白雉・・・一年四月 鼠(ネズミ)が馬の尾で子を産む?
「鼠(ネズミ)が
馬の尾で
子を産む」?
↓↑
夏四月 鼠産 於 馬尾
釋 道顯 占曰
↓↑
・・・顯(ケン)=顕=显(日业)+頁
顕現・顕在・顕示・顕著・隠顕
破邪顕正
顯=日+𢇁+頁
顯=日+𢆶+灬+頁
顕=显(ケン)+頁
=日+业+頁
↓↑ ↓↑
北国之人 將 附南国
蓋 高麗 破
而屬 日本 乎
「北国(NK)の人、まさに南国(SK)に附かんとする
けだし、高麗が敗れ、しこうして
日本に服属するのでは?」
・・・高麗(NK)が日本(N)に服属・・・帰化?
↓↑
『日本書紀』巻二五
白雉四年(653年)
五月壬戌十二日条
(6月12日)
↓↑
653年
干支 癸丑
日本
白雉四年
皇紀1313年
中国
唐 永徽四年
6月12日
白雉四年五月十二日
吉士長丹、高田根麻呂、道昭、定恵
らを遣唐使に派遣
中大兄皇子が
孝徳天皇と不和
飛鳥河辺行宮に移る
遣唐使派遣の目的
朝鮮半島への
唐の軍事的動向情報・・・
誕生
キルデリク2世・・・記留出理句似所為?
メロヴィング朝・・・女鸕(目呂)備意務具?
7代目国王(~675年)
死去
旻、学僧・・・・・・旻=日+文(亠乂)
亠=音・乂=かる・重なる
↓↑
白雉四年五月十二日・水曜日・仏滅
653年6月12日(u)
┏癸丑 (癸辛己)劫財・劫財 衰
┗戊午┓(丙 丁)偏官・偏財 胎
壬戌┛(辛丁戊) ・印綬冠帯
丙午┛(丙 丁)偏財・偏財 胎
↓↑
「白雉四年(癸丑)
夏
五月 (戊午)
辛亥 朔 1→234567891011→ 12
西暦653年6月1日(g)
~
西暦653年6月12日(g)
辛壬癸甲乙丙丁戊己庚辛壬
亥子丑寅卯辰巳午未申酉戌
一二日(壬戌)
↓↑
發遣 大唐大使
小山上 吉士 長丹。・・・冠位二十六階
664年~685年
新位は
大錦上、大錦中
大錦下・小錦上
小錦中・小錦下
大山中・小山中・・・小山上
大乙中・小乙中
大建・ 小建
その他は以前の名称・位置
以前の冠位十九階を改正
冠位四十八階によって廃止
副使
小乙上 吉士 駒。
駒。更名 糸。・・・・・・駒~糸
學問僧
道嚴。道通。道光。惠施。覺勝。
弁正。惠照。僧忍。知聡。道昭。
定惠。
定惠。
内大臣之長子也。・・・・内大臣=藤原釜足=中臣鎌子
安達。
安達。中臣 渠毎 連之子。
道觀。
道觀。春日 粟田 臣 百濟之子。
學生
巨勢臣藥。藥豐足 臣之子。
氷連老人。
老人。 眞玉之子。
或本、以 學問僧 知。
辨・義德、學生 坂合部連 磐積
而増焉、幷 一百廿一人、
倶 乘一船。
以 室原 首 御田 爲 送使。」
天智天皇(日本書紀)
天智天皇(二十)
長門と筑紫に城
劉徳高 来日・・・劉徳高
秋八月
遣達率 答㶱春初、築城 於 長門国。
遣達率 憶禮福留
達率 四比福夫、
於 筑紫国 築 大野 及 椽 二城。
耽羅 遣使 來朝。
・・・耽羅=済州島
(たんら・ちんら・とら?)
