気まぐれ翻訳帖

ネットでみつけた興味深い文章を翻訳、紹介します。内容はメディア、ジャーナリズム、政治、経済、ユーモアエッセイなど。

チョムスキー氏語る・6-----新しいシステムの構築に向けて

2016年05月21日 | 経済

久しぶりにチョムスキー氏に対するインタビューを訳出します。

聞き手は『ネクスト・システム・プロジェクト』。

このプロジェクトは、メリーランド大学の学生たちが中心になって推進しているもので、経済的格差の拡大や政治的閉塞状態、環境破壊などの諸問題をかかえる現在の世の中の在り方に疑問を持ち、それに代わる新しい体制・システムの構築を模索、探求する取組みであるらしい。

チョムスキー氏は、このプロジェクトの賛同者のひとりです。


原文のタイトルは、
Organizing for a next system
(新しいシステムの構築に向けて)

原文は、例によって、オンライン・マガジン『ZNet』(Zネット)誌から↓
https://zcomm.org/znetarticle/organizing-for-a-next-system/


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Organizing for a next system
新しいシステムの構築に向けて


By Noam Chomsky
ノーム・チョムスキー

初出: 『ネクスト・システム・プロジェクト』

2016年3月30日

哲学者であり言語学者であり社会評論家でもあるノーム・チョムスキー氏は、最近、みずからの学生運動の経験、および、公正な社会に向けての展望について語った。このインタビューは、目下、全米で実施されている『ネクスト・システム・プロジェクト』の野心的な討論会にはずみをつけることを企図してのもの。同氏は、このプロジェクトの趣旨に早くから賛同者として名を連ねていた。今回の語りの中で、チョムスキー氏は、文化、大衆運動、経済上の新機軸の相互の結びつきについて探った。そして、これらが「お互いを強化し合う」ことによって、新しいシステムが予想外に早くもたらされる可能性を示唆した。


『ネクスト・システム・プロジェクト』
私たち、『ネクスト・システム・プロジェクト』は現在、全米各地の大学で討論会を開催しています。大学構内で、このように深い、批判的な問いを発する取組みについては、いかがお考えでしょうか。このような取組みは、われわれの社会を変える一要素となり得るでしょうか。

チョムスキー
私にできるのは、自分の個人的な経験をいくらか伝えることぐらいです。私はMIT(注: マサチューセッツ工科大学)に勤めていました。今もそうです。65年になります。勤め始めた当初、キャンパスは非常に静かで、平穏でした。学生たちは皆、白人男性で、こぎれいな身なりをし、物腰がやわらかく、宿題はきちんとこなすといった具合でした。1960年代を通じてほぼずっとそんな風でした。大学のキャンパスがどこも騒然としていたあの時代でもです。運動に参加していた学生も一部はいました。が、多くはなかった。教員の側には平和と公正を求める運動に従事する人間もいましたが、学生の側では、それほどたくさんの人間は参加していませんでした。

実際の話、MITのキャンパスがあまりに平穏なので、1968年にジョンソン政権がベトナムからの静かな撤退を模索していた時、彼らは学生たちと和解ができるだろうと思っていました。彼らは、考えられる中での最悪の人物を選んで、あちこちの大学に派遣することにしました。元ハーバード大学教養学部長のマクジョージ・バンディ氏です。彼なら学生たちとうまく対話できると思われたのです。彼がいろいろなキャンパスを訪れて学生たちに声をかける。そうすれば、われわれはみんな友だちになれる。こう考えて、彼らはまず成功確実なキャンパスを探りました。MITは、このリストの2番目にありました。ですが、彼らはヘマをしました。結局のところ、事態はこう展開しました。大学構内で活発に運動を組織していた何人かの学生がいて、バンディ氏が登場すると、怒った学生たちが彼を取り囲み、同氏のかかわっていた数々の恐るべき事態を説明し、正当性を示すよう要求したのです。そして、究極的には、これが元で、この企画は打ち切りになりました。

