山法師
この地名は安徳天皇に由来する。絵図の一番上に柳御所が描かれてある。ここは安徳天皇の内裏がおかれた場所である。
それで内裏といったわけだが、内裏そのままではあまりに恐れ多いので大里という漢字をあてたのである。
ヒメコ塚古墳石室内部 何度見ても、どう見ても、装飾らしきものは見当たらないな。
何度見ても、どう見ても、頭にくるよな。本当に可哀想でならない。
八旗八幡の社殿に向かう
石室が崩壊している状態だ。見るも無残としか言いようがない。ここもご多分に漏れず神社を造営するためだったのだろう。参道を造ることで擁壁を設けたために削られている。その擁壁を登っていかなければここを見ることは出来ない。
この福丸1号も願光寺裏のように天井が玄室まで変化なしに続いているように見えると思う。
このような石室が一般的だろう。前出した竹原古墳石室が得意な形であることがよく理解できるものと思う。
号数を書くということは当たり前のように番号で区別すると言うことだろうが、我々世代はやはりなんといっても鉄人28号、子供の世代ならキャラメルマン18号か。今後は なになに古墳28号 ばかりを探しに行こうかな。
この絵を見ると、ここの石室は通常に見る石室とは異なることに気がつくだろう。絵があるかないかの問題ではない。
奥壁上部には棚と思えるような石がはみ出している。今で言えばロフトが正しいかもしれない。
それと玄門部である。一つの巨石ではなく二つの石で柱を構成し、玄門を造っている。しかも奥壁を両脇から挟みこむようにされたように見える。右下の石には朱雀、左下の石には玄武が描かれている。当然のように見ている側には(閉塞石)白虎が描かれてなければならないのである。