芦原やすえの気まぐれ便り

原発のない町つくりなど、芦原やすえの日々の活動をご紹介します。

時間が止まった福島県富岡町の今

2014-05-20 00:54:41 | 日記
5月17日。長年各地の反原発の闘いを紹介する反原発新聞の総会が福島県いわき市でありました。今も高い放射線量のため、帰還困難地区と避難解除準備地区が残る福島県富岡町を見学するツアーつきだったので、参加してきました。
 翌日、いわき市議の佐藤さんの案内で津波被害にあったいわき市内海岸を通って広野町、楢葉町、富岡町にバスで移動しながら、放射能で汚染された実態を見てきました。
 いわきの四倉地区の海岸では、被害にあった住宅などは撤去され、今は更地となっていました。いわき市内の宿泊した研修施設の敷地にあったモニタリングポストの値は毎時0.122μシーベルトでした。松江市内で、通常0.05μシーベルトくらいですから、いわきでも通常の2.4倍はあります。いわき市民の皆さんは、洗濯物は外には干さないそうです。この値で年間1ミリシーベルトの上限を少し出るくらいです。ぎりぎりで暮らせる値かな?と思いますが、それでも市民の不安はいかばかりかと思います。久乃浜海岸では、7mの防潮堤工事が行われている最中でした。海岸沿いには、空き地が広がっていますが、そこには元々街並みがあったのだそうです。今は、跡形もありません。お地蔵さまが安置されていたのでしょうか、古い小さな祠が一つ、ポツンと残っていました。
 そこから車で広野町に入って行きましたが、途中の山林の合間を通ると放射線の測定器は0.295μシーベルトに上がっていきます。国は、年間20mシーベルまでは被曝を認めており、帰還を進めています。広野町では、住民の5分の1の1200人くらいが帰ってきたそうですが、いわきに避難している子どもたちを、日中はバスで広野の学校へ通わせているのだとか。なぜ、子どもたちの安全を最優先で考えないのか?住民に、そんなに何事もなかったようにふるまわせたいのか?聞いていると、ため息が出てきます。広大な田畑は、今や膨大な除染した土が詰め込まれたフレコンパックの置き場と化していました。山積みにされた真っ黒なフレコンパックの山が道路わきに迫ってくると、皆、バスの中から「すごいなぁ~」と、驚きの声を上げていました。野積みにされたフレコンパックを一望できる公園では0.352μシーベルトと、だんだん線量は高くなってきます。
 楢葉の町では、家々は津波に破壊されたまま、放置されています。この街では、日中は家の片づけに帰ることができるのですが、宿泊はできないのだそうです。何軒かの家で車が止まっていました。避難解除準備地区ですが、子どもの居る家庭では「子どもを連れて帰れない」と言っているそうです。それはそうでしょう!この国は、子どもを大切にしない国だと、つくづく実感しました。
 そして、先日も溝口知事も尋ねた富岡町です。「想像を超える!」と知事が言ったとか。本当に見てみなければ、実感することはできません。富岡の駅は海岸に近いのですが、近づくと両脇の家という家は3年前に津波に破壊され、そのままの姿でそこに立っていました。駅も骨組みだけ。線路には車が残り、周り中の家が破壊されたまま。まるで3年前でこの街は時間が止まったような感じです。いわきでも見てきたとおり、他の東北の自治では、残骸は撤去され、復興に忙しい日々だというのに!
富岡駅では、線量は0.8μシーベルト。小学校に行くと、モニタリングポストの値は2.6μシーベルトを表示していました。校庭は草だらけ。そこは3μシーベルトに跳ね上がります。更に町中は5.4μシーベルトまで上がっていきます。私たちが行けたのは、この街の中にある「ここから先は、帰還困難地区。立ち入り制限」の看板が建つ遮断機の前まででした。
 「原発さえなければ!」自殺された農家の方が残した言葉ですが、時間が止まった富岡の町を見て、そう思いました。これが、私たちの町の行く末なのか?再び、原発を動かしてもいいと思っている方たちに、一度見ていただきたい。特に企業の皆さんに見ていただきたいと思う。富岡の町には、様々な企業の建物が、同じように放置されているのが目につく。それも津波の被害にあっているわけではない建物もだ。放射能で汚染されなければ、今頃は再建し、きっと商売に勤しんでいたに違いないのに!皆、悔しいに違いない。その思いも感じ取ってもらいたい。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