この時までは、さまざまな問題-----現在でもなお解決していません-----に関して、大学構内を実質的に組織化することに成功していた学生というのは本当にわずかでした。ベトナム戦争や人種差別、女性解放運動の勃興、これらの問題はこの時代に火がついたのです。実際、数年のうちにMITはたぶん国内で指折りの活発で過激なキャンパスになりました。運動を展開していたグループのリーダーのひとり、マイケル・アルバート(下の注を参照)は、生徒会の会長に選出されました。彼の見解はまことに過激で、ほとんど信じられないぐらいでした。その詳細については今は触れませんが、これらは大きな変化でした。大学の気風や関係者たちに強い衝撃をあたえたのです。

(注: マイケル・アルバート氏は米国の著名な社会活動家で、本インタビューを掲載しているこの『Znet』(『Zネット』誌)の主宰者です)

テクノロジーの開発において倫理的な要素が初めて問題となり、まじめな議論の対象となり始めました。それは現在までずっと続いています。実際、ほんの数分前に、私は実にいろいろな問題をめぐって学生たちと『レディット』式のやり取りをしました(下の注を参照)。彼らはあらゆるタイプの問題を持ち出しました。こんなことは、1960年代前半だったら、まったく考えられないことだったでしょう。しかも、全米のキャンパスで似たようなことが起っているのです。これは大きな影響をもたらしました。大学の風土を変えたのです。地域社会を変えたのです。
近年の事態の展開をふり返ってみると、経済や政治の問題に関しては、大幅な後退がありました。ですが、文化や社会の問題となると、非常な進展が見られます。社会の階級的な性質や基本的な体制は変化しなかったどころではありません-----より悪化しています。しかし、他の点では数々の大きな変化があり、そして、その意義は決して小さくありません。女性の権利や公民権に対する態度、武力攻撃に対する反対、環境への関心-----これらが変化したものの代表例です。学生たちの活動はこれまでずっとすこぶる重要な働きを演じて来ました。そして、これからもそうあり続けるでしょう。

(注: 『レディット』は英語圏の代表的なソーシャル・ニュース・サイトかつ一種の電子掲示板。ここでは、掲示板でお互いが自由な書き込みをして、活発な意見交換をすることを指していると思われます)

それには理由があります。アメリカだけにとどまりません-----歴史をふり返ってみれば。学生というのは一般に人生の中でもっとも自由な境遇にあるからです。親の監視の目から離れています。しばしばひどく制約的な環境の下で、テーブルに食べ物を用意しないといけないような重荷に、彼らはまだ苦しめられてはいません。思うがままに探求し、創造し、発明し、行動し、組織化を図ることができます。長年にわたって学生運動は、大きな変化をもたらすこと、それを誘発することにきわめて重要な役割をはたして来ました。この事情が変わるとはとても思えません。

『ネクスト・システム・プロジェクト』
私たちの社会の政治構造、経済構造の劣化について、目下、つっ込んだ議論をすることが価値があるとお考えになる理由は何でしょう。また、その議論によって、私たちはどこにたどり着くのでしょう。

チョムスキー
もう少し長いスパンでふり返ってみましょう。1930年代の大恐慌は、今日の状況と比べてみれば、重要な点で、ひどく様相を異にしていました。私は年寄りですから、当時のことは少しばかり憶えています。客観的に言えば、あの時は今よりずっと状況が深刻でした。実に厳しかった。でも、主観的には、はるかにましでした。大家族であった私の家や親族にとっては、希望に満ちた時代でした。私たちはたいてい労働者階級に属し、職をうしなっていました。教育はほとんど受けていなかった。高校さえ出ていないことも珍しくなかった。ですが、みんな元気で、まめで、希望にあふれていました。労働運動も過激でした。CIO(注: 産業別労働組合会議)は草創期に力で押しつぶされました。が、1930年代の半ばには、きわめて大きな存在となりつつありました。組織化されたのです。座り込みストライキは、生産性の高い組織を資本家が支配することをむずかしくしていました。労働者側もそれを認識していました。政府も比較的労働者に理解があった。また、各政党もさまざまな形で機能していましたし、それとは別に、労働組合が、本来の組合活動のほかに連帯、相互支援、文化交流、等々の例を提供してくれました。当時のこのような在り方が人々に希望をあたえたのです。たとえどんなに今がひどいものであっても、遠からずこんな状況から抜け出せる、と。

