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日々のつぶやき

人生半ばを過ぎた中年男のつぶやきです。。。

晴天の霹靂・・・来るべきものが来た?

2015年02月28日 | 生き方
転職して一年半近く経過。。。海外赴任がしばらくないものだと思い始めていたら。。。先日、4月より海外赴任という内示が出た。勝手知ったるタイではなく行ったこともない国。今から忙しくなるので、あまりブログに書き込むことができなくなるかも。

赴任して落ち着いたら、「〇〇だより」の様な文章でも書こうか?(そんな暇があるのか?)

若い男性の海外に出たがらない傾向について

2014年12月14日 | 生き方
今日の日本経済新聞を読んでいて、20-24歳の日本人男性の14%しか海外に出かけていない、という記事を読んだ。また、海外に興味が無くなっている、という内容だった。

本当なのかどうか、一概に言えない様な気がする。

私自身、田舎で、家も裕福ではなかったので、高校を卒業するまではほとんど田舎の実家で過ごした。遊びに行くのは山や川、田んぼ。。。秋にバッタをとったり、収穫後の藁を積み上げたところに高いところから飛び降りたり。時々空を飛行機が飛んでいくのを見て、飛行機のチケットが高いことを思い、「一生のうちに飛行機に乗ることはあるのだろうか?」と思っていた。

父が音楽に興味があり、チェロを習わされて、毎週木曜には学校から帰ったら父の車で二時間ほどかけて西宮の先生のところに習いに行っていたのが、少ない都会との接点。日曜は西宮での少年少女合奏団、というのに出かけてチェロを弾いていた。

田舎の関西弁しかしゃべることができなかった私は、都会で関東弁のイントネーションで話す、田舎には絶対いないようなきれいな女の子達がまぶしく、話しかけることなど絶対にできなかった。

中学時代には、神戸の塾になぜか毎週日曜に通っており、姫路までバスで一時間、姫路からJRの新快速で一時間の合計二時間の冒険であり、楽しみだった。その塾では結構上位の成績であり、ある時塾が終わって、楠公さん(楠正成をまつった神社)を歩いていたら、同じクラスの女の子に待ち伏せされて、「どこか行かない?」という様なことを言われたが、こちらは早く帰らないとバスがなくなったら大変だし、暗くなるのが怖かったので、とても塾が終わって遊びに行くような余裕はなかった。

私にとって、自分の住む田舎から時々見る都会はとても眩しく、高校に入った時に先生から「東大もOK」と言われた時は信じられなかった。とりあえず、半信半疑で東大を受けてみたら合格し、18歳から東京に出てきたのは良かったが、周りは皆関東弁で話す人ばかりで、一年くらいはホームシック状態だった。学校をさぼって東京駅に行き、新幹線を見ては、「これに乗れば姫路まで帰れる」と良く思っていた。

しかし、一年経つとそういう気分は無くなって、東京の生活になじんだ。最初のコンプレックスもあり、言葉のイントネーションも全く変えて、関東では東京弁、関西では関西弁のバイリンガルになれた。社会人になって、関西出身であることを言うと、驚かれることがあるくらいだ。

東京に出てくると、次は海外にあこがれた。。。しかし、東京弁をようやくマスターした身には英語は荷が重かった。就職は国内売り上げほぼ100%の食品会社に入り、「一生英語は使うことはないだろう」と思っていた。

27歳で、関西でお見合いをして、今の家内と結婚。やはり、家庭では関西弁が話したかったのだ。。。しかし、家内の父は英語の教師で、結婚当初から家内は英語のラジオ講座を聞いたり、セサミストリートを見たり。。。英語が雑音としか聞こえなかったので、「うるさいな」と思っていた記憶がある。

新婚旅行では初めて海外旅行。。。パリとジュネーブへのパック旅行だったが、英語が全く話せず、ひたすらガイドの後ろについて回っていた。

という自分を考えると、20-25歳があまり海外に行かないことは、そんなに問題ではない様な気がする。。。今は皆豊かで、航空券も安いので、昔の私とは違うのかもしれないが。

長くなったので、続きは今度としたい。

転職をして良かったこと、悪かったこと・・・

2014年11月15日 | 生き方
今まで、三回転職をしてきて、今現在思う、良かったこと、悪かったことをメモしておく。

もちろん、今時点の思いであり、「人間万事塞翁が馬」なので、あと十年、二十年したら、又違った思いもあるかもしれないので、将来の自分に対するメッセージも込め、書いている。

