前回のタイトル「What a stiff」を、私のパソコンに付属している翻訳ソフトで訳してもらったら、「何、死体」と直訳したので、大笑いしてしまいました。
さて、今回はどうなるでしょうね? また、皆さんのパソコン付属の翻訳ソフトでは、どう翻訳されたのかしら?
***
2006年7月19日(水)の『わが手に拳銃を』 は、一九六一年――『守山工場』のp60から 一九七六年――『守山工場』のp106まで読了。
『李歐』 を最初に読んだせいか、一彰少年の過去が、えらくあっさりしているように感じます。
文章も比較的短文の集まりなので、一文がかなり長く、複合的な内容を持つ現在の高村さんの文章とは、丸っきり正反対。
ところどころに「高村語」とでもいいましょうか、読み手がうろたえるような、あるいはいい意味で引っかかるような、独特の匂いのある表現が入っているところは、昔も今もそのままだと思いますが。
一彰とリ・オウの繋がりも、まだまだ浅い。
【主な登場人物】
吉田一彰 守山耕三 田丸浩一 リ・オウ 笹倉文治・・・前回から引き続き登場。
吉田一郎、吉田昭子・・・一彰の両親。両方から一字ずつ名前を貰ったとしたら、「一昭」になっていたんじゃなかろうか? 父親は検事。(←ひょっとして、加納祐介さんの父上や、手塚時子さんの父上をご存知じゃありませんか~?) 東京から大阪地検への異動となったので、家族で大阪へ引っ越してきたのが、一彰の運命を決めたと言っても過言ではないだろう。ちなみに、『李歐』では、父親は検事ではなかったはず。おまけに名前も出てなかったと思うが・・・。
ネタバレ。 『わが手に拳銃を』では、一彰母はある事件に巻き込まれて殺されたが、『李歐』では、一彰母は生きて、ある男と出奔し、日本に戻ることなく生を全うしている。
守山咲子・・・守山耕三の娘。母親の名前は出てこない。
今回は漢詩も拳銃も出てきません。
【今回の名文・名台詞・名場面】
★内部の渦巻きを見ながら、一彰はふと、この渦巻きは一生忘れないだろうと思った。理由は分からなかったが、こういう隠微な渦巻きが自分はほんとうに好きなのだと感じた。 (p81)
一彰のルーツが、如実に現れておりますね。
★「(前略) ええか、ぼん。よう出来た拳銃いうのはな、十年、二十年はモデルチェンジせずに使えるんや。それにもまして人間の口は、そいつが生きている限りは塞がれへん。(後略)」 (p95)
★「どこの国にも長い歴史の事情がある。人間も風土も違う。物の考え方も違う。アジアには、汚職も傀儡政権も軍事クーデターもゲリラも何でも揃うてるけど、そういうところで、生半可な商売ではやっていかれへん。五十年、六十年、ころころ変わる政治の動きを睨みながら生き続けてきた奴らや。気も長くなるやろう。わしらとは、根本的に生き方が違うんや。何が正しい、何が間違うてる言うてみても始まらへん。そういうことが、わしにもやっと分かってきたんやが……」 (p95)
上記二つは、守山さんの台詞。
★これまで、ときには悪意に満ち、ときには怠惰で身勝手な憂鬱に満ち、ときには身勝手な気晴らしの衝動に満ちていた自分の目は、その夜はもはやなかった。鏡の向こうを走っていた男も、もはやいなかった。いるのは自分という一人の男だけで、その男の前には一本の道しかなく、その道へやっと自分の足で立った男だった。そう思うと、この十五年間の不実に満ちた生活もまた、無残でもなく空虚でもなく、穏やかに流れ去っていくような気がした。 (p106)
★全部、どうでもいいことなんでしょう、と敦子は言った。その、どうでもいいことが僕の人生なんだ、と僕は思った。でも、どっちも間違っていたと思う。 (p106)
守山さんと会って話をしたことで、わだかまっていた心と過去に、とりあえずの区切りをつけた一彰。
さて、新たな「道」は見つかるんでしょうか? 待て、次回!