大きな前進があったのです。ニューディール政策の恩恵も小さくはなかった。たくさんの問題点もありましたが、益するところは甚大でした。しかし1930年代の後半になると、もう反動が生じ始めました。物事を差配するのがあたり前であった経営者層からの反撃です。それは、第二次大戦の間は休止状態にあったのですが、戦争が終ると本腰を入れて対応が始まりました。大恐慌と第二次大戦の間に育まれていた一種の過激な民主主義を押し戻すべく、大きな動きがありました。アメリカだけでなく世界中で、です。それは今現在に至るまで続いています。

1960年代には労働運動がさかんでしたが、それが懸念と反動をまねくことになったのです。それは1970年代に-----とりわけレーガン政権下で-----急激に高まり、そのまま現在に至っています。懸念と反動は新自由主義的な施策をまねき寄せました。この施策は、たとえ形態は異なっていても、世界中、採用した国はどこであれ、国民にとっては大災厄に等しいものとなりました。アメリカが好例ですが、この施策が成し遂げたのは、国民の大多数に対する福祉と各種の選択肢を削減することでした。そして、民主主義の機能を衰退させました。世界のどこを見渡しても、この事情は同じです。たとえば、男性の実質賃金です。それは、1960年代のそれとほとんど変わりがありません。経済は確かに成長しました-----以前ほど力強いというわけではありませんが、一応それなりに。しかし、その恩恵はごく一部の人間のポケットに収まっただけです。

たとえば、ついこの間の不況、2008年から、おそらく成長の90パーセントは、国民全体のうちの約1パーセントの人々の手に渡っただけです。政治の体制が本当の意味で一般国民の要求に応えるものであったためしは決してありません。ですが、今では、それどころか、実質的にプルトクラシー(注: 富裕者支配政治)の領域に達しています。もし皆さんが学術上の文献、政治学の文献をご覧になったら、国民の約70パーセントがその意見を反映されていないことを示す研究にぶつかるでしょう。国民によって選ばれた人間が国民の意見など意に介していないのです。

数年前にこういう指摘がなされました。アメリカの、「棄権する」人々-----投票しない人々-----の分析がおこなわれたところ、これらの人々の社会・経済的な輪郭は、似たような社会、たとえば、ヨーロッパの国々の、労働者指向もしくは社会民主主義の党に投票する人々のそれとほぼ重なる、と。しかし、このような党はアメリカには存在しません。米国民にあたえられているのは地理に基づいた党、つまり、直接の淵源が南北戦争に由来するものです。いずれも産業界が主導する党であり、階級に根を置く党ではありません。
この事情は現在、ずっと深刻になっています。それは、憤りを蔵し、疎外された人々を生み出す危険な可能性を増大させてきました。1930年代とはまったく違います。あの当時は希望があふれていました。今、希望や連帯は孤立、憤り、恐れ、憎悪にとって代わられています。これらは扇動家のかっこうのエサです。ちょうど今、私たちがテレビでひっきりなしに目にしているように(下の注を参照)。危険な状況ですが対抗する術がないわけではありません。学生はそれができる実に好適な位置を占めています。また、彼らは、根本的な体制-----米国の経済的および政治的体制(この2つには密接な関係があります)-----について深く考究することもできます。

(注: もちろん、目下、大統領候補としてドナルド・トランプ氏がたびたびテレビに登場していることを指します)

これと関連して、見過ごすことのできない大きな脅威があります。人類は目下、各種の決断をくだすよう迫られています-----それによって、人類のまっとうな存続がはたして可能であるかどうかが決まります。環境に関連する破局-----戦争、あるいは感染症などの世界的流行を含めて-----は、きわめて深刻な問題であり、これらへの対応は、現在の体制の枠内では困難です。このことは既知の事実と言っていいでしょう。真の意味で大きな変革がなければなりません。そして、このような変革を導入、推進できるのは、これまた真の意味で有効な、一般市民による運動だけです。それはまさしく1930年代に起ったことです。

