芦原やすえの気まぐれ便り

原発のない町つくりなど、芦原やすえの日々の活動をご紹介します。

島根原発差し止め訴訟意見陳述

2017-09-25 21:09:38 | 原発
 今日は島根原発1,2号機の差し止め訴訟弁論が午前中に、午後は3号機の裁判が開かれました。
午前中は、「日本と原発」の概要版上映(証拠調べ)と原告側からの意見陳述を行いました。
 2号機の審査中ですが、注目の「宍道断層」に関して、昨日、中国電力は各新聞に懲り込みチラシを入れ、39kmと評価していることを広報しています。8月28日には規制委も現地調査に来ており、その反応も見極めた上での折り込みチラシではないかと思います。それでも、裁判長が「いつ活断層評価に関する主張をするのか?」と尋ねても、「見通しを示すのは難しい。39kmに見直しをし、東にある断層との関連について検討している。まだ評価を続けている。」と宍道断層に関する主張の時期を明示しませんでした。
 一方、3号機の裁判では、国は次回の主張予定について、「地震動審査のガイドライン」について準備書面提出の予定だと説明しました。原告側からは、新規制基準におけるシビアアクシデント対策の問題について主張する書面を提出しました。
 以下、今日の私の意見陳述を掲載します。


弁論更新にあたっての意見陳述


2017年 9月25日

控訴人 芦 原 康 江



1 弁論更新にあたって控訴人らを代表して意見陳述を行います。
 控訴人らは、被控訴人が島根原発から直近で約2㎞先に「なかったはずの活断層」をみつけたことから、耐震性に 欠ける1、2号機の運転差し止めを求めて松江地裁に提訴しました。
  原審を含め提訴から18年が経過しますが、その間、同じBWRでマークⅠ型である福島第一原発は、世界中を震撼 させる炉心溶融という重大事故を起こし、漏れ出た放射性物質は日本中を汚染してしまいました。原審が私たちの 訴えを退けたことはもちろんのこと、これまで各地で起こされた市民による訴えに司法が耳を貸さなかったこと  は、福島第一原発事故を防ぐことができなかった一つの要因と言っても言い過ぎではありません。本控訴審におい ては、控訴人のみならず多くの人々の命や健康、そして生活の全てを守ることを最優先にした判断を示していただ きたいと思います。

2 島根原発2号機については新規制基準適合性審査が行われ、原告らが島根原発の運転差し止めを求めた原因とも なった活断層の再評価を巡って、慎重な審査が続けられているところです。
  その「宍道断層」に関しては、被控訴人は適合性審査中の調査によって長さを25kmへと変更しています。そ の後、内閣府地震調査研究推進本部による宍道断層に関する長期評価が出され、東延長の海陸境界部に地質構造が 連続する可能性があるとされ、海域での本断層との関連性を検討する必要があると指摘されました。また、島根大 学の向吉准教授によって、被控訴人が東端とする地点から更に東側で断層露頭が発見されました。一連の新しい知 見は適合性審査の俎上にも載せられ、鳥取沖の断層への延長も検討が求められます。基準地震動の評価も変更が迫 られるのは避けられず、「島根原発が耐震安全性に欠ける」という状況はますます明確となってきました。

3 2号機の適合性審査を行う原子力規制委員会は「規制基準に合格しても原発は事故を起こす可能性はある。」と 明確に発言しています。この「原発は事故を起こす可能性がある」ことを前提として、原発の周囲30km圏内自治 体は広域避難計画を策定しています。法律上、避難計画を策定する責任は自治体にありますが、本来、被控訴人に は万が一の事故発生時における住民の安全な避難に対して、第一義的責任が存在しています。
  しかし、被控訴人は自治体に「協力する」だけで、その責任を全うしようとする姿勢が微塵もありません。
  また、原発の重大事故は、地震や津波などの自然災害発生によることが大きいと考えられますが、マグニチュー ド7クラスの地震が発生した際には、二つの川によって南北に分断される松江市内では、住民にはどこが通行可能 なのかすら全くわかりません。倒壊する家屋・火災発生・波打つ道路、そのような中を計画通りに避難行動するこ と自体が絵空事ではないでしょうか。そして、この避難計画は一定の放射線量を計測しなければ、30km圏内住 民に対する避難指示すら出されません。こういったことを勘案すれば、島根原発が重大事故を起こせば住民は被ば くを避けられません。

