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香柏だより

福岡市東区の香椎バプテスト教会です。
聖書の言葉には、ひとを生かす力があります。
礼拝では手話通訳もあります。

今日の教会学校・夢を解くヨセフ

2015年10月11日 | CS (教会学校)
先週から、
新しくヨセフの物語が始まりました。
残念ながら、
本日は、教会学校は別に開かれず、
教会の宣教50周年記念礼拝に
子どもたちも加わることになります。

ただ、気になるヨセフのその後をチェックしておきましょう。





エジプトで、ヨセフは
ポティファルという地位ある人の家の
召使いとして暮らすことになりました。

ところがあらぬ疑いをかけられて、
牢屋に入れられることになります。
そのとき、同じ牢屋にいた2人の見た夢を聞いて、
その夢の意味を説き明かします。

うち1人が牢やから戻ることができました。
やがて、エジプト王もまた、
自分の見た夢で苦しむことになり、
かつて夢の意味を解いたヨセフが呼ばれます。

ヨセフは、王の不思議な夢の話を聞き、
エジプトに7年後に飢饉が起こることを説明しました。
王は感心し、ヨセフをエジプト第二の地位に置きます。
そのときのために食糧を蓄めておく政策により、
エジプトは国家的危機から救われたのでした。

ヨセフは不幸な人生を歩んでいるようでしたが、
神さまは祝福を用意してくださっていたのです。

今日の教会学校・売られたヨセフ

2015年10月04日 | CS (教会学校)
アブラハムの息子がイサク、その息子にヤコブ。
そのヤコブには息子が12人いました。
ヤコブのお嫁さんのうち、一番愛していたラケルからは
なかなか子どもが産まれなくて悩みました。
やっと産まれた子が、ヨセフ。
もう一人、弟がベニヤミン。
しかし、このときラケルは亡くなります。

父ヤコブが年をとって生まれた2人でしたが、
とくにヨセフは何かと父親に可愛がられました。
羊飼いの兄たちは、そんなヨセフが面白くありません。

ヨセフは、夢を見る癖がありました。
その日、兄たちの麦の束が、ヨセフの麦の束を拝んだ夢を見た、と
ヨセフが10人の兄たちにうれしそうに話しました。

おれたちがおまえを拝むとはどういうことだ?
兄たちはヨセフを憎らしく思いました。

次は、太陽と月と星が11、ヨセフを拝んだ夢を見た、と話します。
父と母と兄たちがおまえを拝むとでもいうのか?
いつか機会があったら、なんとか痛い目に合わせてやろうと皆思いました。





羊の世話をしに兄たちが出かけたとき、
ヨセフは父親から、兄たちを探しに行ってくれと頼まれました。
兄たちは、生意気な弟を見ると、
そのきれいな上着をはぎとり、ヨセフを穴に投げ入れてしまいました。

ユダなどは、
誰も見ていないからこのチャンスに殺してしまおう、と提案しました。
長男のルベンは、殺すのはひどいから、
穴に落として懲らしめるだけにしよう、と答えました。

しかし、兄たちが穴に戻ってみると、ヨセフがいません。
実は、通りがかりのミデヤン人がヨセフを穴から助け出して、
さらに荒野のイシュマエル人に売り飛ばしてしまっていたのでした。

兄たちはわけが分かりません。
兄たちの手には、ヨセフの立派な服だけがありました。
これを持ち帰ったとき、父親にどう言い訳をしたらいいのか。
皆は考えました。
ヤギの血をその服につけて、
あたかもヨセフが野の獣に襲われた死んだように演出しました。

かわいそうなヨセフ。
しかし、神さまはヨセフを使って、
壮大な計画を実現すべく立てていたのでした。
ヨセフは、エジプトでドラマチックな運命にもてあそばれつつも、
つねに神さまの守りがあって、
エジプトの王に次ぐ第二の権力者になっていくことになりました。

