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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

葛城奈海氏  

2021-12-09 00:56:34 | 文化

>zakzak

>戦うことは「悪」ですか  >アフガン撤退の教訓を肝に銘じよ!  >国軍に士気がなければ米軍は動かない  >自衛隊機の派遣命令遅れは政治に責任  > 2021/12/08 11:00

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>「アフガン国軍自身が戦おうともしない戦いで、米国人が死んだり戦ったりすることはできないし、するべきでもない」 >ジョー・バイデン米大統領のこの言葉を、日本人は肝に銘じるべきであろう。

 

そうですね。自主性のない人間は、ただのお荷物にしかならない。     

 

>8月末の米軍完全撤収を前にした8月15日、アフガニスタンのガニ大統領は国外脱出し、首都カブールが陥落した。 >日本にいるわれわれの目には、瞬く間に親米政権が瓦解(がかい)し、電光石火のごとくイスラム原理主義勢力「タリバン」がアフガンを制圧したように見えた。 

 

そうですね。   

 

>しかし、時がたって情報が明らかになってくるにつれ、予兆があったことは認めざるを得ない。 >事実、オーストラリア政府は独自の判断で5月25日、在アフガン大使館を同月28日に閉鎖する旨発表している。 

 

彼らは素早いですね。   

 

>日本が米国の情報と対応に追従していなければ見え方は違ったはずだ。  

 

日本人には意思がない。だから受動があって、能動がない。何事も遅くなるのは当たり前。   

 

>自衛隊機の派遣が遅れたのも同根だ。>戦後、日本は米国に安全保障を依存してきた。

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。  

 

>その結果、他国における自国民救出についても自立した意志を持たず、邦人の救出を他国に委ねる、もしくは遅きに失するという失笑物の対応を繰り返してきた。  

 

日本人は昔から失笑物の対応をしていたようですね。   

フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。

 ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)        

 

>そして、今回もまた、国外退避を希望するアフガン人協力者とその家族500人以上を事実上見捨てることなり、日本への信頼は失墜した。  

 

意思の無い人間には責任もありませんからね。    

 

>派遣の根拠となった自衛隊法84条の4(在外邦人等の輸送)には、「当該輸送を安全に実施することができると認めるときは、当該邦人の輸送を行うことができる」とある。

 

自衛隊の輸送は民間航空の場合のようなものですね。

 

>命令が遅れた原因は、この「安全」をめぐる判断にあった。>だが、そもそも自衛隊が派遣されるのは一般人では「危険」な場所だからだ。

 

危険があるから自衛隊には価値がある。    

 

>今回のアフガン派遣で、助けを求める者たちのそばまで行きながら、見捨てざるを得なかった自衛官たちの心中はいかばかりか。 

 

義を見てせざるは勇無きなり。   

 

>「守るべき存在が、傷ついて苦しんでいるのを眺めているだけ」という現実は、拉致問題でも同様だ。  

 

意思の無い人間に現実を変えることは難しい。    

 

>アフガンの苦い経験から学ぶべきことは、何か。

 

無哲学・能天気であっては、学ぶことなぞ何もない。言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。   

 

>今回のアフガンでは、政府が統治能力を失い、いわゆる「輸送の安全確保条件」が守られていない状況にあっても自衛隊を派遣することが現実に起きた。 >実は今回、自衛隊は超法規的に派遣されたのだ。 

 

安全なところには自衛隊は不要ですからね。危ないところでは自衛隊が活躍しますね。    

 

>しかし、そのことへの国民の非難の声は聞こえてこない。>批判の矛先は、もっぱら「なぜこんなに遅かったんだ」ということに向けられている。

 

日本人の意思決定は遅いですからね。矛盾を含んでいる文章は正しい考えを表さない。矛盾を除去するためには議論・対話が有効ですね。矛盾が除去された文章は正しい考えを示している。          

 

>自衛隊を活かすも活かさないも、結局は政治の判断、つまり最高指揮官たる総理大臣の肚(はら)決め次第だ。  

 

意思の無い人間には指導力も無い。    

 

>岸田文雄首相には、拉致被害者救出についても「時代を変える決断」を望む。  

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。      

 

>■葛城奈海(かつらぎ・なみ) やおよろずの森代表、防人と歩む会会長、ジャーナリスト、俳優。

>1970年、東京都生まれ。

>東京大農学部卒。

>自然環境問題・安全保障問題に取り組む。

>予備役ブルーリボンの会幹事長。

>著書・共著に『国防女子が行く』(ビジネス社)、『大東亜戦争 失われた真実』(ハート出版)、『戦うことは「悪」ですか』(扶桑社)。    

 

 

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