芦原やすえの気まぐれ便り

原発のない町つくりなど、芦原やすえの日々の活動をご紹介します。

幌延深地層研究センター見学!あとは野となれ、山となれか?

2014-05-31 21:03:27 | 原発
 北海道旅行!お待たせした本題です。
札幌から旭川に移動し、一泊。翌朝7時30分にバスで移動。幌延についたのはお昼ごろでした。その間の道中は、雄大な北海道の農地と新緑の美しい景色が続いていました。ちょっと寒かったですね~!遠くの高い山々は、まだ雪をかぶっていました。
 使用済み核燃料を再処理した後の高レベル核廃棄物に関しては、これまでお金欲しさに様々な地方自治体が、文献調査に手を挙げては住民の猛反対でとん挫して来ていました。おまけに日本学術会議も、「地震が頻発する日本では、地層処分は困難」と指摘しています。これに、痺れを切らした国は、応募ではなく国が処分地を選定すると方針変更を行っています。福島以降もやる気でいます。
 幌延は、”ここは処分地にはしない”と、北海道、幌延町と日本原子力研究開発機構の約束(協定)で、おおよそ20年間の研究を行うことで2001年から開始されたものです。現在、坑道は地下350mまで掘削が行われていますが、地元の方のお話を聞くと、最近になって原研機構はさらに500mまで掘削したいと幌延町に伝えてきているとのことでした。これから先、さらに500mまで掘削しようとすると、2021年ごろには研究を終え、地下施設を埋め戻すとの約束が反故にされてしまいます。肝腎の幌延は「協定では”20年程度”となっており、その範囲に入る」との認識だそうです。また、2009年には、原子力機構のHPに”ホット試験をやりたい”との記載があり、北海道は「協定違反だ」と言い、その後、その文言は削除されたと言います。こんなあやしい動きの中、施設を見学させていただいたのですが、案内してくれた所長は「協定があります。最終処分場にはしません」と強調していました。ですが、地元の方たちは皆、信用していません。
 地下には工事用のエレベータ(かごのようなもの)で降りていき、横坑に入って行きました。ここの地層は、昔、海だったようで、貝の化石が出てきます。ついでに毎日大量の湧水があるのですが、塩分を含んでいるのだとか。350mの地下までは行けなかったのですが、そこでは、毎日100tの水がわき出たものが溜まっていました。そして、メタンガスも出るため、センサーが取り付けられ、爆発しないように1.5%で自動的に電源を落とすようになっているのだとか。センサーが故障したら、危険だなぁ~と感じました。また、地下坑道では、周りからの圧力がかかり、だんだん歪んでくるのだとか。地層処分では、ガラス固化体を金属製のオーバーパックに詰め、周りを粘土で覆ったものを坑道に埋め、最終的には坑道そのものを埋めてしまうというものです。地下でみた粘土は、実際には固いものでしたが、水を含むと膨張し、隙間が埋まることで水分が通らなくなるのだそうです。ガラスは安定した物質とはいえ、長い年月の間に溶け出します。金属も、いずれはなくなってしまいます。彼らの説明では、その頃には放射線量は下がっていて、問題はないのだとか。しかし、地震大国と言われる日本です。調査不足で断層さえ正確に把握できないこともよくある話。全く把握できていないものもあるわけですから、いったん近くで地震が起きれが、地下構造も破壊されます。無事でいられるでしょうか。坑道も歪むというのですから、長い間に粘土も金属も破壊され、ガラス固化体もどうなるかわからないのではないでしょうか。
 フインランドでは10万年の管理が必要と言われています。再処理をしない直接処分という違いもあれど、せめて1万年の研究をやった後、彼らの推測は正しかったことを証明してから、実際の処分事業に活かすべきではないでしょうか。また、ここを「処分地にしない」というのであれば、ここの研究結果はそのまま通用しません。改めて実際の処分地で調査研究をしなければ無理ではないでしょうか。結局、日本の地層処分の考え方は、最後まで「管理」するのでなく、処分してしまえば「あとは野となれ、山となれ!」というものではないでしょうか。こんなことを許してはならないと、改めて感じました。

「原発の町を追われて」上映会

2014-05-30 23:50:38 | 原発
福島県双葉の町の皆さんは、原発事故で長期の避難を強いられていますが、少しでも子どもたちの被曝を避けたいと遠方での避難生活を選ぶ人と、遠方には逃げなかった人たちがいます。同じ被害者である住民の間に広がる軋轢は、両社に何の責任もないのに、その苦悩に胸が痛みます。堀切里美さんがその双葉の人々の避難生活を撮った映画です。ぜひ、観に来てください。