朝鮮半島沖の済州島の王国
15世紀初め李氏朝鮮に併合
耽牟羅(たむら)=屯羅(とんら)とも記録
多武良 冨覶
(等・蘭・裸・蠃・驘・臝)
羅典語=Latin=拉丁語
・・・(たんら・ちんら)
耽牟羅(たむら)=屯羅(とんら)
天麩羅・天冨良・天婦羅(海女裸)?
耽牟羅(たんむら)=忱弥多礼(とむたれ)とも
忱彌碓例・・誰(垂・足)?
『日本書紀』の
古訓は
「耽羅(とむら)」・・・・・・・・・・島大臣=蘇我蝦夷
『唐会要(トウカイヨウ)』
耽羅条
「王姓は儒李、名は都羅(とら)」
・・・斗羅・虎・寅・・・天武天皇
↓↑
「城隍(じょうこう)無し
分かれて五を作(な)す
戸口八千有り
文記無く、唯(ただ)鬼神に事(つか)ふ
常に百済に役属す
『高麗史』耽羅県条
三神人が地から生じ
その妻となった3女性は
日本の王の娘で
駒(こま)や犢(こうし)、
五穀の種も
日本から送られたものであった・・・
「耽羅」の初見
475年
百済が高句麗に敗れ
熊津(くまなり・ユウシン)
忠清南道公州に南遷してからのこと
476年
耽羅が百済に通じると
喜んだ百済は使者に
恩率(百済の位階。16品の中の第3品)
を贈り、以後、耽羅は百済に服属
王は百済から与えられた
佐平(さへい・第一品)の号を称した
百済滅亡後は日本にも通じた
『三国史記』は
662年
耽羅国
主佐平
徒冬音律(津)が
新羅に来降
新羅滅亡後は
高麗に臣属
「済州」は高麗時代の命名・・・
by kotobank.jp/word(コトバンク)
([坂元義種]
『筧敏生著「耽羅王権と日本」
『続日本紀研究262』所収』)
↓↑
耽=耳+冘
耳+冖+丿+乚
ふける・熱中する・度をこえて楽しむ
耳が大きく垂れ下がる
おくぶかいさま
↓↑ ↓↑
九月庚午朔壬辰、
唐国 遣 朝散大夫
沂州 司馬
上柱国
劉德高 等。・・・劉の德の高
(等謂、右 戎衞郎將
上柱国
百濟
禰軍・・・・・・禰の軍(ネのグン)
朝散大夫
柱国
郭務悰、・・・・郭の務の悰
凡 二百五十四人。
七月廿八日 至 于 對馬、
九月廿 日 至 于 筑紫、
廿二日 進 表函焉。)
冬十月己亥朔己酉、
大閲 于 菟道(うじ)。
十一月己巳朔辛巳、
饗 賜 劉德高 等。
十二月戊戌朔辛亥、
賜物 於 劉德高 等。
是月、 劉德高 等 罷歸。
是歲、
遣 小錦守君
大石 等 於 大唐、云々。
(等謂、小山 坂合部
連 石積
大乙 吉士 岐彌
吉士 針間。
・・・吉士=新羅の官職名
「吉志・吉師・企師」
帰化新羅人に
付与された姓(かばね)
蓋 送 唐使人乎。)
ーーーーー
・・・当時の「日本政府中枢」は
百濟⇔唐⇔新羅+高句麗
唐(則天武后)+倭⇔新羅(金春秋・武烈王)
・・・に翻弄されていた・・・
「鼠(ネズミ)が
馬の尾で
子を産む」?
↓↑
夏四月 鼠産 於 馬尾
釋 道顯 占曰
↓↑
・・・顯(ケン)=顕=显(日业)+頁
顕現・顕在・顕示・顕著・隠顕
破邪顕正
顯=日+𢇁+頁
顯=日+𢆶+灬+頁
顕=显(ケン)+頁
=日+业+頁
↓↑ ↓↑
北国之人 將 附南国
蓋 高麗 破
而屬 日本 乎
「北国(NK)の人、まさに南国(SK)に附かんとする
けだし、高麗が敗れ、しこうして
日本に服属するのでは?」
・・・高麗(NK)が日本(N)に服属・・・帰化?
