・・・発音も文字も・・・同じように聴こえてたり、見えたり・・・
そして、意味も意義も・・・「主義」・・・ナニこれ・・・?
「主(おも・シュ)=亠+十+一」なる
「義(よい・ギ)=⺷(羊)+我・・・ワレに乗るヒツジ
䒑+土
䒑+𠀆(⺘)
ㄚ+三
丷+王
丷+一+二+丨」
・・・ワレに乗るヒツジ
ワレのウエにあるヒツジ
和例の
卯(ウ=烏・胡・鵜・宇・雨)
回(エ=依・慧・娃)
に(似・尼・弐・荷・煮・爾)
アル(有る・或る・在る・亜留)
日辻(ヒツジ=未・穭・比通字)・・・字通
字通=平凡社発行の漢字辞典
1996年刊行
白川静著
見出し漢字総数約1万字
熟語約22万語
『字統』『字訓』の
字書三部作の第三作
・・・「説文解字」の拡張解釈・・・
『説文解字(せつもんかいじ)』
最古の部首別漢字字典
「説文(せつもん)」とも
後漢の
許慎(キョシン)・・・虚心?
の作
和帝・・・倭の帝(みかど・テイ)
・・・綴(つづり・テイ)
永元十二年(100年)・・・栄元・永源・英玄・英元
壱拾弐年
壱百年
成立
建光元年(121年)・・・建(たける)の光元の年
許慎の子の
許沖が・・・・・・・・・虚注・去冲
安帝・・・・・・・・・・案の綴り
に奉った
本文14篇
叙(序)1篇の15篇
叙によれば
小篆の見出し字9353字
重文(古文・籀文および他の異体字)1163字
を収録
漢字を540の部首に分別体系化
成り立ちを解説し
字の本義を記す」
・・・和の綴りの字の本義=日本語・・・?
出典: フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』
↓↑
「カンジ至上主義」・・・感自至上主義・・・?
↓↑
「芸術至上主義
仏 L'Art pour l'art
羅 Ars Gratia Artis
英 Art for Art's Sake」者
「暴力至上主義・L'Art pour force」者
「戦争至上主義・L'Art pour guerre」者
「芸術=技術=忍術=武芸=暴力=戦争」主義者
の発現、発揮、表現、実行・・・
窃盗技芸?
↓↑
羅 Ars Gratia Artis
英 Art for Art's Sake
pour=pur=プル・ポー
pouvoir=~できる・~の可能性がある
~する権利がある
不定詞
pouvoir
現在分詞
pouvant
過去分詞
↓↑
pour
前置詞
目的・用途・適性=…のために(の)
英語の「for」
film pour adultes=成人向き映画
時間表現とともに…に
関与…にとって
原因・理由…のために・のせいで
属性…として
対比…にしては.
〈pour+不定詞…するために
〈pour que+接続法…するために
方向…へ・…に
力=force・puissance・pouvoir
↓↑
英語
pour=ポォ・ポォー(ル)
液体・粒状物を…に注ぐ
つぐ・かける・流す
液体を容器から別の容器へ入れ替える
pour+(out・away・on・over・in)
pour=土砂降り
power=パワー
力・腕力・馬力
権力・軍事力
集団の力
動力・仕事率・工率
数学の「冪(ベキ)」
↓↑
英語=パワー(power)
独語=マハト(Macht)
クラフト(Kraft)
仏語=ピュイサンス(puissance)
フォルス(force)
伊語=ヴィゴーレ(vigore)
フォルツァ(forza)
↓↑
ケレンスキー
1881年5月4日〈ユリウス暦4月22日〉
~
1970年3月7日(88歳没)
大運1960年11月(79歳)甲申偏官
~
1970年11月(89歳)癸未正財
辛 巳(戊庚丙)傷官・偏印建禄⇔庚戌食神
壬┏辰(乙癸戊)偏財・比肩冠帯⇔己卯劫財
戊┗戌(辛丁戊) ・比肩 墓⇔丙戌偏印
戊 午(丙 丁)比肩・印綬帝旺⇔甲午偏官
空亡辰巳