と き 6月21日(土)
    ①10:00~(堀切さんのトーク11:30~)②13:30~(堀切さんのトーク15:00~)③16:00~    (堀切さんのトーク17:30~)
ところ 松江市民生活センター5F504号室
主 催 「島根原発3号機の運転をやめさせる訴訟の会」映画「原発の町を追われて」上映実行委員会・松江キネマ倶楽部 

北海道旅行!アイヌ民族と自称”開拓者”見聞

2014-05-26 21:46:02 | 日記
 現在、使用済み核燃料は再処理され、高レベル核廃棄物はガラス固化され、地層処分が計画されています。
しかし、これだけ地震が頻発し、把握されてもいない断層もどれだけあるかわかりません。日本学術会議が日本における地層処分は困難と警告するのも当然です。それにもかかわらず、この国はいまだ”地層処分は可能”と、こだわりを捨てていません。
 5月24日は、その地層処分研究施設がある北海道の幌延に行ってきました。実は、旭川から地元の教職員組合の皆様のお世話で朝7時30分にバスで出発し、お昼ごろに到着しました。正直言って、幌延がこんなに北に位置しているとは思ってもみませんでした。北海道の皆さん、すみません。認識不足で!ついでに言うと、旭川に朝7時30分に行こうと思うと、2日前の夜に札幌に到着することになります。米子空港から札幌まで直通便があるのですが、新千歳に夜に到着する便しかありません。それでも、直通便で格安とあれば、これを利用するしかありません。なので、1日は観光!本題に入る前に、ちょっとだけ、お付き合いを!
 せっかく行くので、どこに行こうかと考え、いろいろ探しているうちに決めたのが北海道もかなり南に位置する小さな町”白老”でした。ここにはポロトコタン(アイヌ民族博物館)がありました。”ポロ”とは、アイヌ語で大きなという意味で、”ト”は湖、”コタン”は村という意味だそうです。その通り、この施設は静かな湖のほとりに建っていて、その奥は森へと続いていました。
 ここは観光施設なのですが、博物館に入ると客が誰もいなくて、ガイドの方をほぼ独り占めでした。途中で二人のお客さん(この方たちもアイヌの歴史に興味津々の様子でした)が入ってこられ、結局3人でたっぷりと説明を聞くことができました。ガイドの方はアイヌ協会の方らしく、アイヌの文化や生活、そして明治政府からの圧政の数々をお聞きしました。かつての北海道の大地が自然の豊かな大地で、その恵みを受けながらアイヌ民族は争いを好まず暮らしていたようです。武士たちが参勤交代に持参していた漆塗りのおひつと、アイヌの人たちは鮭100匹と交換していたとか。その際、武士たちは最初の1匹目を”はじめ”と数え、2匹目を1と数え、最後を”終わり”と数えてごまかしていたのだそうです。当時、鮭は大量にとれていたので、アイヌの人たちにとっても1匹や2匹は大した問題ではなかったようですが、思わずガイドの方に「だます方が悪いですよ!」と言ってしまいました。そして、明治政府は、東北地方に住んでいたアイヌの人たちを北海道に強制的に移住させ、アイヌ語も禁止したといいます。なんだか、朝鮮半島でかつてやったことと同じじゃないですか?侵略には、こんな先例があったんですね。ちなみに、帰りには自称「開拓者」の歴史が展示してある旧北海道庁(赤レンガの庁舎)にも行ってみました。とても豪奢な建物で、権威の塊みたいな、いかにも明治期に建てられたような建築物でした。部屋の中には歴代の知事の肖像画が飾られ、「アイヌ民族は苦労させられた」という、どこか他人ごとな説明が簡単に掲示されているだけでした。
 さて、本題ですが、長くなるので続きは次回で…