辛い、理不尽な目に合うことがあります。
しかし、神はそのことを通して、
皆が神に従えばすばらしい報いがあるように決めていらっしゃいます。
気落ちしないで、神の助けを待てるとよいですね。

10月の教会学校

2015年09月29日 | CS (教会学校)
教会の前を通ると、
この何ヶ月か、
どこか似つかわしくないポスターが見られます。

10月にも、
毎週、子どもたちを教会はお迎えします。
そのための予告編のようなポスターですが、
いま少し、お待ち下さい。

ポスターはできているのですが、
教会に届けることができていないのです。
でも、
インターネットの世界では、
先行公開いたしましょう。





新たなシリーズが始まります。
まずは、ヨセフ。
イエスの父のことではなく、
アブラハム・イサク・ヤコブときてその次のヨセフです。

なんのことだろう、と思った方、
どうぞ10月4日をお楽しみにお待ちください。

旧約聖書の中でも、
ドラマチックな一生を詳しく描かれた
代表者の一人であることの間違いない、
ヨセフについてのお話が、4日の教会学校で語られます。

なお、11日は、
教会の宣教50周年記念礼拝のため、
子どもたちも三階での礼拝に参加します。
18日は、分かりやすい聖書のお話ということで、
同様に三階での礼拝に加わります。

そして、25日が、
ルツという女性の物語。
日本にも、時々「ルツ子さん」という名前の人がいます。
たいてい、この聖書のルツさんの名前からきています。
どんなステキな女性なのか、興味ありますね。

今日の教会学校・タラントのたとえ

2015年09月27日 | CS (教会学校)
テレビに出ている「タレント」さん。
英語で「才能」のような意味があります。
この言葉はもともと、聖書にあるギリシア語でした。
発音としては「タラント」に近いものです。

イエスさまのたとえ話の終わりは、
この「タラント」にまつわるものでした。

金持ちの主人が旅に出て、しばらく留守にします。
その間、管理を任せるために三人が選ばれました。
一人には、5タラントの金を預けました
これは何億円にもあたるような金額でした。
もう一人には2タラント、これでも億に届きます。
最後の一人には1タラント、
それでも店を興すには十分でした。

はじめの二人は、
預かった資金を利用して商売を始め、
財産をそれぞれ二倍に増やしました。





ところが、三人目は、
土の中にその資金を埋めてしまいました。

やがて主人が戻ってきました。
財産を二倍にした管理人は大いにほめ、
これからもまたよろしくとにこにこでした。

ところが、土の中に隠してしまったという三人目には、
主人は厳しい態度を示しました。
三人目は、主人がひどいけちでしぼりあげる人だから、
減らしでもしたら大変だ、と隠していたというのです。

主人はこの管理人を外に放り出してしまいました。
怠け者だ、と非難して。

与えられたお金の金額の多い・少ないが問題ではないのです。
それを活かそうとしたかどうか。
お金も才能も、
使わなければ、実は何の価値もないのですね。

神さまは、あなたの中にある何か特別なものをご存じです。
きっと、応援してくださっています。

今日は、中秋の名月。
美しい月は、太陽の光を反射して輝いています。
みなさんの心にも、神さまの輝きが映されますように。

2015年09月24日 | CS (教会学校)
20日の教会学校では、
召天者記念礼拝のためにお見えになった方のうち、
小学生の姉妹の姿もありました。
昨年も、このときに来てくれました。

この日の内容は、「10人の娘」でした。
すでに20日のこの香柏だよりで
そのストーリーを紹介しています。

教会学校の教師は、
このとき、「油」とは何だろう、と
ふと考えました。
ふだん教会学校に来ていない小学生に、
どのように語ればよいのだろうか、と祈り心でした。

それは、自分が作りだした自分の元気ではなく、
つまり自分がただ頑張って生み出したものではなくて、
神さまからもたらされる力のようなものだ、と伝えました。

体験的にもあるでしょう。
自分でない、別のところから
何か力をもらったようなことが。

それは、きっと神さまからの応援だったのです。
その油に気づくこと、それが信仰なのでしょう。
そうすると、その油をつねに携帯していることになります。
備えがある娘たちのように。

