雲水
良寛が国仙和尚から印可を受けたのは1790年の冬、33歳の年である。その翌年3月に国仙和尚は死んだ。良寛は円通寺に別れを告げ、諸国行脚の旅に出る。和尚が印可を与えた時に、次の偈(げ)を良寛に送った。
「良や、愚の如く道うたた寛し/騰々任運、誰か看ることを得ん/為に附す山形爛藤の杖/到る処の壁間、午睡(かん)たり」
騰々任運(とうとうにんうん)は運を天に任せて悠々と生きること。山形爛藤(さんぎょうらんとう)の杖とは、山出しのままでなんの加工もしていない杖で、天衣無縫、天真爛漫に生きて行けという意味である。
そのまま良寛は乞食生活をしながら諸国行脚の旅に出る。良寛は自分を浮草に例えている。
「一たび家を出でしより/知らず幾個の春ぞ/一衲と一鉢と/騰々として此の身を送る/昨日は山林に住し/今日は城いんに遊ぶ/人生一百年/汎として秋水の浮草の如し~」
いったい良寛は何処を旅して歩いたのだろうか。良寛本人が自分の修行を語ったことはないし、当時は無名の僧であるので知る由もない。九州や四国を歩いたのではないか推定されている。良寛の死後、江戸の近藤又兵衛萬丈(ばんじょう)という人物が若かりし頃、良寛と思しき僧と一夜を共にしたという筆記を残している。その体験談によると
「昔、若いとき土佐の国に行ったことがる。大雨に遭い困り果てたとき、山の麓に粗末な小屋を見つけた。一夜の宿を請うと、青く面やせたる僧がいた。雨さえしのげればと、強いて宿借りした。相対して炉をかこんだが、この僧一言も言わず、座禅するにもあらず、念仏唱えるにもあらず、黙ったままであった。始めこの僧は狂人かと思った。」
「夜が明けたが、雨はますます激しい。出立も出来ず、もう少し良いかと問うと、何時までなりともと言ってくれたので、昨夜に増して嬉しかった。麦の粉を湯に溶いたものを食わせてくれた。庵を見ると木像が一つ、書物が一つある。何の書かと聞くと、荘子だという。この僧の書いたと思われる草書もあった。巧拙は解らないが立派に見えた。自分の袋から扇を二つ出して、何か書いてくれと頼むと、言下に筆を染め、ひとつは梅に鶯、ひとつには富士の絵を描いてくれた。その賛の末に越州の産・了寛書すとあったのを覚えている。」
「結局二夜世話になったので、お礼にいささか銭を与えようとしたが受け取らない。そこで、紙と短尺を出したら喜んで受け取ってくれた。」
この僧が良寛であったかは明らかではないが、このような旅であったことは想像される。
~~さわやか易の見方~~
******** 上卦は火
*** *** 文化、文明、才能
********
******** 下卦は山
*** *** 動かざるもの
*** ***
「火山旅」の卦。旅であるが、易でいう旅は観光旅行の旅ではなく、流浪の旅を意味する。転居、転職などの環境が変わることも旅と言える。中庸を守り、沈着、明知を発揮すれば新しい道が開ける。
古い自分から新しい自分になりたい時がある。そんな時に人は旅に出る。新しいものを入れる為には、古いものを出してしまうことである。古いものが何時までも残っていると新しいものは入ってこない。
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