『ネクスト・システム・プロジェクト』
最近18才から26才の若者を対象にアンケートがおこなわれましたが、それによると、社会主義が「人々にもっとも配慮のある政治体制」であると答えた者が58パーセントに上りました。また、共産主義を挙げた者は6パーセントでした。今の若い世代では、社会主義に対する関心が大きなうねりとなっているように思えます。現時点では、まだ始まったばかりの動きのようですが。
共同体、持続可能性、平和、等を構築する体制を整えるためには、今、この時点で、所有権、経営権、制度設計の原理などにかかわる問題を考究すべきでしょうか。それとも、一般市民による強力な政治的取組みは目下のところ望み薄なので、そのような考究は机上の空論に近いものでしょうか。

チョムスキー
どのぐらい望み薄なのか、正直のところ、私にはわかりません。ですが、ここで、つい最近の景気後退の際の事情を取り上げてみましょう。その帰結のひとつは、政府が実質的に自動車産業を肩代わりしたということです。
その前にいくつかの選択肢がありました。
ひとつのやり方は、実際に採られたもの-----国民の税金を使い、経営者や重役連を救済し、体制を旧来のものに戻すやり方です。名前は新しくなるかもしれませんが、本質的には同じ組織構造であり、経営陣らに以前と同じこと-----つまり、自動車の製造-----を続けさせる。これがひとつのやり方でした。実際に用いられたやり方です。
これとは別の行き方もありました。システムを労働者に引き渡して民主的な管理・運営をおこない、生産を地域社会の要求にかなうよう再編するやり方です。
私たちにはこれ以上自動車は必要ありません。必要なのは効率的な公共交通機関です。その理由はいろいろあります。北京からカザフスタンに行く場合に、皆さんは高速列車が利用できます。ところが、ボストンからニューヨークに向かう高速列車はありません。インフラが崩壊しつつあります。それは環境に甚大な影響をおよぼします。皆さんの人生の半分は、交通渋滞の中で費やされるということになります。これは市場経済に内在的なものです。市場は消費財に関しては選択肢を提供します-----たとえば、フォードの自動車だとかトヨタの自動車だとか。ところが、自動車かそれともりっぱな公共交通機関かという選択はありません。

上述の選択には、地域社会、連帯、大衆民主主義、市民組織、等々の要素がかかわってきます。ほんの数年前までは、一般公衆のさまざまな勢力がかかわった選択でした。このような選択は、既存の体制にとって代わることのできるものだと思います。そうした展開は実際に起きました。まさにこの近隣で-----私の住むボストン郊外で-----です。
航空機その他の部品を製造している、非常にうまくいっている工場がありました。ところが、所有者である多国籍企業は、収益がもの足りないと判断し、操業を停止する決定をくだしました。進取的な組合は工場の買取りを提案しました。それは悪くない取り引きだったと思います。ですが、会社側は-----主におそらく階級的利益の観点から-----この申し出を却下しました。この地域で、一般市民からの支援がもしあったら、従業員の方々は工場の運営をそのまま引き継ぎ、労働者が所有・経営する事業体としてうまくやっていけたのではないかと私は考えます。
このようなやり方が普及する可能性があります。

私の感覚では、その可能性は十分にあります。これらの行き方の大半は、人々の無意識界のごく浅いところにたたずんでいると思います。これを引き上げねばなりません。ちなみに、この事情は他の多くの問題にも当てはまります。政治・経済のシステムが一般国民の意見にどんなに無頓着か、これを肝に銘じることが大事です。この無頓着さは昔から変わりがありません。
たとえば、バーニー・サンダース氏をめぐってもそうでした。同氏の考え方は過激であり、極論であると見なされています。ところが、実際にきちんと当たってみると、その意見は、長い間国民の意思であったものにほぼ添っています。たとえば、公的医療保険制度です(下の注を参照)。今現在、米国民のおよそ60パーセントがこれを支持しています。ところが、誰もこの制度のために声を上げない。いつも悪く言われるのです。実に驚くべきことです。ふり返ってみれば、昔からこうだったことがわかります。レーガン政権の後期に、国民の約70パーセントが合衆国憲法にこの公的医療保険の定めがあるべきだと考えていました。自然権(下の注を参照)として、です。実際のところ、ほぼ40パーセントの国民が、憲法にすでにその定めがあると思い込んでいました。