4 多くの福島県民は6年が過ぎる今も故郷に帰ることができません。政府によって帰還が求められても、汚染が続 く町には子どものいる世帯は帰ってきません。福島県内では、現時点で190人もの子どもたちに甲状腺がんが発症 し、健康を脅かされています。
  万が一にも島根原発が重大事故を起こすとは、どういうことなのか。住民が被ばくを余儀なくされるとはどうい うことなのか。福島原発事故が私たちに教えてくれています。この事故がもたらしたものに真摯に学べば、私たち が何をすべきなのか明白です。 
  裁判所におかれては、良心に従って「島根原発は運転してはならない」という訴えを、その通りだと容認されま すことを心より願っています。
以上

ブログ再開&久しぶりの東京

2017-09-23 22:56:57 | 平和
4月の市議選では、皆様からの熱い支持をいただきながら落選という結果になりました。4年後の再チャレンジに向けて、どのような活動をしていくのか、この間、模索してきました。支えてくださる皆さんと共に、松江市民が抱えている課題は何か、どのような解決策があるのかを議論しながら、市民の皆さんと共に松江市に要請していけたらと考えています。何より、“市民が主役!”を当たり前の市政にしていきたいと思います。
皆様、これからの4年間、ご一緒に歩んでいきませんか?メンバーとなってくださる方を心よりお待ちしています。コメントを下さいね!

久しぶりの東京は熱かった!

9月18日は、久しぶりの東京でした。
この日は代々木公園で「さようなら原発さようなら戦争全国集会」が開かれ、全国から9400人が参加しました。ちょうど台風が沖縄、九州、四国から更に日本海へ駆け抜けていく最中で、島根からは交通機関がストップしたために他に参加がないといった状況でした。台風さえ来なければ、もっと多くの人が全国から駆けつけたことだろうと、ちょっと残念でした。
 私は、前日にはんげんぱつ新聞編集委員会があり、台風が来る前に島根を脱出することができました。18日は、その台風が去り、晴天で、一気に暑さが戻ってしまいました。(前日に着てきた上着をバッグにしまい込んだものの、その下も長袖で、一日、汗をかきっぱなしでした)


不屈の人

 前日の夕方からは、沖縄に次いで上映された「米軍が最も恐れた男~その名は、カメジロウ」を見に行きました。亀次郎さんがどんな人なのか良くわからなかったのですが、沖縄での上映で、長蛇の行列ができたとのニュースの中で、見に来ていたお年寄りが「あの人は神さんですから!」と言うのを見て、いったいどんな人なのか“知りたい”との思いがふつふつと、湧いてきたのです。米軍が怖れたのですから、きっと沖縄県民の思いをしょって立ち上がった人に違いない!そう思って、事前に東京の上映会場を探して出かけていきました。
 感想は?と言えば、本当にすごい人!沖縄県民の圧倒的な支持があったのは当然だと思いました。かつて戦場と化した沖縄で、多くの沖縄県民が犠牲を強いられ、戦争が終わると日本政府によって切り捨てられ、アメリカに差し出されてしまった歴史が、現在も続いていると感じないではいられません。多くの国民が沖縄が日本に返還されるまで、ほとんど関心を持たず、国家同様に経済発展にまい進してきたその陰で、沖縄ではアメリカ軍による占領が続き、家も土地も無理やり軍事基地建設のために取り上げられ、米軍による暴行事件などにも捜査権すらない状態に置かれ、民主主義などないに等しい実態は、沖縄県民の怒りを買っていたのです。沖縄県民の戦いは、占領下からずっと続いていたことがこの映画で見ることができます。亀次郎さんのアメリカの圧政に敢然と立ち向かう姿は、圧巻でした。その墓には、「不屈」という言葉が刻まれています。それは沖縄県民の姿でもあります。そして、その「不屈」は、切り捨ててきた日本政府とその国民の責任を問うてもいると感じました。