↓↑
ロシアで用いられていた
「ユリウス暦」の
「二月革命」
1917年2月23日~2月27日
「三月革命」
(グレゴリオ暦3月8日~12日)
丁巳・癸卯・己酉・乙丑
「十月革命」
(1917年11月7日~1918年)
↓↑
「グレゴリオ暦」では
「十一月革命」
・・・壱拾壱=十一=足壹
丁巳・庚戌・癸丑・癸丑
1918年2月14日
のグレゴリオ暦導入まで
ユリウス 暦による月日で表記
13日加算で
グレゴリオ暦に換算できる
↓↑
ロシア 社会革命党・トルドヴィキ
出生地
Flag of the Russian Empire
(black-yellow-white)
ロシア帝国
シンビルスク
(ウリヤノフスク)
死没地
アメリカ合衆国
ニューヨーク州 ニューヨーク
New York
↓↑
1916年12月
ラスプーチンが
フェリックス・ユスポフに暗殺
1917年
ケレンスキー
ロシア臨時政府司法大臣
1917年3月8日(ユリウス暦2月23日)
ペトログラード(サンクトペテルブルク)
デモで
二月革命が開始
ケレンスキーは
ロシア国会臨時委員会委員に選出
ペトログラード・ソヴィエト
副議長に任命
3月16日(ユリウス暦3月3日)
臨時政府樹立
司法大臣
4月
英仏に戦争継続発覚し
外務大臣
パーヴェル・ミリュコーフ
陸海軍大臣
アレクサンドル・グチコフ
辞任
ケレンスキーは陸海軍相就任
臨時政府の実権掌握
5月23日(ユリウス暦5月10日)
戦争継続を主張
陸軍総司令官
ミハイル・アレクセーエフ
を
アレクセイ・ブルシーロフ
に交代し
ドイツ帝国に対する攻勢命令(ケレンスキー攻勢)
指令系統が破綻し
ロシア軍は攻勢に失敗
7月14日
ドイツ東部方面軍は反攻に転じ
ロシア軍の前線は全面崩壊
ケレンスキーは
敗北の責任を軍部に追及され
兵士から
「説得司令官」と揶揄
↓↑
ケレンスキー
コルニーロフ
↓↑
7月16日(ユリウス暦7月3日)
七月蜂起
ペトログラードで
ボリシェヴィキが蜂起
リヴォフ首相
辞任
7月21日
ケレンスキー
首相就任
8月
陸軍総司令官
ラーヴル・コルニーロフ
ボリシェヴィキ排除を目指し
ペトログラードへ進軍(コルニーロフ事件)
9月9日
コルニーロフを更迭したが
コルニーロフは
コサック部隊を首都へ進軍させた
ケレンスキーは
ボリシェヴィキの
赤軍に助力を要請
コサック部隊は命令を拒否し原隊復帰
コルニーロフ逮捕
ケレンスキー
陸軍総司令官に就任したが
臨時政府の影響力は低下
1917年5月12日
「諸君はその銃剣の先に
平和・権利・真理・正義
をつけて行くのだ
ロシヤの自由な息子たちよ
固く隊伍を組んで前進せよ」
と・・・
だが
ボリシェヴィキ勢力増大
↓↑
9月15日(ユリウス暦9月1日)
国号を
「ロシア共和国」に変更
憲法制定議会が設立されるまで
権力維持に努めたが
「社会革命党」の理念
「社会主義」
に反する
「共和制宣言」
で党内から批判された
ケレンスキーは
外相 ミハイル・テレシチェンコ
陸相 アレクサンドル・ヴェルホフスキー
海相 ドミトリー・ヴェルデレフスキー
郵政電信相
アレクセイ・ニキーチン
を最高会議委員に任命し
自身は主席となった
ケレンスキーは
「戦争継続」
訴え続けたが・・・「Puチン」・・・同類?
兵士たちは
「ロマノフ朝が崩壊すれば戦争は終わる」
と考え
「平和、土地、パン」
を主張し講和を掲げる
ボリシェヴィキを支持
兵士たちは次々に脱走
1917年秋
兵力は200万人まで減少
ケレンスキー閣僚は
戦争から離脱した場合に
英仏からの食糧供給が絶たれ
国内が混乱することを恐れ
戦争を継続する以外に選択肢がなかった・・・
反ボリシェヴィキで共闘する立場の
コルニーロフを逮捕し
ボリシェヴィキに対抗する戦力を喪失
↓↑
十月革命
レーニン・・・・「うら字ミいる」・・・?