↓↑
『日本書紀』巻二五
白雉四年(653年)
五月壬戌十二日条
(6月12日)
↓↑
653年
干支 癸丑
日本
白雉四年
皇紀1313年
中国
唐 永徽四年
6月12日
白雉四年五月十二日
吉士長丹、高田根麻呂、道昭、定恵
らを遣唐使に派遣
中大兄皇子が
孝徳天皇と不和
飛鳥河辺行宮に移る
遣唐使派遣の目的
朝鮮半島への
唐の軍事的動向情報・・・
誕生
キルデリク2世・・・記留出理句似所為?
メロヴィング朝・・・女鸕(目呂)備意務具?
7代目国王(~675年)
死去
旻、学僧・・・・・・旻=日+文(亠乂)
亠=音・乂=かる・重なる
↓↑
白雉四年五月十二日・水曜日・仏滅
653年6月12日(u)
┏癸丑 (癸辛己)劫財・劫財 衰
┗戊午┓(丙 丁)偏官・偏財 胎
壬戌┛(辛丁戊) ・印綬冠帯
丙午┛(丙 丁)偏財・偏財 胎
↓↑
「白雉四年(癸丑)
夏
五月 (戊午)
辛亥 朔 1→234567891011→ 12
西暦653年6月1日(g)
~
西暦653年6月12日(g)
辛壬癸甲乙丙丁戊己庚辛壬
亥子丑寅卯辰巳午未申酉戌
一二日(壬戌)
↓↑
發遣 大唐大使
小山上 吉士 長丹。・・・冠位二十六階
664年~685年
新位は
大錦上、大錦中
大錦下・小錦上
小錦中・小錦下
大山中・小山中・・・小山上
大乙中・小乙中
大建・ 小建
その他は以前の名称・位置
以前の冠位十九階を改正
冠位四十八階によって廃止
副使
小乙上 吉士 駒。
駒。更名 糸。・・・・・・駒~糸
學問僧
道嚴。道通。道光。惠施。覺勝。
弁正。惠照。僧忍。知聡。道昭。
定惠。
定惠。
内大臣之長子也。・・・・内大臣=藤原釜足=中臣鎌子
安達。
安達。中臣 渠毎 連之子。
道觀。
道觀。春日 粟田 臣 百濟之子。
學生
巨勢臣藥。藥豐足 臣之子。
氷連老人。
老人。 眞玉之子。
或本、以 學問僧 知。
辨・義德、學生 坂合部連 磐積
而増焉、幷 一百廿一人、
倶 乘一船。
以 室原 首 御田 爲 送使。」
天智天皇(日本書紀)
天智天皇(二十)
長門と筑紫に城
劉徳高 来日・・・劉徳高
秋八月
遣達率 答㶱春初、築城 於 長門国。
遣達率 憶禮福留
達率 四比福夫、
於 筑紫国 築 大野 及 椽 二城。
耽羅 遣使 來朝。
・・・耽羅=済州島
(たんら・ちんら・とら?)
朝鮮半島沖の済州島の王国
15世紀初め李氏朝鮮に併合
耽牟羅(たむら)=屯羅(とんら)とも記録
多武良 冨覶
(等・蘭・裸・蠃・驘・臝)
羅典語=Latin=拉丁語
・・・(たんら・ちんら)
耽牟羅(たむら)=屯羅(とんら)
天麩羅・天冨良・天婦羅(海女裸)?
耽牟羅(たんむら)=忱弥多礼(とむたれ)とも
忱彌碓例・・誰(垂・足)?
