ローマ14・1~12/ローマ書連講(38)
ルターがキリスト者とは何であり、どのように生きるべきかを書いた「キリスト者の自由」は〝キリスト者は何ものにも従属しない自由な主人であり、同時に、すべてのものに従属し仕える僕であること〟即ち〝キリスト者の生は信仰のみによって満たされる故に律法の行いから自由であると同時に、信仰から自ずとあふれ出る愛の行いへも自由であること〟を教えている(岩波キリスト教辞典)。このことをパウロは「私は誰に対しても自由ですが・・・・・・ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。・・・・・・弱い人々には弱い者になりました・・・・・・すべての人にすべての者となりました・・・・・・私はすべてのことを福音のためにしています」(Ⅰコリント9・19~23)と述べています。
あらゆる禁制や禁忌から完全に解放された自由なキリスト者パウロが、ここで「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れ(迎え入れ)なさい。その考えを裁いては(批判しては)いけません」と〝食べ物〟と〝日の守り方〟の問題を取り上げ、警告します。それはパウロがこうした日常の些細な事柄によって教会の一致が妨げられ、分裂の恐れがあることを知っていたからでしょう。
異教の神々に供えられた肉でも何でも食べてよいと信じている人は、偶像に供えられた肉を避けて、また他の理由から野菜しか食べない信仰の弱い人を軽蔑し、見下してはなりません。逆に菜食主義者は肉を食べる人は信仰上の誤りを犯していると侮ってはいけません。なぜなら「神がその人をも受け入れられたからです。神ご自身がその家族として受け入れた人、即ち、他人(神・キリスト)の僕を裁くあなたはいったい何者なのか。僕が立つも倒れるも、生き残るも退けられるも、その主人(神・キリスト)との関係次第です。主は、その人を立たせることがおできになるからです(照Ⅰコリント10・14~32)。また、ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、どの日も同じだと考える人もいます(照コロサイ2・16~17)。
こうした問題については自らの確信に基づいて行うべきです。即ち「主のために」「神に感謝して」行うことです。なぜなら神の御子キリストは死んだ人にも生きている人にも主となるためにこそ、十字架に死に、そして復活されたからです。キリスト者は誰もがこの主キリストによって生かされた僕です。それ故、私たちは生きるにしても、死ぬにしても、主のものです。ですから主の僕・あなたの兄弟を裁き、蔑んではならないのです(照14・15)。終りの日、私たちは死者と生者の主キリストの裁きの座に立ち、善であれ悪であれ、その肉体にあって行った行為に応じて報いを受けることになります(Ⅱコリント5・10)。私たちは「裁いてはなりません。裁かれないためです」(マタイ7・1)との主のお言葉を聞き続け、キリスト者の実際生活の諸問題に関して独善的、排他的になることなく、寛容の心を持ち、他者の良心と確信を尊重し、主に在る一致を保つ教会でありたいと祈り願います。

ルターがキリスト者とは何であり、どのように生きるべきかを書いた「キリスト者の自由」は〝キリスト者は何ものにも従属しない自由な主人であり、同時に、すべてのものに従属し仕える僕であること〟即ち〝キリスト者の生は信仰のみによって満たされる故に律法の行いから自由であると同時に、信仰から自ずとあふれ出る愛の行いへも自由であること〟を教えている(岩波キリスト教辞典)。このことをパウロは「私は誰に対しても自由ですが・・・・・・ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。・・・・・・弱い人々には弱い者になりました・・・・・・すべての人にすべての者となりました・・・・・・私はすべてのことを福音のためにしています」(Ⅰコリント9・19~23)と述べています。
あらゆる禁制や禁忌から完全に解放された自由なキリスト者パウロが、ここで「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れ(迎え入れ)なさい。その考えを裁いては(批判しては)いけません」と〝食べ物〟と〝日の守り方〟の問題を取り上げ、警告します。それはパウロがこうした日常の些細な事柄によって教会の一致が妨げられ、分裂の恐れがあることを知っていたからでしょう。
異教の神々に供えられた肉でも何でも食べてよいと信じている人は、偶像に供えられた肉を避けて、また他の理由から野菜しか食べない信仰の弱い人を軽蔑し、見下してはなりません。逆に菜食主義者は肉を食べる人は信仰上の誤りを犯していると侮ってはいけません。なぜなら「神がその人をも受け入れられたからです。神ご自身がその家族として受け入れた人、即ち、他人(神・キリスト)の僕を裁くあなたはいったい何者なのか。僕が立つも倒れるも、生き残るも退けられるも、その主人(神・キリスト)との関係次第です。主は、その人を立たせることがおできになるからです(照Ⅰコリント10・14~32)。また、ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、どの日も同じだと考える人もいます(照コロサイ2・16~17)。
こうした問題については自らの確信に基づいて行うべきです。即ち「主のために」「神に感謝して」行うことです。なぜなら神の御子キリストは死んだ人にも生きている人にも主となるためにこそ、十字架に死に、そして復活されたからです。キリスト者は誰もがこの主キリストによって生かされた僕です。それ故、私たちは生きるにしても、死ぬにしても、主のものです。ですから主の僕・あなたの兄弟を裁き、蔑んではならないのです(照14・15)。終りの日、私たちは死者と生者の主キリストの裁きの座に立ち、善であれ悪であれ、その肉体にあって行った行為に応じて報いを受けることになります(Ⅱコリント5・10)。私たちは「裁いてはなりません。裁かれないためです」(マタイ7・1)との主のお言葉を聞き続け、キリスト者の実際生活の諸問題に関して独善的、排他的になることなく、寛容の心を持ち、他者の良心と確信を尊重し、主に在る一致を保つ教会でありたいと祈り願います。
