
読んで頂ければ有難い。どうも明治政府がこの場所を指定したようだがな。可愛山陵、日本書紀には(しばらくたって瓊瓊杵尊はおかくれになった。それで筑紫の日向の可愛の山の陵に葬った)とある。しかしながら、古事記にはそのようなことは書かれていない。高屋山上陵、古事記によれば、(日子穂穂出見命崩御しその陵は高千穂の山の西にあり)としか記してない。日本書紀によれば(後久しくたって彦火火出見尊が崩御された。日向の高屋山上陵に葬った)とある。これらを県下の神代三山陵と呼ぶ。

直径 17.5m 高さ 2.2m 大きくもなく小さくもなくと言ったところである。ただ、高塚ではないのが残念で在地の葬送方式を取り入れていることは間違いあるまい。

今回は妻も同行している。古墳だけなら付いては来ないのだが鹿児島、宮崎と知らない町を訪ねるものだから付いてきた。だからといって古墳には行かないで車の中で待っている。
