4世紀後半から5世紀前半にかけての築造であろう。後円部に比較して前方部が低いのが特徴である。これは壱岐の双六古墳もそのようである。双六はあまりにも顕著ではあるがな。
地名が元寇の当時に由来して残されているというのも面白い。本来壱岐の住民は虐殺されているのだからそんな歴史を残したくもなく、また、思い出したくもなかったろうに。しかも二度も元寇襲来に見舞われたのだからな。
「10月14日、対馬に続き、元軍は壱岐島の西側に上陸。
壱岐守護代・平景隆は100余騎で応戦したものの圧倒的兵力差の前に敗れ、翌15日、平景隆は樋詰城で自害する。
『高麗史』金方慶伝には、壱岐島での戦闘の模様が以下のように記されている。
元軍が壱岐島に至ると、日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた。高麗軍の将である朴之亮および金方慶の娘婿の趙卞はこれを蹴散らすと、敗走する日本兵を追った。壱岐島の日本軍は降伏を願い出たが、後になって元軍に攻撃を仕掛けてきた。これに対して蒙古・漢軍の右副元帥・洪茶丘とともに朴之亮や趙卞ら高麗軍諸将は応戦し、日本兵を1,000余り討ち取ったという。
日蓮は、この時の壱岐の惨状を「壱岐対馬九国の兵並びに男女、多く或は殺され、或は擒(と)らわれ、或は海に入り、或は崖より堕(お)ちし者、幾千万と云ふ事なし」と記している。
対馬、壱岐を侵した後、元軍は肥前沿岸へと向かった。」以上「Wikipedia」より