浜黒崎村
浜黒崎村は、1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴いそれまでの上新川郡浜黒崎村、高来村、針原横越村、
平榎村、町田村、日方江村、日影村、針木村を総合して誕生し、1940年(昭和15年)9月1日に冨山市に統合された
上新川郡の村であって、現在の浜黒崎小学校、即ち 冨山市浜黒崎、横越、平榎、高来、野田、日方江、針日、古志町
の区域に相当する。
浜黒崎という地名は、本村の海岸には、常願寺川上流に火山たる立山のあるため磁鉄鉱の多くそのため、浜が黒くなって
見えたことが由来であるという。
西側には、大広田村との境界にである村川が流れ、日方江には轡田豊後守の大村城の出城と伝えられる日方江城の遺構
や、上杉謙信が大村城攻略の際の陣地となすために築いたとされる「そうけ塚」が残る。




富山湾に面する北方の海岸には、越中舞子とも称される「古志の松原」を配置しており、並木の内には、親鸞の
腰掛けと伝えられる「親鸞上人腰掛けの松」や、慶長6年、加賀藩主前田利長が命じて植えた松が残っており、中
には、樹齢周囲6尺以上丈に達するのもあって、白砂青松の海浜には 日本の白砂青松100選の一つに選ばれ
ており、ここよりの眺める立山の姿を賞して冨山市より”立山をあおぐ特等席”に指定されている。






松並木植樹の理由には、参勤交代の折りに、積雪時の目印になすため、また、街道の美観を思ってのことで
あると言われており、松並木は、保安林のためとも言われている。
大村には、もと、東岩瀬町の地名である大村の古称であったが、後世に至って針木や日方江など4つ村がこれより
村立される際に、その親村という意味で「大村」と名付けたのだという。


岩瀬方面から浜黒崎方面の現在。

1906年( 明治39年)12月
鉄道作業局より、富山線敷設のため、浜黒崎村に、土地収用法適用を内閣に申請、西園寺公房内閣総理大臣
はこれを許可する。
現在のJR線


1914年(大正3年) 8月
県内大洪水。死者194名。負傷者33名。家屋884戸流出。北陸本線常願寺川橋梁上を走行中の
8月13日上野発富山行列車が立ち往生し、東岩瀬駅より応援列車を派遣するも転覆、重傷者1名。
1926年(大正15年) 7月
浜黒崎海水浴場が人気を集めていたため、かねて金沢運輸局に出願していた北陸本線の臨時停車場
設置が許可され、浜黒崎仮停車場を開設。
1932年(昭和7年)4月
満州事変以来の愛国的風潮の高揚により、県民の自主的募金によって制作された「立山号」が浜黒崎村に
着陸。
7月
南弘大臣が飛行場候補として浜黒崎競馬場の視察を行うが、11月に誘致合戦の末、飛行場建設地は
婦中町倉垣村に決定した。


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