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よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

時繋ぐ橋のひとつ ~恒吉太鼓橋~

2008年06月11日 | 建築
鹿児島県曽於市恒吉

4月に鹿児島の曽於市内を車で走った際に、
「そういえば…」
と急に思い出して、岩川から恒吉(つねよし)まで遠回りして立ち寄ったのがこの石橋でした。
案内板には「恒吉太鼓橋」と書かれています。

この橋のすぐ西側には恒吉城(日輪城)という城跡があって、かなり規模の大きな城跡なのですが、やはり南九州によく見られる、シラスの切り立った崖に囲まれた曲輪がいくつも集まっているタイプの城です。

その城跡の堀切が何十年か前までは道として利用されていて、その道がちょうどこの橋を経て東のほうへと続いていたそうです。

私は8年ほど前、この近くまで仕事でよく来ていて、その際に隣の新しい橋からよく眺めていたのですが、先日ふと、すぐにも崩れ落ちてしまいそうな感じであったのを思い出して、この石橋はいったいどうなっただろうかと立ち寄ったのです。

この石橋が架けられたのは寛政2年(1790)のことで、218年も前の話です。松平定信による寛政の改革…の頃ですが、年表を見てみると「人足寄場を江戸石川島に設置」とあり、あの、火盗改めの鬼平が活躍した時代ということになります。
(とはいってもなかなか想像できないのですが…)

いま、川を挟んでこの橋の両側に道はほとんど残ってはおらず、すぐ近くには新しく作られたアスファルトの道が新しい橋を通って続いています。
ただ、最近になって修復されたようで、案内板も新しくなっていました。

ここだけ時間に取り残されたような雰囲気ですが、いま人々が利用している多くの橋があちらの岸とこちらの岸を繋いでいるものであるように、この石橋はここでこうして昔と現在を繋いでいるのかもしれません。



長さ15.5メートル、幅は2.8メートル。県内では4番目に古い石橋だそうです。



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アトラス神と、謎の木像

2008年03月05日 | 建築
佐賀県神埼市 千代田町下板 字高志 高志神社

「あのアトラスのようなのはなんでしょうか?」
そう言われて、その木像にはじめて気が付いたのでした。

神埼市の高志神社で、本殿の正面、唐破風(からはふ)の下に、「虹梁(こうりょう)」と呼ばれる部材の上で棟木をまるで持ち上げるようにして支えながら座っている、筋肉隆々とした人物像があるのをその人が見つけて、「まるでギリシア神話に出てくる、アトラス神のよう」と言ったのです。

8年か、9年程も前の話です。



ギリシア神話には、ヘラクレスが十二の難業を成し遂げたと言う話がありますが、アトラス神はその11番目の難問題、「ヘスペリテスの園から黄金のりんごを取ってくる」というエピソードに、天(蒼穹)をその両腕で支え続ける巨大な神として登場します。
北西アフリカ(モロッコ・アルジェリア・チュニジア)にある「アトラス山脈」は、そのアトラスが天を支えて立っている場所であると伝えられるところから、名付けられたそうです。


神話によると、ゼウス神がティターン神族と争ったとき、アトラスはティターン側についてゼウスを苦しめたため、その罪によって途方も無く重いとされる天空を頭と両腕で支え続けるという、苦しい役目を負っていると伝えられています。
「アトラス神」、というと、そんな途方もない力持ちというイメージがあります。
ヘスペリテスの園から林檎を持ってくるというのは、実はアトラスにしかできないことで、ヘラクレスは少しの間、天を支える役目をアトラスに代わって引き受けたことにより、代わりに林檎を取ってきてもらうことができた、と神話では語られています。


確かに、棟木どころか屋根そのものを持ち上げているようにも見えるこの小さな像、30cmほどの大きさですが、それが身体中に力をみなぎらせて腰を落とし、両手と頭で社殿の部材を支えて奮闘しているのです。
制作年代は分かりませんが、社殿が作られたのと同時と考えられます。

「邪鬼かな?」と、そんな話になったような気がします。

興福寺の天燈鬼や龍燈鬼、それからよく四天王像の台座となって足元に踏みつけられている、あの鬼神の像が、「邪鬼」とよばれるものです。ほかにも東大寺法華堂 四天王像(奈良時代)、薬師三尊像中尊台座にも邪鬼と思われる像があります。また、法隆寺金堂の四天王像(飛鳥時代)。東寺の持国天立像も確か邪鬼を足元に踏みつけています。
仏教を害する邪神と伝えられる邪鬼ですが、後に改心して四天王を助ける存在になったとも言われ、四天王に踏みつけられているのもあれば、協力して、その足下を支えているという像もあり、そのような邪鬼を思い出てみると、やはり「力持ち」というイメージがあったのです。


ところがつい最近になって思わぬところから、このアトラス神の正体は実は、
「これではないか…」
と、判ったのです。

ブログをご覧になっている皆様は、このアトラス神が何者であると思われますか?