10月上旬
フィンランドから帰還
臨時政府打倒を呼びかけ
ケレンスキーは
11月5日(ユリウス暦10月24日)早朝
士官学校生徒などを動員し
ボリシェヴィキの機関誌印刷所などを襲撃
レフ・トロツキー
が率いる赤軍は
印刷所を回復、郵便局、発電所、銀行を占領
11月6日(ユリウス暦10月25日)
ボリシェヴィキは
ペトログラードで蜂起(十月革命)
ケレンスキーが動員できる戦力は
「死の大隊」
と呼ばれる
2個の
「女性大隊」のみ
「女性大隊」は
反ボリシェヴィキで戦闘に参加
だが
赤軍に敗北
全員が捕虜
↓↑
ケレンスキーは
冬宮殿を脱出
臨時政府の閣僚は全員逮捕・監禁
後に
追放、脱走・亡命・・・
↓↑
ケレンスキーは
プスコフに逃れ
同地の騎兵部隊を率いて
ペトログラードを奪還しようと試みた
部隊は
ツァールスコエ・セロー
を占領したが
翌日
プルコヴォで赤軍に敗れ
数週間を隠れ家で過ごし
フランスに亡命
↓↑
ロシア内戦勃発
ケレンスキーは
白軍を「反革命右派」
ボリシェヴィキを「反革命左派」
と非難
1941年
独ソ戦開始後
ヨシフ・スターリン
に支援を要請
↓↑
ワシントンD.C.での
ケレンスキー
亡命後も政治活動
1939年
オーストラリア人の元ジャーナリスト
リディア・ネル・トリットン
と再婚
1940年
ナチス・ドイツの
フランス侵攻開始
ケレンスキーは
アメリカ合衆国に脱出
1945年
オーストラリア
ブリスベン
に移住
彼女の家族と共に生活
1946年2月
リディア
脳卒中で4月10日に死亡
ケレンスキーは
再びアメリカ
ニューヨーク
に居住
カリフォルニア州で過ごし
スタンフォード大学
講師
「フーヴァー戦争・革命・平和研究所」
の研究員
ロシアの歴史や政治史を記録
革命政権時代
反ユダヤ感情渦巻くロシアで
ユダヤ人人権保護を訴え
ユダヤ系の人間から資金援助や支援を受けた
KGBは
「ピエロ」のコードネームを付け
ケレンスキーを監視、抹殺計画
↓↑
1970年
ニューヨークの自宅で死去
十月革命当事者の最後の生き残りの一人だったが
ニューヨーク
在外ロシア正教会
セルビア正教会から
ボリシェヴィキによる
政権奪取の責任を問われ
埋葬を拒否され
遺体は
ロンドンに埋葬・・・
↓↑
ケレン ・スキィ
↓↑ ↓↑
けれん(外連) 州奇異(貴意・忌諱・記意・紀伊・key)
歌舞伎や人形浄瑠璃で
見た目本位の奇抜さをねらった演出
その演目
早替わり・宙乗り・仕掛け物
など
↓↑
ごまかし・はったり
「言うことに外連がない」
↓↑
演劇・映画・歌舞伎・浄瑠璃
の台詞、言葉
↓↑
ケレン
ドイツ語=Kernstutze
鋳造に際し
鋳型の
中子 (なかご) を
支える副え木を補強する金具
↓↑
ケレン=Keren
エリトリア北部の町
首都
アスマラ
の北西約90キロメートル
アンセバ地方の高原地帯に位置
鉄道、道路交通の要地
農産物の集散地
20世紀初頭の
モダニズム建築
ロマネスク様式
の教会をはじめ
イタリア風の建造物が多数残っている
↓↑
猛々しく=建々
=武々
=竹々
=長け丈
=嶽々
=他家ダケ
強(し)く
申(もう)し
上(あ)げる・・・?
↓↑
ラジアン=180度
=壱百八拾度
= 百捌足土
等字編(辮)・等事案・等時案・等蒔案
羅似案・・・・新羅(斯盧)案
螺(法螺)示案
radian=弧=弓+瓜
度=广+廿+又
亠(トウ・ヅ)
+
丿(ヘツ・へチ)
+
又(フ+乀・ユウ・ウ)=ヌ
一+乂(カイ・ゲ・Ⅹ)
「π(パイ)=一+丿+乚
=兀(コツ・ゴチ)」
が角度に使用される場合は
「180°=ラジアン=弧度」
角度の単位で
「1ラジアン」は
「円の半径に
等しい長さの
弧の中心に対する角度」
と定義
円周を360等分した弧の中心に対する角度
↓↑
何時でも青春=ナンジでも
アオイ(葵・蒼・碧・藍)の
ハル(波留・波瑠・葉留)
ー----
・・・???・・・人生、アオイ・・・女王の身罷り・・・
ナゼ「白馬=あおうま=青馬」なんだか・・・
「蒼き馬を見よ」・・・「白馬」って?