『日本書紀』の
古訓は
「耽羅(とむら)」・・・・・・・・・・島大臣=蘇我蝦夷
『唐会要(トウカイヨウ)』
耽羅条
「王姓は儒李、名は都羅(とら)」
・・・斗羅・虎・寅・・・天武天皇
↓↑
「城隍(じょうこう)無し
分かれて五を作(な)す
戸口八千有り
文記無く、唯(ただ)鬼神に事(つか)ふ
常に百済に役属す
『高麗史』耽羅県条
三神人が地から生じ
その妻となった3女性は
日本の王の娘で
駒(こま)や犢(こうし)、
五穀の種も
日本から送られたものであった・・・
「耽羅」の初見
475年
百済が高句麗に敗れ
熊津(くまなり・ユウシン)
忠清南道公州に南遷してからのこと
476年
耽羅が百済に通じると
喜んだ百済は使者に
恩率(百済の位階。16品の中の第3品)
を贈り、以後、耽羅は百済に服属
王は百済から与えられた
佐平(さへい・第一品)の号を称した
百済滅亡後は日本にも通じた
『三国史記』は
662年
耽羅国
主佐平
徒冬音律(津)が
新羅に来降
新羅滅亡後は
高麗に臣属
「済州」は高麗時代の命名・・・
by kotobank.jp/word(コトバンク)
([坂元義種]
『筧敏生著「耽羅王権と日本」
『続日本紀研究262』所収』)
↓↑
耽=耳+冘
耳+冖+丿+乚
ふける・熱中する・度をこえて楽しむ
耳が大きく垂れ下がる
おくぶかいさま
↓↑ ↓↑
九月庚午朔壬辰、
唐国 遣 朝散大夫
沂州 司馬
上柱国
劉德高 等。・・・劉の德の高
(等謂、右 戎衞郎將
上柱国
百濟
禰軍・・・・・・禰の軍(ネのグン)
朝散大夫
柱国
郭務悰、・・・・郭の務の悰
凡 二百五十四人。
七月廿八日 至 于 對馬、
九月廿 日 至 于 筑紫、
廿二日 進 表函焉。)
冬十月己亥朔己酉、
大閲 于 菟道(うじ)。
十一月己巳朔辛巳、
饗 賜 劉德高 等。
十二月戊戌朔辛亥、
賜物 於 劉德高 等。
是月、 劉德高 等 罷歸。
是歲、
遣 小錦守君
大石 等 於 大唐、云々。
(等謂、小山 坂合部
連 石積
大乙 吉士 岐彌
吉士 針間。
・・・吉士=新羅の官職名
「吉志・吉師・企師」
帰化新羅人に
付与された姓(かばね)
蓋 送 唐使人乎。)
ーーーーー
・・・当時の「日本政府中枢」は
百濟⇔唐⇔新羅+高句麗
唐(則天武后)+倭⇔新羅(金春秋・武烈王)
・・・に翻弄されていた・・・
ーーーーー
天智天皇
↓↑
第三十八代天皇
在位期間
668年2月20日
天智天皇七年一月三日
戊辰 甲寅 戊子
~
672年1月7日
天智天皇十年十二月三日
辛未 辛丑 乙丑
↓↑
668年
1年1月 鬼室福信に援助
1年3月 百済に布を与えた
唐と新羅が高麗を征伐
高麗は大和朝廷に救援要請
将軍派遣
↓↑
1年4月 鼠(ネズミ)が馬の尾で子を産む?
↓↑
イエス=移鼠が
マタイ=馬太(瑪碓)
徴税人の
緒で末裔の子?
マルコ=馬可(瑪珂)?=圓使主?
トマス=多馬=多摩・但馬・多磨?
↓↑
阿摩司書=アモス書???
海部州=阿毎=熊本=肥之国?
