ローマ2・1~16/ローマ書連講(5)
神の怒りは、人間がその欲することをなすに任せる(引き渡す/1・24、26、28)という仕方で表わされた。その結果、人間は偶像礼拝へと走り、性的放縦に耽り、自己中心的生き方をさえ是とするようになった(1・18~32)。そのときパウロは 〝こうした罪は自分とは関係ない〟 と思い上がった人(代表ユダヤ人)を想定し、 〝ですから、すべて他人を裁く人よ・・・そうすることによって、自分自身を罪に定めているのです。裁くあなたが同じことをしているからです・・・〟 と言います。(照ルカ18・9~14/ヨハネ8・1~11)。さらにそのようなことを行なう人と、人を裁くことを常習的に行なっている人とに下される神の裁きは公正であると言明し、〝自分は神の裁きの圏外にあると思っているのですか〟 と戒め、神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじず、悔い改めるように促します(2~4)。そして 〝悔い改めに導く神の慈愛を軽視し、頑な心を悔い改めようとしないことは、神の正しい裁きの現われる御怒りの日に、自分のために神の怒りを蓄えているのです〟(5)と警告します。
当時ギリシア・ローマ世界の中で、ユダヤ人社会は異邦人社会に比べたら道徳的水準が高かったことが知られています。特にローマに住むユダヤ人は他人=隣人を裁く傾向が強かったかもしれません(考 皇帝の生活/クラウディウス帝によるローマからの追放?49年、使徒18・2)。
その御怒りの日、神は各々の行ないに応じて報いをお与えになります(6)。7~10節、12~16節でパウロは 〝信仰のみによる義〟 と真向うから対立する 〝行ないによる義〟 を語っているのではありません。パウロはここで非キリスト教徒について考えており、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、律法を行なう者、良心の命令に従って正しく生きる者は、正しいと認められるが、罪を犯した者は裁かれる、と述べているのです。パウロはこの後に、人はみな律法、良心に示されている神の正しい要求を満たすことはできないことを明言します(照3・10、23/6・23)。換言すると、パウロは 〝行ないによる義〟 という広く一般に妥当する教えを肯定したうえで、その神の秩序が人間の罪・弱さのゆえに崩壊したこと、そして、この神の秩序を回復するために、神の力・奇蹟=キリストの十字架と復活の福音が要求されたこと、そのキリストの福音を信じる者は、ただその信仰のみによって義とされ、救われること、そして神の力たる恵みの福音によって救われたキリスト者は、その信仰に続く神が備えてくださる 〝行い〟 によっても義とされ、報いを与えられる、と言っているのです(照エペソ2・1~10/考アブラハムの義 ローマ4・1~5とヤコブ2・20~24)。そして「私の福音によれば、神の裁きは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた罪を裁かれる日に行なわれます」(16)とパウロは記します。「隠れた所で見ておられる神」(マタイ6・4)は、人間の隠れたこと=罪を公正に裁かれるのです。隠れたことを見ることのできない人間は正しい審きはできません。だから「裁いてはならない」のです。裁くことは自らを神とし、主であられる神を忘れ、自らが神に裁かれることを見失わせるのです(照マタイ7・1~5/14・10~13)。
神の義と神の怒りが表裏一体となって啓示されている神の力なる福音(1・16~18)によって、神の裁きが行なわれることを知り、「ただ福音にふさわしく生活し」ていきたいと願います(照ピリピ1・27)。

神の怒りは、人間がその欲することをなすに任せる(引き渡す/1・24、26、28)という仕方で表わされた。その結果、人間は偶像礼拝へと走り、性的放縦に耽り、自己中心的生き方をさえ是とするようになった(1・18~32)。そのときパウロは 〝こうした罪は自分とは関係ない〟 と思い上がった人(代表ユダヤ人)を想定し、 〝ですから、すべて他人を裁く人よ・・・そうすることによって、自分自身を罪に定めているのです。裁くあなたが同じことをしているからです・・・〟 と言います。(照ルカ18・9~14/ヨハネ8・1~11)。さらにそのようなことを行なう人と、人を裁くことを常習的に行なっている人とに下される神の裁きは公正であると言明し、〝自分は神の裁きの圏外にあると思っているのですか〟 と戒め、神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじず、悔い改めるように促します(2~4)。そして 〝悔い改めに導く神の慈愛を軽視し、頑な心を悔い改めようとしないことは、神の正しい裁きの現われる御怒りの日に、自分のために神の怒りを蓄えているのです〟(5)と警告します。
当時ギリシア・ローマ世界の中で、ユダヤ人社会は異邦人社会に比べたら道徳的水準が高かったことが知られています。特にローマに住むユダヤ人は他人=隣人を裁く傾向が強かったかもしれません(考 皇帝の生活/クラウディウス帝によるローマからの追放?49年、使徒18・2)。
その御怒りの日、神は各々の行ないに応じて報いをお与えになります(6)。7~10節、12~16節でパウロは 〝信仰のみによる義〟 と真向うから対立する 〝行ないによる義〟 を語っているのではありません。パウロはここで非キリスト教徒について考えており、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、律法を行なう者、良心の命令に従って正しく生きる者は、正しいと認められるが、罪を犯した者は裁かれる、と述べているのです。パウロはこの後に、人はみな律法、良心に示されている神の正しい要求を満たすことはできないことを明言します(照3・10、23/6・23)。換言すると、パウロは 〝行ないによる義〟 という広く一般に妥当する教えを肯定したうえで、その神の秩序が人間の罪・弱さのゆえに崩壊したこと、そして、この神の秩序を回復するために、神の力・奇蹟=キリストの十字架と復活の福音が要求されたこと、そのキリストの福音を信じる者は、ただその信仰のみによって義とされ、救われること、そして神の力たる恵みの福音によって救われたキリスト者は、その信仰に続く神が備えてくださる 〝行い〟 によっても義とされ、報いを与えられる、と言っているのです(照エペソ2・1~10/考アブラハムの義 ローマ4・1~5とヤコブ2・20~24)。そして「私の福音によれば、神の裁きは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた罪を裁かれる日に行なわれます」(16)とパウロは記します。「隠れた所で見ておられる神」(マタイ6・4)は、人間の隠れたこと=罪を公正に裁かれるのです。隠れたことを見ることのできない人間は正しい審きはできません。だから「裁いてはならない」のです。裁くことは自らを神とし、主であられる神を忘れ、自らが神に裁かれることを見失わせるのです(照マタイ7・1~5/14・10~13)。
神の義と神の怒りが表裏一体となって啓示されている神の力なる福音(1・16~18)によって、神の裁きが行なわれることを知り、「ただ福音にふさわしく生活し」ていきたいと願います(照ピリピ1・27)。