時間が止まった福島県富岡町の今

2014-05-20 00:54:41 | 日記
5月17日。長年各地の反原発の闘いを紹介する反原発新聞の総会が福島県いわき市でありました。今も高い放射線量のため、帰還困難地区と避難解除準備地区が残る福島県富岡町を見学するツアーつきだったので、参加してきました。
 翌日、いわき市議の佐藤さんの案内で津波被害にあったいわき市内海岸を通って広野町、楢葉町、富岡町にバスで移動しながら、放射能で汚染された実態を見てきました。
 いわきの四倉地区の海岸では、被害にあった住宅などは撤去され、今は更地となっていました。いわき市内の宿泊した研修施設の敷地にあったモニタリングポストの値は毎時0.122μシーベルトでした。松江市内で、通常0.05μシーベルトくらいですから、いわきでも通常の2.4倍はあります。いわき市民の皆さんは、洗濯物は外には干さないそうです。この値で年間1ミリシーベルトの上限を少し出るくらいです。ぎりぎりで暮らせる値かな?と思いますが、それでも市民の不安はいかばかりかと思います。久乃浜海岸では、7mの防潮堤工事が行われている最中でした。海岸沿いには、空き地が広がっていますが、そこには元々街並みがあったのだそうです。今は、跡形もありません。お地蔵さまが安置されていたのでしょうか、古い小さな祠が一つ、ポツンと残っていました。
 そこから車で広野町に入って行きましたが、途中の山林の合間を通ると放射線の測定器は0.295μシーベルトに上がっていきます。国は、年間20mシーベルまでは被曝を認めており、帰還を進めています。広野町では、住民の5分の1の1200人くらいが帰ってきたそうですが、いわきに避難している子どもたちを、日中はバスで広野の学校へ通わせているのだとか。なぜ、子どもたちの安全を最優先で考えないのか?住民に、そんなに何事もなかったようにふるまわせたいのか?聞いていると、ため息が出てきます。広大な田畑は、今や膨大な除染した土が詰め込まれたフレコンパックの置き場と化していました。山積みにされた真っ黒なフレコンパックの山が道路わきに迫ってくると、皆、バスの中から「すごいなぁ~」と、驚きの声を上げていました。野積みにされたフレコンパックを一望できる公園では0.352μシーベルトと、だんだん線量は高くなってきます。
 楢葉の町では、家々は津波に破壊されたまま、放置されています。この街では、日中は家の片づけに帰ることができるのですが、宿泊はできないのだそうです。何軒かの家で車が止まっていました。避難解除準備地区ですが、子どもの居る家庭では「子どもを連れて帰れない」と言っているそうです。それはそうでしょう!この国は、子どもを大切にしない国だと、つくづく実感しました。
 そして、先日も溝口知事も尋ねた富岡町です。「想像を超える!」と知事が言ったとか。本当に見てみなければ、実感することはできません。富岡の駅は海岸に近いのですが、近づくと両脇の家という家は3年前に津波に破壊され、そのままの姿でそこに立っていました。駅も骨組みだけ。線路には車が残り、周り中の家が破壊されたまま。まるで3年前でこの街は時間が止まったような感じです。いわきでも見てきたとおり、他の東北の自治では、残骸は撤去され、復興に忙しい日々だというのに!
富岡駅では、線量は0.8μシーベルト。小学校に行くと、モニタリングポストの値は2.6μシーベルトを表示していました。校庭は草だらけ。そこは3μシーベルトに跳ね上がります。更に町中は5.4μシーベルトまで上がっていきます。私たちが行けたのは、この街の中にある「ここから先は、帰還困難地区。立ち入り制限」の看板が建つ遮断機の前まででした。
 「原発さえなければ!」自殺された農家の方が残した言葉ですが、時間が止まった富岡の町を見て、そう思いました。これが、私たちの町の行く末なのか?再び、原発を動かしてもいいと思っている方たちに、一度見ていただきたい。特に企業の皆さんに見ていただきたいと思う。富岡の町には、様々な企業の建物が、同じように放置されているのが目につく。それも津波の被害にあっているわけではない建物もだ。放射能で汚染されなければ、今頃は再建し、きっと商売に勤しんでいたに違いないのに!皆、悔しいに違いない。その思いも感じ取ってもらいたい。

2月議会報告 NO2

2014-05-13 23:04:27 | 日記
再生可能エネルギー推進に関する質問と答弁

「エネルギー自立地域推進基本条例」制定署名で示された、「省エネと再生可能エネルギーを進めていくべき」との約8万3000人の有権者の意思にどう応えていくのか?
市長答弁
 福島の事故を目のあたりにし、県民、市民に限らず国民の間に脱原発であるとか、原発の依存率を下げて代わりのエネルギーに置き換えていくべきという考えが浸透してきている現れだろうと思っています。
 しかし、エネルギーというのは、日本という国をどういうふうにしていくかという根幹の問題です。今後のエネルギー計画について、その中で、原発の依存率をどう下げていくかを国に示してもらう必要があります。
芦原
地方自治にも関わる問題ですから、むしろ積極的に地域のエネルギー政策について議論し、国に働きかけを行っていくことも必要ではないでしょうか。

島根原発2号機の規制基準適合性確認審査状況に関する質問と答弁

 中国電力に対して、島根原発2号機の新規性基準適合性確認審査で突然説明した「フイルタ付きベントに有機ヨウ素除去機能追加」などについて、市および市民に対する説明を求めるべきでは
市長答弁     
 第2フイルターベントとかヨウ素除去機能の追加といった話は、事前の説明がなかったことは事実です。従いまして、こういった新たな対策を行う場合には、きちんと説明をしていただく必要があると思っています。
芦原
中国電力に対しましては、機会を捉えて、議会と原子力発電所環境安全対策協議会に対して詳しい説明をするように要請をしていきたいと思っています。