さて、今回はどうなるでしょうね? また、皆さんのパソコン付属の翻訳ソフトでは、どう翻訳されたのかしら?
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2006年7月19日(水)の『わが手に拳銃を』 は、一九六一年――『守山工場』のp60から 一九七六年――『守山工場』のp106まで読了。
『李歐』 を最初に読んだせいか、一彰少年の過去が、えらくあっさりしているように感じます。
文章も比較的短文の集まりなので、一文がかなり長く、複合的な内容を持つ現在の高村さんの文章とは、丸っきり正反対。
ところどころに「高村語」とでもいいましょうか、読み手がうろたえるような、あるいはいい意味で引っかかるような、独特の匂いのある表現が入っているところは、昔も今もそのままだと思いますが。
一彰とリ・オウの繋がりも、まだまだ浅い。
【主な登場人物】
吉田一彰 守山耕三 田丸浩一 リ・オウ 笹倉文治・・・前回から引き続き登場。
吉田一郎、吉田昭子・・・一彰の両親。両方から一字ずつ名前を貰ったとしたら、「一昭」になっていたんじゃなかろうか? 父親は検事。(←ひょっとして、加納祐介さんの父上や、手塚時子さんの父上をご存知じゃありませんか~?) 東京から大阪地検への異動となったので、家族で大阪へ引っ越してきたのが、一彰の運命を決めたと言っても過言ではないだろう。ちなみに、『李歐』では、父親は検事ではなかったはず。おまけに名前も出てなかったと思うが・・・。
ネタバレ。 『わが手に拳銃を』では、一彰母はある事件に巻き込まれて殺されたが、『李歐』では、一彰母は生きて、ある男と出奔し、日本に戻ることなく生を全うしている。
守山咲子・・・守山耕三の娘。母親の名前は出てこない。
今回は漢詩も拳銃も出てきません。
【今回の名文・名台詞・名場面】
★内部の渦巻きを見ながら、一彰はふと、この渦巻きは一生忘れないだろうと思った。理由は分からなかったが、こういう隠微な渦巻きが自分はほんとうに好きなのだと感じた。 (p81)
一彰のルーツが、如実に現れておりますね。
★「(前略) ええか、ぼん。よう出来た拳銃いうのはな、十年、二十年はモデルチェンジせずに使えるんや。それにもまして人間の口は、そいつが生きている限りは塞がれへん。(後略)」 (p95)
★「どこの国にも長い歴史の事情がある。人間も風土も違う。物の考え方も違う。アジアには、汚職も傀儡政権も軍事クーデターもゲリラも何でも揃うてるけど、そういうところで、生半可な商売ではやっていかれへん。五十年、六十年、ころころ変わる政治の動きを睨みながら生き続けてきた奴らや。気も長くなるやろう。わしらとは、根本的に生き方が違うんや。何が正しい、何が間違うてる言うてみても始まらへん。そういうことが、わしにもやっと分かってきたんやが……」 (p95)
上記二つは、守山さんの台詞。
★これまで、ときには悪意に満ち、ときには怠惰で身勝手な憂鬱に満ち、ときには身勝手な気晴らしの衝動に満ちていた自分の目は、その夜はもはやなかった。鏡の向こうを走っていた男も、もはやいなかった。いるのは自分という一人の男だけで、その男の前には一本の道しかなく、その道へやっと自分の足で立った男だった。そう思うと、この十五年間の不実に満ちた生活もまた、無残でもなく空虚でもなく、穏やかに流れ去っていくような気がした。 (p106)
★全部、どうでもいいことなんでしょう、と敦子は言った。その、どうでもいいことが僕の人生なんだ、と僕は思った。でも、どっちも間違っていたと思う。 (p106)
守山さんと会って話をしたことで、わだかまっていた心と過去に、とりあえずの区切りをつけた一彰。
さて、新たな「道」は見つかるんでしょうか? 待て、次回!
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