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世間と社会  

2021-04-14 09:00:43 | 文化

 

>366130        集団主義的な「世間」と個人主義的な「社会」 >宮田一郎          21/04/13 PM05

>現代は「世間」が喪失し、「社会」に取って代わられ、「個人」が漂流しているようだ。

>(リンク)より

> これまでブログや本で「本能・感情・思考」という3つのオクターヴについて書いてきた。>人が何かを思ったり、それを行動に移したりする際、この3つのいずれかがベースになっている。> 3つは順に「個人・世間・社会」に対応しているのではないかと、近ごろ僕 [週刊代々木忠] は考えるようになった。>本能が「個人」、感情が「世間」、思考が「社会」といった具合に。 

 

そうでしょうかね。   

 

> ここまで読んで「世間」と「社会」って同じじゃないのか?と思う人もいるかもしれない。>「個人」は1人1人のことだから混同することはないが、その個人が暮らしている場を「世間」と言っても「社会」と言っても間違いではない。  

 

そうですね。   

 

> しかし「世間」と「社会」には概念的な違いがある。>たとえば「渡る世間に鬼はない」「世間様に顔向けができない」とは言うけれど、「渡る社会に鬼はない」とか「社会様に顔向けができない」とは言わない。>逆に「あの人は社会性がない」「企業には社会的責任がある」とは言っても、「世間性がない」「世間的責任がある」とは言わない。

 

それはそうですね。   

 

> 「世間」は人とのつきあいが大事であり、「社会」はルールや規律が重要になる。>「世間」には合理性では割り切れないところがあるのに対し、「社会」は合理的にできている。> だから「世間」は互酬性、つまり人から何かをもらったり、厚意を受けたりすれば、お返し・恩返しが生じる。>でも、それは多分に気持ちの問題でもあり、これをしてもらったから、必ずこれで返さなければならないといった明確な基準があるわけではない。

 

そうですね。なれ合いですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。

 

> 一方、「社会」のほうはもっと厳格だ。>気持ちが伝わればいいというような曖昧さはなく、売買における値段のように、労働内容と給料があらかじめ決められているように、いわば契約の関係である。

 

立憲主義、人権、民主主義といった近代憲法の諸概念は多様な個人の共生を可能にする基礎であるので普遍的なものとして受け入れなければならないですね。   

 

> 先ほど書いた「世間様に顔向けができない」という言いまわし自体、今はほとんど聞かれなくなった。>それはかつて存在した「世間」がなくなってきているというのも一因ではないかと思う。>そのぶん「社会」はどんどん拡大している。

 

我々の生活空間が大きくなったのでしょうね。社会は世間の範囲を超えているのでしょうね。   

 

> たとえば、痛ましい子どもへの虐待は、地域のコミュニティーが健在だったころには、今ほど起こらなかったはずだ。>もしも隣で怒鳴る声や物が壊れる音がすれば放ってはおけず、「おいおい、そこまで言っちゃあ、この子も立つ瀬がないよ」と介入し、同時に親の愚痴を親身になって聞いてやることで、ガス抜きだってできていただろう。> 夫婦喧嘩をすれば、それを諌(いさ)めたり諭(さと)したりしてくれる人が出てきて、結果、離婚を思いとどまったというケースもたくさんあったはずだ。>つまり、これが「世間」だと思うのである。  

 

そうですね。お互いに触れ合うほどの距離の範囲に生活していたのですね。      

 

> ときに排他性も秘めているけれど、集団主義的な「世間」に対して、「社会」は平等という前提の上に成り立ち、個人主義的である。>個人の権利が保証され、それが脅かされれば人は黙っていない。>セクハラ、パワハラ、モラハラなど、いろいろなハラスメントが発信されるのも、そこが「社会」だからだ。

 

そうですね。我々は地球村という社会の住民になったのですね。   

 

> 「世間」と「社会」、どっちがいいという話ではない。>どちらも必要なのである。>しかし「世間」がなくなっていけば、恋愛が起きにくい。>オーガズムもまず起きないだろう。  

 

そうですね。哲学では家庭は築けませんね。   

 

>地域のコミュニティーといった物理的な距離のみならず、心が身近な人たちと互いに認め合い、支え合う関係の中で、喜びや悲しみを共有できることこそが、いちばんの幸せなんじゃないかと僕は思う。  

 

そうですね。心が身近な人たちと支え合う関係を築きたいものですね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

 

 

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