この娘たちも、うとうとしてしまいました。
イエスさまが最後に、「目をさましていなさい」と言ったのは、
この備えていた娘たちへ向けてでもありました。
人間は弱いものです。肉体も、心も。
うとうとしてしまいます。
でも、神さまからの油を備えていたならば、きっと、
「目をさましている」ことになる、という気がしました。





ワークの問題も、その姉妹には考えてもらいました。
さすが小学上級生、よく理解してくれました。
でも、それは聖霊によらなければ、
答えられないようなものであったと思います。

すでに、「油」が注がれていたのだと思います。

今日の教会学校・10人の娘

2015年09月20日 | CS (教会学校)
ある人に10人の子どもがいた、という意味ではありません。
これは、偉い人に仕える10人の若い女性の仕事のことです。

結婚式が夜行われるというので、
娘たちは仕事を言い渡されました。
花婿が迎えに来ますから、
そのときに明かりをもって付きそうのです。

火をつけるランプは持っています。
10人の娘のうち、5人は、
余分の油もちゃんと用意していましたが、
あとの5人は、油は用意していませんでした。





なかなか花婿がは来ません。
皆、だんだん眠くなってきてしまいました。

夜中、突然「来たぞ」との声がして、皆目覚めました。
それぞれランプを持って出迎えに行きました。
しかし、間もなく5人の娘のランプは、
火が消えそうになりました。
これはいけない、買いに行かないと……。

そうこうしているうちに、
他の5人の娘たちは、
花婿と花嫁と一緒に、結婚式に出かけてしまいました。

イエスさまはこの話をしたあと、
「目を覚ましていなさい」と言いました。
目を覚ましているのが一番よかったのです。
ただし、うっかり寝てしまっても、
ちゃんと余分の油を準備していた娘のほうは、
結婚式に出ることができました。

この花婿と花嫁の結婚は、たとえば、
神さまが世界の終わりに、
キリストを信じた人々を迎えに来る様子を描いています。
そのときに、備えができているかどうか、
それが問われていたのです。

今日の教会学校・王様の招待

2015年09月13日 | CS (教会学校)
今週は、合同礼拝なので、
基本的に教会学校は開きません。
でも、お話は続けます。
イエスさまのたとえ話です。

ある王様の、息子の結婚式が開かれようとしています。
たくさんの人に祝ってほしくて、
王様は招待状を多くの人に送りました。
会場にはごちそうが並べられ、
王様の家来たちが人に呼びかけにも行きました。

けれども、人はちっとも集まってきません。
王様は家来をまた呼びに行かせました。
すると、招かれていた人々は、
畑に行ったり、仕事に出かけたりしました。
あげく、その家来を殺してしまう者もいました。

王様は怒り心頭に発し、
その人々に罰を下しました。
ふさわしくない者たちばかり招待してしまった、と王様は思い、
今度は、人通りの多いところに家来を行かせ、
誰でもいいから呼び集めなさいと命じました。

人々がやってきました。
王様はこれをよしとしましたが、
その中にひとり、披露宴に出る服装をしていない人がいました。
王様は、この人はだめだ、と外に出してしまいました。





不思議なたとえ話です。
イエスさまは、このお話の最後にこう言いました。
「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」

やはり、王様は神さまの気持ちを表しているのでしょう。
神さまは、神の国においで、と呼びかけました。
けれども、自分のことばかり考えている人は、
神さまの招きなどに興味がありませんでした。
そればかりか、神さまの言葉を伝えた人に、
邪魔者だとしてひどい扱いをしたのです。