今回は2回に渡って記事を掲載いたします。
そのアトラス神の正体が推測できたのは、佐賀市蓮池にある宗眼寺という寺院の、蓮池初代藩主鍋島直澄公の御霊屋(おたまや)のやはり同じく唐破風の下に、非常によく似た像があったからなのですが、次回、その木像についての記事を掲載したいと思います。





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勝宿神社(かしゅくじんじゃ)

2007年11月29日 | 建築
佐賀市 久保泉町 川久保

夏にはよく車で涼みに寄っていた神社です。鳥居をくぐったところにある石橋にもみじの樹があったのを思い出して、紅葉を観に行きました。


鳥居の上の公孫樹も、見ごろとなっています。


拝殿
この勝宿神社には、神代勝利公をはじめとして歴代の川久保(当地)の領主が祀られているそうです。


本殿は”流造り”で、江戸時代に建てられたものです。
長崎から棟梁を招いて建てられたものと、現地の案内板にあります。
江戸時代に立てられた神社建築には壮麗な彫刻が多く見られますが、勝宿神社のものは特に緻密に彫りだされ、立派なものです。
小さな建築ですが、抖栱(ときょう)や反り屋根のバランスが素晴らしく、華麗な装飾ながら、どっしりとした、重厚な安定感があります。


懸魚(げぎょ・屋根の妻部分の装飾)の下には、龍と思われる彫刻があります。


抖栱(ときょう)。亀腹(かめばら)と呼ばれる台の上に、建物を支える木組みが見えます。








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日本最古の木造園舎

2007年10月31日 | 建築
大阪まで行かなければならない用事が続いたのですが、折りよく中央区付近を通りましたので、文化財を眺めながら一息つくことができました。

「月刊文化財」6月号に、今年6月に新しく指定された重要文化財として、大阪市中央区にある愛珠幼稚園の園舎が紹介されていましたので、立ち寄って見ることにしました。
幼稚園の園舎が重要文化財に指定されるのは初めてのことで、もうひとつは岡山市にある「旧旭東幼稚園園舎」です。

ちょうど日曜日でもあり、また平日でもおそらく中に入ることはできないと思いますが、正面にあたる南側と、西側が道路に面しており「御殿造」とよばれる壮大で豪華な和風建築は充分に眺めることができました。
この愛珠幼稚園の園舎は、明治34年の竣工です。
もともとこの幼稚園は明治13年に創立された、日本で3番目に古い幼稚園だそうで、現在ある建物は3代目となるわけですが、木造の幼稚園舎としては日本最古だそうです。


南側の正面から。やはり大都市という理由からなのでしょうか、隣に高層ビルがあります。このすぐ近くに「適塾跡」もあるのですが、文化財に対する景観はあまり考慮されていないように感じられ、少し残念な気がします。


「月刊文化財」に、園舎の平面図が掲載されていました。玄関を入ってすぐ遊戯室があり、その先の園庭には滑り台があるようです。また、西側に「保育室」が並んでいます。
東からの採光を考慮した設計なのでしょうか、図面を見ているだけでは良く分かりませんが、園舎内に配置される部屋や園庭は、朝の光を受けて明るい環境を得られるようにと考えられているような気もします。幼稚園、という場所のイメージがそう思わせるのでしょうか。
南側の玄関から、北側の裏手まで、70mほどもある、大きな建物です。
確かに古い建物であり、すぐ近くには高層ビルも建っていますが、それよりはるかに存在感のある建物です。





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オフィス街に聳える町屋  ~適塾跡

2007年09月12日 | 建築
大阪市中央区北浜3丁目

大阪に到着後、市内中央区の北浜でレンタカーを借りることになっていたのですが、予定の時刻まではまだ時間があったので、近くにある「適塾」跡にちょっと寄ってみることにしました。