関東大震災復興記念館と朝鮮人虐殺慰霊碑

 18日の集会は午後からだったので、午前中は両国駅の近くにある横網町公園に行ってきました。
 ここは、1922年に元陸軍の被服廟跡を東京市(当時は市だった)が買い上げて公園に整備したそうです。そして、翌年9月1日は関東地方をM7クラスの地震が次々と襲ったのでした。それが歴史に残る関東大震災です。当時、この公園には4万人の住民が避難していましたが、四方から火災が迫り、逃げ場を失った人々はこの場所で焼け死んだということです。その数3万8千人。避難したほとんどの人が亡くなられ、最大の犠牲者だったようです。
 公園の中には、慰霊堂と復興記念館があり、片隅には、当時、流言飛語で虐殺された6000人といわれる朝鮮人の方を追悼し、二度とこのような不幸な歴史を繰り返さないことを願い、震災から50年の1973年に「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」により立てられた碑があります。毎年、この慰霊碑の前で追悼式が行われるのですが、今年の9月には、小池知事が追悼文を寄せることを止めたことで、市民から怒りの声が出ていました。
市民によって、そのような追悼式が継続されてきたことを、不覚にも、その報道で知りました。これは、ぜひ行ってみなければ!そう思い、出かけてみたのです。

 復興記念館には当時の新聞記事や警察からの「流言飛語に惑わされるな!」といった文書も展示されており、6000人という数字が正しいかどうかは、次々と襲う地震と火災で混乱を極める中、今となっては正確な人数を把握することもできません。それでも、虐殺があったことは動かしがたい事実です。碑文には「この事件の真実を知ることは、不幸な歴史をくり返さず、民族差別をなくし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎なると信じます」と刻まれています。その通りだと思います。小池知事は、ここを訪れるべきでしょう。

 その復興記念館には、当時の写真や地震の震度計のデータ記録など貴重な資料があります。驚いたのは、本震はM7クラスの地震なのですが、普通、余震といえばそれより小さい規模の地震が起きることがほとんどです。関東大震災は、その余震もすべてM7クラスです。しかも、本震が発生したその日の内に2回、翌日に3回、4か月後に1回と、立て続けです。当時の民家は木造で耐震性も不十分な建築物ですから、壊滅的な被害であったことがわかります。

 あまりにも規模が大きく、当時は世界中から寄付が寄せられ、多くのボランテイアも救援に駆けつけたようです。それでも破壊されたインフラ整備には巨額の公的資金の投入が欠かせませんでした。当時の政府は、東京に対して資金を拠出したというよりは、貸し付けたようです。当時から冷たい政府だったのかと、思わず悲しくなりました。
 もう一つ、嘆かわしいと思ったことが!当時の報道です。避難する人々の写真のバックに別の場所で火災で煙の立ち込める建物の写真を合成したものを流したりしているのです。それも1枚や2枚ではありません。”何をしているんだ!“と、その写真を見ながらぶつぶつつぶやいてしまいました。でも、この復興記念館、一度は見ておくべきです。

熱い!さようなら原発、さようなら戦争全国集会

 安倍政権が衆議院の解散総選挙を大義もない中、いきなり「やるぞ!」と発した中の集会でしたが、沖縄からは山代博治さんが駆けつけ、受けて立とう!安倍政権を倒そう!と熱烈な檄を飛ばしていました。山代さんの熱いあいさつに、会場からは拍手が巻き起こり、元気をいただいたような気がします。
 福島では、汚染が続く故郷への帰還が求められ、子どもたちの間で甲状腺がんの発症が続く中、それでも原発事故が原因ではないと言い、避難者への住宅無償提供が打ち切られ、多くの住民が苦しい思いでいます。その福島からは、福島原発刑事訴訟支援団団長の佐藤知良さんがあいさつし、「原発事故で責任を取った人はいない。東京電力の罪を問うために1万4千人の告訴団は闘う」と決意を述べていました。
 福島から大阪に2人の子どもを連れて自主避難している森松明希子さんは「憲法で補償された平和に生きる権利を奪われてきた。世界中の子ども達の命を守ることが平和につながる道だ」と述べられ、本当に、この現状は憲法に反していると強く思いました。
原発も戦争も改めて私たちの手で止めなければと強く感じた集会でした。