
元寇防塁
福岡市立博物館で特別展を観て、帰りは少し遠回りですが地下鉄藤崎駅に向かうことにしました。途中に鎌倉時代の有名な遺構「元寇防塁」があるからです。
「元寇防塁」とは文永の役(1274年)の後、元軍による再度の襲来に備えるための石塁で、博多湾を臨む海岸線に約20㎞にわたり築かれました。現在は開発などで途切れ途切れになった状態で福岡県内の7箇所に残っています。
古文書には「石築地」と書かれているようですが、教科書等にも中山平次郎博士による仮称、「元寇防塁」の名で定着しているので、ご存知の方は多いと思います。
防塁は、建治2年(1276年)の3月から8月までの約半年間で築かれ、場所によって少しずつ構造が違います。これは、防塁をの構築をいくつかの国や荘園で分担したことによります。また石材の多い少ないなど、それぞれ場所による条件もあったことと思われます。あるいは、なんとしても短期間で作り上げなければならない、という意識が強く、完成をとにかく急いだのかもしれません。
ここ百道浜にあるものは幅2mもない程度で、粘土と砂で作った土塁の両面に石を積みあげています。
百道浜の「元寇防塁」は実は2箇所あり、300mほど離れて同じ道路沿いに存在します。両方同じ状態ではなく、ほとんど全体が見られるものと、上面だけが地上に出ている状態のものがあります。防塁の本来の高さは、推定で復元すると2~3mになるようですが、いまは、1.2m程度が地上で確認できます。後の発掘調査や補修で本来の状態から改変を受けている部分が多いと説明版にありますが、石の隙間が水平の方向に何箇所も通っているのが見られるので、案外当時の状態がよく残っているのかもしれません。
また、すぐ隣の西南学院大学内にも復元されているようです。(平日のみ見学可だそうです)
ここから博多湾は見えません。
おそらく当時同じ場所に多くの武人が立ち、沖を睨むように見つめていたことでしょう。しかし、いま住宅街に少しだけ姿を現している石の構築物からは、なかなか想像がつきません。
「海が見たい」。と、やはり思います。
私は海を見るために、来た道を引き返してしまいました。ここから海岸まで行くには少し歩きます。当時はどれくらいの距離だったのでしょうか。
福岡市立博物館で特別展を観て、帰りは少し遠回りですが地下鉄藤崎駅に向かうことにしました。途中に鎌倉時代の有名な遺構「元寇防塁」があるからです。
「元寇防塁」とは文永の役(1274年)の後、元軍による再度の襲来に備えるための石塁で、博多湾を臨む海岸線に約20㎞にわたり築かれました。現在は開発などで途切れ途切れになった状態で福岡県内の7箇所に残っています。
古文書には「石築地」と書かれているようですが、教科書等にも中山平次郎博士による仮称、「元寇防塁」の名で定着しているので、ご存知の方は多いと思います。
防塁は、建治2年(1276年)の3月から8月までの約半年間で築かれ、場所によって少しずつ構造が違います。これは、防塁をの構築をいくつかの国や荘園で分担したことによります。また石材の多い少ないなど、それぞれ場所による条件もあったことと思われます。あるいは、なんとしても短期間で作り上げなければならない、という意識が強く、完成をとにかく急いだのかもしれません。
ここ百道浜にあるものは幅2mもない程度で、粘土と砂で作った土塁の両面に石を積みあげています。
百道浜の「元寇防塁」は実は2箇所あり、300mほど離れて同じ道路沿いに存在します。両方同じ状態ではなく、ほとんど全体が見られるものと、上面だけが地上に出ている状態のものがあります。防塁の本来の高さは、推定で復元すると2~3mになるようですが、いまは、1.2m程度が地上で確認できます。後の発掘調査や補修で本来の状態から改変を受けている部分が多いと説明版にありますが、石の隙間が水平の方向に何箇所も通っているのが見られるので、案外当時の状態がよく残っているのかもしれません。
また、すぐ隣の西南学院大学内にも復元されているようです。(平日のみ見学可だそうです)
ここから博多湾は見えません。
おそらく当時同じ場所に多くの武人が立ち、沖を睨むように見つめていたことでしょう。しかし、いま住宅街に少しだけ姿を現している石の構築物からは、なかなか想像がつきません。
「海が見たい」。と、やはり思います。
私は海を見るために、来た道を引き返してしまいました。ここから海岸まで行くには少し歩きます。当時はどれくらいの距離だったのでしょうか。
