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福島の誇れるものとは?

写真付きで食べ歩き日記や趣味を書くぐうたらブログ

仕事納めと雪うさぎ

2012年12月28日 11時20分18秒 | 日記
昨晩は強風でガラス窓が激しく揺れてなかなか寝つけなかったのですが、朝方には風もおさまりのんびりした仕事納めの日を迎えました。関係会社の方との昼食会を済ませて9連休の正月休みに入りました。

明日からは実家の母親と年末、正月を妻と3人で過ごす予定です。まだ元気に働ける身体を授けてくれた母親に感謝しながら大晦日を迎えたいと考えています。先週、娘夫婦が孫娘を母に会わせるためドイツから3人で帰って来てくれたのです。母も初めてひ孫に会えたのですから本当に嬉しい顔をしていました。

ところで本日の吾妻小富士には雪うさぎが顔を出しています。写真でお分かりでしょうか?いつもは雪融けの早春に見受けられる光景だそうです。今年は積雪が少ないのでしょうね。

雪うさぎを見つけることができるでしょうか?

寒波襲来!

2012年12月26日 21時52分50秒 | 日記
26日は仙台市での仕事があり高速道路を利用して車で行くことに決めていました。ところが朝早く起きて路面を確認すると凍結しているではありませんか。吹雪いていたこともあり電車利用に切り替えました。強風のため仙台駅に着くまで40分ほど到着時間が遅れました。さて仕事を終えて仙台駅発15時3分の電車に乗ると定時発車です。これは16時27分に福島駅到着だなと決め付けて安心して寝込んでしまいました。ところが福島駅のポイント故障の影響で途中の藤田という駅で足止めです。1時間半ほど待たされた後、故障も直り発車しました。ところがまたまた踏み切りの電源ポイント故障(?)のせいで福島駅ひとつ手前の駅で約1時間待機です。結局福島駅に着いたのは19時5分前でした。冬の東北に寒波が襲来すると交通はマヒするのだと思い知らされた一日でした。

列車の中から外を走るトラックをパチリ。


乗客のみなさんにお疲れモードが漂ってました。この時間帯は若者の乗客が少ないのか、そもそも若者の利用客が少ないのか?年配者ばかりなので気になりました。

ハニーカフェ ビードルでの昼食

2012年12月22日 22時14分11秒 | グルメ
土曜日、夫婦でハニーカフェ ビードルでナンとチリビーンズの昼食を食べました。11時半から営業しているようで12時に入店しましたが、お客は我々と妙齢の女性2人だけでした。

まずわかめスープをいただき、野菜サラダとナン、チリビーンズが写真のように同じプレートに盛り付けされていました。味も美味しく、少々チリビーンズが辛くて(チリですから当たり前ですね)ナンにマッチしていました。そしてコーヒーが付いて680円です。コーヒーはお代わり自由とのことでしたが、お腹いっぱいなので1杯で退散しました。

お店もこじんまりとしてのんびり会話しながら落ち着くことができます。裏に駐車場もあるようで便利です。次回は他の方のブログで紹介されたワッフルを味わってみたいと思います。今日は小雨でしたので客足の出が悪いのかもしれませんが、少々お客が少ないのが気になりました。お洒落な雰囲気のお店ですので女性には人気があると思いますが。



相馬郡新地町を再訪

2012年12月18日 19時45分38秒 | 日記
昨年7月12日のブログで新地町の現状を報告しました。今回同じ場所を訪問しましたが、壊れた住宅は全て撤去されていました。津波や地震の爪あとが一掃されていました。しかし、少し離れた海岸に近い場所にはまだ建物の基礎部分が沢山残されておりました。更地にするにはまだまだ時間がかかるようです。

さて今回は新地町にて事業を営んでいて工場、自宅全てを3月11日に流された社長さんを訪ねました。2ケ月で同じ新地町の高台で事業を再開した理由を確認するために新地町を再訪したのです。