↓↑
高麗が
唐に破れて
日本に服属と判断
1年5月 阿曇比邏夫連が
豊璋を百済へ送る
百済を復興
1年6月 百済は達率、万智を派遣し献上
1年12月 百済の
豊璋・福信が
狹井連と合議
部下の進言を聞かず
都を移動
2年2月 百済は
達率 金受
を派遣して献上
新羅が百済に侵略
都を元の
州柔に戻す
2年3月 日本が
上毛野 君 稚子と27000人を
百済に派遣し
新羅を討たせる
2年5月 犬上 君が
高麗で
福信の罪を聞く
2年6月 上毛野 君 稚子たちが
新羅の城を取る
百済の
豊璋は
鬼室福信の
手の平に穴を開け
革で縛って捕らえ処刑
首は酢漬け
2年8月 福信の死で
新羅が都を取ろうとする
日本から
救援1万人が来ると
豊璋が言う
新羅が
百済の都を包囲
唐は
百七十隻の船で
白村江に陣を張る
27日
日本と唐が海戦
日本敗北
28日
豊璋は
高麗へ逃亡
2年9月 百済の都の
州柔城降伏
百済滅亡
百済人、日本へ難民
・・・新羅人・高麗人も難民流入・・・
3年2月 天智天皇
大海人皇子に
冠位の改正を命じる・・・半島帰化人対策
3年3月 百済王の
善光王
が難波に来る
星が都の北に落ちる・・・落ちた星=隕石
偉人の落命=石の音韻
地震
3年5月 百済の
劉仁願
は
郭務悰を派遣し献上
蘇我 連 大臣が死亡・・・・?
3年6月 嶋皇祖母命
(糠手姫皇女
田村皇女
宝王=財王
糠代比売王)・・・耽羅王の血族?
・・・嶋(縞)大臣=蘇我蝦夷
(天智天皇の祖母)・・・?
が死亡
嶋皇祖母命→舒明天皇
(息長足日広額天皇・田村王子)
┣⇒中大兄皇子(天智天皇)
皇極・斉明天皇
「葛城皇子=中大兄皇子=天智天皇」の祖母
飛鳥「嶋」宮に住み
死後
「嶋皇祖母命」と称された
↓↑
「吉備嶋皇祖母命」
(吉備姫王)
皇極天皇・孝徳天皇の母
欽明天皇の皇子
桜井皇子の娘
名 吉備姫王
┣⇒皇極天皇(宝皇女)
茅淳王 ┣⇒中大兄皇子(天智天皇)
舒明天皇(田村王子)
息長足日広額天皇
茅淳王に嫁し
宝皇女(皇極天皇)
軽皇子(孝徳天皇)
を生む
「嶋皇祖母命」とは別人・・・
3年10月 中臣鎌足(鎌子・藤原鎌足)が
智祥を派遣し
郭務悰・・・郭⇔カク
⇔彠=尋
蒦=艹+隻
艹+隹+又
はかる
指で長さを測る
手でとらえる
手に持つ
彠=クワク・ワク・カク・キャク・ヤク
はかる・ものさし・のり
武士彠=則天武后の父・・・
武士彠(ブシヤク・577年~635年)
字 信明
本貫 并州・・・并=併=合わせる・並ぶ
文水県・・文水県
南北朝時代
北魏の「受陽県」が前身
590年(開皇十年)
隋朝により「文水県」と改称
唐代
690年(天授元年)に「武興県」
705年(神龍元年)に再び「文水県」
北緯36度05分
東経111度31分
経歴・履歴
光禄大夫
太原郡公・・・他意現-郡(君阝)公(八ム)?
工部尚書に累進
応( 應)国(圀・國)公・・・
利州都督
荊州都督
歴任
死後
礼部尚書
の位を贈られ
周国公追封
忠孝太皇追尊
諡 定
↓↑
先妻の相里氏
武元慶
武元爽
の二男
↓↑
後妻の楊氏(栄国夫人)
長女は賀蘭越石の夫人 韓国夫人
次女の武照は高宗皇后、則天武后
三女は郭孝慎の夫人・・・郭孝慎
↓↑
兄に武士棱・武士譲・武士逸
武士譲の子として
武懐亮(名は惟良)
武懐道
武懐運(名は弘度)
↓↑
文水県・・・文の粋(いき)を懸ける?
則天武后は「漢字」を操った・・・?
阿倍仲麻呂は「漢字」を操った・・?
吉備真備は「漢字」を操った・・・?
