芦原やすえの気まぐれ便り

原発のない町つくりなど、芦原やすえの日々の活動をご紹介します。

発達障がいは多様な個性? ~多様性発達というとらえ方

2015-02-28 21:54:55 | 障がい
 今日は、NPO法人YCスタジオ主催で児童精神科医の高岡健さんをお招きしての後援会でした。
高岡さんは、岐阜赤十字病院精神科部長などを経て、現在は岐阜大学医学部精神病理学分野准教授で、自閉症スペクトラムの臨床研究や少年事件の精神鑑定、不登校や引きこもりの臨床社会的研究などに取り組んでいる方です。以前から、松江には不登校問題で講演にいらっしゃっていて、何度かお話を聞いているのですが、発達障がいについて聞くのは初めてでした。
 
 高岡さんは、まず「発達障がいとは何か?から共通認識を持ってもらいたい」と話し始められました。この言葉は1970年代から使われ始めたのだそうです。1960年代のアメリカでは黒人の方々が白人と同じ権利を持つための公民権運動が高まっていたのですが、障がいのある人たちも同じように社会の中でそのままのびのびと生きていくことを求め始めたということです。発達障がいとは、その中で使われ始めたと言います。そして、これは私も初めて知ったのですが、身体、知的障がいを「発達障がい」と呼んだのだそうです。70年代に入ってから、てんかんなども含めて呼ばれるようになり、その範囲は拡大していったとのことでした。最近は、知的障がいと発達障がいを区別しているのですが、高岡さんは「これは間違っている」と言われます。なぜなら、自閉症と知的を併せ持っている人はいっぱいいることを挙げられます。そして、これらを自閉症スペクトラム(連続)と呼び、凡人とこれら障がいとも境目ははっきりせず連続しているのだとのことです。これは、私も納得します。人を見て障がいを診断するときに、その判断基準となる物差しには「ある範囲に当てはまれば〇〇障がい」というメモリがあるものの、そのメモリに納まらない人たちがたくさんいるのが現実です。実際に、医師から障がい名を付けてもらっている方を見ていて、本当にそうなのか?と首をかしげたくなる場合があるのです。「普通」(高岡さんは凡人と呼ぶ)と言ってもかなり範囲が広く、限りなくボーダーに近い場合もあり、いったいどこで線引きするのかな?と思うのです。私は、全員が線上にというより、三次元的につながりあっているように思うのです。
 ここで、高岡さんは「定型発達」と「非定型発達」という言葉を使って説明されます。これは当事者が作った言葉で、凡人は定型発達していて、自閉症スペクトラムの人は非定型発達しているのだそうです。自閉症スペクトラムの人は「①人と目が合わないなど対人関係が困難②目からの情報処理能力にたける一方で、言葉を文字通りにしか受け止めることができない③物を置く場所や順番などにこだわりが強い」という3つの特徴が挙げられるのですが、これ、すべて否定的な表現です。高岡さんはこれらを次のような見方をするウエブサイトがあると紹介されました。①は「対人関係における独特のスキルを持つ」、②は「自閉症スペクトラム言語を流暢にしゃべる」などです。なるほど、当事者も落ち込まないで済みますよね!また、こういうふうに言語や対人関係とみていくと、「さて、これは障がいと言っていいのか?」との疑問がわき出てきます。そこで、高岡さんは「違う文化ではないか?」とみて、文化多様性と呼ぶと言われます。そして、これを個性と呼ぶとそこでおしまいになってしまう。文化の違いであれば、そこから交流が発生すると!
 こういった障がいについては、なるほど、文化の違いとみてもいいのかもしれませんね。身体的な障がいについては、私は「個性」と言ったほうがピンと来るのですが!高岡さんは、この発達障がいについて、巷では「脳の仕組みが違う」などと言われるが、誰も証明した人がいない。本当はどうなのか?ということについては、やはり当事者に聞くのが一番だと言われます。高岡さんが紹介されたのは、ドラ・ウイリアム(?)という人の自伝でした。そこに書かれているのは、「生まれた時は、周りと自分が区別できていないで一体となっている。発達してくると分離してくる。周りを意識すると自分がなくなってくるので、周りを無視しないと生きていけない。そして、その内、他社と折り合うようになってくる。これが一番つまらなく、自分と周りの区別がつかない状態が一番いい」といった内容なのだそうです。そして、自閉症の人は、この自分と他者の区別がつかない状態が長く続くのだそうです。高岡さんは、そこを人間発達の原点ではないかと言われます。自閉症の方からは、「今必要なのは、定型発達の不思議を研究することではないか」と言われているのだとか。
 どちらに立って考えるかによって、見え方はまるで違うものです。以前、こんな劇がありました。車いすで生活する人をノーマルとする社会では、ドアや棚などの高さは極端に低くてもよく、それが普通なのです。そんな社会では、くるま椅子を使わない人はちょっと不便なのです。その際、障がい者とみなされるのは、どちらなのでしょうか?こんなことを考えていると、なんだか混沌としてきます。要は、どんな人でもそれぞれ違う多様なあり方を認め合うことが必要なのではないかと思います。
 高岡さんの今日のお話は、障がいに対する考えかたをまた一つ改めさせられたような気がします。