11日午後の祝会では、
ゲストの方々による
讃美のささげものも続きました。
デフバプテスト教会関係でなじみの先生方は、
美しく揃った手話讃美。
手話というのは、日本語を訳すときに
解釈や地域・個人の差などにより、
様々な手話で著すことが可能な言語です。
ですから、このようにシンクロするためには、
綿密な打ち合わせと練習が必要です。
表面の言葉の奥にこめられた思いや信仰が、
その手話の形や動きの中にふんだんに現れていました。

教会員から
ピアノ演奏も献げられました。
讃美歌を
美しくアレンジしたもので、
心に触れ、揺らす何かがこもっていました。
それを霊と呼べばよいのでしょうか。
また、遠方からわざわざ
ハープをお持ちくださった方もいて、
美しい調べを以て
讃美をささげてくださいました。
ハープの生演奏なんて、
そうそう聴けるものではありません。

これはアイリッシュハープという中型のサイズですが、
小型のサウルハープの演奏もあり、
優雅で人を癒すその響きを味わわせて戴きました。
イスラエルの初代王サウルの精神的不安定を
仕えたダビデが竪琴で癒したという聖書の記録に基づいた、
このサウルハープは、日本のメーカーが製造したのだそうです。
聖書に由来するネーミングが、なんだか素敵でした。
ゲストの方々による
讃美のささげものも続きました。
デフバプテスト教会関係でなじみの先生方は、
美しく揃った手話讃美。
手話というのは、日本語を訳すときに
解釈や地域・個人の差などにより、
様々な手話で著すことが可能な言語です。
ですから、このようにシンクロするためには、
綿密な打ち合わせと練習が必要です。
表面の言葉の奥にこめられた思いや信仰が、
その手話の形や動きの中にふんだんに現れていました。

教会員から
ピアノ演奏も献げられました。
讃美歌を
美しくアレンジしたもので、
心に触れ、揺らす何かがこもっていました。
それを霊と呼べばよいのでしょうか。
また、遠方からわざわざ
ハープをお持ちくださった方もいて、
美しい調べを以て
讃美をささげてくださいました。
ハープの生演奏なんて、
そうそう聴けるものではありません。

これはアイリッシュハープという中型のサイズですが、
小型のサウルハープの演奏もあり、
優雅で人を癒すその響きを味わわせて戴きました。
イスラエルの初代王サウルの精神的不安定を
仕えたダビデが竪琴で癒したという聖書の記録に基づいた、
このサウルハープは、日本のメーカーが製造したのだそうです。
聖書に由来するネーミングが、なんだか素敵でした。
午後は式典です。
宣教50周年記念祝会。
来賓の方々の祝福の言葉を受けました。
教会側からの披露として、
教会の歴史に残るアルバム写真を
スライドショーに編集したものを
上映するひとときを設けました。

もちろん来賓の方々も
香椎バプテスト教会の関係者ですから、
どこかの時代で重なる写真と出会います。
「懐かしい……」との声が思わず漏れてきました。
この映像は、
DVDディスクで、
お越しの方々にお渡ししました。
また、毎年『めぐみ』誌をお送りの方々には、
順次発送致します。

同時に、宣教50周年記念誌として、
『ひと粒の麦』を製作いたしましたので、
皆さまにお渡しすることができました。
この区切りのために各方面に寄稿をお願いし、
集まった原稿を編集してできたものです。
心のこもった文章が、
懐かしいひとときを思い起こすきっかけとなりますように。
そして何よりも、
神の導きと真実を、そこから知ることができますように。
宣教50周年記念祝会。
来賓の方々の祝福の言葉を受けました。
教会側からの披露として、
教会の歴史に残るアルバム写真を
スライドショーに編集したものを
上映するひとときを設けました。

