告げる。川辺に咲く白い花の群れ。その香りと同じく涼やかな響きの名前。その名をやさしく呼ぶ穏やかな声を私が持っていたら。梟の声を聞いてさえ妬ましさに目が眩んだ。
娘は夜ごと私の名を尋ねる。夜ごと私は答えてやる。
娘は自分の名を告げる。私はなぜかそれを口にすることができない。

人ではなく獣でもない、凶つ鳥のような影を持つその怪物に名を呼ばれると三日のうちに悲惨な死を遂げるという。
もちろんつまらない迷信だ。

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