「蒼ざめた馬を見よ
これに乗るものの名は死
黄泉これに従う」
ヨハネ黙示録第6章8節
プーチンも金も・・・白馬に乗って誇示していたが・・・
2022年9月26日
壬寅・己酉・壬午・丙午・・・「午=うま=馬」の日・・・アンサツ?
http://tocana.jp/2015/12/post_8302.html
女王は競馬スキだった・・・
↓↑
A Whiter Shade of Pale?
青い影 (プロコル・ハルム)・A Whiter Shade of Pale (1967年)
https://www.youtube.com/watch?v=PrdKpDN-NQQ
ー--
緑ウクライナ
極東ウクライナ共和国
1917年~1922年
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
↓
極東共和国
↓
極東ウクライナ共和国
首都
二コラエフスク・ナ・アムーレ
極東会議議長
1920年~1922年
ユーリ・フルスコ=モヴァ
設立 1917年6月11日
独立 1918年4月
滅亡 1922年10月25日
現在 ロシア
緑ウクライナ(英語 Green Ukraine)
アムール川~太平洋岸
ウクライナ人植民地
「緑の楔(くさび)」・・・くさび=草薙
↓↑
1917年
ロシア革命以降
極東ウクライナ共和国が
ウクライナ人によって
ロシア極東に建国されることが計画
1920年4月6日
ボルシェビキの極東共和国
設置
ウクライナ人が多数であった極東は
この国家を脱して
「緑ウクライナ」
と呼ばれる国家の建設を試みたが挫折
↓↑
1917年6月24日
第一回全ウクライナ人極東会議
ニコラエスクウスリースキー
で極東会議(Kray Rada)を構成
1918年2月
第二回全ウクライナ極東会議
ハバロフスクで開催
緑ウクライナが
ウクライナ国の一部として宣言
1918年4月
第三回全ウクライナ極東会議
独立ウクライナ国家
を太平洋岸に設立するか問う
1918年
極東ウクライナ軍が編成
兵力は5000人以上
ボリス・フレスチャティスキー
が指揮官
1920年4月11日
ヘトマンの地位の
グリゴリー・セミョーノフ
は
極東ウクライナ共和国の権威のため
民族自決
極東コサック
ブリヤート人
ウクライナ人
の境界内での自治を唱えた
1922年
赤軍との対立後、崩壊、解散
会議の議長
1918年6月~1919年
ユーリ・フルスコ=モヴァ(一期目)
1920年1月~1922年
ユーリ・フルスコ=モヴァ(二期目)
領域
アムール川近郊~ウスリー近郊
ハバロフスク、ウラジオストク
↓↑
ユーリ・フルスコ=モヴァ
ウクライナで
ウクライナ人は主に農業を経営
ロシア人
ユダヤ人
などの多い都市部にはあまり住んでいなかった
当時のウクライナ人は
都市を敬遠
19世紀末
ウクライナで進展した都市化や工業化では
主にロシア人が流入し
ウクライナ人は
ウクライナ内の炭坑や工場で労働者となるよりも
国外や辺境で農地を持つことを望んだ
多くのウクライナ人が
カナダ
アメリカ合衆国
の農業地帯に移民し
ロシア帝国内では人口希薄な
東方、極東に移動して農業
↓↑
ロシア極東のアムール川~太平洋岸
ゼレニークリン (Zeleny Klyn)
ゼレニーウクライナ
東部ウクライナ
と呼ばれ
ウクライナ人に殖民された地域
領域は100万km2
ウクライナ人人口
1926年
41%~47%
総人口は
1958年の時点で
310万人
↓↑
ゼレニー・クリン
ロシア帝国の一部になった
この地域への殖民
中期17世紀
ハバーロフ
がアムール川岸の
アルバジンに要塞を築く
斥候兵が満州地方で小競り合い
1669年
ネルチンスク条約締結
アムール川を境として
北部がロシア領土となった
↓↑
19世紀中期
1853年~1856年
「クリミア(Crimean)戦争」
ロシア
vs
フランス・オスマン帝国
イギリスの同盟軍
+
サルデーニャ・・・1861年2月18日
トリノで
第1回イタリア国民議会
ヴィットーリオ・
エマヌエーレ2世の
イタリア王即位を承認
3月17日
ヴィットーリオ・
エマヌエーレ2世の
イタリア王即位が正式に宣言
サルデーニャ王国は
イタリア王国となる
サルデーニャは
「猿 出 にや」では?
