歐亞茶房(ユーラシアのチャイハナ) <ЕВРАЗИЙСКАЯ ЧАЙХАНА> 

「チャイハナ」=中央ユーラシアの町や村の情報交換の場でもある茶店。それらの地域を含む旧ソ連圏各地の掲示板を翻訳。

“民族団結は進歩なり”に関する絵解き画集(3)

2010-07-16 22:31:45 | 東トルキスタン関係
→(2)からの続き

でもまあ、普通の中国人がそうした歴史観を持つのは、ある程度仕方が無いかもしれません。彼らはそういう教育を受けてきているわけで。その辺りは、普通の日本人の多くが“北方四島は、歴史的に日本固有の領土である”(もちろんロシアのものでも無いけど。いずれにせよ“歴史的に固有の~”という文言には疑問を感じます)と信じていたり、北海道の“ワッカナイ”とか“ニセコ”みたいな明らかに日本語っぽくない地名を聞いても、あまり違和感を感じないのと同じでしょう。

よく分らないのは、別に中国で義務教育を受けたわけでもなく、また日本にあって、一般中国人よりもはるかに幅広く情報が取捨選択できる立場にあるにも拘わらず、何故か中共史観の枠内でしか物を見れない日本人がいることです。

そんな人間がいるのか?

意外といるんですよ。それが。

しかも報道関係者に多いような気がします。

例えば、こんな↓感じで。

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「早い話が:日露戦争とウイグル人=金子秀敏」
http://mainichi.jp/select/opinion/kaneko/news/20090730dde012070048000c.html
毎日新聞 2009年7月30日 東京夕刊

ウイグル人独立運動の目標は「東トルキスタン」建国だ。地理的には中国新疆(しんきょう)ウイグル自治区と重なるが、東トルキスタンとはどういう概念か。

19世紀末、英国で発行された地図を見ると、清朝が統治する新疆省は「イースタン(東)トルキスタン」と表記されている。その西側は「ロシアン・トルキスタン」となっている。 

このころ帝政ロシアは中央アジアを次々に占領し、タシケントにトルキスタン総督を置いた。これがロシアン・トルキスタンである。現在はウズベキスタン、タジキスタン、キルギスなど中央アジア諸国として独立しているが、それはソ連が崩壊した後のことだ。 

モスクワが支配するのがロシアン・トルキスタンなら、北京の支配する東トルキスタンは「チャイニーズ・トルキスタン」と言うべきではないか。ウルムチには北京から派遣された巡撫(じゅんぶ)(総督)がいて、地方の道台(知事)が税金を取り立てていたのだ。実は、チャイニーズ・トルキスタンとも言っていた。トルキスタン(トルコ系の人が住む土地)は、ロシア支配の西部と中国支配の東部に分かれていた。西部の民族が独立したのだから、東部のウイグル民族だって独立したいと思う。 

19世紀末から20世紀初め、新疆の要地カシュガルに英国の領事が駐在していた。その妻マカートニ夫人が、当時の現地の世相を記録した(金子民雄訳「カシュガール滞在記」連合出版)。 

訳者の解説によると、カシュガルではロシアと英国が情報戦の火花を散らしていた。帝政ロシアは、ロシアン・トルキスタンを手中に収めた後、新疆から南下して英領インドを攻略するチャンスをうかがっていた。 

英国のほうも拠点のインドから北進してチベットを勢力圏に入れ、さらにその北のカシュガルでロシアの動きを探っていた。新疆は英露「グレートゲーム」の舞台だった。 

日露戦争が起きた。敗北したロシア軍は新疆進出を放棄した。

影響はそれだけではなかった。ロシアが日本に敗れたという大ニュースが新疆に伝わると、ウイグル人は、ロシアも清国も怖くないという空気になった。 

イスラム教徒の暴動が多発するようになった。ウイグル人は、自分たちと同じイスラム教で、民族的にも近いトルコへの一体感が強まった。東トルキスタン独立運動の源流をたどると日露戦争がある。(専門編集委員)
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いや、無いからwww

>モスクワが支配するのがロシアン・トルキスタンなら、北京の支配する東ト >ルキスタンは「チャイニーズ・トルキスタン」と言うべきではないか。ウル >ムチには北京から派遣された巡撫(じゅんぶ)(総督)がいて、地方の道台>( >知事)が税金を取り立てていたのだ。