「適塾」は蘭学者・医学者である緒方洪庵(1810~1863)が天保9年(1838)医学や蘭学の教育を目的として開いた私塾で、洪庵が江戸幕府奥医師として召された文久2年(1862)までの25年間に福沢諭吉や大村益次郎、大鳥圭介、橋本左内、高松凌雲、佐野常民といった、明治維新からの日本を担った人材を輩出しました。
緒方洪庵は当時最先端の知識であった蘭学書の翻訳を精力的に行い、ベルリン大学教授フーフェランドの医学書を訳した「扶氏経験遺訓」や、日本で始めての病理学書「病学通論」など多数の著書を残しています。
また、優れた教育者であった洪庵のもとには、日本全国から千人もの塾生が集まり、時には佐賀、土佐などから藩主の命令によって入門する者もいたと言われます。

建物は、建坪が90坪の木造二階建てで、洪庵は弘化2年(1845)にこの家を買い取ったのですが、建てられたのは寛政4年(1792)に大阪で大火があった直後であるとのことです。
現在の建物はさらに昭和51~55年の解体修理により、洪庵が住んでいた頃の姿に復元されており適塾が開かれていた当時の様子を感じ取れそうな雰囲気です。

受付を済ませて休憩室の障子を開け、中庭を見ながら応接間を通って客座敷に入ると、庭(前栽)のほうから涼しい風が入ってきました。
ここは隣の家族部屋へと続く見学の順路なのですが、他に誰もいなかったので、畳の上につい腰を下ろして休んでしまいました。床の間の横にテレビが置いてあったので、映像による案内も時には上映されるのでしょうか。
洪庵が買い取った時には既に築50年ほどの建物でしたが、そのうち横になって眠ってしまいそうになるほど、200年たった今でも快適に過ごせそうな建物です。



二階
上がるというよりはよじ登るというような階段の先には塾生達が寝泊りした部屋(塾生大部屋)もあります。
もちろんここでのんびりすごしていたわけではないようで、一人あたり畳一枚分の範囲が割り当てられ昼も夜もなく勉強を続けたとのことです。
適塾では蘭書(オランダの書物)を読むのが第一の勉強であり、当然それにはオランダ語の辞書が必要になるわけですが、長崎の出島にいたオランダ商館長ヅーフが記した、「ヅーフ辞書」と呼ばれる蘭和辞書がたった一冊だけ適塾にあったのを大勢の塾生で奪い合って勉強をしていたそうです。この「ヅーフ辞書」は、「ヅーフ部屋」と呼ばれる部屋に今も展示されています。
また、塾生はオランダ語の書物を翻訳するアルバイトをすることで収入を得ることもあったらしく、1ページあたり10文ほどになったと説明文にあります。




また、適塾の塾生であり赤十字社の初代総裁となった佐野常民の記念館も現在、佐賀県川副町に開館しています。

適塾跡の建物のとなりには「公開空地」と呼ばれる公園があり、ベンチも備えられています。
適塾の建築を保護するために周りのビルを撤去した、と聞いていましたがこの公園がその場所でしょうか。さらにここから南へ歩いて5分もかからない場所に、洪庵が天然痘予防のために嘉永2年(1849)開設した「除痘館」の跡があります。
明治初年に適塾は閉鎖となりましたが、それから3年後の明治3年に大福寺が設立した医学校での教育に門弟達が参加しており、この医学校が現在の大阪大学医学部となります。

今回、地図ではただ一点で表示されているだけの史跡を訪ねて行ったのですが、ひととおり見て回って再び建物の前に出ると、適塾跡の二階建ての木造建築は見上げるような高層ビルの中に有りながら、そんなものよりはるか高みに聳え立っている、そんな気さえします。

国指定史跡(昭和16年指定)

開館時間:AM10:00~16:00 月曜日休館日(ただし祝祭日である場合は開館し、翌日休館)
参観料:一般250円
学生:130円
生徒:無料

掲載内容の一部は適塾案内の冊子からの引用によります。



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山の龍宮城 ~星巖寺 楼門

2007年09月06日 | 建築
佐賀県小城市小城町 大字畑田

この星巖寺の楼門は「龍宮造(りゅうぐうづくり)」、或いは「龍宮門」と呼ばれるもので、佐賀県内ではほかに武雄温泉の楼門(大正4年建築 重要文化財)がそうです。

「龍宮門」というのは『建築大辞典』によると、「上階は瓦葺きで高欄を付け、木造のままか丹、群青で彩色されるのに対し、下階は漆喰で塗り覆い、通路をアーチ形にしているもの。」とあります。

