気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

カッコイイ ・・・ キセル

2010-07-16 18:32:33 | Weblog
「カッコイイ」という言葉が生まれてから

  もうどれくらいなりますか?


時代相を端的に表現した

  うすっぺらな流行語であるといえます。


表面だけの姿を

  末梢的な感覚で評価する形容詞で

これが広く使われるのに並行して

心の「カッコヨサ」を求める態度は うすれ 消えゆく一方です。


  キセルさえ心のヤニを掃除せず

      ガン首ばかり磨く世の人


金属製のガン首は

外に出ていて人に見えるし 磨けばすぐにピカピカ光ります。

だから人は これを磨くことは怠りません。

だが 中のヤニを掃除することは

見えないところだけに 怠りがちになります。


真に大切なのは こちらのほうでこそあろうに ・・・


キセルを扱うのと同じように 人は自分自身を扱っています。

そういう人が多いです。


表面だけを飾り 磨いて

  心のヤニを掃除しようとはしません。

これでは 汚いヤニがたまる一方ですが ・・・ 。










欲がつもれば道を忘れる

2010-07-16 16:58:00 | Weblog
このごろの世相を見ていますと

欲ゆえに道を忘れた行いがふえる一方であるように見えてなりません。


企業エゴはつのる一方です。


企業エゴよりももっと元に 政治家や政党のエゴがあります。


明治のころには

「政治家になることは私財を失うこと」だったそうですが

当節は 政治をやると財がふえるらしい。


だからこそ

議席をうるために あのような大金(資本!)を投じ

  選挙違反を堂々とおかす勇気(?)をもっている ・・・ のです。


  欲ふかき人の心と降る雪は

       つもるにつれて道を忘れる


「欲がつもれば道を忘れる」 ・・・ ということですね。

    まことに ・・・ 嘆かわしい限りです。





迷信・占い・パワースポット ・・・ 4.錯誤

2010-07-16 11:56:57 | Weblog
「超常現象」の主張は

しばしば個人的な体験に基づいており

同一条件でその不思議現象を再現してみることが

・・・ 不可能な場合が多いです。


「超能力者」や「霊能者」は

懐疑的な人間が居合わせることを好まないケースが

・・・ 多いです。

そして きまって

「懐疑的な人いると

その人の心の影が反映されて超能力現象が起こらなくなる」

・・・ と おっしゃいます。


多くの場合

そのような現象を目の前で見たり聞いたりした人は

しばしば

自分の感覚器官でとらえた「事実認識」を絶対化し

厳密な検証もなしに

その命題が「真」である ・・・ と 信じ込みます。


「自己の体験」を

   疑う余地のないものとして ・・・ 絶対化します。


経験を絶対化し 理論的整合性を軽視することの危険性は

   古くから指摘されているのですが ・・・

「この目で見た」「この耳で聞いた」

・・・ という体験がもつ説得力は大きいですね。


感覚器官は不完全なものであり

感覚器官を通しての認知は錯覚に陥りやすいものだということを

人々はなかなか認めようとせず ・・・

自分の体験に対する非常に強い執着性を示します。


「感覚器官は錯誤に陥りやすいものだ」ということを知り

「オレがこの目で見たのだから確かだ」などという

   過信に陥らぬように ・・・ こころがけたいものです。


そのためには

手品で どんなに不思議な現象をつくり出すことができるか

・・・ よくよく味わってみてくださいな。







迷信・占い・パワースポット ・・・ 3.慨嘆

2010-07-16 05:45:01 | Weblog
浄土真宗の開祖である親鸞は 今から700年以上も前に

占いや迷信の類に惑わされている世の人々の姿を慨嘆して

つぎのように述べています ・・・



「悲しきかな道俗の 良時吉日選ばしめ

  天神地祗を崇(あが)めつつ 卜占祭祀勤めとす」


「五濁(ごじょく)増のしるしには この世の世俗ことごとく

  外儀(げぎ)は仏教の姿にて 内心外道を帰敬せり」



悲しいことだなぁ

坊主といわず 一般の人々といわず

  この日は縁起がいいとか悪いとか言っては

天におわします神様 地に宿る神様を崇め奉って

  占や祭祀に血道をあげている。

これは仏の姿をとった邪道である。


・・・ と まあこんなところでしょうか。



和尚が死んで700年以上が経っても

  迷信だけはちゃんと生き残っています。


さあ どうします ?