また、せっかく神さまの呼びかけに応じた人の中にも、
ふさわしい服装をしていない人は、
神の国に入れてもらえませんでした。

この服とは、どんな服でしょうか。
立派な才能でしょうか。
よい子になることでしょうか。
いろいろ考えてみるとよいでしょうね。

私は、次の聖書の言葉と重なってくるように思いました。
「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ13:14)

ギター伴奏と礼拝

2015年09月12日 | CS (教会学校)
小学六年生にしては早いのでしょうが、
ギターに興味を持った子がいて、
好きで続けていると、
やがてだんだんうまくなってきました。

教会学校の讃美にも、
コードネームが付されたものがありますから、
「やってごらん」と仕向けてみると、
なかなかいい感じに弾けたではありませんか。





香椎バプテスト教会では、
教会学校とはいうものの、
これは「こどもの礼拝」という位置づけをしています。
ですから、会堂の礼拝と並行して進みますが、
担当する教師は、ここで立派に礼拝を務める自覚をしています。

つまり、
こどもの礼拝を片づけてから、本当の礼拝に加わろう、
といった感覚ではないのです。

この礼拝に、
自分の伴奏で参加できる、というのは、
子どもにとっても、意義あるものと言えるでしょう。

礼拝は、まさに「サービス」であり、
「奉仕」として自ら担っていくのです。

今日の教会学校・ぶどう園の主人

2015年09月06日 | CS (教会学校)
ぴんとこないかもしれませんね。
たとえば、稲刈りの日を想像してみましょう。
大急ぎで刈り取らないといけないので、
農家はその日だけ、アルバイトを募集するとします。

こういう仕事を待っている人が集まる場所があって、
誰か雇ってくれないかなあ、と立っています。

朝早く、農家の主人(かなりリッチです)がやってきました。
何人かの人を連れて行きました。給料は一万円だと言います。
農家の主人は、まだ人手が必要だと思い、
昼頃、その場所に来ました。
雇い主がいなくて困って立っている人がいました。
主人は、その人たちを連れて行きました。約束は一万円です。

その後も主人は、人を雇うためにそこに来ましたが、
その都度、仕事がなくて立っている人がいるので、
次々と連れて行きました。

あと一時間で日が暮れる、と言う頃になっても、
まだ人がいましたので、主人は連れて行きました。





日が暮れて、仕事が終わりました。
主人は、仕事の人たちを呼び集めました。
まず、最後に一時間だけ働いた人が呼ばれました。
それぞれ、一万円ずつもらいました。

「へえ、あいつらでも一万円もらえるのか。
 この主人は気前がいいぞ。
 だったら俺たちは三万円くらいもらえるんだろうな」
朝から働いていた人たちは、そう思っていました。

やがて、朝からの人たちも集められ、
それぞれ一万円だけ与えられました。
「えっ? おかしいんじゃない?」
人々は不満を漏らしました。

これはイエスさまのたとえ話です。
実際に目の前であった出来事ではありませんが、
イエスさまは、
神の国はこのようなところだ、と教えるために、
この物語をお話ししました。

皆さん、神の国って、不思議なところだと思いませんか。
こんな不公平があっていいのでしょうか。

ここから、いろいろ考えてみましょう。
考えるヒントをひとつ挙げてみます。
あなたは、この物語を聞いて、
自分はどこに登場したと思いましたか。

9月のポスター

2015年09月05日 | CS (教会学校)
さあ、9月が始まりました。
学生や生徒・児童の皆さんは、
休みからいわば日常の学校生活に戻る時期です。
辛い気持ちの人もいるかもしれません。
友だちと過ごす毎日の始まりを楽しんでいる人もいるでしょう。

教会学校は、夏休みということはなく、
8月も毎週日曜日、朝10:30から開かれていました。
正確には、10:30からは、
教会の普通の礼拝に参加して始まります。
11:00前あたりから、
子どもだけのクラスに分かれることになるのです。

