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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

憲法改正実現本部  

2021-12-13 13:31:53 | 文化

>憲法改正するためには、まずスケジュールを立てるべき ~憲法改正実現本部が初会合   >12/8() 17:40配信 >ニッポン放送「飯田浩司のOK! Cozy up!」 

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>憲法改正に向け、自民党の「憲法改正実現本部」の幹部が初会合を開いた。 >本部長を務める古屋元国家公安委員長の他、安倍元総理や麻生副総裁らも出席し、国民の幅広い理解を得るため全国各地で必要性について丁寧に説明して行くことなど、今後の活動方針を確認した。

 

憲法は我々の暮らしの手段ですからね。暮らしの内容に関する提案が無ければ憲法改正に関する国民の理解も無い。   

 

>飯田)憲法改正「推進本部」から名前を改めたということですが。>高橋)ずっとやる気を問われているから、名前を変えたのだけれども、本当にやる気があるかどうかは、「スケジュールをつくるかつくらないか」ということに依存するのです。 

 

内容の提案が無ければ予定表も必要ないですね。   

 

>飯田)スケジュールをつくるかつくらないか。  

 

提案する内容があるのかないのか、それが問題ですね。     

 

>スケジュールがないということは、やらないということでしょう?   

 

そうですね。やる内容がないのに予定表は作れませんね。    

 

>飯田)お尻が決まっていなかったら、話し合いのための話し合いでしかない。  

 

話の内容がないのにお尻は決められませんね。   

 

>高橋)やりようがないのですよ。>だから目標としてのスケジュールを決めないといけないのだけれど、スケジュールを決めないから、どこまでやる気があるのかわからないですね。 

 

内容がなくては、やる気は出ませんね。   

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

>来年(2022年)の7月に参議院選挙が決まっているでしょう。>飯田)そうですね。 >高橋)維新の松井さんも言っていますが、そのときに国民投票をするのが最も簡単です。 

 

理由ではなく数合わせで決着を図るのすね。   

 

>「スケジュールを決める」ということを上の人はやるべきです。>飯田)上の人が。 >高橋)上の人がスケジュールを決めないと、下は動かないですよ。 >批判は受けるかも知れないですけれど、憲法改正を党是としている党だから、仕方ありません。  

 

党員は何がお困りなのかを国民に熱心に訴える必要がありますね。国民は自民党のお困りの内容を理解していませんね。党是は国民から浮き上がっています。   

 

>憲法改正を党の目標としていないのであれば、スケジュールを決めなくてもいいのですが、目標としているならばスケジュールを決めないと話にならないでしょう。  

 

憲法が我々の生活の手段になっていれば、困る点の有る無しもはっきりしますね。それが見分けられない日本人は政治音痴なのでしょうね。    

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

だから、’自明の理 (self-evident) である’ といった内容の強調の仕方はしない。  

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

周囲の気分・雰囲気を敏感に感じ取る態度が日本人に高く評価されている。それ以外にない。

 ‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)   

日本人は思考を停止しており万事受け身で対処するのが基本姿勢となっている。 

 

>飯田)そうですね。>高橋)国会の憲法審査会はいつもそうなのですけれど、スケジュールが決まっていないので、とうとうと自説を述べて終わりです。>スケジュールを決めないと動かないのです。

 

憲法審査会の面々はきっと美辞麗句を述べ立てているのでしょうね。彼らの論理に国民が熱狂したという話は聞いたことが無い。   

 

>飯田)この70年以上、それで来たということですか? >高橋)そうでしょう。>スケジュールを決めないから。  

 

審査会の面々は政治音痴の象徴ですね。だから国民の熱狂的支持が得られない。国民の要望に対応していないということですね。   

 

>飯田)憲法改正の中身の具体的な話は、むしろコロナ禍だからこそ。 >高橋)そうです。 >コロナ禍だからこそ、緊急事態条項がないと実際に水際措置ができないということになるわけです。  

 

マスコミもそのような事情を大々的に懇切丁寧に国民に分かりやすく取り上げていませんね。    

 

>海外から入国したら、何日間か待機しなくてはならない。>抜けて出たときにどうなるかという話ですけれどね。 >海外であれば逮捕です。 >飯田)そうですね。 >その代わり、不自由を強いるということなので、感染状況がよくなれば即座にそれをやめたり、メリハリをつけられます。>高橋)日本だと「お願い」ですから。 >「こういうことでいいのでしょうか」と思うのが普通ですよね。 >それであれば、具体的にスケジュールを決めてもらわないといけません。  

 

コロナ禍で法律の不備が露呈したのですね。党の主張は外国並みになりたいということですね。      

 

>飯田)今回のコロナ対策も、一方で自粛であるとか、営業の中止を要請と。>高橋)「要請」、「お願い」ばかりです。 

 

日本人の他力本願・神頼みですね。   

 

>飯田)「憲法の『営業の自由』にかかるのではないか」という話が一部からは出て来るのですけれど、「憲法を守れ」という人たちからは出て来ない。 >高橋)出て来ないのが不思議です。 

 

常時と非常時では自由の度合いは異なるべきですね。それは政治家の判断に依るでしょうね。    

 

>先日、国際線で新たな予約を停止するよう航空会社に要請してしまって、海外在留邦人が帰国できないということがあったではないですか。>そうなって初めてわかるのです。 

 

用意周到な考えをする人が政治の中枢には必要ですね。行き当たりばったりでは思慮の深い人とは言えませんね。      

 

>海外にいる人が何万人もいて、帰れなくなって大変だという話になる。 >飯田)移動の自由を制限しているではないですか。 >高橋)あれはまずいですよ。 >飯田)憲法違反ではないかと。 

 

自由の程度は正常時と異常時では異なってしかるべきですね。政治責任者の判断が決め手ですね。     

 

>高橋)そういうことは議論に出て来るのですが、憲法改正はしないのです。  

 

憲法の改正がどうしても必要であるというこうを説明する意見の持ち主がいないのですかね。  

 

>スケジュールを立てていないから、私からすると、「どこまでやる気があるのですか?」 と思います。  

 

きっと必要不可欠であるとの結論に達していないのでしょうね。それでしたら憲法改正は計画倒れになりますから、やっても無駄ですね。       

 

>飯田)憲法を変えずに解釈で来たというところと、その先の「成文憲法がなく、空気感で日本はやっているのではないか」というような指摘もありますが。  

 

成文憲法が無い状態では政治家は政治責任が取れませんね。超法規的ですかね。     

 

>高橋)政治家ですから、ある程度は批判を受けてもらいたいですが、「まずはスケジュールをつくれ」という批判を受けたら、「それについて考える」と言うくらいはしてくれないと困ります。 

 

目的があれば、それを実行するための予定表が必要になりますね。目的の重要性自体に問題が在るのではないでしょうか。       

 

>「やる」と言っても、「いつまでにやるのですか?」ということです。  

 

日本人には意思がない。時間を限れば意思が出るというものでもない。

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

 

>飯田)結局そうなると議論に本腰も入らないし、論点もいつまで経っても明らかにならないと。

 

論点が明らかにならない議論など、よもやま話かこんにゃく問答ですね。    

日本人の文化には形式があって内容がない。だから、形式を換えることに難渋する。これが日本人の保守的な原因である。だから、至る所で手段 (憲法改正) の目的化が起こっている。目的は政治哲学の中にある。

現実 (事実) は見ればわかる。現実の正解は一つしかない。非現実 (考え) の内容はみることができない。だが文章になる。文章にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  そうでなければ我々は、つかみどころのない人間になる。   

大学などの高等教育機関で勉学に励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。  

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。

 

 

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