いやいや、当時、その税金の行き先が最終的には満洲人の皇帝とその宮廷であったことを考慮すれば、“マンチュリアン・トルキスタン”と言うべきでしょう。でもって、中国本土は“マンチュリアン・チャイナ”、その中の山東省は“マンチュリアン・シャンドン”、満洲本土は“マンチュリアン・マンチュリア”ですw。

それはともかく、まず、

>日露戦争が起きた。敗北したロシア軍は新疆進出を放棄した。

これは正しくないですね。

当時の新疆西部は日露戦争の前から帝政ロシアの影響権内にありました。その状態は戦後も、ソ連時代になっても変わらず、特にソ連はグルジャ等にあった領事館を通じて現地の政局に深くかかわり、赤軍を直接介入させたこともあったのです。1944年にソ連の支援によって第二次東トルキスタン共和国が誕生したのは、そうした文脈の中での出来事です。新疆からソ連の影響力が無くなるのは1949年以降、特に中ソ対立から後の話ですね。

そして、日露戦争の頃に一部のウイグル人(という呼び名はまだ無かったけど)の間で従来の“ムスリム”とか“~オアシスの住人”ではなく、言語を基準とした“テュルク”としての近代的な民族意識が勃興しつつあったのは確かに事実ですが、それは、ロシア領中央アジアに留学したり移住したりしたウイグル人を経由して、当時ロシア領内のムスリム知識人の間に広がりつつあった“ジャディード運動積極的に欧米文明を取り入れて、自力でイスラーム世界を近代化しようという運動)”が伝播したのが大きな理由だと言われます。

自ら近代化を果たしたアジアの国が列強の一つに勝利した日露戦争は、そうした人々の励みにはなったかもしれませんが、“東トルキスタン独立運動の源流”だとか言うのは明らかに筋違いでしょう。

というのも、近代における後発国のナショナリズムというのは、多くの場合、先発国による圧力や支配を契機として生まれているわけです。ドイツの民族主義の誕生はナポレオンの征服によるものでしたし、日本のそれは列強の東アジア侵略、韓国のそれは日本による支配、中国のそれは列強、特に日本による侵略といった具合に....。

当時の新疆のケースで言えば、ロシアは新疆に大きな影響力を持っていたとはいえ、ウイグル人たちを支配していたわけではありません。彼らを直接支配していたのは、清朝の官僚機構でした。しかも、前回のエントリでも取上げたヤクブ・べクの乱以後、帝政ロシアの南下と再度の反乱を警戒した清朝政府はそれまでの現地の有力者を利用した間接統治をやめ、“新疆省”を設置して、中国本土と同じような直接統治を行いました。その結果、行政機関や新設の教育施設では漢語・漢字の強要が行われ、住民との間に様々な軋轢を生んだのです。

そうした事情を思えば、今のウイグル・ナショナリズムは、清朝の支配+その頃(主に在東京の留学生界隈で)同じく勃興しつつあった中華民族主義に対抗して生まれたと考えるのがより自然ではないでしょうか。

つまり、東トルキスタン独立運動の源流にあるのは“日露戦争”ではなく、“ヤクブ・べクの乱”と“新疆省の設置”なのです。


もちろん、起源がそうであるからといって、それが直ちに“漢人との共存は一切不可。直ちに独立すべし”という主張に結びつくとは限らないんですけどね。
日本の民族主義の起源が“尊皇攘夷運動”にあるからといって、今の我々が白人を見てもいきなり斬り捨てたりしないのと同じでw。<o:p></o:p>


でも、あちらのお上にとっては、こうした認識自体が存在してはいけないのでしょう。何故なら、

“有史以来、新疆の各族人民は元々一つの<中華民族>を成し、協力して外敵(今の中華人民共和国の国境の外に住む人々)と戦い、国境を守ってきた”


という中共史観とか、彼らの教条体系に明らかに矛盾するからです。

ウイグル・ナショナリズムみたいなのはあってもいいけれど、それは漢人支配に対してではなくロシア帝国主義に対抗して生まれたものにして、中華民族主義の中に回収できるものじゃないとダメな訳で。

だから、こういう珍説があちらの新聞とか教科書に載ってたとしても大して驚きはしませんけどね。

何でまた日本の新聞に?

理解できません。いや、本当に。

→(4)に続く