その9月の内容をお知らせするポスターが、
またまたできました。





何のポスターか、と思ってくださった方、
ありがとうございます。
見てもらえることが何よりです。

テーマは「タレント」。
ポスターにも記されていますが、
「タレント」という皆さんよくご存じの言葉は、
聖書からきています。

9月は、その言葉の由来となるエピソードをはじめ、
不思議な、そして聞いて元気の出るような話が待っています。

香椎高校の皆さんは、
基本的にはこのプログラムとは別になりますが、
どうか注目してくださいね~。

今日の教会学校・赦されたしもべ

2015年08月30日 | CS (教会学校)
「ゆるす」という字はふつう「許す」ですね。
でも教会では、もうひとつ「赦す」も使います。
これらは、違う意味で使い分けています。

「赦す」には特に、高い地位のひとが罪をないと認める、
そんな意味がこめられていることがあります。
神さまの「ゆるし」は、この字のほうが感覚が近いと思います。

さて、弟子のペテロがイエスさまに尋ねました。
誰かが私に罪を犯しました。
ゆるすのは、何度まででしょうか。
7度ゆるしたら、大したものですよね。

イエスさまは、
7の70倍までゆるしなさい、とおっしゃいました。
これはもう、いくらでも限りなく、と言っているのと同じです。





イエスさまは続いて、たとえ話をなさいました。
王様に、ものすごい借金をした家来がいました。
日本でいま二番目にお金持ちの人のもつお金くらいです。

家族も財産も全部売って支払うように、王様は命じました。
それでも足りないとは思いますけどね。
この家来は、もう少し待ってくれと心から謝り、頼みました。
王様は気の毒に思い、この家来の借金を
全部ないものとしてあげました。すごいですね。

ところがこの家来、ゆるされて外に出たとき、
自分が小さな車の値段くらいの金を貸していた人を見つけました。
たしかに安くはないけれど、
さきほど自分がゆるされた額に比べると、
ほんのわずかなものと言っていいと思います。

ところがこの家来、その人に迫り、
返せないなら牢屋にぶちこんでやる、と捕まえたのです。
人々は、これを見て悲しくなりました。
そして王様はこの話を耳にすると、お怒りになりました。
あたりまえですね。

バカな家来だと思いますか?
でも思うのです。
つい昨日、あるいは今日、
私はこの家来と、同じことをしていたのではないか、と。

ポスターと香椎高校

2015年08月28日 | CS (教会学校)
8月の教会学校の予定をお伝えするポスター、
ご覧になりましたでしょうか。

これは教会の一階、
小さな駐車スペースの壁の
黒板の一部です。

外から見ると、
こんなところに子どもがいるのか分からない、
そんな雰囲気を与えているかもしれないので、
子どものための教室がありますよ、ということを
通る方にお知らせする目的で、
この夏から掲示を試みました。





ということは、また9月も
新しいポスターを?

そのつもりです。
お楽しみに。

この通りは、香椎高校に面しています。
でも、香椎高校生が
普通通る道ではないはずの道なのです。
門から、駅とは反対側ですから。

高校生の皆さん、
ご覧になった方、お声を聞かせてください!

今日の教会学校・愚かな金持ち

2015年08月23日 | CS (教会学校)
イエスさまは、
いろいろな問題を解決してくださいます。
それで、一人の人が相談をもちかけました。
「父親の遺産問題を解決してください」

イエスさまは、それは相談に乗れない、とおっしゃいました。
本当に大切なものは、お金以外にあるのです、と。
そして、こんなお話をなさいました。

金持ちが、財産が貯まったので大きな倉をつくり、
そこに財産をがっぽり貯めておこう、とほくそ笑みました。
来年もこうしてお金がいっぱいだ、と。

それを見た神さまは、
おまえは今夜命を取られることを知らないのか、と
お怒りになりました。





イエスさまは、
本当の宝物は、地上にはたまりません、と言いました。
本当の宝物、永遠にのこるものは、天にあるのです。
自分が宝だ、と思ったら、
それを天にたくわえるようにしなさい、と。

