藤原忠通。1097~1164
宮中の勢力は関白・忠通が鳥羽上皇と得子(なりこ)に近づいて来てから璋子(たまこ)と崇徳には暗雲が垂れ込める。何故、関白・忠通は璋子と崇徳を憎むのだろうか。
かつて璋子との縁談を断り冷や飯を食わされた恨みもあろうが、忠通には忠通の信念もある。それは崇徳が白河法皇が璋子に生ませた子だからである。忠通は鳥羽上皇にも得子にもこう言った。「天皇家は清く美しく在らねばなりません。白河法皇のされたことは、日本の天皇家にあってはならぬことです。崇徳の血は不純なものです。崇徳の血は受け継いではいけないものです。得子さまこそ天皇家に相応しい国母なのです。あの二人を遠ざけることを、決してためらってはなりません。」
得子に皇子が生まれ、数えの3歳になると23歳の崇徳天皇は、鳥羽上皇の強制によって譲位させられた。その後忠通は陰謀を廻らせ璋子の追放を図る。璋子が神社の半官、巫女たちに得子を呪詛させているという噂を流し、半官たちを捕えて処罰を加えた。璋子は居場所を追われるように出家することになった。宮廷しか知らない璋子の侘び暮らしはいかがだったろうか。その3年後に璋子は45年の生涯を閉じた。
待賢門院璋子は悪女だったろうか。美しく生まれてきたことは罪だったのか。白河法皇が養父以上の愛を注いでしまったのはその美しさ故である。璋子は屈託がなく、素直で健康的だった。スキャンダラスな一面も持ち合わせていたが、争いは嫌いだった。入内後は夫の鳥羽上皇、皇子たち、皇女たち、世話をかける女房達、宮中の幸せと平和を望んでいた。
夫の鳥羽上皇も璋子を遠ざけたものの、璋子への愛は変わらなかった。その突然の死には立ち直れないほど悲しみに暮れた。一部の者に忌み嫌われた原因は白河法皇だった。白河さえ常識をわきまえてくれたら悲劇は無かった。そして白河の蒔いた種はますます狂った果実となって宮廷に降りかかってくる。
璋子の死後、西行は長く璋子に仕えた堀河局にこんな歌を送った。
「尋ぬとも 風のつてにも きかじかし 花と散りにし 君が行方を」
堀河の返し歌
「吹く風の 行方しらする ものならば 花とちるにも おくれざらまし」
傷心を抱いたまま西行はその後東北への旅に立つ。
~~さわやか易の見方~~
******** 上卦は火
*** *** 文化、文明
********
******** 下卦は山
*** *** 動かないもの
*** ***
「火山旅」の卦。楽しい旅行ではない。流浪する。国を追われるような旅である。孤独がつきまとう。「旅は貞ならば吉」とある。正しいことが身を守る。
璋子は宮廷を追われて3年後に亡くなった。しかし、西行はその後の45年の生涯を璋子の思い出とともに生きてゆく。
西行の歌には花と月が多い。西行にとって花も月も全ては璋子である。
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