何故事業を2ケ月で再開できたのかお聞きすると顧客からあまりにも励まされたので、再開できる勝算もないのに「2ケ月でもとの工場に戻すのでいままで通りお付き合いください」と顧客へ言い切ってしまったからだそうです。

有言実行するように自分を追い込んだそうです。「自分は知見や経験もあるのだから設備や工場を確保すれば元に戻すだけ。何も知らない人間が新事業を開始することではない。ゼロからのスタートではないとプラス思考で考えるとストレスもなくなりました。」とのことだそうです。

そして自分の経営哲学も180度変換したそうです。3.11以前は会社を大きくし、沢山利益を確保すれば従業員の給料も上がるし、生活が豊かになると考えていたそうです。しかし、3.11以降は従業員が楽しく働ける場所を提供し、従業員の給料を上げれば会社の利益も増すというふうに考えるようになったそうです。3.11以降一人も解雇せず頑張れたのも従業員が一生懸命に努力してくれたお陰だそうです。

確かにインタビュー時間が長くなりそうになると女性の事務員さんが「うちの社長は話好きですから早めに切り上げないと2時間はかかりますよ」と笑顔で注意してくれました。社長さんもニコニコしながら「はいはい。私は話好きですから時間の観念はないからね」と受けていました。

やはり笑顔が絶えず、社長にも直言できる風通しの良い会社に接するとこちらもほのぼのとしてしまいます。笑う門には福来る、災い転じて福と為すということわざを思い出した一日でした。

この社長さんは仮設住宅にお住まいですが「快適ですよ。いろいろな方と知り会えて嬉しいです。」と話していました。何でもプラス思考で捉える方のようです。やはり関西出身の社長さんだからでしょうか、インタビューの間も冗談を話されて、インタビューをする私にいろいろと質問されるのでどちらがインタビューアーかわからなくなってしまいました(笑)。

新地町にある火力発電所です。正面に煙突を確認。


新地町役場の裏手です。正面は海岸です。


同じく新地町の裏手です。海岸線が見えるでしょうか?


新地町に近い海岸の風景です。

危機に直面した際の決断力(住民の安全を第一)

2012年12月14日 12時47分23秒 | 日記
原発事故の際、福島県三春町は混乱していました。原発から真西に45キロほど離れた三春町では去年3月15日に国や県の指示を待たずに安定ヨウ素剤を40歳未満の町民全員に配りました。あとから、独断でやったと批難もされました。しかし町は、政府が公表しなかった放射能拡散予測をSPEEDIに頼らずに手に入れ、町民を守るために配ったのです。

NHKの特集でこの事実を9月30日放映しましたが、あまりにも福島県のお粗末な対応を伝えたためか再放送されていません。ある方のブログより時系列的な番組の流れを下記に掲載します。


3月12日:枝野「10km圏内。万全を期すため」。国道288号線、三春を目指して避難。警察から受け入れ要請700人、12日午前中。実際は5000人。2000人が限界。午後3時36分1号機水素爆発。20km


保険師の人「バスが何十台も」。富岡町の人がヨウ化カリウム持参。質問されたけど見た事もないクスリ。「飲むか飲まないかは自由」と言われた。役場の人もクスリの事は判らない

3月13日:安定ヨウ素剤だと判る。稀に副作用。国県の指示、「医療従事者」の立ち会いが必要。飲むタイミングも重要。「ここに居て大丈夫なのか?と思った」

三春町副町長(当時)は、「どれだけの量の放射能が出るのかという情報が一番欲しかった。県に問い合わせをしたが、『わからない』という答えだった」(この時点で県は浪江町北西部の高濃度汚染を知っていた。ウソを答えている)

3月14日:3号機水素爆発。役場の屋上の吹き流しで風向きを調べることにした。原発は東。皆で情報収集、テレビとネットぐらい。午後、ヨウ素剤を県が持っている事を突き止める。貰いに行く。廊下のダンボールに雑然と山積み、言えば貰えた。7248人分をゲット。「命がけだと感じた」

