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大宮の城。

2013年12月15日 | おせわがかり日誌


「このこうえんは、めいじのぶんかじんたちが、つどってたっていうはなし」


   氷川神社の裏山である大宮公園は、明治18年(1885)
   武蔵一之宮氷川神社公園としてオープンした。
   四季折々の風情を持つ公園には、正岡子規、寺田寅彦、夏目漱石、高浜虚子、森鴎外などの
   多くの文化人が訪れ賑った。






「おかあさんのすきな、あくたがわは、こなかったの?」





「おしろ、だったのか」


   寿能城址

   大宮第2公園万葉の並木道に潮田橋があり、近くに寿能城址がある。
   今から400年以上昔、戦国時代の永禄3年(1560)に、
   潮田出羽守が居城した寿能城の跡地。
   築城の30年後豊臣秀吉の軍勢により落城した。  
   土塁は住宅化されるまで残っていたが、現在は松林が切り開かれ住宅地に変わってしまった。
   昭和の初期に講により、改修され潮田出羽守の墓石がまつられた。





「のぼうさまとも、かんけいあるのね」


  寿能城跡

  ここは寿能城本丸の跡と伝える
  寿能城は潮田出羽守資忠の居城である
  資忠は岩槻白鶴城主太田資正の第四子で母方潮田家をつぎ
  永禄3年(1560年)ここに築城 大官 浦和 木崎寺を所領とした
  城地は東西約873メートル 南北約436メートルあり
  見沼の沼沢をめぐらした要害で 東方に突出した小高い所を出丸と呼び
  今も寿能という小字名を残している
  資忠は小田原の北条氏に属し 天正18年(1590年)
  長子資勝とともに小田原にろう城し奮戦したが
  4月18日父子ともに討死し
  家臣北沢宮内等が守備した当城も同年6月豊臣勢の火にかかって落城した
  墓石は資忠の没後50年の命日に6代の子孫潮田勘右衛門資方が
  弟資教にしるさせたものである
  大正15年県史跡に指定されたが 太平洋戦争中 高射砲陣地として雑木林は開墾され
  今また 新市街を現出するに至り その一部を市の小公園として永く保存することとなった