玄昉は「漢字」を操った・・・・・?
昉=日+方=昘・昞
始まる・始める・物事の始まり
明るくなる・太陽が輝き始める
↓↑
「玄昉(げんぼう)」は・・・
養老元年(717年)
遣唐使に学問僧として入唐
新羅船で入唐していた
智達・智通らと同じく
智周に法相を学ぶ
在唐十八年
「玄宗」皇帝
に才能を認められ
三品に準じて
「紫の袈裟」の下賜を受けた
玄昉(げんぼう)
?~天平十八年六月十八日
(746年7月15日)
法相宗の僧・僧正
俗姓は阿刀氏(安斗氏)
安斗阿加布の子
善珠の父・・・
天平九年(737年)
四月~八月
天然痘の流行で
右大臣
藤原武智麻呂
藤原四兄弟
中納言
多治比県守
ら議政官が次々に死去
後の
橘 諸兄政権の
吉備真備(キビのマキビ)らとのブレーン
・・・「記紀」の「巻き備」・・・?
「藤原広嗣が霊の為に(殺)害せらる」?
藤原宮子と密通?
光明皇后と密通?
藤原広嗣に見咎められた・・・?
に品物を与えた
郭務悰と宴会
高麗の大臣
蓋金
死亡
3年12月 郭務悰が帰国
淡海国の報告
3年 対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国に
防人を置く
筑紫に水城を設置
4年2月 間人大后
(孝徳天皇の后・天智天皇の妹)
死亡
百済の官位を調べ・・・
日本の位を授ける
百済の
百姓四百人が
近江国の神前郡に移住
4年3月 間人大后のために330人が出家
百済人に田を与えた
4年8月 城を長門・筑紫に築く
済州島(耽羅王)から使者
4年9月 唐が使者を日本に派遣
4年10月 菟道で検閲
4年11月 唐の
劉徳高と宴会
4年12月 劉徳高に品物を与えた
劉徳高が帰国
小錦守 君 大石を
唐に派遣
5年1月 高麗が
前部能婁を派遣し調を献上
済州島が王子の
姑如を派遣し貢物を献上
5年3月 皇太子(天智天皇)が
佐伯子麻呂連に
病状を尋ねる
5年6月 高麗の
前部能婁が帰国
5年7月 洪水
5年10月 高麗が
乙相奄鄒を派遣し調を献上
5年 都のネズミが近江に向かった
百済の男女二千人を
東国(関東)に移住
倭漢沙門智由が
指南車を献上
6年2月 斉明天皇(皇極天皇)
と
間人皇女
を合葬
大田皇女を近くの墓に埋葬
皇太子(天智天皇)が言うには
「斉明天皇の遺言で
昔ながらの
大きな墓を作らなかった。
永遠にそうしょう」
6年3月 近江に遷都
百姓は遷都を嫌がり、批判
6年6月 葛野郡が
白いツバメを献上
6年7月 済州島が使者を派遣し貢物を献上
6年8月 皇太子が大和の都へ
6年10月 高麗の長男の
男生
が中国へ亡命
6年11月 百済の
劉仁願
が部下を
筑紫都督府⇔唐王朝-筑紫-都督府
に送る
高安城・屋嶋城・金田城を築く
6年
閏11月 椽磨(済州島=唐領)に援助
7年1月 天智天皇が内裏で宴会
伊吉博徳が服命
伊吉 博徳(いき の はかとこ)
官人・氏は「伊岐・壱伎」
名は「博得」とも記録
姓は史~連
7年2月 倭姫王を皇后に
蘇我山田石川麻呂の娘
遠智娘も嫁ぎ
大田皇女
鸕野皇女(持統天皇)
建皇子を産んだ
阿倍倉梯麻呂の娘も嫁ぎ
蘇我赤兄の娘も嫁いだ
伊賀采女宅子娘も嫁いで
大友皇子
を産んだ
7年4月 百済が調を献上