まず、悪かったことは、転職する度に、全く違う業界に勤務しているので、専門の経理財務や英語、法務や経営企画といったところは同じであるが、扱っている商品の知識や業界の情報・常識がわからず、又社内の人間関係が全くわからず、苦労することである。
又、やはりいままでの積み重ねた貢献が無い分、社内での同じ年代の人に比べると低いポジションでスタートすることになる。
同じ様な話だが、特に最初は知らない人ばかりなので、ずっといる人からは「よそ者」だと思われているであろうし、「気の置けない」関係にはすぐにはなれない。特に同じ会社一筋でやってきた人で、人見知りする人は、こちらのことを、少なくとも最初は「どちらかというと嫌い、どちらかというと信頼できない」と思われてしまうことがある様に感じる。

一方、良かった点は、なんといっても、いろんな業種、しかもメーカーなので、社員でなければ絶対見られない様な工場の生産現場を見ることができること。食品、医薬品、重厚長大、日用品といった全く違う工場を見て、違いに驚いたり、逆に意外な類似点があることに気づくのは、一回しかない人生では一つの喜びである。

又、最初はある特定の食品のトップ企業で、待遇もかなり良く(中に居たときはそうとは気づかず、トップ商社や銀行、テレビ局等に比べて恵まれない、と思っていたが、外に出てみると、結構恵まれていたことに気づかされた)、商社や銀行も丁寧に接してもらえた。次の外資系医薬品も医薬品だけあり、結構待遇は良く、製品シェアーが高かったこともあり、そこそこいい思いができた。三番目の重厚長大産業では、中手であったこともあり、それ以前に比べると給与その他の待遇がだいぶ悪くなり、部長や統括部長といった社内ではそこそこの地位に比較的若くして就かせてもらったが、社外、特に銀行商社の若い担当者の対応がそれ以前に比べてとても悪く、「なんでこんな若いやつに最初から上から目線で話をされたりしなければいけないのだろう?」といつも感じていた。
一方社内ではそこそこのポジションだったので、社内外のギャップに違和感を感じてた。
その会社では、たぶん私もいい気になっていたこともあり、社内の昔からいる人に嫌われ、私を採用してくれた社長が交代すると、身に沁みる様な左遷人事を受けた。それが、このブログを書き始めた頃で、同時に家内に命にかかわるような病気が見つかり、手術等を経て今は良くなったのだが、あの時は辛かった。ブログでも書いたが、「何しているんだろう?」と落ち込んでいたが、会社では、できるだけ明るく振舞い、笑うようにしていた。

昨年転職活動をしていたら、今の会社におもいがけず採用してもらい、人生が又大きく変化した。今は、今までで一番規模の大きな会社で、銀行や商社の担当者の態度も全く違う。

結局、サラリーマンをしていて、「人が私に対し特定の態度をとるのは、一義的に属している会社組織を見て判断し、次にその中での地位で、さらに対応を変えているだけである」ことが、良く身に沁みた。

又、一度部長とかになったあと左遷されたことで、「会社内の地位というのは、一時的なものであり、それで自分が偉くなった様な気になるのは愚の骨頂である」ことにも気づかされた。

家族にサラリーマンが居て、小さいころからそれを見て育っている人と違い、田舎の学校教師の家庭で育った私にとって、もし最初の会社でずっといて、順調に出世していたら気づかないか、気づくのが定年後だったりするのだと思う。

そういう意味で、いままでのところ、三回の転職とそれに伴い経験したいろいろなことは、今の自分の肥しになっていると感じている。

転職から1年経過

2014年09月23日 | 生き方
21日で転職から丸1年経過。

あっという間の1年であったが、最初右も左もわからなかったのが、ずいぶんわかるようになったのに驚く。

一つには、自分にとって面白い仕事なので、休みの日もつい仕事関係の新聞記事やネットでの検索をしたりしていることや、面白いことなので、頭に入ってきやすいというのが理由だろう。

もうすぐ53歳なので、まずは60までの7年間、全力投球で行きたいと思ってる。

与えられたチャンスには前向きに

2014年06月15日 | 生き方
先ほどの続きではあるが、前の二回の失敗を踏まえて今思うのは、与えられたチャンスから逃げたり、なめたりするのは、自分の人生に対して失礼ではないかと思う。
一生懸命やって、その結果失敗するのであれば、納得がいく。少なくても、トライして失敗したとしても、逃げたり、なめたりしてチャンスを生かせられないのと、結果は同じで、かつ、自分の気持ちはずっと良い。バッターボックスに立たなかったり、見逃し三振するくらいなら、打ちに行って三振するか、凡ゴロでアウトになる方が、ずっと後味は良い。打ちに行けば、ヒットやホームランになる可能性もゼロではないのだと思う。

明日からのチャレンジを楽しもう、と思う。