ほかに九州近辺では下関市 赤間神宮 水天門(1958年)、長崎市 崇福寺 三門が龍宮造で、関西や関東地方でも見かけるものですがそれほど多いものではなく、寺院や神社の門としては珍しい様式です。

この楼門は嘉永5年(1852)に建てられたもので、星巖寺は小城鍋島藩主の菩提寺であり、貞享元年に第2代藩主鍋島直能によって建立された寺ですが、現在はこの楼門と、藩主代々の位牌を納めた御霊所、五百羅漢像ほか数棟の建物が残るのみで江戸時代に並んでいた伽藍は無く、楼門のすぐ後ろは公園となっています。
この楼門もフェンスで囲まれた状態で保存されていて、アーチの中に入ったり出来ませんが、参道をまっすぐやってくると、その高さのせいでしょうか、非常に存在感があります。
下階は木造の建築に漆喰を塗ったものですが、漆喰の裾は斜格子状のなまこ壁となっていて寺院の門としては一風変わった建築に思えます。



妻部にある懸魚(げぎょ)は鷲を象ったもので、非常に珍しいものだそうです。

中国大陸を思わせる雰囲気があり、アーチのところに近寄ってみると、門をくぐると言うよりは、トンネルをくぐるという感じになるのでしょうか、背後に見える景色は山なのですが、浦島太郎のようにその先は別世界というイメージも浮かんで来そうです。
「龍宮造」、というのはその形が龍宮城の門をイメージさせるところから付けられた名前であると思いますが、そもそも龍宮城の門はこのような形である、というのはどこから来たのでしょうか。
浦島太郎のおとぎ話自体は丹後国風土記にある話が元となっているそうで、かなり古くからある物語のようですが、この話は挿絵のある「御伽草子」にも載せられているようなので、はっきりとしたことは判りませんが或いはその辺りからなのかもしれません。
確かに「龍宮城」といえば私もこういった感じの門のある宮殿を想像してしまいます。



アーチの上に勾欄(こうらん)のある建物が建つという形は、西安の鼓楼・鐘楼や雲南省大理古城の城門などをイメージしてどうしても海の向こうの大陸の風景と重なりますが、この門のすぐそばにある紅葉が紅くなるとどういう風景が見られるのでしょうか。
秋になれば、また訪ねて見たいと思います。

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里程標のさきに

2007年08月03日 | 建築
鹿児島県 霧島市 横川町 大隅横川駅

肥薩線横川駅まで行く途中に里程標があります。
凝灰岩製でかなり風化が進み、文字も非常に判読しづらいのですが「鉄道大隅横川停車場九町三十間」と書かれています。反対側には「鉄道栗野停車場□□…」とあり栗野駅までの距離を示しているようですが、その下は風化で読めません。
肥薩線の線路沿いの道の脇にあります。

1町は60間でこれをメートルに換算すると約109メートル、ということは9町30間は約1㎞程になり、ここから1㎞先に大隅横川駅があることになります。
「停車場」という表記から、大正時代か昭和のはじめ頃のものでしょうか。



大隅横川駅の駅舎の造りは嘉例川駅と非常によく似ています。
ただ待合室の中央には、嘉例川駅にあったような椅子が置かれていません。利用者が多いからでしょうか。待合室は広く感じられます。

ホームの柱には、第二次大戦中に米軍の艦載機による機銃掃射があった時のの弾痕がまだ残っていました。20㎝角ほどの柱を貫通しており、直径は3㎝以上あります。もともとは屋根を貫通して柱を直撃したものであるとのことです。ホームの軒を支える柱で、案内板が付けられています。

肥薩線嘉例川駅や大隅横川駅には、古い駅舎や線路など、昔の景色を観るために多くの人がここを訪れます。長い時間、人々がずっと守ってきたものを観るために。







九州最古の木造駅舎

2007年07月29日 | 建築
鹿児島スイッチ、というわけではないのですが、佐賀に転勤してきた現在でも鹿児島にしょっちゅう行っています。ただ、九州新幹線つばめ号ではなくて自動車での移動です…。

