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阿仏尼の墓・阿仏邸旧蹟

 『十六夜日記』の著者で知られる、鎌倉時代の女流歌人である『阿仏尼(1222頃~1283)』に関連した旧跡が鎌倉にはあります。
 阿仏尼は、平度繁の娘とも養女とも云われており、十代半ばの頃に、「安嘉門院(後高倉院の皇女邦子内親王)」に四条という名で仕えていましたが、失恋のショックで、仏門に入ってしまいます。この経緯については、『うたたね』という作品に阿仏尼自ら書き記しておりますので、興味のある方は読んでみてください。
 さて、三十歳の頃、歌道の大家「藤原為家」の後妻として、『浄光明寺(後編)』で触れた「冷泉為相」や狂歌の祖とも云われている「冷泉為守」をもうけます。
 夫の死後、夫が遺した播磨国の細川庄を巡り、先妻の子である二条為氏と遺産争いを起こしますが、いつまでたっても埒のあかぬことに耐えかね、1279年に鎌倉幕府に訴えようと都から鎌倉までわざわざ下向してくるのですが、『十六夜日記』とは、この旅の日記と鎌倉での滞在日記となります。 なお、阿仏尼は、裁判の決着を見ぬままに亡くなってしまいます。
 *ちなみに、裁判の結果は、1313年に冷泉為相の勝利で終わります。


 鎌倉に到着した「阿仏尼」は、極楽寺近くの「月影ヶ谷」に居を構えます。阿仏尼は、「十六夜日記」にて月影ヶ谷について、「浦近き山もとにて、風いとあらし。山寺のかたはらなれば、のどかに、すごくて、浪の音、松風たえず。」と記しています。なお、山寺とは「極楽寺」になります。

「阿仏邸旧蹟」

 この石碑の場所に住んでいたわけではありませんが、この先が「月影ヶ谷」となります。この谷の何処かに居を構えていたようです。


「成就院より市内を望む」


 月影ヶ谷に住んでいた「阿仏尼」は、極楽寺坂切通しから鎌倉市中(鎌倉幕府の問注所)に入ったと思われます。当時の極楽寺坂切通しは、現在よりもっと高所にあり、成就院のちょっと下辺りを通っていたと考えられております。きっと阿仏尼も上の写真のような景色を見たのでしょうか。また、どのような思いでこの景色を見たのかと思うと趣き深いものがあります^^。



 また、『英勝寺』の近くには「阿仏尼の墓」もあります。

「阿仏尼の墓」



 阿仏尼の墓は、『浄光明寺』にある息子「冷泉為相の墓」と向かいあっていると云われています。

「阿仏尼墓より浄光明寺方面を眺める」・・・う~ん、見あたりませんね^^:

 


「行き方」
「阿仏邸旧蹟」
①江ノ電「極楽寺」駅下車後、右手に向かいます。


「極楽寺駅」



②やがて、鎌倉十橋の一つ「針磨橋」がありますので、右手に進んだ線路を越えた所にあります。



「阿仏尼墓」
英勝寺』前の道を線路沿いに北鎌倉方面に進みます。『英勝寺』からは、1,2分もあれば到着できます。

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