(注: ここでの「公的医療保険制度」は、「(国民全員が公的医療保険で保証される)国民皆保険制度」という意味で使用されています。アメリカには、日本のような公的な国民皆保険制度がありません。私企業の提供する保険サービスが主体です。医療保険サービスを受ける権利が基本的な人権として憲法によって規定、保障されてはいません)

(注: 自然権とは、「自然法に基づいて、人間が生まれながらにして持つ権利」(オンライン辞書『英辞朗』)です)

昔から今に至るまで、ずっとこんな具合でした。政治的に不可能だと言われるのです。要するに、金融機関と製薬会社がそれを受け入れようとしない、と。このことは、社会について、けっこうなことを教えてくれます-----国民の意思については聞くまでもありません。他の事柄についても同様です。学費の無料化、富裕層に対する税率引き上げ、などなど、これらは皆、国民が昔から一貫して望んできたことでした。しかし、政策は反対の方向に進みました。もし一般国民の意見が組織化、動員され、さまざまな団体が相互に連携、連帯すれば-----たとえば、組合のように-----、意識界の底面のすぐ下にあるものが生き生きと動き出し、やがてはそれが政策に結実するかもしれません。

『ネクスト・システム・プロジェクト』
経済における所有権や民主制の問題にきちんと対応することのできる原理もしくはモデルなどに関して、どのような見通しをお持ちでしょうか。労働者を主体としたものでしょうか、あるいは、地域社会に根ざしたものでしょうか。経済は「補完性の原理」(下の注を参照)に基づけばうまく立ち行くのでしょうか。規模の大きい産業についてはどうお考えでしょう。国レベルの戦略を策定するにあたって、さまざまな制度が内包する準則、相反する利害、目標などをどのように均衡させればよいのでしょう。

(注: 決定や自治などをできるかぎり小さい単位でおこない、できないことのみをより大きな単位の団体で補完していくという概念。(中略)補完性原理というのは、基本的には個人や小規模グループのできないことだけを政府がカバーするという考え方である。この考えの基本には「個人の尊厳」があり、国家や政府が個人に奉仕するという考え方がある。補完性原理は個人および個人からなる小グループ(家族、教会、ボランティアグループ)のイニシアティブを重視する。(オンライン辞典『ウィキペディア』より))

チョムスキー
そのような取組みはすべて、並行してのみならず、相互に関連させながら追求するべきでしょう。それによって相乗効果が生じますから。
たとえば、労働者が所有・運営する生産設備が、妥当な予算を有し、民主制がきちんと機能している地域に存在した場合、これらはお互いを支え合いますし、このような例が伝播する可能性があります。それも、めざましいスピードで伝播するかもしれません。今、私が挙げたボストン郊外のような事例が全米各地で発生するかもしれません。このような試みについては、デビッド・エラーマン氏を初めとする人々が長年、探求しています。
皆さんはしょっちゅう出会います-----多国籍企業が、収益を上げている子会社を操業停止にするという例に。その収益は、会社の総収支から見れば、不十分というわけです。しかし、従業員にとっては不満のない仕事場です。このような場合、しばしば、従業員側が会社を買い取り、事業を継続しようとします。ところが、会社側は、おうおうにしてその申し出を拒絶してしまう。単に会社をたたむより利益が得られるのに。それにはちゃんとした理由があるのでしょう。彼らはこのような例がさかんになると考えているのです。うまくいった例があると、当然、追随する者が出てきます。