霧島市にある鹿児島空港には国際線も就航していて、上海便、ソウル便がありますが、今日はいつもお世話になっている方々が韓国・ソウルへ向かうとの事で、空港近くの飛行機の離陸がよく見える場所から飛行機を見送りました。どうか道中安全で、素晴しい旅となりますように。

写真は、JR肥薩線 嘉例川駅です。104年前の、明治36年1月15日開業ですが今も現役で、鹿児島中央駅発の人気列車・特急「はやとの風」も停車します。
鹿児島空港から車で5分ほどの場所にあり、国道504号線を鹿児島空港敷地(滑走路)の北端あたりで右に曲がり、牧園町方面へ向かうと途中に看板が見えます。
もちろん木造の駅舎で、九州では最古の駅舎だそうです。切符を販売するカウンター、待合の椅子もずっと使われているもののようで、長い時間、数え切れないほど多くの人にとって旅立ちや帰郷の舞台となったこの建物には、不思議な温かみを感じます。

今は無人駅となり窓口で切符を買うことは出来ませんが、そこには地元の方が作られたと思われる、嘉例川駅と肥薩線についての案内(チラシ)が置かれていました。非常に詳しい説明があります。


赤坂 報土寺の練塀(ねりべい)

2007年07月12日 | 建築
東京都 港区 赤坂

先週末から東京へ行って来ました。
赤坂見附周辺のホテルに宿泊したのですが、夕方繁華街に出掛けたときに道に迷ってしまい、街を彷徨っていたところこれを見つけました。

「練塀」は築地(ついじ)のひとつです。
築地というのは土を練って積み重ね、瓦や檜皮(ひわだ)、板などで屋根を葺いた塀で、神社や寺院、武家屋敷の塀としてよく使われていました。
そのうち、練り土または漆喰と瓦とを交互に重ねて築いた塀を、「練塀」と呼びます。練り土には漆喰が使われることも多く、黒い瓦と白い漆喰の印象的な組合わせは、特に江戸時代の武家屋敷で見かけることが多かったようです。

東京には、千代田区に「練塀町」という名前の町がありますが、この練塀が多かったことからきているのかもしれません。

この練塀は漆喰と瓦とを交互に積み重ねて築かれており、また道に沿って少しカーブを描くように曲がっていて、長さはそれほどありませんが坂道にそれがある風景は非常に綺麗に見えます。
これから日差しがますます強くなりますが、この練塀の白と黒の強いコントラストにひとときの清涼感を覚えることもあるのではないでしょうか。
(ただ、坂道や非常に急で、上るのは大変です・・・。)

地下鉄赤坂駅から、赤坂通りを乃木坂方面に歩いていくと右手に交番があります。その交番がある角で右(北)に曲がると正面に報土寺の門が見え、「三分坂」と呼ばれる急な坂道が右手に続いています。
その三分坂沿いにあります。
(案内板によれば、報土寺には雷電為右衛門の墓があるそうです。)

港区登録文化財




海の天主堂

2007年05月31日 | 建築
熊本県 天草市 河浦町崎津  崎津天主堂

ここを訪れたときはちょうど、佐賀まで遠乗りの途中だった。
鹿児島から天草を走って佐賀まで辿り着く、自転車の旅。
潮風のなか、港町の屋根が集まる上のほうに天主堂の尖塔が見えたとき、やや重くなっていたペダルに再び力がはいった。

港町に天主堂が建つ風景は、少し不思議にも思える。
崎津では、明治時代以来ここに天主堂があったが、いまの天主堂は昭和9年(1934年)ハルブ神父によって3度目の改築として建てられた。
鉄川与助氏の設計による鉄筋コンクリート製ゴシック様式の建築。建物の後ろ半分は木造である。
ここにキリスト教が伝えられたのは1569年、外科医でもあったポルトガル人宣教師ルイス・デ・アルメイダ神父(1525-84)による。アルメイダ神父は、豊後府内(今の大分市)に病院を開き、医師を育てたことで有名だが、その後は各地で布教活動を行い、この天草で世を去った。その後、キリスト教徒は幕府による厳しい弾圧を受けたそうであるが、今ここにこの建物をみると、当時の人々の思いの強さが伝わってくるようである。
それほど、蒼い空を背景にした天主堂は映え、尖塔の十字架は高くそびえて見えた。

「海の天主堂」と呼ばれるこの崎津天主堂およびその周辺は、環境省による「にほんのかおり風景100選」(平成13年)に選ばれているそうである。