これはどういうことなのでしょうね。
すぐに分かりにくくてもかまいません。
これから、ずっと心のどこかに置いて、
考えていくようにしましょう。

今日の教会学校・よいサマリヤ人のたとえ

2015年08月16日 | CS (教会学校)
今週から、教会学校では、
イエスさまの話された「たとえ話」をあつかいます。

本来「たとえ話」は、
分かりやすく理解できるようになったはずですが、
時代や生活環境が変わると、
私たちには伝わりにくいこともあります。

いいのです。細かなところがピンとこなくても。
イエスさまの「心」を感じとるようにしましょう。





まずは、有名な「よいサマリヤ人のたとえ」です。

悪者に襲われて死にそうになっていたユダヤの人を、
ユダヤの祭司やレビ人、つまり
ユダヤの宗教のえらい人たちは、
見て見ぬふりをして離れて歩いて去っていきました。

ところが、ユダヤの人にいじめられていた、
サマリヤ地方の人は、
倒れている人を見て、かわいそうに思いました。
助け起こしてろばに乗せ、
町まで運び、治療を頼みました。
また、必要なお金も払ってくれました。

このように、人に親切にしましょう――ではないのです。

実はこのたとえ話は、
あるユダヤの律法学者がイエスさまのところに来て、
永遠の命を求める方法を尋ねたときに話されました。
イエスさまは、となり人を愛するというユダヤの律法を告げました。
学者は、自分はちゃんとやっている、と自慢しました。
イエスさまはそのとき、このたとえ話をなさいました。

「となり人になったのは誰なのか」とイエスさまは尋ね、
「同じようにしなさい」と命じました。

親切にすべき相手は、たぶん、
私たちが一番嫌いで近づきたくない相手です。
その人に自分から近づいていけるかどうか、
イエスさまは私たちに問うておられます。

今日の教会学校・ヤコブの格闘

2015年08月09日 | CS (教会学校)
今日は教会学校はお休みで、
戦後70年を記念する合同礼拝に加わりますが、
お話はここでご紹介します。

誠実な生き方を始めたヤコブは、
苦労して好きな人と結婚できました。
そのために20年間も、地道に働いたのです。

それから多くの羊などの家畜や財産を得て、
故郷に帰ることにしました。
ただ、兄エサウがそこにいることが気がかりでした。

騙すようにして兄から祝福を奪ったヤコブです。
殺されそうになっていたヤコブです。
今顔を見ると、兄は自分を殺しにかかるのではないでしょうか。

よし、と思い切っても、また立ち止まります。
やっぱり怖い、と。

ヤコブはまだ気づいていませんでした。
この恐れは、頑固な「自分」によるものである、と。





ある夜、ヤコブは、
力強そうな男と出会いました。
すもうをとろう、と言われます。
ヤコブは応じました。

なかなか勝負がつきません。
夜が明けそうになってきました。
相手は、ヤコブの脚をたたき、
もう夜明けには帰っていく、と言いました。

ヤコブは、この不思議な人がただものではないと知りました。
きっと、神さまの使いなんだ、と思いました。
――どうか、祝福をしてください。でないと、離しません。

その人は言いました。
――ヤコブ。おまえは今日から、イスラエルと呼ばれる。
  神と戦い勝つという意味だ。

脚をたたかれたのは、
ヤコブが、自分の力で生きていく、と
思い込んでいたからでしょう。
ヤコブは、自分ひとりの力で生きているのではないと分かり、
どうしても神に祝福してもらいたい、
自分の力でなく、神に愛されたい、と思いました。

神の使いは、それを分かってくれたのでしょう。
ヤコブはこの後、エサウから命を狙われず、
エサウに許され、故郷の土地の一部をもらいました。