実は、世界を見渡せば、かなりうまくいっている例があるのです。たとえば、モンドラゴン協同組合のような。決して完璧というわけではありませんが、ここアメリカで、育み、普及させることのできそうなモデルです。一般の人々に受け入れられる魅力があると思います。
ここでちょっと賃金労働について考えてみましょう。たぶん思い起こすのは非常にむずかしいでしょうが、産業革命の初期に、すなわち、19世紀後半にまでさかのぼってみてください。その当時は、賃金労働は結局、奴隷と変わりがないと見なされていました。唯一の違いと言えば、賃金労働は永続的な状態ではないとされていたことだけです。当時の共和党のスローガンには、この賃金労働に関連した表現が用いられました-----すなわち『賃金奴隷状態への反対』です。一体どういうわけで、命令を発する人間がいて、一方にそれを受ける人間がいるなどということになるのでしょうか。それは、要するに、主人と奴隷の関係にほかなりません。たとえ、それが永続的なものではないとしても。

19世紀後半の労働運動をふり返ってみれば、その当時は、労働者所有もしくは労働者主宰のメディアが数多く存在していたことに気づくでしょう。労働者自身が記事を書く新聞が各地にありました。それらの多くは女性たち-----織物工場で働く「ファクトリー・ガール」と呼ばれた女性たち-----が発行していました。賃金労働に対する批判は定番のお題でした。「工場で働く人間が工場を所有すべき」というのが合言葉でした。彼らは、社会の強引な産業化が促進する文化の衰退と劣化に声を上げました。そして、過激な農民運動と連携を図るようになりました。当時の米国はなお農業社会と言ってよかった。農夫たちの集団は、北東部の銀行家や商人たちを排除して自分たちの手で農地を差配したかった。民主主義的な潮流が実に勢いを増した時代でした。労働者が宰領する町もありました-----代表的な工業中心地であるペンシルバニア州のホームステッドのような。これらの多くは力でつぶされました。しかし、くり返し言わせていただきますが、このような民主的な欲求は、表面にごく近いところにたたずんでいて、すぐにでも頭をあらわす可能性を持っています。

『ネクスト・システム・プロジェクト』
あなたの主要な関心事のひとつは帝国主義でした。軍国主義や帝国主義に向かわないような社会の内的特質を生き生きと育む設計原理はどのようなものでしょうか。私たちの地域社会、経済、国内政治に恩恵をもたらす体制的な特性はいかなるものでしょうか。

チョムスキー
くり返しになりますが、基本的には、やはり連帯ということに落ち着くと思います。この場合は国を超えた連帯ですね。具体的な例を挙げてみましょう。「移民危機」と呼ばれている現象があります。中米やメキシコの人々、これらの国の人々がアメリカに逃げてきています。なぜでしょう。われわれが彼らの社会を破壊したからです。彼らはアメリカに住みたがっているわけではありません。故国で暮したいのです。私たちは彼らと連帯して行動すべきです。まずはこれらの人々がアメリカにとどまることをはっきりと許すべきです-----もし、それが、私たち米国民の押しつけた状況から彼らが逃れる術のひとつであるならば。そしてまた、彼ら自身の社会を再構築することを手助けすべきです。
ヨーロッパについても同様です。ヨーロッパには、アフリカから人々が押し寄せています。なぜでしょうか。それを説明するには、数世紀分の歴史をふり返らなければなりません。ヨーロッパの人々には責任があります-----これらの人々を受け入れ、融合を図る、そして、ヨーロッパが破壊した社会、ヨーロッパの富の礎石となっている社会を建て直すのに手を貸すという責任が。

同じ事情は米国自体にも当てはまります。米国自身の富やめぐまれた境遇を考えてみてください。それはかなりの程度、奴隷制に由来しています。歴史上、もっとも過酷、残虐な奴隷制に、です。綿花は「19世紀の石油」でした。綿花こそは、初期の産業革命の動力源でした。そして、アメリカやイギリスなどの国々の富とゆたかな境遇は、アメリカの奴隷たちの、この悲惨な強制労働にきわめて多くを負っています。奴隷たちは、商品製造の生産性を高めるべく、苛烈な拷問を受けました。製造業者はそれによって裕福になりました。当時の主要な製造工場は、その発端が織物工場でした。織物商人とその商取引が米国の金融システムの発展に一役買いました。その影響は今日でも完全には消滅していません。以上は、米国内の問題ですが、それは帝国主義的侵略や破壊と同じ性格を有しています。