もちろん来賓の方々も
香椎バプテスト教会の関係者ですから、
どこかの時代で重なる写真と出会います。
「懐かしい……」との声が思わず漏れてきました。
この映像は、
DVDディスクで、
お越しの方々にお渡ししました。
また、毎年『めぐみ』誌をお送りの方々には、
順次発送致します。

同時に、宣教50周年記念誌として、
『ひと粒の麦』を製作いたしましたので、
皆さまにお渡しすることができました。
この区切りのために各方面に寄稿をお願いし、
集まった原稿を編集してできたものです。
心のこもった文章が、
懐かしいひとときを思い起こすきっかけとなりますように。
そして何よりも、
神の導きと真実を、そこから知ることができますように。
教会の駐車場の隅に柿の木を植えたのは、
2012年4月。
小さな枝でしかないような木は、
すでに三年経っていたものでした。
そのとき、あと五年で実るかしら、と楽しみでしたが、
そこから三年、
まだ背の低い柿の木から、
この秋、実りがありました。
しかも、この大きさ。

あ……大きさを示す配慮を、
撮影のときに、忘れてしまいました。
10cmを下ることはなかった直径。
不思議なのは、
実はこの枝が付いたまま、
落下していた、ということ。
あまりに実が重いので、
耐えきれずに枝が折れたのでしょう。
豊かな実りを喜ぶべきか、
枝から離れるほどの膨らみを戒めと受け取るべきか、
さあ、どう致しましょうか。

また、このように背が低い木で、
葉が思いのほか繁っていますので、
鳥に狙われなかったという幸運もあり、
大きく実ったという事情もありました。
そういえば、
手塚治虫の「ブラック・ジャック」の中で、
失踪した証拠に、
大きな柿があるのを見つけるシャレがありました。
柿大きい(かきおき)だということで。
2012年4月。
小さな枝でしかないような木は、
すでに三年経っていたものでした。
そのとき、あと五年で実るかしら、と楽しみでしたが、
そこから三年、
まだ背の低い柿の木から、
この秋、実りがありました。
しかも、この大きさ。

あ……大きさを示す配慮を、
撮影のときに、忘れてしまいました。
10cmを下ることはなかった直径。
不思議なのは、
実はこの枝が付いたまま、
落下していた、ということ。
あまりに実が重いので、
耐えきれずに枝が折れたのでしょう。
豊かな実りを喜ぶべきか、
枝から離れるほどの膨らみを戒めと受け取るべきか、
さあ、どう致しましょうか。

また、このように背が低い木で、
葉が思いのほか繁っていますので、
鳥に狙われなかったという幸運もあり、
大きく実ったという事情もありました。
そういえば、
手塚治虫の「ブラック・ジャック」の中で、
失踪した証拠に、
大きな柿があるのを見つけるシャレがありました。
柿大きい(かきおき)だということで。
20日の午後は、
会堂と二階ホールのワックス掛けを行いました。
慣習としては、
秋の第五日曜日をあてていましたが、
今回、10月11日の
宣教50周年記念礼拝の前に
ワックスを掛けようということとなり、
20日が適切だと見られたのでした。
昼食後、まず
椅子やテーブル、講壇から楽器まで、
すべて移動してしまいます。
そして汚れを落とし、水拭きもしておきます。

ワックスは、二度掛けをします。
一度目が乾いてから、
もう一度掛けることで、輝きが出ます。
さわやかな秋晴れと
ほどよい風が通ることで、
ワックス掛けにはもってこいだと言えました。
礼拝堂の床には、
ライトが映りきらめいていました。

二階ホールの床は、
経年の汚れが付着し、
多少の努力ではそうきれいになりません。
また、一部変形しているようなところもありました。
それでも、油をここも二度掛けすることにより、
ライトが照り映える輝きを見せてくれました。

