>アメリカに行くと「I'm sorry.」をなかなか聞くことはないとされます。>状況次第ですが、カナダと比べると確かに聞かないかもしれません。
私は、’父親が戦死した’ と話した時には、アメリカ人に「I'm sorry.」といわれました。
>先日、弊社のクルマを借りているお客様がアメリカで接触事故を起こしました。>事故は大したことはなかったのですが、状況を聞いたところ、相手の運転手は名前や連絡先は言うものの事故に関する一切のコメントを拒絶したそうです。>それは保険屋がやることで俺が何かしゃべるとそれが問題になる、という理由のようです。>どちらが悪かったかはともかく、謝罪というのはよほどでないとやらないのが文化です。
事故原因の究明が、一番大切ですね。
>かたや日本。>謝罪文化の世界王者と言って過言ではないでしょう。>企業などの不祥事で数名が深々と頭を下げるシーンは嫌というほど見てきました。
>見ている方は溜飲が下がる、という面持ちなのでしょう。
日本人は、感情的な人間ですからね。まず溜飲を下げることが大切です。
>ところが基本的には悪いことをした人が直接謝罪をすることはなく、その個人の名前も特定されず、責任者がそれを代表して謝るのが日本の特徴であります。
そうですね。日本人の社会では、責任の所在が明らかでありませんからね。人々は、意思疎通 (相互理解) で動くのではなく、恣意疎通 (阿吽の呼吸) で動いていますからね。忖度 (推察) は、聞き手の勝手な解釈であり、話し手には何の責任もありませんからね。議論にならない。とかく、この世は無責任。
>本人が出てくるケースはそれが明白である日大アメフト事件や芸能関係の不倫騒動のような場合に限ると思います。
アメフト事件や不倫騒動は、個人の問題ですからね。
>村上春樹氏が2015年の慰安婦問題の騒動のさなか、「日本は相手国がもういいというまで謝るしかない」と発言し、話題になりました。>ノーベル賞候補の小説家のそのベースには謝罪による許しを乞うという日本文化の源流をみるようです。
そうですね。彼は、源流を見ているのでしょうね。日本人には意思がない。意思がない人には、加害者意識がない。つまり、罪の意識にさいなまれることはない。深く反省しない。事柄を掘り下げる知力がない。もっぱら頭を下げる以外に手段がない。
>時代劇を見ていても悪いことをした人がお代官様に頭を地面にこすりつけながら謝罪しているシーンはよく見かけます。>そして、罰でむち打ちの刑になっても謝り続けるのが、日本のスタイルであります。
現実的であり、浪花節の題材になりますね。
>日本の文化とは「わからなければやっちゃえ!」という奇妙な軽さと表裏一体の関係にあります。
そうですね。日和見主義 (機会主義) ですね。どさくさ紛れですね。
>これは現代社会にも見事に受け継がれています。>皆さんもそういう経験はあるでしょう。>私にもあります。>そしてそれがばれると「すみません!」を連発し、許しを求めます。
そうですね。我々は、ナウな感じのする人たちですね。
>我々が小学生のころ、悪さをすると先生がその生徒を立たせ、謝罪を述べさせ、教室の後ろや廊下に立たせるのは当たり前でした。>反省を促すためです。>つまり、お前は悪いのだ、という烙印を押し付けるわけです。
‘勝負あった’ というところですね。
>北米ではこのようなシーンは成立しないでしょう。>悪さをしたその背景を延々と語り、相手の同情を誘います。>自分の真意ではないのにあたかも自分に悪い神が乗り移っていつの間にかそんなことになっていた、といったストーリーを述べるのであります。
‘魔が差した’ ということですね。
>再発防止策についても日本は「対策を考えていきます」と述べるにとどまるのに対し、北米は比較的具体案や対策案をその場で提示したり、検討している旨を伝えます。
彼らは、常に ‘考える人’ ですね。
>ここが大事なのですが、日本は謝罪することで許されると考えている節があります。>ところが北米では罪を認めたうえでどう対処するのか、そちらの方が重要なのであります。>ここが最大の違いであります。
そうですね。彼らには、問題解決の姿勢がありますね。謝罪で事を収めると、再発しますね。’過ちは、繰り返しませぬから’ と言っているようなものですね。
>例えば話題のスルガ銀行。>創業者会長、現社長、専務が辞任します。>多分、他の役員もほぼ退任するとみています。>理由は株主訴訟などを控えているからです。>報じられているのは責任者が辞めるということだけ。>ではこの銀行をどうするか、という道筋は一つも説明されていません。>トップは辞めればいいというわけではなく、この銀行をどうするのか説明しなくてはいけないのです。>外部から経営陣を招くべく第三者委員会を設立するぐらいのプランを述べるべきなのです。
そうですね。’銀行をどうするのか’ が、真の目的ですね。’トップが辞任する’ のは、手段ですね。手段が目的化するのが、わが国の特色ですね。無哲学・能天気の国では、これは仕方のないことだと考えられているのでしょう。
>日本で自虐史観について時々話題に上がります。>それが戦後、GHQにより形成されたとする説明は多いと思います。>それを言えばシベリア抑留の帰還者もだいぶ洗脳されてきたし、共産主義が跋扈していた時に学生運動を通じて色がついた方もいるでしょう。>私はそれら対日政策は日本がもともと持つ謝罪文化を更に推し進めたものの戦後政策の特殊性が突然日本人を変革させたとまでは考えていません。
そうですね。わが国に昔からある謝罪文化が戦後政策で増幅されたのですね。
>許しを得られなければ刀でバッサリ斬られるのが所以であり、「どうか、命だけは…」という哀願になるのです。
鬼が涙を流して謝る話ですね。
>世界の中で日本のポジションを強化するならば謝罪のスタイルは変えていく努力はした方がいいと感じています。
国際社会で名誉ある地位を占めたいと思うのであれば、スタイルを変えた方が良いですね。
>では今日はこのぐらいで。
お疲れ様でした。
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