たとえば、アフリカです。19世紀後半、西アフリカの一部は日本とほぼ同じような状態でした。しかし、違いがひとつありました。日本は植民地にはならなかったのです。ですから、産業社会のモデルに従って、自身が産業社会の代表的な存在となることができました。西アフリカの場合は、帝国主義的な侵略によって、この行き方が封じられました。
考えてみれば不思議なことに思えるかもしれませんが、たとえば、1820年にさかのぼってみれば、その当時のエジプトとアメリカはきわめて似たような境遇にありました。両国ともゆたかな農業国でした。綿花にめぐまれていました。当時の決定的に重要な資源です。エジプトは成長・富国路線の政府を戴いていました。当時のアメリカのハミルトンを中心とした政治体制と非常に似ています。どちらも新興国です。ただ、違いは、アメリカは帝国主義的支配から脱したことです。エジプトはそれができなかった。イギリスは明確に意思表示していました、地中海東部に独立的な競争国の存在を許すつもりはみじんもない、と。やがて時が経ち、エジプトはエジプトになりました。アメリカはアメリカになりました。現代史の多くはこんな調子です。すべてではありませんが、きわめて多くが、です。

以上の事情は、私たちがきちんと思いをはせるべき事柄です。

帝国主義者の犯罪に対しては、これらの事実を認識すること、それに対する償いをすること、そして、被害者の側と連帯することで応じなければなりません。また、このことは遠い過去の話にとどまりません。ヨーロッパの目下の難民危機を見てください。アフガニスタンやイラクの人々がギリシアの収容所で悲惨な拘禁状態に置かれています。なぜアフガニスタン、イラクの人々なのでしょう。アフガニスタンやイラクで何が起ったのでしょう。
(末尾の注を参照)

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[その他の追加的訳注、補足情報、余談など]

■末尾の文章の

「~。なぜアフガニスタン、イラクの人々なのでしょう。アフガニスタンやイラクで何が起ったのでしょう」

は、チョムスキー氏のいつもの反語、皮肉的表現です。
言葉を補えば、

「~アフガニスタンやイラクで何が起ったのでしょう。むろん、私たち米国民の名の下に、米国政府がこのような事態を生み出したのです」

とでもなるでしょう。


■余談ですが、聞き手の側の『ネクスト・システム・プロジェクト』の質問は、抽象的な言い回しが多く、表現がやや生硬です。しかも、チョムスキー氏に対して一度に複数の問いを投げかけたりしています。
これは、いかにも若者らしい理論先行をあらわしていると同時に、彼らのこのプロジェクトに対する思い入れの深さ、気負いを示すものでしょう。
それに対して、チョムスキー氏は長年の信念と戦略を丁寧に語っていますが、これはひょっとして聞き手の若者たちにとっては、肩すかし、期待はずれに思えたかもしれません。
しかし、チョムスキー氏の言には、自身の経験に裏打ちされた確信と楽天性がうかがえ、平易でありながらも、それなりの力をそなえて読む者にせまってくる-----そう、私には感じられます。読者はいかがでしょうか。


■チョムスキー氏はインタビューの最後の方で、現在の諸問題をもたらしたのは西欧の過去の植民地主義であったことを指摘しています。
以前訳出した文章にも同様のテーマで語っています。こちらもぜひ一読を。

チョムスキー氏語る-----思い出、国境、人類の共有財産
http://blog.goo.ne.jp/kimahon/e/f864b77fb9c6f848477645fec54edc82


[さらにくわしく探求したい方のために]

■『ネクスト・システム・プロジェクト』は、新しい体制・システムの構築をめざす取組みであると述べましたが、このブログの以前の回でも、これに類するテーマの文章を訳出しました。こちらもぜひ参考に。

・資本主義に代わるシステム
http://cocologshu.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-8fa6.html

・経済の新潮流(とそれを取り上げようとしない大手メディア)
http://blog.goo.ne.jp/kimahon/e/cea48835b8497cc7c3a0b4d98ef9669e


■文中に名前の出たデビッド・エラーマン氏などの人々の考え方については、以下のサイトが参考になります。

・A.4 アナキズムの主な思想家は誰か? - ZAQ
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/jandy/anarchism_faq_a_4.htm


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