床を磨くことは、
心を磨くことでもあるようです。
ほかの人の徳を高めるならば、
自分が高められるような気がします。
受けるより与えることが幸い。
互いに足を洗いなさい。
きっと私たちは日に日に、
死んでいく一粒の麦をも体験できるはずなのです。
会堂と二階ホールのワックス掛けを行いました。
慣習としては、
秋の第五日曜日をあてていましたが、
今回、10月11日の
宣教50周年記念礼拝の前に
ワックスを掛けようということとなり、
20日が適切だと見られたのでした。
昼食後、まず
椅子やテーブル、講壇から楽器まで、
すべて移動してしまいます。
そして汚れを落とし、水拭きもしておきます。

ワックスは、二度掛けをします。
一度目が乾いてから、
もう一度掛けることで、輝きが出ます。
さわやかな秋晴れと
ほどよい風が通ることで、
ワックス掛けにはもってこいだと言えました。
礼拝堂の床には、
ライトが映りきらめいていました。

二階ホールの床は、
経年の汚れが付着し、
多少の努力ではそうきれいになりません。
また、一部変形しているようなところもありました。
それでも、油をここも二度掛けすることにより、
ライトが照り映える輝きを見せてくれました。

床を磨くことは、
心を磨くことでもあるようです。
ほかの人の徳を高めるならば、
自分が高められるような気がします。
受けるより与えることが幸い。
互いに足を洗いなさい。
きっと私たちは日に日に、
死んでいく一粒の麦をも体験できるはずなのです。
不思議なもので、
秋分の日を迎えるころに、
葉よりも先ににょきっと咲く、
田んぼなどのアクセント、ヒガンバナ。
基本は朱、ないし赤色の花ですが、
中には白い種類もあります。
今年は、急に涼しくなってきたということでしょうか、
教会の二階の玄関前のわずかな土のあるところに、
すでに13日、
白いヒガンバナが一輪、花を見せました。

曼珠沙華と呼ぶと、
仏教の意味が色濃く出そうですが、
彼岸花にしても、同じですね。
これを見ると悪業から離れるといった言い伝えがあるそうですが、
それは本来純白の花であるとか。
青銅の蛇を見ると癒されるといった記事が
旧約聖書にありますが、
キリストにしても、
その十字架を見上げることにより、罪が赦されるとするなら、
さしずめこのヒガンバナ、白百合に匹敵するようなものかしら。
心を探られる神。
神の問いかけと探りを、
今週の礼拝メッセージから受けたとすると、
この白さに届かない自分の汚さを抱えつつ、
そのまま、きよい神の前に出てよいこともまた、
告げられたのではないでしょうか。
秋分の日を迎えるころに、
葉よりも先ににょきっと咲く、
田んぼなどのアクセント、ヒガンバナ。
基本は朱、ないし赤色の花ですが、
中には白い種類もあります。
今年は、急に涼しくなってきたということでしょうか、
教会の二階の玄関前のわずかな土のあるところに、
すでに13日、
白いヒガンバナが一輪、花を見せました。

曼珠沙華と呼ぶと、
仏教の意味が色濃く出そうですが、
彼岸花にしても、同じですね。
これを見ると悪業から離れるといった言い伝えがあるそうですが、
それは本来純白の花であるとか。
青銅の蛇を見ると癒されるといった記事が
旧約聖書にありますが、
キリストにしても、
その十字架を見上げることにより、罪が赦されるとするなら、
さしずめこのヒガンバナ、白百合に匹敵するようなものかしら。
心を探られる神。
神の問いかけと探りを、
今週の礼拝メッセージから受けたとすると、
この白さに届かない自分の汚さを抱えつつ、
そのまま、きよい神の前に出てよいこともまた、
告げられたのではないでしょうか。
今年も、教会のブドウが実りました。
青かった実が、紫色に染まり、食べ頃です。
礼拝の中でスクリーンに映し出されましたが、
あれあれ、これはなんとも貧弱な実の写真。
もっと豊かに実ったものを写せばよかったのに。