猿田彦=異形風貌で赤鼻の天狗
庚申信仰神
青面金剛
(ショウメンコンゴウ)
請 免 混合・今号?
白鬚明神
塞の神・道祖神・精大明神
伊勢の阿邪訶にて溺れた
猿女=宇受女?
↓↑
1854年9月28日から始まった
セヴァストポリ包囲戦
(Sivastopol Kuşatması・セバストポリ攻囲戦
露語・セバストポリ防衛戦)
1855年9月11日に陥落
サルデーニャ王国
ピエモンテに駐屯する精鋭15000人を
派遣して同盟軍に与し
街は3日におよぶ総攻撃の末に
ナヒーモフ
コルニーロフ
が戦死
↓↑
太平洋側
ロシア極東
1854年8月末
フランス海軍
イギリス海軍の連合は
カムチャツカ半島
ロシアの港湾・要塞
ペトロパブロフスク・カムチャツキー攻略
英仏連合軍は盛んに砲撃を行い
9月に上陸
陸戦で大きな犠牲を出し撤退
英仏連合は兵力を増援し再度攻撃をかけたが
ロシア軍は撤退後だった
↓↑
1853年8月
エフィム・プチャーチン
海軍中将が日本との開国交渉
1853年8月
長崎に到着
外交交渉に着手していたが
交渉が長引く中で
英仏両国との開戦の情報に接し
東シベリア総督
ニコライ・ムラヴィヨフ
とも協議の上日本との交渉を続行
英仏の艦隊との遭遇・交戦の危険を控え
1854年12月
「安政東海地震」
で乗艦
「ディアナ号」喪失
1855年1月
日露和親条約の締結
↓↑
英国東インド・中国艦隊司令
ジェームズ・スターリング
は
プチャーチン
が長崎に入港中との情報を得
彼を捕捉することを口実に
長崎に侵入したが
ロシア艦隊は長崎を既に出港
ロシアが
サハリン
千島列島
への領土的野心があることを警告し
幕府に対して局外中立を求めた
スターリングは
外交交渉を行う権利は有しておらず
本国からの指示も受けていなかったが
長崎奉行
「水野忠徳」
は、イギリスの軍事力を恐れ
条約締結を提案し
1854年10月14日
日英和親条約が調印
↓↑
アメリカが
ペリー提督を派遣
「クリミア戦争」のドサクサを背景に
砲艦外交を日本に展開・・・
↓↑
クリミア戦争で
ロシアが敗北し
第二次東方拡大政策
コサック殖民がアムール川近郊に設置
清帝国は
ロシアとの戦争を避け
1853年・・・・・
アイグン条約
1860年
プリモルスク条約
を締結
現在の国境線になった
↓↑
これらの期間の植民者は
14,000人のコサック
2,500人のロシア兵
1816年
プリモルスキー州
アムールスキー州
が設置
1860年
ウラジオストク
1858年
ハバロフスク
建設開始
↓↑
1882年
ウクライナからこの地域への自由移動が公表
植民者には自由地が提供
植民者の乗る船は
ウクライナの
オデッサ港から出発
1897年まで
31万人にまで人口増加
1901年
シベリア鉄道の設置完了
以降は
一年あたり14,000人の移住者
1907年
人口78,000人
1914年
地域は
海軍大将
アレクサンドル・コルチャーク
の管轄下に入った
1920年
極東共和国が
日本とロシアの緩衝国として設置
1922年
ロシア社会主義共和国に編入
1934年
ユダヤ人自治州が
ビロビジャンに設立
ソビエトの支配を嫌ったウクライナ人は
極東から
中国領の満州
日本領の南樺太
逃亡
当地で「白系ロシア人」と呼称
「ロシア白軍」の残存兵士・・・
出典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ー----
・・・???・・・
プーチンの侵略戦争の末路・・・9月26日・・・壬午日?
↓↑ ↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源) + (表紙・画像・音楽)」の 移転先・・・
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
↓↑
干支歴
↓↑
追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
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