福島県の災害対策本部の雑然とした中に安定ヨウ素剤があった。「これいくついくつください」と言ったら、「はい、持って行って」と言われた。大熊町から来た石田さんに服用のタイミングを相談したら3月15日です。次なにかあったら、我々が故郷を失うということです


明日15日がヤバいと思った町。課長会議。ヨウ素剤の是非。「たぶん放射能が漏れているんだろうな、、でも国、東電、マスコミは何も、、」「逆に危険性を周知しないか?それがむしろ不安で、、」「後になって手遅れになるほうがリスクが多いのでは」など⇨:飲ませるリスクもあるが飲ませようと判断。


配布準備 年齢、人数を把握して1つずつ封筒に入れる。「医療関係者の立ち会い」⇨保険師の判断で行うことにした。「職業生命が断たれる可能性もあると思った(がやった)」

三春町は3月15日に自治体の判断で住民に配布し、「服用する時期は役場でお知らせします」とした文書を併せて配布し、配布の際に服用を指示し、7248名に配布

国は30km圏内に屋内退避。吹き流しは風が舞ってイマイチ。議長に相談。高台で風向きを観測。娘がお手製の吹き流しを作った。「まっすぐ左(西)へ」。カメラを役場へ。証を残した。

自治会役員を通じてヨウ素剤の説明周知。町で作った手引き。指示は手渡しの時現場で。防災無線も活用「受け取ったらすぐ服用」。15日午後1時配布開始。

住民「飲んだ方が良いんだよね??」役場の人「必ず飲んで下さい」住民「あの経験はもう誰にもして欲しくない」

夕方、県から電話「誰の指示で配っているんですか?指示系統がむちゃくちゃ。回収を指示します。」町「知事の命令か?」県担当「私の一存。回収しなさい」町「いや、しない、、」

「国の指示を待っていたら手遅れだった」。(結果的にヨウ素剤の配布基準より低かったとの指摘もあるが)「飯舘が濃かったのはたまたま、あの日、どの村町もああなる可能性はあったと思う」

後からの国の報告で、町の汚染は、結果的に服用基準に満たなかったとされている。町長「町にとっては服用のタイミングはあの時がベストだったと今も思っている、汚染は風向き次第、結果はたまたまだった」。  
                            (完)

雨雲が三春町を通り過ぎたため結果的には取り越し苦労だったという方もいるが、もしも降っていたら町長は賞賛されていたでしょう。転ばぬ先の杖を実施した町長へ拍手をおくりたいものです。

しかし、県担当は本当に住民の安全を考えていたのでしょうか?国から言われるまで動かない、線量が高いのを知っているにも拘らず住民へ公表しない(パニックを起こさないためと県担当者発言もあり)など対策が後手後手にまわり、現場の声を無視してきたのは当事者能力がなかったと糾弾されてもしかたがないと考えます。

ところで私は亡き平井憲夫さんがあれほど訴えた危機を露ほども感じられなかった日本人の一人です。原発が福島市から66kmしか離れていないことも知らず育ってきたのです。彼のブログ(欄外のブックマーク参照)から原発は廃炉、解体は出来ない、閉鎖しかできない(チェルノブイリ原発がそうです)ということを知りました。

到底廃炉までに10年ほどでできるとは思われません(ある政党は10年かけて廃炉にすることを公約にしていますが、絵に書いた餅です)。人間が現場に行かねば作業ができないのですから何十年、いや百年以上の長い時間が必要なのです。このような恐ろしいものを子孫へ遺していくわけです。先人の知恵などと言いますが、この原発導入にはその知恵のかけらもありません。負の遺産を末代まで遺していくわけですから、せめて閉鎖を我々の時代でするべきではないでしょうか?