早速、午後の愛餐会のときに
皿に盛られてテーブルに並べられました。
瑞々しくて、
光を受けて輝くまるい実が新鮮です。

ぶどうは聖書の記された土地の代表的な果物です。
その汁は血の色にも似て、
キリストの贖いによる救いの象徴ともなりました。
水を求めて深く根を張り、
乾いた土地で生きる力や、ストイックな生き方に、
学ぶことがたくさんあるようにも見えます。
教会学校では、先日、
ぶどう園の主人と労働者のたとえを考えました。
ぶどうの実を口に入れながら、
聖書の記事を身近に感じる機会としてはいかがでしょう。
青かった実が、紫色に染まり、食べ頃です。
礼拝の中でスクリーンに映し出されましたが、
あれあれ、これはなんとも貧弱な実の写真。
もっと豊かに実ったものを写せばよかったのに。

早速、午後の愛餐会のときに
皿に盛られてテーブルに並べられました。
瑞々しくて、
光を受けて輝くまるい実が新鮮です。

ぶどうは聖書の記された土地の代表的な果物です。
その汁は血の色にも似て、
キリストの贖いによる救いの象徴ともなりました。
水を求めて深く根を張り、
乾いた土地で生きる力や、ストイックな生き方に、
学ぶことがたくさんあるようにも見えます。
教会学校では、先日、
ぶどう園の主人と労働者のたとえを考えました。
ぶどうの実を口に入れながら、
聖書の記事を身近に感じる機会としてはいかがでしょう。
23日は、
バプテスマを受けた方、
入会(籍を当教会に移すこと)された方の
歓迎会という名目で、
通常第二主日の愛餐会を
第四に変更して開きました。
「愛餐」というのは、
ともに交わり、食事をすることです。
聖書の時代の文化においても、
ともに食事をとるというのは、
心を許し合った者どうしだからこそ、の場でした。
日本にも「同じ釜の飯を食う」という言葉がありますね。
よく似た言葉に「聖餐」があります。
教派や教会によって違いがありますが、
何らかの形で「聖餐式」を教会は行います。
これは、いわゆる最後の晩餐の記録に基づくもので、
キリストの体をパン、
キリストの血をぶどう酒(汁)が表しているものとし、
キリストの十字架の救いを深く思う、
特別な儀式でありました。

聖書の記述にはたしかに曖昧な部分もあり、
「聖餐」については
様々な神学的理解の差もあります。
歴史的な大きな議論もありました。
けれども、大筋が違うわけではありません。
そして、食事をともにするということの中に、
大切なものを覚え続けていきたいと願っています。
それと、パウロの手紙の中に、
愛餐がどんちゃん騒ぎのようになり、
乱れているという注意がなされている個所があります。
この節度は、忘れることがありませんように。
バプテスマを受けた方、
入会(籍を当教会に移すこと)された方の
歓迎会という名目で、
通常第二主日の愛餐会を
第四に変更して開きました。
「愛餐」というのは、
ともに交わり、食事をすることです。
聖書の時代の文化においても、
ともに食事をとるというのは、
心を許し合った者どうしだからこそ、の場でした。
日本にも「同じ釜の飯を食う」という言葉がありますね。
よく似た言葉に「聖餐」があります。
教派や教会によって違いがありますが、
何らかの形で「聖餐式」を教会は行います。
これは、いわゆる最後の晩餐の記録に基づくもので、
キリストの体をパン、
キリストの血をぶどう酒(汁)が表しているものとし、
キリストの十字架の救いを深く思う、
特別な儀式でありました。

聖書の記述にはたしかに曖昧な部分もあり、
「聖餐」については
様々な神学的理解の差もあります。
歴史的な大きな議論もありました。
けれども、大筋が違うわけではありません。
そして、食事をともにするということの中に、
大切なものを覚え続けていきたいと願っています。
それと、パウロの手紙の中に、
愛餐がどんちゃん騒ぎのようになり、
乱れているという注意がなされている個所があります。
この節度は、忘れることがありませんように。