7年5月 天智天皇が蒲生野で猟り
大海人皇子、家臣たちが従った
7年6月 伊勢王とその弟が1日違いで死亡
7年7月 高麗が調を献上
風と波が強くて帰国できなかった
近江国が武を習う
牧場を作り、馬を放つ
越国が
燃える土と燃える水を献上
宴会会場で魚が集まる
蝦夷と宴会
舎人に命じて宴会
その時代の人は
「天皇は
天命を終わらせようとしているのか?」
と
7年9月 新羅が調を献上
中臣鎌足が
新羅の使者に船を与えた
7年10月 唐が高麗を滅ぼす
7年11月 日本は
新羅王に品を与え、部下を派遣
道行が草薙剣を盗んで
新羅に逃げるが
途中で迷う
8年1月 蘇我赤兄を
筑紫率に任命
8年3月 耽羅は王子の
久麻伎を派遣して貢物を献上
耽羅に五穀の種子を与える
8年5月 天智天皇が山科野で猟り
大海人皇子と臣下たちが従った
8年8月 天智天皇が
高安嶺に城を作ろうとしたが
労役が厳しいから止めた
鎌足の家に落雷
8年9月 新羅が使者を派遣して調を献上
8年10月 天智天皇が
病に伏せる中臣鎌足に見舞い
藤原姓を与える
鎌足が死亡
8年12月 大蔵が火災
冬に高安城を造り
田税を徴収
斑鳩寺が火災
河内直鯨を唐に派遣
余自信
鬼室集斯
を近江国蒲生郡に移住
唐が
郭務悰と
2000人を派遣してきた
9年1月 宮で大射の儀式
作法規定
妄言などを禁止
9年2月 戸籍を作る
長門城1
筑紫城2つ
を築く
9年3月 山御井で御幣を捧げた
中臣金連が祝詞をあげた
9年4月 法隆寺に火災
9年5月 奇妙な童謡が歌われる
9年6月 村で
「申の字」が記してある
亀が見つかる。
9年9月 阿曇連頰垂を新羅に派遣
9年 水碓を造って
治鉄
10年1月 賀正の儀式
大友皇子が太政大臣
蘇我赤兄が左大臣
太皇弟が詔して
冠位・法度を施行
大赦
高麗が貢調
百済が表を献上
百済の臣たちに冠位を授ける
童謡が歌われた
10年2月 百済が貢調
10年3月 黄書造本実が
水臬を献上
陸国は中臣部若子を献上
10年4月 漏剋が新台に置かれ
鐘鼓が鳴った
筑紫で八つ足の
鹿が生まれて死んだ
10年5月 天智天皇が
皇太子と臣と宴会
10年6月 百済の使者が軍の要請
百済が貢調
栗隈王を
筑紫率
新羅が貢調
10年7月 唐の
李守真が
百済の使者と帰国
10年8月 高麗の
可婁たちが帰国
蝦夷と宴会
10年9月 天智天皇が病気
10年10月 新羅が貢調
内裏で仏の開眼式
法興寺の仏に宝が奉られる
10年10月 天皇の病気悪化
皇太弟(天武天皇)を呼び出し
後継を求めるが皇太弟は固辞
皇太弟は
皇后(倭姫)か
大友皇子
に譲って欲しいと
出家
吉野へ隠遁
10年11月 対馬から筑紫に
郭務悰ら
2000人が
74隻の船に乗って
朝鮮の
比智嶋に来
来日しようとし
通告していないと
驚いて襲うだろう考え
あらかじめ朝廷に使者を派遣する
との情報
大友皇子は
内裏で
蘇我赤兄たちと
泣いて誓いを立てる
近江宮に火災
大蔵省から出火
天智天皇の前で
蘇我赤兄たちが誓う
新羅が貢物を持って来る
10年12月 天智天皇が崩御
殯
童謡が歌われた
新羅の使者が帰国
讃岐の山田郡で
四つ足の雛が生まれる
8つの鼎が鳴く
ーーーーー
・・・
伊吉 博徳(いき の はかとこ)・・・伊藤博文?
氏は伊岐・壱伎
名は博得とも
姓は史~連
↓↑
中国系渡来氏族
周の第十一代王
宣王の末子
尚父の子孫で
長安人の
楊雍の後裔・・・
壬申の乱で
近江朝廷(大友皇子)で
活躍した
「壱伎 韓国」は同族・・・
↓↑
斉明朝
第四次遣唐使
大使・坂合部 石布
副使・津守 吉祥
使節
斉明天皇五年(659年)
七月
難波の三津浦から出航
八月
筑紫大津浦(博多港)から出帆
九月
百済 南岸の島に到着
大海に出る
坂合部 石布の船は逆風に遭って
南海の「爾加委(喜界島)」という島に漂着
津守吉祥の船のみ
唐の
越州
会稽県
須岸山(舟山群島の須岸島)
を経て
余姚県(浙江省余姚)
に上陸し
閏十月
越州の州庁(浙江省紹興)
に到着
↓↑
駅馬に乗って
長安を経て
月末に
洛陽に入京
唐の皇帝
高宗と謁見
使節は
陸奥の
蝦夷の男女2名を献上
十二月
韓 智興
の従者
西漢 大麻呂(東漢 草足嶋)
による使節に対する讒言があり
韓 智興は
三千里の流刑に処せられ
使節らも同様に流罪と定められた
博徳の奏言によって
赦免された
唐による
百済遠征計画があったため
使節は長安に幽閉
↓↑
斉明天皇六年(660年)
八月
百済が滅亡
使節は幽閉を解かれ
十月
洛陽に入り
十一月
皇帝の慰労を受けて
使節一行は帰国へと出発
斉明天皇七年(661年)
正月
越州(杭州湾南岸)まで戻
四月に帰国のために
越州から出航
十日弱で
耽羅(済州島)
に至り
五月
耽羅国の王子
阿波伎
らを伴って日本に帰国
筑紫
朝倉宮に滞在していた
斉明天皇
中大兄皇子
に報告
白雉四年(653年)
第二次遣唐使で
唐に渡った学問僧ら
定恵
氷老人
など)の消息も伝えた
↓↑
天智天皇三年(664年)
百済にあった唐の
鎮将
劉仁願
が
郭務悰
を日本に派遣
博徳は
津守吉祥らとともに
筑紫大宰にて応接にあたったが
唐の皇帝からの正式な使節ではなく
百済の鎮将の私使であったため
使節団に入京を許さなかった・・・
天智天皇六年(667年)
十一月
劉仁願
による再度の遣使として来日した
司馬 法聡
が帰国する際
博徳は送使を務め
天智天皇七年(668年)正月
帰朝し復命
↓↑
天武天皇十二年(683年)
史姓から連姓に改姓
朱鳥元年(686年)
大津皇子の謀叛事件に連座し
八口音橿・・・八の口の音の橿?
らとともに捕縛され
大津皇子
に欺かれたとして罰を許された
持統天皇九年(695年)
遣
新羅使の副使に任ぜられ
正使
小野毛野
とともに
新羅に渡った
↓↑
文武天皇四年(700年)
刑部親王
藤原不比等
らとともに
律令の編纂を命ぜられる
(冠位は直広肆)
大宝元年(701年)
大宝律令が制定・施行
従五位下
大宝三年(703年)
律令選定の功労により
賜田十町・封戸五十戸
を与えられ
賜田は子の代まで許された
後
位階は従五位上
↓↑
『伊吉博徳書』
『伊吉博徳書』
伊吉博徳が
第四次遣唐使に随行した際の紀行記録
成立年代は
天武天皇十二年(683年)前後
or
持統天皇四年(690年)~九年(695年)・・・
『日本書紀』
白雉五年(654年)二月条
斉明天皇五年(659年)七月条
斉明天皇六年(660年)七月条
斉明天皇七年(661年)五月条
にこの記録が引用
ーーーーー
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